巡礼 8-(4)
「京都の東山の外れに、5室の小さな旅館を開けたのは2年後だった。他人の名前を名乗っている後ろめたさが消えず、人前に出るのが怖かった私は、部屋の掃除や料理、帳簿つけが専門だった。英語とも関わらないつもりだったが、外国人観光客が多い土地柄、そうはいかなかった。私が外国人に道案内をするのを見た彼女が、外国人に対応できる旅館にしないかと提案した。私が表に出たくないのを知っている彼女は、自分の英語を鍛えてほしいと言ってきた。岩国で英語を習っていた彼女は、案外上達が早かった。基本的な表現と発音を覚えると、実践を重ねてめきめき上達した。私が引っ張り出されたのは、彼女が対応できないときだけだった。私を守り、支えてくれた彼女には本当に頭が上がらないよ。2人で地道に続けているうち、だんだん外国人に知られるようになって、どうにか生活していけるようになった」
「沖縄に移ったのは、いつですか?」
「10年程前。2人とも体が辛くなったので、建物と土地を売って移ってきた」
「なぜ沖縄を選んだのですか?」
「彼女と沖縄に旅行したとき、青空と海、椰子の木を見て、断ち切ったはずの故郷への思いが募った。米軍基地があり、懐かしい英語が聞こえるのにも引かれ、この地で余世を送ろうと思った」
「戦後、アメリカには?」
「一度も行ってない。パスポートを取るのが怖かったのもあるし」
「宮子さんはいつ亡くなったのですか?」
「去年。4年前に脳梗塞で倒れて以来、体力が落ちて入退院を繰り返していたが、肺炎をこじらせたのが命取りだった……」
都は彼の肩越しに見える宮子の写真に目を遣った。彼女の瞳は、昨日よりも力強く見え、何かを訴えかけているような気がした。
「彼女がいなくなると、この世で本当に一人ぼっちになった。私にとって、彼女は唯一の社会とのつながりだった。そんなとき、胃癌が見つかった。死ぬことは怖くなかった。特攻で死にかけ、他人の名前を名乗って生きてきた死に損ないだから、これで彼女の所に行けると気が楽になった。だが、内視鏡で取れると手術を勧められ、幸か不幸か取れた。再び生かされてみると、やり残したことがあると思った……。
そんなとき、外国人に道案内をしている私を無遠慮な目で見ている老人がいた。日本では英語をぺらぺら話していると周囲の視線を集めるので、それほど気にしなかったが、その男から『彰じゃないか?』と声をかけられた。その名を呼ぶ人はいないので、びくっとしたが、観光で沖縄に来ていた井沢だった。日米ホームの思い出話をするうち、彼女が死んで人恋しくなっていた私は、彼に全てを打ち明けた。
彼から電話であんたのことを聞いて、話すべきか迷った。あんたの名前が死んだ彼女と同じ音なのが決め手だった。彼女が背中を押してくれている気がした」
都は思わず宮子の写真を見上げた。
「それで、その」彼は都を上目遣いで見ながら、畏まった口調で切り出した。
「何でしょう?」
「いや……」彼は決まり悪げに視線を逸したが、何か言いたげな表情は消えなかった。
都は彼が言いかけていることが推察できた。彼が今になって赤裸々に語ったのは、人生の終焉を前に、ミツの許しを請いたいからではないか。そう考えると、自分がここに来たのは偶然ではない気がした。
都は意を決して切り出した。
「お兄さんに、お会いになりたいのではないですか?」
彼は暫く目を伏せたままだった。都は身じろぎせず、静かに彼の返事を待った。彼の手が小刻みに震え、息が荒くなったのか、細い肩が大きく上下しはじめた。
彼は目を瞬(しばたた)かせながら、上擦った口調で言った。
「あわせる顔がないのはわかってる……。それでも、ミツが生きているなら……」
都は黙って続きを待った。
「心底憎んでいたわけじゃない。何だかんだいっても、自慢の兄だった。私の卑屈な思いが、人生を難しくしてしまった……」
激してくる感情を抑えられなくなった彼は、逃げるように洗面所に立った。
都はミツを探そうと決めた。日系アメリカ人博物館や二世の退役軍人団体に問い合わせ、結城やキムラ夫妻の人脈も利用して彼を探そう。
顔を洗って戻ってきた彼に、都は迷わず切り出した。
「もし宜しければ、私がお兄さんを探してみましょうか?」
彼の細い目が一瞬光ったが、すぐに恐れを含んだ迷いがそれに変わった。椅子から立ち上がった彼は、都に背中を見せて窓際に立った。大きく上下する肩が、荒くなった息遣いを伝えていた。ずっと願ってきたことが現実になると思うと、恐れと迷いで逃げ出したくなる気持ちはわかった。返事を急ぐつもりはない。彼が納得するまで悩み、決心がついたら連絡してくれればいい。
都は彼を一人にすべきだと思った。
「私にお手伝いできることがありましたら、いつでも連絡をください。2日間、貴重なお話を聞かせていただきまして本当にありがとうございました」
彼の背中に深々と頭を下げた都は、自分の連絡先を書いた名刺をテーブルに残し、部屋を辞そうとした。
「ちょっと、待って!」
彼は都を呼び止め、再び椅子に掛けると、落ち着きなさそうに目を瞬かせ、荒い息を鎮めるためにお茶を飲み干した。
「私は死んだはずの人間だ……」
ぼそりと言った彼は、暫し間を置いて言い継いだ。
「いきなり現れて、自己満足の告白をして、ミツにショックを与えたくない」
都は続きを待った。
「もし彼が生きていたら、私の話を受け入れられる状態か確かめてほしい。病気だとか、家族を亡くしてひどく落ち込んでいるようなら、何も言わないでくれ。それなら、一生連絡を取らないつもりだ」
都は彼の意を汲み、安心させるような穏やかな声で言った。
「わかりました。まずはお兄さんを探します。生きているなら、どこに住んでいて、どうしているのかを調べてみます」
彼は目を伏せたまま、宜しく頼むと深く頭を下げた。
都は半世紀以上にわたる彼の思いが、自分に託されたことを重く受け止めた。