母のこと #24 施設入居
母が大阪を離れて以来、母に関することは兄に任せていました。
必要と感じた時は兄嫁が連絡をしてきました。
ですのでこの時期のことは兄と兄嫁からの伝聞で知るのみです。
帰阪し施設に入る
退院した後、叔父(母の弟)の家に移った母は、そこでまた自殺を図ります。
叔母がすぐに兄に連絡をしてきて、このような状態の母の世話はし切れないから引き取ってくれと言ってきたそうです。
兄はこの状況に対処することを兄嫁に求め、兄嫁は住んでいる市の軽費老人ホームに母を入居させることにしました。後から知ったことですが、そこは兄嫁の父が入居していた施設でした。
入居予定の施設から連絡があり、入居にあたり母と身内である兄と私がそろって面接を受ける必要があると伝えられましたが、私はそれを拒否しました。困った施設職員の方が、状況を考え私ひとり個別で面接すると融通をきかせてくれ、何とか入所の手続きを進めることができました。
面談のために施設を訪ねた際に、母が入居することになる施設内を案内していただきました。
トイレが付いた個室があり、隣りと続きのベランダに洗濯機があり、風呂は共同利用でした。個室は踏み込みの間と六畳間程度だったと記憶しています。食事も食堂で他の利用者と一緒にとる仕組みでした。
施設での暮らし
私は、母が生きてそこにいる間に、母を訪ねることはしませんでした。
母が丹後の病院にいる際に、私がお見舞いにいかないことで兄とトラブルになったことがあり、そのせいか兄から施設の母を訪ねるようにと言われることはありませんでした。
母に関することの連絡は兄嫁が代わりに行い、母の施設入居にかかる費用をどうするかについての話し合いが何度かありました。電話かメールでのやりとりだったと思います。母の個人年金が入金される郵便貯金口座のキャッシュカードを兄嫁に送り、そこから必要な費用を出して使ってもらうことになりました。兄と兄嫁がそこからどのような費用にどれだけ使ったのか、私は関知しませんでした。
丹後の叔母から度々母のことについての指図があり、私は家に残っていた母の衣類等の荷物を施設の母に宛てて送る手配をしました。普段の生活で使えそうな衣類や雑貨が中心で、部屋の飾りものや洋服地、来客用の布団など、母が大事に持っていたけれどなくても生活に支障がないものは送りませんでした。ひと間しかない母の部屋には、それでもしまい切れないほどの荷物になっていました。
そして母の施設入居後に、家に残していた母の残りの荷物はほどんと処分しました。
その後私は、子供とふたりが住める更に小さなマンションに引っ越しをしたことで、母は戻る場所を失くしました。
母と娘の40年にわたる同居生活は完全に終わりました。
その時より前に、母は味方と思っていた娘をすでに失くしてしまっていました。母がそのことを認めるまでには、まだもう少し時間が必要でした。
母が施設に入居したのは夏の終わり頃で、その年の暮れに施設から連絡がありました。
母が、「もうすぐ娘が迎えにくるので施設を出ることになる」と話しているが、本当かどうかを尋ねる電話でした。
本当では勿論なく、それは母の願望であり妄想でした。
年末年始の過ごし方にこだわりがある母には、施設でひとりその時を過ごすことを想像するだけで耐え難かったのでしょう。
私と母の関わりについては、私と母で解釈が全く違い、また端で見ている兄と兄嫁もそれぞれの見解を持っていたので、それぞれの思惑、説得、行動がかみ合うことはありませんでした。
兄嫁は母に対して、今母と私が会うと余計に関係が悪くなるので時期を待つべきだと伝えていたようです。私は母に会うよい時期が来ることはないと知っていましたが、そのことは誰にも告げませんでした。
母はお正月を兄宅で過ごしたのかもしれません。
後で聞いたところによれば、兄は母を旅行に連れ出したりすることもあったようでした。
また、帰阪してから母は兄に連れられて大阪の病院にかかっており、そこで「進行性核上性麻痺」の診断を受けました。
母が待ち望んでいた診断がついに出たのです。
しかし、それは治療法が見つかっていない難病でした。
叔母は「ついに隠れていた病気が見つかった」と連絡をしてきましたが、自分の見立てが間違っていたことについての言及は特にありませんでした。
治療することはできず、わずかに進行を遅らせることと、気をつけて暮らすことのみができる最大限でした。
年が明けて、春が終わる頃に、また施設から連絡が入りました。
母が亡くなったという知らせでした。
母は施設の自分の部屋でひとり、自分の人生を終わらせることを決め、決行したのでした。
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