巡礼 9-(4)
都とアイリスが息を詰めて見守るなか、ベンはいつもより低い声で話し出した。
「ミツ、驚かないで聞いてほしい。彰はアメリカ軍の捕虜になって、生きていたんだ。復員して、君の恋人だった女性と、籍は入れなかったが、夫婦として暮らしていたそうだ」
ミツは潤んだ目のまま、怪訝そうにベンを見た。息をするのも躊躇われるような、ぴりっとした沈黙が部屋を包んだ。
「都はこのプロジェクトとは別に、修士論文のために、日本に永住した二世にインタビューをしているんだ。実は、彼女が偶然、彰にインタビューをしたらしい。彼は深い事情があって、名前を変えて生きてきたそうだ。その彼が、君が生きていたら、自分の思いを伝えてほしいと都に頼んだ。都は自分の英語のせいで、君に誤解を与えたらいけないと心配しているので、僕が代わりに伝えるよ」
「よくわからないな。私は日本海軍の資料を調べてもらって、彰の戦死を確認したんだよ」
ミツの声は困惑を通り越し、微かな苛立ちを含んでいた。
ベンに促され、都はICレコーダーで彰のインタビューを再生した。ミツは訝しげに耳を傾けていたが、自分の本名を告白する彰の声を聞き、観念したように言った。
「わかったよ。話を聞こう」
ベンは慎重に言葉を選びながら、都が聞いた長い長い話の要点を語った。時々、都が補足した。ベンは彰がミツに強い嫉妬を抱き続けていたこと、派手な服装の日本人女性にキスをし、子供にチューインガムをばらまいた彼に劣等感を覚えたことも隠さず伝えた。
ミツは息をするのも忘れたように耳を傾けていたが、途中から険しい顔で目を閉じ、固く腕組みをした。
「彰は、君がこの話を受け入れられそうだったら伝えてほしいと言ったそうだ。君の話を聞いて、僕は伝えるべきだと思った」
「他人の名前を名乗っている後ろめたさで、人と深く関わらずに生きてきた彰さんが、敢えて私にすべてを語り、あなたを探してほしいと言ったのです。彼はあなたに謝りたいそうです。いま彼は、宮子さんを亡くし、親戚も友人もいません。どうか、彼を受け入れてください」都は思わず日本語で言い添えた。
ミツは腕組みをして目を閉じたままだった。明るい陽が差し込む静謐な空間に、秒針が時を刻む音だけが響いた。都はその音に、過ぎ去った半世紀の重みが重なるような圧迫感を覚えた。都には目を閉じたミツが、湧き上がってくる様々な感情を抑えるために、凄まじい努力をしているのが伝わってきた。その姿は彼に流れる日本人の血を垣間見せた。
沈黙が続いたのは、せいぜい2、3分だろうが、それは途轍もなく長い時間に思えた。
「都さん、ありがとう」目を開けた彼は開口一番そう言った。都が思わず彼の顔を見ると、彼は日本語で言った。
「彰に伝えてください。私は怒っていない」
彼の表情は驚くほど穏やかだった。それを見た都は、呪縛を解かれた魂が駆け昇っていくような飛翔感を覚えた。ああ、彼は彰を許している!熱いものがこみ上げ、両手で口元を覆った。
ミツはガラスケースに並ぶ写真立ての一つを取り出し、しばらく眺めていた。
「幼い頃の私と彰です」
彼は3人にも見えるように写真立てを机上に置き、前に押し出した。小学校低学年くらいの2人が、柔道着を着て肩を組み、屈託のない笑顔を向けている。
「彰は小さい頃からよくできるやつでした。柔道も剣道も、すぐに私に追いついてしまったんです。私も兄としての意地があったので、彼より一歩先を行かなくてはと必死でした。私に追いつこうと目の色を変えていた彼を見ると、いつ追い抜かれるかと気が気ではありませんでした。でも、私は長男なので親から特別扱いされていたし、近所の人も出来のいい私をほめてくれて、彰に対して優越感があったのです。それが、言葉や態度に出てしまい、彰を追い詰めたのでしょう。あの頃、私がもう少し大人で、彰の複雑な気持ちを思いやれたら……」
彼は取り返せない時を悔やむように目を伏せた。都は、自分にも彼と同じ種類の痛みが迫ってくるような圧迫感を覚えた。自分もミツのように、罪の意識のないまま、茜の憎しみを煽る材料を振りまいてきた。それが茜のなかに積もり、彼女を良の部屋に向かわせたのだとしたら……。
「日本を離れる前、自分が迎えにくるまでの宮ちゃんのことを彰に頼みました。なかなかいい男に成長した弟に彼女を頼むことに、ためらいがなかったわけではありません。彰が彼女に好意を持っていることは薄々気付いていましたから。それでも、彰は裏切るやつじゃないと信用していました。それに……、宮ちゃんが、日本語もおぼつかない彰に心変わりするはずはないと思っていたのです……」
都は、良が茜を本気で相手にするはずはないと優越感にひたっていた自分を思い出し、胸がちくりと痛んだ。
「ですが、アメリカに帰った後、彼女から来た手紙を読んだ私は、彼女が彰のことを書いてくる割合が増えていることに気づいて、もしや心変わりされるのではないかと……。嫉妬に燃えた私は、わざとそっけなくして彼女の気を引こうとしました。ですが、皮肉なことに戦争が始まってしまって……。彰が言った通り、本当に彼女を大切に思っていたなら、私は日本を離れるべきではなかったのです……。私は彰に彼女を盗られたのではなく、彼女が彰を選んだのでしょう。それなら、仕方ない……」
彼は自嘲気味な笑みを見せた。あの写真と同じ、泣いているような寂しい笑いだった。
彼の最後の言葉が、都の胸に木霊した。自分は茜に良を盗られたのではなく、良が茜を選んだ……。良が茜の抱いてほしいという哀願を受け入れた時点で、彼は既に茜を選んでいたのかもしれない。良が茜をそこまで追い詰めた都を心のどこかで許せず、茜を選んだとしたら……。自分の未熟さが、あのおぞましい出来事を招いたなら、どんなに時間をかけても受け入れなくてはならないのだろう……。都はずっしりと重い体を支えかね、ソファに深く身を沈めた。このまま、立ち上がれなくなりそうだった。
しばらく誰も口を開かなかった。
重い沈黙を破るように、ミツがぽつりと言った。
「彰と旅をしたい……」
3人は怪訝そうにミツの顔を見た。
「我々、日系アメリカ人は、毎年、F.D. ルーズベルト大統領が大統領令9066に署した日、2月19日に収容所跡を訪れて、立ち退きに思いを馳せる巡礼(ピルグリメイジ)を続けているでしょう。あれに似たものです。私と彰が離れていた時間はあまりにも長い。その時間を埋めるために、互いが過ごした場所を2人で訪ねたいのです。2人の故郷チュラビスタ、私が中学時代を過ごした広島、大学時代を過ごした東京、ポストン収容所跡、仕事をしていたシカゴ。彰がいた海軍基地の跡、旅館を経営していた京都、そして私が建てた彰の墓。その地に立って、当時の思いを伝え合うのです。まあ、2人とも年なので、すべては無理でしょうが……」
ミツはしばらく、心ここにあらずの目で空を見据えていた。やがて、椅子から立ち上がると、ソファに掛けている都の前に跪いて両手をとった。
「都さん、本当にありがとう。あなたが来てくれなければ、一生真実を知ることはなかった」
都も伝えたいことは山ほどあったが、口を開いたら熱いものを抑えられなくなりそうで何も言えなかった。
その光景を見ていたアイリスが、唇をわなわな震わせながら言った。
「都、あなたも一緒に行きなさい!」
訝しげな視線がアイリスに集まった。
「ミツ、都は血のつながらない妹に婚約者を奪われて苦しんでいるの。あなたたちの巡礼を見届けた経験は、彼女が傷を乗り越える力になるはずよ。どうか、彼女を同行させてちょうだい!」
ミツは驚いて都に目を移し、まじまじと見つめた。
ベンが静かに言い添えた。
「君らと似た傷を抱える都が2人をつないだのは偶然じゃないよ。都は君たちの巡礼を見届ける義務がある」
「それは、ご迷惑だから……」
都が割って入ると、それを制するようにミツが言った。
「2人ともありがとう。若いお嬢さんに、年寄りの巡礼に付き合わせるのは申し訳ないけれど、そういうことなら、是非お願いしたいです」
ミツは都に向き直り、改めて言った。
「都さん、一緒に行ってくれませんか? 実は、彰と会ってどうなるのか少し不安なのです……。あなたがいてくれれば安心だ」
都は立ち上がり、湧き上がってくる感慨を胸に強く頷いた。ミツは都を抱擁した。都も同じ傷を抱える彼の背中に手を回した。彼の体から、ほのかなオーデコロンの香りがした。
都の体を離したミツはベンに向き直って言った。
「ベン、ありがとう。いろいろ世話になったね」
ベンは黙ってミツを抱擁した。
「アイリス、会えて嬉しかった。今度、ベンとゆっくり遊びにきてほしい」
アイリスと抱擁を交わした彼は、ベンを振り返って遠慮がちに言った。
「すまないが、今日は1人にしてくれないか……?」
都は自分の名刺を机上に置き、夫妻と一緒に部屋を出た。ミツは3人を送るのも忘れ、書斎の真ん中に呆然と立ち尽くしていた。3人が部屋を出たとき、彼の嗚咽が聞こえてきた。それを聞くと都も抑えていたものが溢れ出した。
インタビューを終えて帰国した都が、アパートの郵便受けを開けると、溜まっていた郵便物が雪崩のように落ちてきた。溜息をつき、しゃがみこんで郵便物を拾っていた都は、凍りついたように手を止めた。ダイレクトメールに混じり、見覚えのある字で宛名が書かれた封筒があった。差出人の名前はないが、良の字であるのは間違いなかった。はやる思いで鍵を開け、スーツケースと郵便物を抱えて部屋に入り、封筒を破かんばかりに開くと、中にはCDが1枚入っていた。都は暫くそれを胸に抱きしめていた。
CDをプレイヤーに入れると、聴き慣れた旋律が流れ出した。
マーラー「復活」
都は第1楽章に耳を傾けながら、自分が現実を受け入れたことで、以前よりは心穏やかになっていることに気づいた。第2楽章の優しい旋律に誘(いざな)われ、良と過ごした幸福な日々が連鎖のように蘇ってきた。絡み合う管楽器の旋律と弦の刻みは、幸せだった都と良を彷彿させた。第3楽章の冒頭のティンパニの強打で夢から覚まされ、再び現実と向き合った。第4楽章のアルト独唱を聴きながら、救いを求めてアメリカに渡り、日系アメリカ人史を学び、日本で生きた二世の声を記録したいと思ったことが蘇った。
ティンパニとシンバルで幕開けした第5楽章の旋律に身を委ねながら、彰とミツ、宮子の関係を通して、自分と茜、良との関係を見直したときの胸の痛みを思い出した。復活を歌いあげる二重唱をハミングしながら、都はミツと彰との巡礼から帰ったら、自分も良と茜、そして新しい命に会いにいこうと決めた。
(完)