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「〜でいい」じゃなくて「〜がいい」がいい。


去年の2021年から筋トレ、ストレッチを初めて1年が経ちました。体を動かすと自ずと食事にも気を配るようになり、健康に対する意識が大きく変わりました。禁煙に成功したのは自分でも驚きです。

摂取するものが変わると内面も変わるようで、「生きること」に伴って発生していた本来不要なイライラやストレスなどもデトックスできているように感じます。「生きること」自体がオーガニックになったような感覚です。

別人になったと感じるほど、変化の大きな1年でしたが、今日はその中から1つ大きな気づきをお伝えします。

「〜でいい」じゃなくて「〜がいい」

15年ほど前、祖父が亡くなったときに祖母が一人暮らしになってしまう、ということで私は祖母の養子になりました。それから祖母が食事を作ってくれ、祖母が高齢になり家事が難しくなると母が家事をしに来てくれました。

両親は隣町で暮らしていて、母の職場が私の家から近いということもあり、自然とそうなっていたんですね。それは祖母が老人ホームに入所してからも続きました。

祖母の家で母のサポートを受け、私は一人暮らしをしていました。

自宅は老朽化していたこともあり、現在リフォームを行なっています。自分名義で住宅ローンを組みました。それに伴い、住居や生活インフラの名義変更もしました。

またリフォーム工事にあたっては、どんな家にするのかを明確化していかなければなりません。電気コンセントを差す位置すら、どこにいくつ必要と決めなければいけないので、どうやって暮らすのか考える必要がありますr

どこをどう変えるのか。どこを残すのか。家具や食器、布団などはどうするのか。家電はどうするの。費用はどうなの。工事の間どうやって暮らすの。ものはどこに移動させておくの。

本当に決めることがたくさんあって、意思決定をすることの過酷さを感じました。


そうして家が新しくなっていく中で、あるとき私に変化が起きました。それまで「祖母の家」と感じていた自宅を「私の家」と感じるようになったんです。

私が考えて、私が費用を払って、私が生活する私の家。そうなったときに大きな違和を感じたのは、家事をやってくる母の存在です。

それまで気がつかなかったんですが、仕事帰りに私の家に来て家事をすることは母の負担にもなっていたようです。今思うと当たり前ですが、気づかなかったんですね。

違和感として初めに現れたのが「夕飯は〜でいいよね」という言い方です。ちょうどその頃は新しい家をどうするのか、どうしたいのかを突き詰めて細かい指示を大工さんに伝えなければならないときでした。仕事をしながらリフォームの対応をして、工事も始まっているので生活リズムもガタガタになり、精神的に余裕のない中で必死に「こうしたい」を考え続けていたときに「〜でいいよね」と言われることにもの凄い嫌悪を感じたんですね。悲しくもなりました。

それから気になってしまって見ていると、母の言動は大半が「〜でいいよね」「〜でいいや」「〜どうせ〜だから」だったんです。忙しく家族の世話をあれこれしているうちにそうなってしまったんですね…

今は自分の食事は自分で作っています。
webでいろいろ調べてキッチン周りを整えて、食材を買ってきて、なんとかやっています。先日、初めてお米を炊きました。まだ大したものは作れませんが、自分が食べたいものってなんだろう、どんな生活を送りたいんだろうと考えて実践していくと、驚くほどシンプルな生活になりました。

日々の暮らしの中から過剰なものを取り除き、不自然なことを整える。そこに穏やかな幸せながあるように感じています。

母は我が家の家事をする必要がなくなったことに対し、始めは少し寂しそうにしていましたが、ちょっとずつ慣れてきたようです。そこに使ってもらわなくて良くなった時間と労力は、これからは自分の幸せのために使ってもらいたいです。


それでは最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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