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海の静けさと幸ある航海 後編
登場人物
海宝(旧姓 鈴木) 澪(60): 主人公
海宝 航(71): 澪の夫 前妻(実咲)が亡くなった後、澪と再婚
志津 芳実(71): 航の同僚で大学時代からの親友
竹内 翔真(60): 澪の会社同期
吉井(旧姓 水沢) 彩子(60): 澪の会社同期
吉井 透(73): 彩子の夫
海宝 千洋(67): 航の弟
海宝 航平(46): 航の一人息子
海宝 美生(46): 航平の妻
海宝 航生(11): 航平と美生の長男
海宝 彼方(8): 航平と美生の次男
志津さんと竹内くんを車で送り、家に戻ると、部屋着姿の航さんがソファに横になって眠っていた。
空き家ばかりの界隈は、夜になると怖いほど静まりかえる。潮風は届いても、波音は届かない。聞こえるのは、航さんの寝息、止め忘れたクラシック音楽と虫の音だけだ。
窓からのぞく葡萄色の空は、時とともに濃度を増し、夜が深まっていくだろう。さっき車窓から見た海は、いつもより凪いでいた。流しっぱなしの穏やかな音楽は、こんな夜に似つかわしい。
「航さん、こんなところで寝ると風邪をひきますよ」
私は枕元にしゃがみ、彼を揺り起こす。
「うん……」
航さんはしぼんだ目をこすり、眼鏡をかけ直した。パーカーにロングスカート姿の私を見て、大きく目を見開いた後、何度か瞬かせた。むっくりと上半身を起こすと、テーブルの上のノートパソコンに手を伸ばし、消し忘れた音楽を止めた。LEDライトを浴びた横顔は水分に乏しく、髪の油気も失われている。この人は年をとったと改めて実感させられる。航さんも、寝起きの目で私を見て、同じ思いを抱いたのだろう。
「志津さんと竹内くん、それぞれのホテルに送ってきました。志津さん、車のなかで眠ってしまって大変でしたよ」
「しょうがない奴ですね。無事に部屋までたどりつけたかな」
「竹内くんと2人で部屋まで抱えて行きました。ネクタイを緩めて、ベッドに寝かせてきましたよ」
航さんの白髪混じりの眉がぴくりと上がる。
「竹内くんのホテルまで、車のなかで2人だったんですか?」
「ええ」
「大丈夫でしたか?」
「何が?」
「あなたの無防備なところは、昔から変わりませんね」
角がある語尾に、私は笑いをかみ殺す。
「航平一家は、千洋が旅館まで送ってくれました」
「千洋さん、泊っていくんじゃなかったんですか?」
「子供の頃に家族で泊った旅館が懐かしくて、そこに予約を入れたそうです」
「そう」
「千洋が、あなたとの話を聞いて、兄さんも人間なんだと安心したと頻りに言っていましたよ……。航平も同意していました」
私は小さく頷いて続けた。
「志津さんを寝かせたとき、きみと航は自分に厳しすぎる種類の人間だぁと言われました。どこまで正気だったかわかりませんが」
航さんがふふと静かに笑った。
「取り急ぎ、今日来てくれた皆さんにお礼のLineを入れておきますね。あ、彩子と透さん、2階に案内してくれました?」
「ええ。だいぶ疲れていたようで、風呂に入って、すぐ眠ってしまったようです」
確かに、2階からは物音一つしない。夜風を入れようと網戸にすると、月影さやかな庭から、金木犀の香りが漂ってくる。隣の庭から聞こえる秋の虫のオーケストラが耳に飛び込んでくる。空き家だらけのこの界隈は、草ぼうぼうの庭が散見する。虫の声は風情があるが、雑草の種が庭に飛んでくるのはどうにかしなければと思う。
私はLineを送信した後、2人分の黒豆茶を淹れ、湯呑をソファの前のテーブルに置いた。航さんと並んで座り、一口すすると、全身の緊張がほどけていく。ゆらゆらと立ち昇る湯気が、航さんの眼鏡を曇らせる。
「はあ、長い一日でしたね。航さん、お疲れでしょう?」
「僕は、うたた寝したので、だいぶ回復しました。あなたこそ疲れたでしょう?」
「私は激務が当前の仕事だったので、このくらいは大丈夫」
「さすがですね。この年になると、年齢差を実感します。今になって、実咲さんの気持ちがわかりました」
航さんの口から実咲さんのことがさりげなくこぼれ、私の身体はぴりっと緊張を帯びた。航さんは、はっとして口を噤み、取り繕うように続けた。
「今日は、幸せな日なのに、いろいろ不愉快な話を聞かせてしまって本当にすみません……。嫌な思いをしたでしょう」
私は首を大きく左右に振る。
「ああいう流れは予想していました。私はむしろ良かったです。初めて、実咲さんという女性を近くに感じて、彼女といたときのあなたを知れました」
かすかに張りつめた空気が空間を支配する。それに拍車をかけるとわかっていたが、喉元にせり上がってくる言葉を堰き止められない。
「ずっと……、ずっと実咲さんのことを航さんと話さなければと思っていました。私、航さんが彼女とともに歩んだ半世紀近くを含めて、航さんを愛したいと思っているんです。航さんの人生の大切な要素ですから。でも、お話を聞いたら、醜い感情が流れ出してしまう気がして、怖かったんです。それに、私が彼女だったら、この世を去った後でも、不倫相手が妻の座に座るのは不愉快だと思います。だから、正直どう向き合っていいのかわからなかったんです……。航さんが気を遣ってその話題を避けてくれることに甘えて、今まできてしまいました……」
整理しきれない感情を言葉にすると、胸のなかをかきまわされたように、ざわざわとした気持ちになった。だが、口に出してしまったことで、これまでのような日々は取り戻せないかもしれないと気づくと、血の気が潮のように引いていく。
航さんは湯飲みを持つ手元に視線を落としている。この会話をどう収めればいいのか互いに模索していることが空気を重くする。お茶を飲んだばかりなのに、私の喉はからからに乾いている。唾を飲み込む音まで聞こえそうな沈黙が苦しい。
先に沈黙を破ったのは航さんだった。
「すみません。僕は、あなたに嫌な思いをさせたくなかったんです……。あなたとの幸せが壊れるのが怖くて、実咲さんのことは口にしませんでした。でも、逆に悩ませてしまったようですね……」
小山にいたとき、航さんが声を落とし、航平さんと電話で相談していた日のことが胸を過る―実咲さんの法事のこと、仏壇は航平さんの家に置くと決めたこと、実咲さんの妹に再婚を知らせる時期……。
私は聞かなかったふりをしてしまった。
航さんは湯飲みを置き、私の目を正面から見据えた。
「さっきも話しましたが、僕は実咲さんを大切に思う気持ちを取り戻し、最後まで寄り添いました。長い年月で、航路を外れたくなったときもありました。そんなとき、僕を留まらせてくれたのは、あなたに軽蔑されないように航海しなければという思いです。そのおかげで、壊れかけていた家庭を修復できました。航平を育て、実咲さんを看取ることができ、何も悔いは残りませんでした。残りの人生をあなたに捧げたいと胸を張って言えます。航平もそれを理解してくれたから、僕たちの再婚に賛成してくれたでしょう。あなたが気に病むことは何一つないんです」
航さんの瞳には一点の曇りもなかった。私は思わず目をそらしてしまった。
「でも、実咲さんはどう思っているでしょうか……。私、短い期間ですが結婚していました。辛い不妊治療を経験し、義父母との関係に悩み、家庭を守るのがどういうことかわかりました。そこで初めて、航さんが御家族と私のあいだでどれだけ苦悩したか、自分がどれほど航さんの御家族に失礼なことをしたのかに気づきました……。少しでも航さんの支えになれればと思ってしたことが、航さんのご家族との向き合い方に消えない影を落としてしまったと深く後悔しました。あのとき、私が自制するべきだったんです。もう30過ぎだったのに、何てことをしていたのかと本当に申し訳なく思いました。こんな私が、どんな顔をして実咲さんと向き合ったらいいのか……」
航さんには言えないが、元夫を信用できなかったのも、不倫をしていた報いだろう。
夫婦で不妊治療に取り組んでいるとき、夫が元彼女と会っているのに気づいた。私は、夫が私に不満を持ち、彼女と不倫していると思えてならなかった。不安に駆られ、忘れられない女性なのではと夫を執拗に責めた。夫は不妊治療の経験のある彼女に相談していただけと言い張ったが、私はどうしても信じられなかった。
離婚の要因は、後継ぎを産めない私に見切りをつけた義父母の圧力だ。だが、夫が両親に屈したのは、自分を信じてくれない私に幻滅していたからだ。
そんな私には、航さんの真っ直ぐな瞳はまぶしすぎる。
「澪さん」
航さんが強張った私の肩を抱き寄せる。
「初めて2人で出かけた日、横浜の外人墓地で、僕に言ってくれたことを覚えていますか? 僕の父が亡くなった時、母の提案で、父は土に還るよりも世界中を航海したいだろうと、遺灰を海に撒いたと話しましたね。僕が、この葬り方は遺族の自己満足で、父の本心はわからないと言ったとき、あなたはこう言ってくれました。『それでいいと思います。どんなに話しかけても、亡くなった人はもう何も言ってくれないのですから。たとえ送り方が、亡くなった方が望んだことと違ったとしても、残された方がその方を思って決めたならそれでいいと思います』」
あの日、傘越しに聞いた雨音、雨を含んだ土の匂い、航さんのつけていたサムライ アクアクルーズの香り、私がつけていたエルバヴェール……。時の彼方から五感を刺激しては消えてゆく。
航さんは、私を時の向こうから呼び戻すかのように、肩を抱く手に力を込める。
「実咲さんが、どう思っているかはわかりません。彼女は、もう何も言ってくれないのですから」
「私が……、心のなかで彼女と向き合うしかないのでしょうか……」
航さんはやわらかく頷き、絹のように滑らかな口調で言い添える。
「あのとき、あなたが言いましたね。『死者との対話は自分の心との対話なのかもしれません』」
今の私にできることは……、それしかない。胸の奥から、新たな感情が引き出され、私は声を絞り出す。
「実咲さんのこと……、教えてください。私にできる方法で、彼女と向き合いたいと思います」
「もちろんです。あなたがそうしたいなら、あなたのやり方で彼女と向き合ってください」
「それから、もう一つお願いがあります」
航さんは眼差しで続きを促す。
「市内の精神科病院で看護師の求人を出しているんです。私、多くの科を経験しましたが、精神科は未経験です。だから、挑戦してみようと思います。いいでしょう?」
航さんは露骨に眉根を寄せる。
「フルタイムで働くんですか? 以前は、パートタイムか単発の仕事を探すと言っていたじゃないですか」
「ええ……。でも、気が変わりました」
「また小山にいたときのように忙しくなってしまうじゃないですか……。あなたは、夜勤があった上に、休みなのに呼び出されることもあって、いつも忙しかった。こっちに来て、ようやく2人でゆっくりできるようになったんです。忙しくなったら、浴衣を着て長岡や土浦の花火に行ったり、宮島で着物を着て写真を撮る約束も果たせないじゃないですか。僕は、いつまで元気でいられるかわからないんですよ」
コロナ禍で流れてしまった30年前の約束……。
彼が覚えていてくれたことが、泣きたくなるほど嬉しい。決心が揺るぎそうになるが、気持ちを立て直して答える。
「休みは取れるように交渉します。今日、実咲さんのことを聞いて、彼女が戦った病気を理解するためにも、精神科で勤務したいと思いました。これも私にできる彼女との向き合い方です」
航さんは息が止まったような顔で私を凝視した後、ふっと目元を緩めて頷いた。
「わかりました……。でも、身体だけは大事にしてくださいよ」
「ありがとうございます。幸いまだ身体は動きます」
「いつか、一緒に実咲さんの墓参りに行きましょうか……」
航さんが、きっと実咲さんも僕たちの幸せを望んでいるはずですなどと安易に言わないのが嬉しかった。
お墓と聞き、ふと浮かんだのは、私の眠る場所はどこかということだ。実家のお墓でも、海宝家のお墓でもない。思いついたのは、30年前に、航さんと一緒になることを誓い、別れの言葉も聞いたあの荒海だ。
「航さん、もし私が先に死んだら、あの荒海に遺灰を撒いてください」
航さんは言葉を失ったような表情で私を見た。
彼を困惑させてしまったと、慌てて取り繕う。
「すみません、急におかしなことを言ってしまって。これから、この家で新しい航海を始めるのに。今のは忘れてください」
「いえ、僕もいま同じことをお願いしようと思ったんです……」
「え?」
航さんは、呆けた顔をしている私をぎゅっと抱き締め、耳元でささやく。「長い間、待たせてしまって本当にすみません。僕たちは、これからも、空の星になってからも、一緒に航海を続けるんです。僕らに似つかわしい穏やかで幸せな航海を……」
航さんは、私の身体をそっと離し、ノートパソコンに手を伸ばした。さっき流れていた穏やかなクラシック音楽が流れだす。
「メンデルスゾーン 序曲『海の静けさと幸ある航海』。透さんが教えてくれた曲です。僕たちの航海にぴったりだそうです」
私たちは肩を寄せ合い、海の静けさから、未来を想起させる軽快な旋律に変わっていく曲に耳を委ねた。
航さんが思いついたように言った。
「明日にでも遺言状をしたためておかないと。弁護士に連絡しよう。そうだ、航平にも言っておかないと」
「気が早すぎます……」
「早すぎるなんてことはありません。僕は一度倒れているんですから。もう、あなたと離れ離れになりたくないんです」
「それなら、私も書いておかないといけませんね」
(完)