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平等と公平の違いとは?をあいさつ運動を通して考えてみました
あいさつ運動って、本当に必要なのでしょうか?という質問ををいただきました
明るい「おはようございます」の声が地域に響くのは素敵なことです。でも、知らない大人に向かって挨拶することを、すべての子どもに求めるのはどうなのでしょうか?
大人でも、知らない人に声をかけることに躊躇してしまうことがありますよね。それなのに、子どもに「挨拶しなさい」と一方的に求めるのは、少し違和感を覚えます。大切なのは、まず大人が子どもたちに向けて温かい声をかけることではないでしょうか?
たとえば、通学路で「おはよう」「いってらっしゃい」と声をかける地域の大人が増えれば、子どもたちは自然と安心できる環境の中で挨拶できるようになるかもしれません。挨拶を強制するのではなく、「気持ちの良い習慣」として根付くような雰囲気づくりが大切なのだと思います。
しかし、現代では防犯の観点から「知らない大人に話しかけられた」というだけで、地域の防犯メールに「声かけ事案」として通報されることもあります。このような状況では、地域での挨拶運動をどう進めるべきかも考えなくてはいけませんね。
子どもと大人の違いに気づいた瞬間
最近、信号のない横断歩道での出来事がありました。
車を止めて子どもたちが渡るのを待っていると、みんな小さくペコっと頭を下げ、足早に渡っていきました。でも、大人はというと、素知らぬ顔でゆっくりと歩いていきます。
渡り方は人それぞれなので、どう歩こうと自由です。でも、この違いに私は驚きました。子どもたちは自然と「車を止めてくれたことへの感謝」を表しているのです。これは、誰かの気持ちを考える「思いやり」が、子どもたちの中にしっかり育っている証なのかもしれません。
「苦手」も大切にできる社会へ
声に出して挨拶することが苦手な子もいます。
大人の前に立つと緊張して固まってしまう子もいます。
でも、そういった子どもたちの気持ちは、挨拶運動の中でどれだけ考えられているのでしょうか?「みんなができることを、あなたもできるようにならなくちゃ」と強制されることが、学校での行き渋りにつながっていることもあります。
学校では「黙清掃」「黙移動」「黙食」などが求められ、さらには完食指導まであります。これらの指導が苦手な子どもたちは、どうしたらよいのでしょうか?「みんなと同じようにできない子は問題だ」とされてしまうのでしょうか?
「平等」と「公平」は違う
こうした学校のルールに疑問を投げかけると、「今の子は我慢が足りない」と言う人もいます。でも、私は「苦痛を伴う我慢」はする必要がないと思っています。我慢をすればいい、乗り越えればいいという考え方だけでは、子どもたちの心は置き去りになってしまいます。
「他の子はできているのに、なぜあなたはできないの?」という言葉をかける大人もいます。でも、そもそも「平等」と「公平」は違うのです。
平等とは、全員に同じ条件を与えること。
公平とは、その子にとって適切な条件を与えること。
たとえば、目が悪い子には眼鏡をかける機会が与えられるのが「公平」です。全員に同じように「裸眼で見なさい」と求めるのは「平等」ではありますが、決して公平ではありません。
学校でも、社会でも、子どもたち一人ひとりの個性や苦手なことに寄り添った「公平」な関わり方をしていけたらいいなと、私は思います。
あいさつ運動も同じです。
「みんながやるべきこと」と決めつけるのではなく、それぞれの子どもの気持ちを尊重しながら、「気持ちよくできる方法」を見つけていきたいですね。