母のこと #18 夫婦の変容

母は、女が結婚することは当然と思って見合い結婚をしました。
しかし、結婚生活は期待したような甘いだけのものではなく、よくなったり悪くなったりですが、全体を思い返した時悪かった時期の方が随分長かったようです。
よい時がなかった訳ではないので、それが救いと言えばそうなのかもしれません。
二十代前半からの母の結婚生活は、50年あったでしょうか。
半世紀近い時間で、夫婦の姿は同じであるはずもなく、想像の部分も多いですがその流れを追ってみます。

結婚当初

この時期のことはすでに別記事で書いていますが、そこに書いていないことを書きます。
母ははっきりとした一重まぶたで、父はまたはっきりとした二重まぶたでした。母の表現では、一重まぶたは「ひと皮目」、二重まぶたは「ふた皮目」と呼ばれており、父と結婚すれば「かわいいふた皮目の子どもが生まれるかも」と期待していたそうです。(結果として二人の子どもに恵まれましたが、二人とも一重でした。下の娘だけは、後年父親似の二重になります。)
また、父は頭がいいと尊敬していたようです。いつも何か言おうとすると、理詰めで反論されることが多かったので、段々とそれは尊敬と言う感じではなくなっていくのですが。
娘が結婚する際に他府県に行く可能性を考えて大反対をしていたことから、知らない土地に嫁入りすることはやはり辛かったのかと思います。母は、その辛さから年に何回も帰省し、父もそれだけは止めずに車を出して付き合いました。

父の会社の問題

結婚当時会社員だった父は、退職して印刷の自営業を始めます。
定収入があったサラリーマンとは違い、毎日のお金の心配をしながらお姑や親戚の世話に明け暮れる専業主婦の母は、夫に愚痴を言いつつとにかく毎日を必死で過ごします。
この頃のことを、後年母は「体つきの奴隷」と表現していました。(表現のきつさから、当時の状況に対する認識のひどさが窺えます)
父は、昔からの親友の引きがあり、仕事が軌道に乗り始めました。
その頃には祖母が仕事の手伝いから徐々に身を引き、母が交替で手伝うようになります。母は、ここから父の仕事に巻き込まれていきます。
母は父の親友が父の仕事にもたらす影響をわかっていましたが、暗にその親友を嫌っていました。父の親友は結婚していましたが子どもはなく、夫婦で数人を雇うデザイン事務所をしていました。家族構成や仕事が自分の家のそれと違い過ぎ、母には異質な感じを与えたのかもしれません。海外旅行のお土産をもらうこともあり、その生活の派手さへのやっかみもあったと思います。
表面上は愛想よく一緒にお茶も飲み食事もし、双方合同でボーリング大会や社員旅行にも行きました。しかし、たまに陰口を漏らすことがあり、内心よく思っていないことが窺えました。
そう言えば、同じ印刷の自営業のご夫婦とのつきあいもありました。同業だったので、父の学生時代かサラリーマン時代の知り合いだったのかもしれません。
子どものないご夫婦で、大型犬を飼っている穏やかな雰囲気のお二人でした。こちらについて母が愚痴っていたことはありませんが、後に離婚され、奥さんの方とは疎遠になっていました。ご主人とは細く長くつきあいが続いており、父の仕事関係で困った時に手伝ってもらったことがあったようです。
どちらにしろ、子どもをひと晩預けるようなことがあり、それが母にとってどういうことだったのか、母がそれをよく思っていたのかいなかったのかは今ではわかりません。ひと晩でも世話をする子どもが減ることがただありがたかったのかもしれません。

父は仕事の景気がよくなると夜いない日が増え、休日は早朝からゴルフをしに出掛けます。
母は、最初にバイク、次に車を与えられ、家事だけでなく仕事の手伝いが増えていきます。
やることはどんどん増え、夫婦の時間は減り、父が会社を株式にする際には名前だけとは言え役員にさせられ、不満が募りました。しかし一方で、新築の一戸建を購入し、株式会社設立のパーティを開き、お姑は長男の家に移っていき、毎日のお金の心配から解放されます。
そして、夜中に夫婦でお酒を飲みながら深夜テレビを見る時間の楽しみがありました。
この頃、下の娘が引っ越し先の学校に馴染めずにいたことや、兄の非行が始まっていきましたが、先の件については聞き流し、放置している間に収まって、段々とよい手伝いに育ったので安心でした。後の件については夫婦で連携してことにあたりました。
そうこうしているうちに父の会社では人を雇うようになり、今度はそちらのことに気を取られるようになっていきます。
働く人の働く姿、それを使う父、煩雑になっていく事務処理、そんないろんなものが気にかかり、また相談されたり手伝わされたりするのですが、初めてのことが多くて戸惑ってばかりです。
一戸建ての家を買うに留まらず、この頃新しく工場を建てていたので、工場の中を調えることも母の仕事でした。
父から期待され、求められることが日々増えていき、対応し切れない母はその愚痴を父にぶつけたり娘に吐き出したりしていました。帰省の折には当然母やきょうだいにもどんどん話します。それでも、次から次に愚痴のネタが供給されるのでした。

景気がよい状態は永遠に続く訳もなく、ある日父が失踪し多額の借金が出てきます。
父はほどなく見つかりますが、すぐに関係者と相談に乗る商工会議所の人、弁護士が集まって対策を協議し、母もその場に同席させられます。母も会社の役員になっていたので当然そうなるのですが、名前だけの役員と思っていた母は「話しが違う」と思ったことでしょう。
話し合いの結果、母は簿記の勉強をして経理処理一切を引き受けることになりました。父はお金の管理がどんぶりなので、それを母が補うように求められたのでした。
ところが母の経理担当は長く続きませんでした。父が会社のお金のことをすべて正直に母に任せることを拒み、そもそもやる気のなかった母がさじを投げたのです。
夫婦の間にこうした仕事上の問題が生じてしまったことは、プライベートな関係にひびを入れるに足ることだったのではと思います。
ちなみに、景気が悪くなった時の父の親友は、いち早く父との取り引きも遊びもやめ、従業員を減らし、自分の事務所の維持に努めました。この態度が母の目には冷徹なものに映っていたようでした。

父の浮気

記憶が曖昧で時系列に並べることができないのですが、父が最初の失踪をした頃には夜に夫婦がお酒を飲みながら仲良くテレビを見る時間はとっくになくなっていたように思います。
その後、丹後にいる母親の看病のために母は自営業の手伝いを辞め、百貨店で婦人服を売るマネキンになります。
父の浮気が始まったのは、母がまだ自営業の手伝いをしていた頃なのか、辞めた後なのかがわかりません。しかし、母は父の浮気相手の顔を知っていました。

父は工場で自分の兄、姉以外の人を雇うようになり、男性も女性も幾人か雇いました。雇用形態の詳細はわかりませんが、女性はみな時間給のパートだったように思います。雇う際には、給与がこれだけと提示するのではなく、相手に「いくら欲しい?」と聞いて決める、あり得ないやり方をすると母が言っていたのを憶えています。
父は母に、社長の奥さんまたは役員として、家事の後に重役出勤するのではなく始業時間から会社の仕事をするように求めたことがあったそうです。当初、母に対してもっと会社となった工場の仕事をやって欲しいと思っていたようでした。しかし、母はあくまで自分は主婦が本分と考えており、そこを崩すことを拒否していました。体面を気にする父としては、言う通りにならない母への不満や雇い人への示しのつかなさがあったのか、母に対して当てつけのような態度をとるようになります。
母が愚痴っていたのは、会社のお金のことで銀行へのお使いがあるときに、母の前でパートの女性にそれを言いつけると言ったことです。
母としては、そのような大事なことはパートの女性にやらせるべきではないし、そもそも自分が目の前にいながらそのようなことをするので腹が立って仕方がないと言った様子でした。人前で辱めを受けていると感じていたのでしょう。
聞いていて憶えていることはそれくらいですが、毎日工場に通う中できっと細かなことで何度も母は傷つけられていたのだと思います。社長である父がそのような態度なので、雇い人からもバカにされることがあったかもしれません。
だからこそ母は、親の看病で工場を離れた後、そこに戻ろうとはしませんでした。
後年母に、何故朝から工場に出ることを「ありえない」と拒否していたのか改めて聞いてみたところ、母は給与をもらっておらず、他の雇い人のように朝からきちっと出勤する理由がなかったとの答えでした。父から渡されるのは常に家計に入れると約束した金額のみで、それは家長として家に入れるべきお金であって、母への給与ではないと言うのが母の認識でした。
給料も出ない手伝いで、何をきっちり朝9時から出勤しなければならないのか、と言うのが母の言い分でした。朝は家事をしてからゆっくり出勤しても、忙しい時は残業して他の人が帰った後も手伝いをさせられるが、給与がないので残業代もなく、他の人の前ではバカにされたような扱いをされ、しかし会社関係の人からはいろんなことを言われる、母にとっていいことなど何もないのがこの頃の家業の手伝いでした。

結婚当初大人しかった母は、いつしか父に対して様々な不満を言うようになり、一緒に過ごす時間は減り、父が家に入れるお金も減っていきました。
住居費は父が払い、それ以外のことは父が母に渡しお金で母が賄うルールになっていたそうです。確か、母がもらうのは27~8万円という、なぜか中途半端な額でした。景気がよくても母に渡す金額が増えることはなく、景気が悪くなると金額がそこから減ったりなくなったりしました。
夫婦の間に雇い人という要素が入ったこと、経済的な状況の悪化、そして父の浮気が夫婦の亀裂を大きくする決定打になりました。

父の浮気相手は、子どもがいるシングルマザーのパートの女性でした。
景気が悪くなり、他の人をみんな解雇した後も、この女性だけが残って父の仕事を手伝っていました。父がどれくらいのお金を渡していたのか、渡していなかったのか、その辺りの詳細は不明で、母がそれを把握していたかどうかもわかりません。
母が父の浮気にどうやって気づいたのか、母に聞いたことがありました。
生々しい話を平気な顔で語る母でした。
洗濯の為に父の衣類を見たら、パンツのポケットからコンドームが出てきたのでわかったそうです。

別居

お金のことか、仕事のことか、浮気のことか、それ以外のことか、夫婦げんかのネタには困らない状態が何年も続きました。
父がダメになったのは、自分の母親が死んでしまってから恰好をつけるということができなくなったからだと母は語っていましたが、もともとメンタルが弱い父を、亡き母親に代わって支える意欲は母にはありませんでした。
父とのことを聞くと、結婚当初から長くひとつの布団に枕を並べていたのは「部屋が狭かったから」で、結婚当初の生活は甘いものではなく「体つきの奴隷だった」と語る母の表情には、父との関わりの中にやわらかさや色気を思わせるものはありませんでした。父がそんなものを望んでいるとは思わないか、そう思ったところでそんなものはないと突っぱねるような雰囲気がありました。それが、離婚前の父に対する母の態度でした。
父の最初の失踪や浮気より前から、夫婦の溝はすでにでき始めていました。
しかし、長らく母の中には自立への不安があり、いくら勧めても離婚だけはしようとはしませんでした。

二度目の失踪の後、若くして買った新築一戸建てを手放して賃貸マンションに暮らす父は、工場こそ維持していたものの、度重なる飲酒運転で何度も警察に捕まった末に免許を停止され配達の為の運転もできず、家から工場への出勤には自転車を使っていました。
その賃貸マンションは母が不動産屋に掛け合って探したものでした。家賃の払いは父が担当していましたが、年末になって未払いが貯まっていると連絡があり母が肩代わりすることが何度かありました。月8万円の家賃が何か月も未払いで、常に管理会社からは年末にしか連絡がないので、年明け前に母は自分がその年に貯めたお金から何十万も出して支払いをしなければならなかったのです。父からは、払えていないという話はひと言もありません。
そんな状態なのに、自転車で飲みに出て酔っ払い、転倒して怪我をするとか、玄関で失禁したりする父でしたが、最終的には飲みに行くお金もなくなって、家で黙って本を読んでいることが多くなります。
ある晩父と母はまた口論になり、父がぷいと家を出ていきました。
自転車の乗って工場に行き、そのままそこに住むようになったのでした。
工場は三階建てになっており、三階は屋根裏部屋のようになっていましたが、そこを寝室にして暮らしました。
家にあったタンスと布団をそこに運び込んで住環境を調えた父は、二度と家族と暮らすことはありませんでした。
父が浮気相手と一緒に暮らすことはありませんでしたが、お祭りに相手とその子供を連れていくようなことがあり、兄一家に目撃されて浮気の事実がついに家族全員の知るところとなります。
娘とふたり暮らしになった母にとっては、きっとその時期が一番落ち着いていたのだろうと思います。
母と娘は勝手知ったるもの同士であり、父という脅威に対して共闘する仲間で、かつ目下で自分の延長のような存在との暮らしは、何をするにも気楽でした。そして、まだ母には元気に働く力と、マネキンという職がありました。娘はすでに就職していたので、誰に盗られることもなく、老後の資金づくりを始めることができました。
しばらくは平和に暮らしましたが、ある時父から連絡があり、父の戸籍から母と私を抜く手続きをするようにと伝えてきました。このような状況でも離婚を考えていなかった母ですが、父の負債を被るかもしれないと言われて離婚の手続きを進める決意をします。自分は離婚し、娘は離籍して新たに戸籍を作りました。仕事をしていた母は、姓を戻すことはしませんでした。
戸籍上、父と母の夫婦生活はここで終わりました。

離婚の後

不思議なことですが、掛金がわずかだったせいか、母は父の保険を離婚後もかけ続けていました。母が父に内緒で、父を被保険者にしてかけていた掛け捨ての保険です。(毎月の掛金が安かったので、特に手続きをせずに放置していたという方が正解かもしれません)
また、母は随分後になって父にまた一緒に暮らさないかと話を持ち掛ける気持ちを持っていました。
少しずつでもお金をくれたら、身の回りの世話くらいはしてあげるよ。
そんな話をしようとしていました。
同居の娘はやがて結婚してしまう、兄一家と同居はしたくない、老後はどうしようかと身の振り方に悩み始めたのは、母がまだマネキンを引退する少し前です。
弟がひとり住む実家に戻ることも考えましたが、弟から近所への体面があるので帰ってこないで欲しいと言われてしまいました。では、田舎で別に家を借りて住むのはどうか…とも考えましたが、最終的には都会に慣れて田舎の口うるさい隣り近所とつきあうことへの躊躇いからそれを断念しました。
娘の結婚では大いにもめましたが、なんとかかたが付いて結婚後も同居することになりました。やがてマネキンは辞めた母は、娘一家と同居することで住む心配はありませんでしたが、年金をかけていない為に全くの無収入となりました。わずかに個人年金がありましたが、それを超える支出があると蓄えを切り崩すことになります。
大きな病気がなく、死ぬまで何年あるかわからないことから、母はお金の不安に悩まされるようになります。
頼りにしていたのは娘ですが、娘婿と馴染めず、母の心は父との復縁に傾きます。まるでそれが最後の頼みの綱だったようでした。綱と言うよりは、細い糸程度だったかもしれませんが。
しかしその父は、三度目の失踪をしました。
そして、父はそのまま亡くなりました。

娘が結婚する時、母は戸籍がどうあれ両親が揃って生きているので両親ともに親として結婚式と披露宴に参列すべきと譲りませんでした。
父の兄の配偶者が亡くなりお葬式に参列する際には、親類縁者席に座るものと思っていてそうでなかったので、帰宅後に涙を流して悔しがっていました。
母の中では戸籍などどうということではなく、一緒に過ごしたことや苦労させられたことも含めた思い出の多さから、やはり夫は夫でたった一人の特別な相手だったのだろうと思います。
母の人生で濃密に関係した人はそう多くありませんから、それは当然のことでしょう。
母は父の配偶者で、父の親類縁者は自分の親類縁者でした。そして、大阪が自分の生きる土地でした。

父が出て行った後に、タンスと一緒に父の大事な私物を詰めた段ボールを届けていました。父がいなくなった直後に父の工場に行ったことがありましたが、「こんなところでこんな風に暮らしてたんだね」と思っただけで、亡くなった後は父の親友がすべての荷物を片付けてしまい、母は父の持ち物の後始末をすることはありませんでした。
父のお葬式の前には家にある父の写真から遺影に使えるような写りのいい写真を一所懸命探して兄にいくつか渡しましたが、どれもそれっきり手元には戻ってきませんでした。
父の葬儀では、離縁している母もそうでないように参列しました。喪主は長男である兄でしたが、母は家族席にいて弔いました。
父は遠くでひとりで死んでしまったので、駆けつけられる親類は多くなく、そうでもしなければ本当に淋しい葬儀になったでしょう。

父は丹後でなくなったのですが、すでに父の親族で丹後に在住している人は誰もいませんでした。父の遺体は母の実家に安置され、看護師である母の妹と兄嫁に清められました。
父の家の葬儀なのに、母の家の葬儀のようでした。
父は結局死んでもまだ母と母の家の世話になっていたのが奇妙なめぐり合わせでした。父は決して母と離縁などできていなかったような気がしました。

母は自立することがなく、それができるとも思っておらず、常に誰かに依存して暮らしている人でした。
そのような母が離婚に至ることは、いくら何があっても予想だにしない異常事態だったでしょう。予想していなかったからこそ、油断し、父との関係を改善する機会を逃し続けました。
父が浮気をしてしまう前に、母は父から「いずれ嫁に行く娘に頼り過ぎている」と指摘されていますが、「それの何が悪い」と耳を貸しませんでした。
母がかたくな過ぎてこのような結末に至ったと父が亡くなった後に言った人がいましたが、それは遠からぬ真実だったと思います。
ついに父との糸が切れてしまった母は、残ったものをより強く握ろうとするのですが、それはまた別の話にします。














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