「巡礼」20
「ベンが行ってしまってから、最高裁判所が国家に忠誠を示す日系人を収容するのは違憲だと判決を下したの。1944年12月よ。このニュースが伝わると、みな家に帰れるかもしれないと大喜びしたわ。翌年から収容所を出られるようになって、だんだん出ていく人が増えたわ。家や仕事は、戦時転住局の世話になるか、自力で探さなければならなかったの。先に出て行った人たちから、いろいろ情報が伝わってきたわ。リトル・トーキョーはブロンズヴィルと呼ばれる黒人の街に変わっていて、両親がやっていたボーディング・ハウスはユダヤ人の経営になっていて戻れないとわかったの。戻ってきた日系人に対する風当たりが強いから、日系人が出歩くのは危ないとも聞いた。日系人が強盗に襲われたとか、家に投石や落書きをされたなんて話もあった。怖かったけれど、いつまでも収容所にいるわけにはいかないので、翌年6月に覚悟を決めて出ることにしたの」
「日系人にとって再定住も戦いだったね。人種偏見の強い西海岸で、何もないところからスタートするのは、収容所の生活より大変だったかもしれない」
「ええ、本当に何もなかったのだもの。持っているのは、わずかなお金と身の回りのものだけ。私たち一家は、最初はボーディング・ハウスに寝泊まりして、日系人の農場で働いたの。家を借りようとしたけれど、収容所を出た日系人がたくさんいて住宅不足で、なかなか見つからなかったわ。まだ日系人が出歩くのは危険だったから、家探しのために動き回れないのが不便でね。ベンが戦地に送られる前に休暇をもらったとき、私達のいるボーディング・ハウスにきて、一緒に家探しをしてくれたの。そのときから、私たちはお付き合いを始めたのよ。ベンのおかげで、ようやくガーデナに家を借りられたときは、ほっとしたわ」
「僕の家族は、早くに収容所を出て兄や僕のいるミネソタに移住していたけど、住み慣れた西海岸に帰ることを望んでいたんだ。戦時転住局の援助で西ロサンゼルスに家を借りた父は、昔のお得意さんに戻ってきたと手紙を書いて、少しずつガーデナーの仕事を再開したよ」
「待ちかねていたベンの帰国は、私が高校を卒業した夏休みだったわね」
「ああ、1946年夏に除隊した僕は西海岸に戻った。軍に奉仕した若者に与えられる奨学金で大学に入り、会計士の資格をとることにした。当時、まだ日系人に対する差別が残っていたから、弁護士や会計士、医師や歯科医、エンジニアとか専門職に就くほうが良かったからね。僕は大学卒業後、会計事務所で働いた。
僕らの世代は早く屈辱的な経験を忘れて、アメリカ社会に食い込むことに力を入れてきた。そのおかげで、日系人は様々な分野で名を上げた。医師や歯科医、大学教授、弁護士や判事、政治家、実業家、軍人、芸術家、科学者、宇宙飛行士……」
「本当にそう。ベンの言う通り、私達は良きアメリカ市民として社会に溶け込むことを優先して生きてきたの。私はカレッジを卒業した後、図書館司書として務めて、25歳のときベンと結婚したわ。その年に長男のジョージ、2年後に次男のクリスが生まれたの。息子には日本語を教えなかったし、戦時中の経験も話さなかったわ」
「でも、皮肉なものだね。ジョージもクリスも、大学で収容所の話を聞くと、何で今まで黙っていたんだ。おかしいことは抗議すべきだって僕達に詰め寄った。あのとき、僕はお前らに何がわかると口論したけれど、息子がそんなことを言える時代が来たことに、時間の流れを感じたね」
「世代の違いを感じたわね。公民権運動や権利革命の嵐が吹き荒れた60年代に、青春時代を過ごした彼らは、あの時代の子なのよ。日系人としてのアイデンティティも、私達より大切にすることができるし」
「強制収容に対する補償運動を主導したのは三世だったね。僕は、はじめは、今さら忌々しい経験を蒸し返さなくてもと思ったよ。それでも、何人もの一世や二世が閉ざしていた口を開き、公聴会で経験を語るようになって、運動は次第に実を結んだ。1988年にレーガン大統領が市民の自由法に署名し、政府が強制収容を公式に謝罪して、補償金が支払われると決まった。あのとき、僕の戦後がやっと終わったんだ。アメリカ市民で良かったと思ったよ」
都はアメリカ政府による謝罪と補償がなされたことに救いを感じる一方、2人が彼らの青春と誇りを奪った政府をどう思っているかが気になった。
「アメリカ政府を許せたのですか?」
都は思わず日本語で尋ねていた。
「時が流れると、そんな思いになれるのよ。あのときの傷は消えないけれど、アメリカ社会で居場所を見つけた私たちは、もう誰も恨まなくてもいいのよ」
「この年齢になると、どんな経験も、いまの自分を作るために必要だったと割り切れるよ。大切なのは試練とどう向き合い、その後の人生にどう生かすかだよ」
2つの国の狭間で翻弄された日系人、特にその宿命を生まれながらに背負ってきた二世の生き方は、理不尽な運命にどう向き合うかを都に示唆してくれた。彼らは、それに屈せず、アメリカ社会で居場所を作る機会にした。自ら、そして次の世代の運命を切り開いた誇りと時の流れに傷を癒され、彼らは国家の過ちを許せたのかもしれない。
都は自分に同じ日本人の血が流れていると思うと、良のいない人生を切り開かなければという思いが湧いてきた。それができたとき、自分は茜と良を許せるかもしれない。
都は貴重な経験を話してくれた2人に、不自由な英語で、湧き上がってくる思いを伝えた。
「国籍は違っても、あなたがたと同じ日本人の血が流れていることを誇りに思います」
都の言葉を聞き、夫妻はそっと視線を合わせた。様々な試練を乗り越え、寄り添っている夫妻の表情は満ち足りていた。自分も良とこんなふうに人生を歩みたかった。2人の仲睦まじい姿は都の胸を締め付けた。