
(近代)都市計画の歴史を整理してみた#02
さて、#01では市区改正誕生(1888年)から旧法制定(1919年)までを追って振り返ってきました。#02では、旧法制定から戦中、戦後の復興計画あたりまでを振り返ってみました。法整備を中心にいろいろと端折って話しているので、より具体的なところ関しては#00に挙げている書籍から追ってみてください。(大体そこからの引用です。)
(3)旧法の全国適用と戦前・戦中
3.1 旧法の制定
1918年に市区改正が5都市に準用となった翌年、東京と前年に重要となった6都市に対して都市計画法が制定します。(同時に建築に関する市街地建築物法も制定されます。)
さて、市区改正の時もまとめましたが、1919年制定の都市計画法(以下旧法)での「都市計画」の役割について条文を引用してみてみます。
第一条 本法ニ於テ都市計画ト称スルハ交通、衛生、保安、経済等ニ関シ永久ニ公共ノ安寧ヲ維持シ又ハ福利ヲ増進スル為ノ重要施設ノ計画ニシテ市ノ区域内ニ於テ又ハ其ノ区域外ニ亘リ執行スヘキモノヲ謂フ
(出典:国立公文書館http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/henbou/contents/38.html)
市区改正では衛生、交通等の基礎インフラの整備が目的だったのですが、保安や経済まで範囲が広がり、公共や福利といった言葉にも触れられています。このことは時代の要求として、都市により高度な空間を必要としていたことがわかります。法律の役割・目的からその時代の公共観を見ることができるわけです。
それで中身を見ていくと、旧法において新しく定められた代表的な制度としては、①法制度の全国適用(1933)、②都市計画区域制度、③地域地区(用途地域(住居、商業、工業、未指定)、風致地区、防火地区、美観地区など)の3つがあります。また、旧法以降で導入された技術のひとつとして土地区画整理事業があります。ただ、土地区画整理事業に関しては制度化はされたのものの、基本的に耕地整理法の手続に基づいて事業が行われ、1931年に耕地整理法が改正によって市内での適用が禁止されるまで、郊外開発は耕地整理法が利用されることになります。
ちなみに、土地区画整理事業に関しては、日本独自の制度という風に言われてることもあり、参考として「日本型の都市計画とはなにか」(著西山康雄)ではその辺が様々な国際比較によって詳しく書かれていました。
3.2 1919~1930の日本の都市計画
1919~1930年は、旧法の普及や国際社会への発信など、日本の都市計画が徐々に理論化されていった時期でもあると考えられます。
例えば、1917年~雑誌「都市公論」が発行され、そこでは海外の都市計画の事例が紹介され、ニューヨーク市政調査会を手本に東京では東京市政調査会を設立させていました。また、1924年に行われたアムステルダム国際都市計画会議に都市計画家の石川栄耀が参加し、日本の都市計画に大きな影響を与えます。
この期間には、1923年9月1日に発生した関東大震災は東京及び横浜の既成市街地に大きな影響を及ぼします。特別都市計画法(※番外)が同年に制定され、復興計画が1930年まで続き、現在、東京の交通の大動脈となっている多くの道路が、この時計画されました。
3.3 戦時下の都市計画
1931年にいわゆる満州事変が起こり、ここから1937年~日中戦争、1941年~太平洋戦争と続き、1945年に終戦を迎えるまでの約15年を日本史で学ぶわけですが、都市計画によっても苦しい15年となります。この15年を、1924年の国際会議で影響を受けて着手し始めた緑地計画を例にとってみてみると、都市の緑地化や無秩序な郊外開発を抑制するために掲げられたはずの計画が、徐々に戦争のための使われていく様子がみてとることができます。
1924年の会議は大都市圏計画がテーマで、その中でグリーンベルトという考え方が提唱されます。日本もこれに呼応するように1932年に東京緑地計画協議会を設置し、1939年に東京緑地計画として計画化させます。それと時を同じくして1937年に防空法が制定されます。そして1941年の改正時に東京緑地計画の環状緑地帯を継承する形で防空空地帯が指定されます。
こうして、「緑地」計画は時代の流れに乗り、「防空空地帯」計画となっていきました。
このように戦時下において、日本の都市計画は一旦の中断を余儀なくされます。しかし完全に止まっていたわけではなく、建築家・都市計画家はその状況で、仕事場を満州や中国、台湾など当時の植民地に移動させ、0からの都市計画を実践していきました。これに関しては、さまざま意見はあるとは思いますが、個人的には技術者が自分のできることを探して、実践できる限りのことをやっていたのではないかと思います。
(4)戦後復興と基本法の不在
4.1 戦後復興計画
1945年の8月15日に終戦を迎え、日本史としては1945年9月2日(降伏文書への正式な調印)から1952年4月28日(サンフランシスコ条約調印)までを連合国軍による占領下時代となっており、戦後復興もこの状況下で行われました。
1946年にも全国115都市に対して戦後復興計画が含まれた特別都市計画法が制定されます。(詳しいことについては※番外で記したいと思います。)これは、全国に対する基本方針が1945年の12月にはまとまっており、1946年11月に計画の策定は終わっていたようです。また、自治体によっては、終戦直後に各自治体の知事の指示で独自の復興計画を策定している自治体もあったようです。(富山市、高知市、長岡市など)
ここだけ見ると戦後の日本での復興へのエネルギーを感じますが、1949年のドッジ・ラインや1950年のシャウプ勧告、財政赤字などのマイナス要因が重なり、実際には東京をはじめ各地での復興計画はうまく進みませんでした。最終的にはGHQから復興計画の再検討を言い渡され、実質上「復興」ではなく「復旧」にとどまる形となります。
4.2 機能しなくなっていく旧法と降りかかった特需
旧法は1968年に現行の都市計画法に改正されるわけですが、実は建築基準法(以下基準法)が制定された1950年に都市計画法改正基本要綱・中間答申が、1952年には第5次案が出されており、基準法は、都市計画法が改正されることを想定して制定されたようで、それによって1950年の基準法は未完成になってしまいます。この空白は1970年に基準法が改正されるまで続きます。
そして朝鮮戦争(1950~1953)による朝鮮特需がそこに現れ、日本史の中ではここから神武景気などの〇〇景気が続き、高度経済成長期に向かうわけですが、都市計画としては、公共事業より民間事業が勢いを増し、建築資材の統制が撤廃されるなどしてビルブームとなります。同時に民間ディベロッパーや民間コンサルへの都市計画業務が増加するなどしていきます。需要の多さが仕事を増大させ、それによって多様な主体が都市計画に登場してくるわけです。途中に1964東京五輪も挟まっており、数多くの素晴らしい計画や都市開発が生まれていきます。しかし、業務の増大と法律の手薄さが、多くの計画なき開発を生んだことも考えなければなりません。
総じて、時代遅れの旧法と特需という要因によって経済や財政面ではプラスになっていたのかもしれませんが、都市計画・都市生活面では経済に振り回わされる結果となりました。これが、公害問題などの新たな都市問題を引き起こしていきます。
→→→→(近代)都市計画の歴史を整理してみた#03
※番外
二度の"特別"都市計画法
いくつかの書籍に沿って要約するのもいいのですが、それだけだとつまらないなと感じて初めてみた番外。今回は1923年と1946年に制定された2つの”特別”都市計画法について、考えてみたいと思います。まず、二つの法律の目的を整理してみます。
1923年特別都市計画法:関東大震災で被害を受けた東京・神奈川の復興促進
1946年特別都市計画法:戦災で被害を受けた各市の復興促進
共通点として、土地区画整理事業を円滑に行うための特別措置が取られています。復興の主要事業として活用すべく動いていたことがわかります。
相違点として、1923年の特別都市計画法に関しては、はじめは「帝都復興法」として制定し、組織・復興財源・土地区画整理を包括的に利用できるような特別法の制定が提案されていました。対して1946年の特別都市計画法では、始めから土地区画整理事業に絞り、都市計画法に紐づけて法律が制定されたという経緯に違いがみられます。
ちなみに2011年に発生した東日本大震災の復興に際しては、東日本大震災復興特別区域法が制定されており、その中では、「復興推進計画」「復興整備計画」「復興交付金事業計画」があり、平時に必要となる面倒な手続きをスピーディに一本化することができるように設計されているようです。
特別都市計画法として一括りすることもできるわけですが、時代背景・形成過程まで見ていくことで、その時々での状況との葛藤を少し感じることができる気がします。