母のこと #15 息子の結婚

私の兄にあたる母のひとり息子は、22歳の時に結婚しました。相手は中学の同級生で、看護師でした。

きっかけ

兄は高校を中退しているためか、中学の同級生と卒業後もずっと仲良くしていました。
男女混合の仲良しグループで泊りがけの旅行に行くことがあり、グループ内で兄の恋人とみなされていた女性の父親からうちに「未婚の娘を泊りがけで連れ出す」ことの責任を問う抗議が入り、父と母はふたりを早々に結婚させることで兄の行いの責任を取ることにしたのでした。
結婚が決まって、すでに別居していた祖母を除き一家で先方に挨拶に行きました。先方の家には両親と兄の婚約者とその妹がいました。
両家が和やかにしていたのかどうかは記憶がないのですが、結婚に至る経緯からそうであった可能性は低かったと思います。
また、当時父の商売が傾き、最初の蒸発事件を起こした後だったはずでした。
両親はすでに自宅の売却を決めており、それに伴う引っ越しと同時に、兄も結婚後の新居に移り住むことになっていました。
うちからきちんとした結納をしたのかどうかも憶えていませんが、推測するに家計は火の車なところに息子の結婚の準備をするのは大変だったでしょう。
母は、冠婚葬祭に備えて互助会に入っており、兄の結婚式は互助会の施設を利用して行われることになりました。
詳しくは聞いていないのですが、選んだ挙式プランの内容では収まらず、花嫁のドレスのレンタルには追加料金が必要だったとだけ聞いています。

母は姑に散々いじめられた経験があったので、嫁姑の関係の難しさを身をもって知っていました。
その為に、兄夫婦と同居したいと考えることは一度もありませんでした。
結婚した兄は、また実家を離れていきました。

孫が生まれる

兄夫婦は若くして結婚し、すぐに第一子を授かりました。女の子でした。
まだ23歳の若い夫婦は2人で遊びに行きたいと思うことが多く、週末になると子どもを預かって欲しいと連絡をしてきましたが、当時すでに母は家業の手伝いを辞め百貨店でマネキンとして働いていて週末は大抵休めず、頼まれる度に困惑しながら断っていました。
結婚が早過ぎたとのだと、よく母はこぼしていました。
翌年更に兄夫婦は第二子をもうけました。こちらも女の子でした。
以後、預かるなら2人の子供の世話をすることになります。
2人目の子供はアレルギー体質があり当時室内犬を飼っていた家に来るとよく咳が出ました。
母の都合を考えないように見える頻繁な預りの依頼と、預かった際の下の子の世話の難しさから、母は孫を可愛がるどころかできれば敬遠したいように見えました。
結局のところ、2人の孫は兄嫁の実家で母方の祖母の世話になることが多く、兄一家は引っ越しをする度に兄嫁の実家の近くに移動していくことになります。
兄としては、家族が妻の実家の家風に染まっていくことへの抵抗の意味から自分の実家に子供を預けたがり、なんとかバランスを取りたかったようですが、それはある出来事から全く無理なこととなりました。

第三子問題

滅多にないことでしたが、ある時兄嫁の実家から電話が入りました。
兄嫁の母親からの電話でした。
そこで母は、兄嫁のお腹に第三子がいることを知らされます。
しかし電話の主はまた、兄嫁の子宮には筋腫があり、第三子の出産について心配しているとのことでした。その上で、第三子の出産について、母はどう思うかと尋ねました。
母は、すでに二人の子供に恵まれているので、心配があるなら無理に三人産むことはないのではないかと答えました。自分が二人を出産して満足していたことが背景にあったのでしょう。また、母は孫が可愛くてもっと沢山いて欲しいとは思っていませんでした。そんなことを何の気なしに答えた母は、相手が電話をかけてきた意図については分からず注意も払っていませんでした。
数日後、今度は兄嫁から電話がかかってきました。
電話の向こうの兄嫁は、明らかに激怒していました。
兄嫁が電話で伝えてきた内容は次のようなものでした。
実家の母から、夫の母親は無理に第三子を生むことはないと言っている、だからお腹の子はおろしなさいと言われたが、本当にそんなことを言われたのでしょうか?
母は、兄嫁の母がそのように言うのでその意見に同意を示した旨を伝えました。
実のところ、母はこの件についてさして深く考えておらず、端的に言えばどうでもよかったのだろうと思います。
自分にとってどうでもいいことで兄嫁が激怒しているのがなぜなのか、ちっともわかりませんでした。
しかし兄嫁は、あたかも母が第三子をおろせと主張していると言わんばかりに怒り、以後二度と子供を預かって欲しいと連絡が入ることはありませんでした。また、おろしたのか流産したのかは定かではありませんが、この時第三子が生まれることはありませんでした。

兄嫁に第三子を産ませたくなかったのは、兄嫁の母親だったに違いありません。兄嫁の母親は、自分の意見を聞かない娘(兄嫁)に対して、「お姑さんも生むなと言っている」と母を使って遠回しに圧力をかけ、自分が望む結果に繋げることに成功したのです。
しかしそれはその時だけのことでした。
子供を三人産むと固く決めていた兄嫁は、結局自分の母親が止めるのを聞かず第二子出産から7年後に第三子を出産していました。この出産に至る状況についての詳細は不明です。
兄嫁の母親の牽制は一時的なことでしたが、この一件で一気に悪くなった母と兄嫁の関係はそのまま長く続きました。
表面的には平静を保っていましたが、兄一家に会うのはお正月とお盆のみの年二回だけとなりました。お正月は1月2日の午後から夜までの数時間やってきて、翌日の1月3日からは兄一家と実家の母一家両方が母の丹後の実家を訪問します。お盆は実家を経由せず丹後に行く兄一家を見て、母は丹後が「誰の実家かわからへん」と言っていました。
兄は、自分が体験して楽しかったことを子供にも体験させたいと考えており、兄嫁は子供たちが夏休みの日記に書くネタを提供する必要があったので、母の実家である丹後の家は兄一家にとって至極都合のよいものだったのでした。
そんな兄の行動を、母は咎めることはしませんでした。自分の実家を訪ねる人がある、集まる親戚がいることは、母にとってはよきことでした。
婚家で多くの親戚や来客に対応していた母は、愚痴を言いながらも人が集まる席で立ち働くことをよしとし、積極的に動く習性が身についていました。
年に二回のことですが、家族親戚が集まる席を設けることは、母にとってやり甲斐のある仕事でした。
ただ、そのような場にあっても、年に二度しか会うことのない兄嫁と孫(兄の子ども達)が母と親しくすることはありませんでした。普段の行き来がまるでなく、共通の話題も体験も乏しかったので、それは無理のない成り行きでした。
古風な母は、関係が疎遠な孫でも入学祝い等を欠かさないようにしていました。そうしておけば、孫は祖母である自分に対して目上の直系の親戚としての敬意を払うと信じていましたが、現実はそうではありませんでした。
反対に、母の日には花が、年末にはハムなどのお歳暮が、兄の名前で送られてきましたが、それは兄嫁が事務的に手配したものだったり、兄が仕事の都合で購入しなければならないものだったと聞かされていたので、母の中ではいらないものとして礼の数には数えられていないようでした。
こちらがいくら礼を尽くしても何の返礼もない、そのように感じていた母の不満は、ある年の夏に丹後で吐き出され、その結果兄一家の抱える問題が明るみに出ました。

夫として、父としての息子

その時は丹後で、夏の盆礼として、その家の家長である母の弟と、母、私の一家(私・夫・私の子ども)、兄一家(兄・兄嫁・長女・次女・長男)が一緒に食卓を囲んでいました。母の妹とその夫がいたかどうかは記憶があやふやです。
食事の席で、母は兄の子供たちが自分に挨拶をしないことについての苦言を述べました。きっと母は、今日こそ言ってやろうと随分前から言葉とタイミングを選んでいたのでしょう。
それを聞いた兄は、目にも止まらぬ速さで手を上げて、長女の頬をひどくひっぱたいていました。
兄は激怒し、お前のせいで俺がこんなことを言われると叫びました。発狂しているが如く立ち上げって逃げる長女の後を追おうとしました。騒然となった食卓ではみんなが立ち上がって、幾人かは兄を取り押さえようとし、幾人かは長女をかばったり他の小さな子供たちを別室に避難させました。
兄が家族に手を上げたのを見たは、高校生の頃母を押し倒したのが一回目で、この時長女を叩いたのが二回目でした。しかし、この後兄嫁から聞いた話では、兄の兄嫁に対するドメスティックバイオレンスがもう何年も前から行われていたとのことでした。

母は幼い頃父親から手を上げられていた経験がありますが、早くに父親を亡くしていて母親からは体罰を受けていません。父も母に手をあげることはありませんでした。むしろ母の方が、本当に頭にきた時子供に手をあげたことがありましたが、それは極稀な例外で我が家では体罰という名の暴力がふるわれることは殆んどありませんでした。
そのことから、母は息子が家族に暴力をふるう人間であることが信じがたい様子でしたが、ことが公になって以来兄嫁は機会があれば兄の目を盗んで私や母に兄の暴力と暴言についての愚痴をこぼすようになり、母はその事実を認めざるを得ませんでした。
その後その件について母がした対応は、時折兄に対して家族にひどいことを言ったりやったりしないようにとやんわりと意見するといったことでした。兄をどうにかしなければとか、兄嫁や孫に何をしてやれるかということよりも、自分の育て方が悪かったんだろうかとか、なぜこんなことになってしまったんだろうかと思い悩むことはありましたが、それは自分の中での思索の域を出ず答えに辿り着いたり状況を変えることにはなりませんでした。

兄は外見こそ年々父親に似ていきましたが、性格は明らかに母に似ており、その素行の悪さがあっても母は兄の心情や感性を理解し愛情を感じる節があったのかもしれません。兄も母に甘えるところがあり、調子がいい時は黙っていますが、調子が悪く悩みがある時は不意にひとり母を訪ねて自分のしんどさを話し憂さを晴らすのでした。
その結果母は、兄が来ると心配になる、しかし連絡がないとどうしているのかまた心配になる、と言った感情に困惑するようになっていました。
自分の息子が結婚して子どもを儲けても、自分の会社を作って商売を始めても、絶えず心配があり気にかかる息子でいる、そうして母の関心をひきつけるのが兄なりの愛情表現だったのかもしれません。
母はいつも兄の心配をして、兄が自分の助けを必要としているのではないか、どうすれば兄を助けてやれるかを考えていました。相談し力になってくれたり代わりに対処してくれる夫はすでにおらず、母は心配する以上の行動を自らとることはついにできませんでした。


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