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多様性とインクルージョンが、当たり前の世の中に
最近、気になっていることがあります。
それは、「多様性」という言葉が、都合よく使われているのではないかということです。
今から10年前、私は県の海外研修事業に応募し、オーストラリアへ研修に行きました。そのときのテーマは 「ダイバーシティ&インクルージョン」。当時はまだ日本で「多様性(ダイバーシティ)」という言葉が広く知られる前でした。
調べてみると、私自身、とても興味のあるテーマだったため、積極的に学びたいと切望しました。そして、その先進的な取り組みをしている国での学びは、今の私に少なからず影響を与えていると感じています。
「多様性」だけでは不十分、必要なのは「インクルージョン」
「ダイバーシティ(多様性)」は、個々の違いを認めることを意味します。
一方、「インクルージョン」は、お互いの多様性を受け入れ、活かし合うことを意味します。
「多様性を尊重する」とよく言われますが、ただ「違いを認める」だけでは不十分です。大切なのは、その違いをどう活かし、共に生きる環境を作るかだと考えています。
しかし、私の周りでは「多様性」ばかりが強調され、「インクルージョン(受容、包括、一体性)」の視点が抜け落ちているように感じます。
例えば、学校現場における「特別支援学級」の存在も、その一例ではないでしょうか。
支援が必要な子どもたちのために設けられた特別支援学級ですが、実際には「通常学級とは別の場所で学ぶ」という環境になっています。これにより、「特別支援学級の子は特別な存在」「通常学級の子とは違う」という意識が子どもたちの間に生まれてしまうのではないかと感じるのです。
これは本当に「多様性を尊重した教育」と言えるのでしょうか?
本来であれば、お互いの個性を認め合い、共に学ぶ環境を作ることが「インクルージョン」ですが、現状は「分ける」ことで解決しようとしているように見えてしまいます。
これでは、お互いの個性を認め合い、活かしあえる受容の精神は育たないように思えてなりません。
特別支援学級の児童生徒数は年々増加、その背景とは?
特別支援学級に在籍する子どもたちは年々増えています。その背景には、次のような要因があると考えられています。
学校側がトラブル回避を優先し、問題を起こす子どもを特別支援学級に誘導している。
発達障がいが広く認知され、診断を受ける子どもが増えた。
一人ひとりに合わせた教育を求める保護者が、特別支援学級を選択するようになった。
という有識者の見解がありますが、「個々の状況に応じた対応が求められている」という背景があるものの、それが結果的に「分ける教育」になってしまっていることに違和感を感じてしまいます。
多数派の教育が、いじめを生み出す?
いじめの多くは、「多数派」が「少数派の個性」をからかうところから始まります。
人は本能的に「多数派に属することで安心する」という、心理的安全性を担保したいという傾向があります。
多数派だけでの教育を受けていると、自分たちと「違う個性」「見慣れない個性」などに触れたときに違和感を持つ感性が育ってしまうことが恐ろしいです。
特別支援学級の子どもたちを「分けて学ぶ」ことで、多くの子どもたちは「自分と違う人と一緒に過ごす経験」が減っていきます。その結果、違う個性に対する理解が育たず、逆に不登校や孤立する子どもが増えてしまうのではないでしょうか?
「インクルーシブ教育」が進める世の中に
「インクルーシブ教育」という言葉があります。
これは、多様な子どもたちが同じ環境で学び、お互いの違いを理解しながら成長していく教育のことです。
しかし、日本ではまだまだその実践は進んでいません。
本当に多様性を尊重するなら、同じ場でお互いを理解し、活かし合える環境を作ることが必要ではないでしょうか。
「違いを認める」だけでなく、「その違いを活かせる社会」にしていくこと。
それが「本当の多様性」なのではないかと、私は思います。
不登校の子どもが増え続ける今、この視点を持つことがとても大切なのではないかと思うのです。