母のこと #13 マネキン時代

家業の手伝いを辞めた母は、近所の人の紹介で「マネキン」になりました。
職業としての「マネキン」とは、服飾メーカーに雇われた販売スタッフのことです。
”仕事あれこれ”でも触れていますが、母にとっての特筆すべき時代のことを改めて書いておきます。

当時、同じマンションに住んでいた同年代の女性に誘われて、その女性がしていた「マネキン」という仕事を始めた母は、多分10年くらいの間熱心にその仕事をこなしました。
時給の仕事でしたが、月収で20万円前後になっていたと思います。
母が働く間に、百貨店は定休日を返上することが増えたり、営業時間が拡大されたりしていきましたが、始めの頃は百貨店の定休日もあれば自分が休みたい日もあり、毎月働く日数は決まっていませんでした。始業と就業の時間はシフトによって決まるので、同じ百貨店の同じ催事の仕事でも、日によって変わるのが普通でした。同じ百貨店なら定休日は仕事が休みになりますが、仕事が混んで別の百貨店に行けば定休日がずれているために週休なしの連勤になることもあります。また、朝早く出て夕方終わる日もあれば、お昼前にゆっくり出て、夜9時頃に帰宅ということもありました。
就業場所も様々で、市内の百貨店なら天王寺・キタ・ミナミですが、堺や奈良、和歌山に行くこともあります。
たまに、いつもと違うメーカーの仕事をうけることもあり、正社員の安定はありませんが、とても柔軟に働き方を選べる側面がありました。
「マネキン」は主婦がやることが多く、主婦にありがちな収入の壁対策や、急なシフト変更希望(休みたいとかやめたいとかあの人とは働きたくないとか)への対応がきめ細かにされていて、母当初はとても機嫌よく働いていました。経理上の細かいからくりは不明ですが、母は公的には無収入の主婦のままでした。
洋裁の知識があった母はお直しができるかといった質問にも答えやすく、コーディネートを考えるのはもはや趣味の域で楽しんでいたのかもしれません。立ちっぱなしや暑い/寒いといった身体的な辛さは常にありましたが、家業の手伝いでも立ち仕事が多かったせいかなんとかやっていたようでした。
この時期に母は、父が黙って滞納した何か月分もの家賃支払いを一度ではなく肩代わりしたり、老後の蓄えと呼べるような貯金や年金の準備をしたり、株に手を出したりと、いろんなことをしていました。母は結婚してからずっと公的な年金を一切かけていなかったので、その代わりになるような生命保険会社の年金の話はありがたかったろうと思います。百貨店の仕事のお昼休憩に、営業に来ていた保険外交員に話しかけられて、喜んでかけていました。それも、仕事をしていてよかったことに入るでしょう。
夫の度重なる借金問題や家にお金が入らない事態になると、家計をひとりで担うことになった母の稼ぐことへの緊張感は徐々に高くなりました。と同時に、働いて稼いでいるという自信や自尊心が養われました。

しばらくやっていると仕事をするメーカーはほぼ固定になり、そこの営業さんとはある意味夫婦のような雰囲気になっていました。仕入や陳列についてよく口を出し、同じ売り場の他のメーカーに対抗意識を燃やし、ストック置き場が狭いと百貨店側の悪口を言い、何かあれば終業後でもお客にフォローの電話を入れていました。自前で売り場をきれいにするための掃除道具を持参し、マネキン(人形の方)に飾るアクセサリーを添えてみたりもしていました。
仕事用の白のブラウスと黒のスカートを何枚も買いそろえ、催事では休憩時間に自分だけでなく娘や息子、孫のための買い物をし、仕事帰りには同僚や娘との外食を楽しみました。
夫から友達づきあいについて厳しく制限されていた母は、その束縛から離れて友人を作り、あまつさえ海外旅行にまで出かけて行ったのでした。
若かった頃、1万円のコートが欲しくても買えない母を見て、決して余裕があった訳ではないはずの祖母が「買ってやろうか」と言ったことがあったそうですが、この時の母は毎年のようにコートを買うのに躊躇しない様子で、仕事着以外の服もどんどん増えていきました。

しかし母のそんな黄金時代は長く続きませんでした。
百貨店の店頭には若くきれいな人を置きたいという百貨店側の意向があり、また催事に出展する商品、その商品を並べるメーカーを選ぶので、同じメーカーの同じマネキンが不動の地位を得ることは難しいのです。
段々と年をとっていく母は容貌や動作の衰えがあり、支払い方法の多様化があり、メーカーの出展する催事の減少がありました。
市内の百貨店の仕事が減る代わりに遠方の仕事が多くなってくると、体力がなくなってきた母は仕事への意欲をなくしていきました。
長くついていたメーカーが百貨店催事から完全に撤退することになった機会に、母はマネキンを引退しました。

その頃には、すでにマネキンはゆるく働ける仕事ではなくなっていました。すぐ休む人は歓迎されず、キャリアが長い人が重宝される訳でもなく、お金の扱いは煩雑でミスが起こりやすくなっていました。
より高い値札をつけたものから売れるバブルの時代に華やかにマネキンデビューした母でしたが、バブルは崩壊して高級なものは売れなくなり、売り場を仕切る社員は細かいことで口うるさくなりました。
時代の移り変わりを感じていたのかどうかはわかりませんが、仕事を辞める母に未練めいたものは見えませんでした。


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