母のこと #16 ズレについて
大きな病気もなく元気に見えた母でしたが、壮年と言われる年代を超えてからは、自分の周りの現実と自分の頭の中が微妙にズレていくようになります。
年をとれば誰にも起こりうることかもしれませんが、母の場合はある時期からそれが加速度を増し、坂を転げ落ちるようにひどくなっていきました。
社会の小ささ
田舎育ちで、大阪に嫁入りして以降は家に縛りつけられていた時期が長い母は、普段の何気ないおしゃべりでは饒舌でしたが、客観的な言い方での説明や交渉は苦手でした。一方的に好きなことをしゃべることはできても、フォーマルな会話術の心得は殆んどなかったのです。
そもそも、現実の問題や状況、事実関係を、正確に把握することも苦手でした。
家族親戚あるいは親しい少数の人の輪の中で暮らしてきた母にとってそれは当たり前のことで、比較する対象も持たない故にその自覚もありませんでした。
コミュニケーション不全
推測にはなりますが、母の人生では「話し合う」ということがあまりなかったのだろうと思います。
親(主に父親)からは一方的に言われる、目下の妹や弟(長じては母親も)には一方的に言うといった、会話と言い難いような一方的なコミュニケーションをしながら育ち、結婚してからは婚家のお姑や夫から一方的に言われ続けたのが母です。
子育てをする際には、目下になる自分の子どもに一方的に言うのみになるのは当然のことでしょう。
言われている時はそれが気に入らないことでも上手く反論できず、どうしても納得できない時は交渉するというよりはただ黙って我慢するか逆上することになります。自分が言ったことが通らないと、困惑し場合によっては自分の主張を引っ込めます。互いの条件や意見を交換して落としどころを見つけるというのは、経験もなくできない相談でした。そもそもそんな発想がなかったのではと思います。
母の中では物事は常にゼロ(自分の意見が全く通らない)かイチ(自分の意見が通る)かで捉えられ、どちらかによって気分は大きく上下します。
真ん中と取るとか、結果を待つことは苦手でした。
そんな不器用な母でしたが、若いうちはそれほど難しい事態に遭うことは少なく、自分が判断できないことは夫に丸投げするといった技を駆使して切り抜けていました。あるいは、身近にいる人に助けを求めてその意見を採用することもできました。身近にいる人の数は多くないので、選択肢となる意見は少なくて迷う余地はそれほどありません。吟味してどの意見を採用するか決めるというよりは、自分で考えることを放棄してその意見を自分の意見として出してしまうような形だったのではないかと思います。
母は、物事を深くじっくり考えたり、すぐに答えを出さずに抱えることがひどく苦手でした。また、前後の脈絡を追うのも得意ではなく、ころころと意見を変えたり、似たケースでもその場で判断して一貫性がないこともよくありました。そのようなふるまいの自覚に乏しく、指摘されても何を言われているのか理解することはありませんでした。
母はその瞬間瞬間を自分として懸命に生きており、その点に照らして自分が責められる理由はないと考えていました。
言われることの理不尽さに耐えている自分のことはわかっていますが、自分の言うことや態度が相手にどのような影響を与えるかについては考えていないのです。自分が意図することがあり、現実はそうなることが決まっているので、そうならない事態を想定しておらず、実際に事態がどうなっているかの確認もしません。
このように、母が抱える「自分」と「自分を取り巻く社会」とのズレの素は早くからありました。
稀に、周りの状況を見て得た情報を持って認識や意見を改めることがあったり、相手の意向を確かめるべきとの考えから意見を求めることはありましたが、母がそのようなことができたのは、思わぬことでそうせざるを得ない状況に出くわした時です。自ら積極的に社会に出たマネキン時代は、その時でした。家事と家業の手伝いだけをしていた主婦から働く社会人になった母は、人間的に成長したのです。別の言い方をすれば、社会に出ることはいやでもそうなることを強いられると言うことでした。それが上手くできればできるほと、職場での母の評価は上がるのです。経験のないやり甲斐を糧に、母は慣れない場所で奮闘しました。慣れないことをする反動か、家での母は次第にわがままを言うようになり、自分の思い通りにならない現実を持て余し始めるのです。
ズレの顕在化
腹を立てた時の母は、自分の気が済むように怒りの度合いに応じた言葉選びをするので、時にそれはひどいものになります。しかし、同じ言葉が自分に向けられた時は、聞いたこともないひどい言葉で罵られたとばかりに逆上します。自分が言う時と言われる時では、言葉を扱う脳の場所が違うかのようでした。
一事が万事自分の気持ち優先で、周りを見ることが苦手な母は、年を重ねていくにつれ自分の優先度を更に大きくしていきました。
それにはコミュニケーションの不器用さだけでなく、不安や自信のなさ、そして潜んでいた病気の影響がありました。しかし当時は自他ともにその変化を認めることがなかなかできず、日々小さなトラブルを起こしていました。
母は夫と別居し、ついに離婚する前から娘とふたりで暮らしていました。
娘は自分の延長と言える存在で、何かおかしいと思えばすぐに矯めることができましたが、そこにやってきた娘婿はそうはいきませんでした。
老いを感じ始めた母は、そこにひょいと新しく登場した娘婿を理解し仲良くやっていく柔軟さをすでに持ち合わせていませんでした。
母のズレによるトラブルの日々は、娘の結婚で顕在化し始めます。
・自転車
娘一家と引っ越した家は自転車置き場に使えるスペースが少なかったのですが、自転車を使いたい大人が三人いました。保育園の送り迎えや買い物をする娘、休日にふらふらと出かけたい娘婿、毎日のように通勤で駅に向かう自分です。しかし、自転車を3台置く場所はありません。
娘婿からの申し出があり、娘婿が購入した小さな折り畳み自転車を、娘婿と母が共用することになりました。娘婿の利用頻度は少ないので、丁度いい解決法と思えました。
しかし、母は不満がありました。娘婿が自転車を使う時、自分に合わせてサドルを上げ、帰宅した際にそのままにしておくので、次に母が使おうとした時にいちいちサドルをまた低く調整しなければならないのです。
母曰く、母が次に使うことを考えてサドルは低く戻しておくのが当然なのにとのことでしたが、そもそもその自転車は娘婿のもので母はそれを借りている立場です。それでも、母は娘婿が自分に気遣ってサドルを下げておくべきと考えており、しばしばそれのことを娘に愚痴っていました。
・車
娘婿はパジェロという大きな車を、母は小さな軽四を持っていました。
排ガス規制がうるさくなってきたのと、経済的な事情があり、娘婿が自分の車を処分することになってから、家の車は母が所有する軽四輪車だけになりました。
しかしその軽四は父がまだ生きていた頃に買い与えられていた古いものだったので、母はある時買い替えることを決心します。車は、父の時からずっとお世話になっている小さな整備工場に依頼して、新古品でいいものがないか探してもらうことにしました。それでも安くはない買い物だったのですが、母は自分で車を買い替えるということを、また一段と自分がちゃんとした大人になるステップアップだと思っている様子で意欲的でした。
その時すでに娘には子どもがおり、保育園の送り迎えに車を使いたいということもあり、購入費用の一部を娘が負担しました。
かくして前より今風の軽四が我が家に来た訳ですが、この車の扱い方に母と娘婿の認識の違いがありました。母は、この車はあくまで自分のものと考えていましたが、娘婿は家のものだと考えていました。ですので、母は自分以外の家族が車を使う際には、使用の許可とお礼がそこにセットになっているべきと考えていましたが、娘婿はそう考えていませんでした。
そんな娘婿の態度に母が日々ストレスを溜めていくことになったのでした。
・お弁当
在宅での仕事に(もしくは仕事がなく)なっていた娘である私は、外勤の母のお弁当をよく作っていました。お料理上手で鳴らした母の仕込みで、毎日彩りよくおかずを詰めることに腐心したお弁当は、母の同僚がよく羨ましがって「よい娘さんのいい弁当」と言われていたようです。そんな話を機嫌よく聞いていると、次に母は「別にそんな大したもんじゃないよ、大したおかずが入ってる訳でもないし」と返したと話すのでした。
長い間息子や娘のお弁当を作っていた母にすれば、娘が母にお弁当を持たすことについては何ら大したことでもなくありがたいことでもないと言った様子で、それを隠そうともしませんでした。
娘のお弁当について、母と同僚の認識はズレており、また作っている娘の気持ちともズレたままでした。
・お正月の準備
母は結婚当初専業主婦で、家業の手伝いをしている時も常に家事が本業と考えていたので、年末の大掃除とお正月の準備はしっかりと自分でやるのが常でした。
外でマネキンとして働くようになっても、年末はぎりぎりまで働かずそれらのための時間をなるべく確保しようとしました。
しかし、職場である百貨店は大みそかまで営業をし続けており、段々と年末早めに仕事を納めることができなくなり、やむを得ずいくつかのことは諦め、いくつかのことは娘に任せるようになっていきます。
任された娘にしても仕事や子育てがあり、またやったことがないことやなくてもいいと思うことはしないので、家のお正月準備は段々と簡素になっていきました。
年末、休みたいと思うと余計に疲れるのか、母は娘が何をしているのか詳しく聞く訳でなく、あらかじめ指図をするでもなく、とにかく年内の仕事を終わらせることに必死になります。
品数を沢山作らなければならないが難しいとわかっているおせちについては、近所のお弁当屋さんに頼もうとか、通販でこれがいいのではないかなどの相談をしますが、他のことはあまり話題にはなりません。だからと言って母が他のこともやらなくてもいいと思っているかと言えばそうではなく、自分に余裕がなくて念頭になくなっているだけなのでした。
12月30日か、もしかしたら31日まで仕事をして、元旦の朝、おせちとお雑煮を食べる場になって、母は家の大掃除がロクにできていないことに気づいて腹を立て始めます。
母が自分でやっていた時は、年明け前に家中ぴかぴかに掃除して、障子は張り替えを済ませ、花も飾り、手作りのおせちを並べてお正月の朝を迎えるのが常でした。食卓には祝い箸、大福茶、お屠蘇、おせち、お雑煮が並びます。
しかし自分が準備できないお正月はどうか。掃除は行き届かず、おせちは見映えせず、娘婿は朝からお酒は飲みたくないとお屠蘇を拒否する。この事態はどうだと話し始めると、娘婿は別室に行ってテレビをずっと見ているし、娘もどこかに行ってしまう。当たる相手がいなくなってしまい、自分の気持ちのやり場に困ってどうにもならない。
そもそもお正月というのはしきたりに厳しい夫にあれこれと言われてやることが沢山あり、守るべきルールもあったのに、今はそれが破られてめちゃくちゃになってしまった。元の正しい姿にするにはどうしたらいいだろう。娘や娘婿に何をどう言い聞かせればいいのだろう。
結局は母も部屋に閉じこもってしまい、正月早々家の中の雰囲気はとても気まずいものになるのが、いつの頃からか恒例になったのでした。
・お雛様
同居している娘に子どもが生まれた時、それは母にとっては先に生まれている息子の子どもより感覚的に内孫のようなものだったと推測します。母には祖母を慕う可愛い孫の理想像がありました。娘が生んだ小さな女の子は、自分に理想通りになるかもしれないとの望みを抱いていました。
孫娘の初節句にあたり、母は仕事場である百貨店の催事会場で、手作りのお雛飾りに目をつけました。京都の職人の手になるもので、古風な着物を着ているところが気に入りました。お雛様とお内裏様、三人官女のセットで、立派な木製の飾り台もつけると話をまとめてきました。そもそも初節句の用意は嫁の実家がするものだから、自分がするのが当然でよいものができたと満足していました。
しかし、そのことは母の独断で、娘夫婦には何も相談や予告をしませんでした。むしろ黙っていて嬉しい驚きを味わわせようと思っていたのかもしれません。あるいは、喜ぶに決まっているのでその必要を感じていなかったのかもしれません。
突然雛飾りを持って帰った母は、予想したように娘夫婦を喜ばすことはできませんでした。娘は夫の実家から初節句の準備をしたいとの申し出があったのを、置く場所もないしと断っていたのでした。しかしそれは、母が関知しないことだったので、娘も同じようにそれと関係なく喜ぶはずだったのです。現実は母が予想した通りにはいきませんでした。
・孫の服
母は自分が好きなものを自分だけでなく娘にもよく与えて悦に入る癖があり、それをそのまま孫娘にも適用しようとしました。服が大好きで、勝手に娘や孫娘の服まで選んで買い与え、感謝されることを期待していたのです。
ところが、孫娘は娘のように黙って与えられるものを受け取らず、自分が選んでいない服を着ることが一度もありませんでした。それが何度が繰り返され、ついに母は孫娘の服を勝手に買うことをやめました。
・孫のランドセル
一緒に住む孫が小学校にあがる前の冬に、母は自分の仕事の合間に百貨店でランドセルを選び、お雛様の時と同じように突然持って帰ってきました。
自分が気に入ったピンク色のランドセルで、お金は選んだ自分が全部出してのプレゼントです。しかし、この時も母は娘夫婦と孫からは予想した反応を得ることはできませんでした。
・モーニングサービス
母は夫に教えられた喫茶店の楽しみを夫と離れてからも手放すことがなく、出掛けた先ではどこかでお茶を飲まずには居られなかったし、朝ごはんを喫茶店のモーニングでとることが大好きでした。そんな時の相手は大抵娘ですが、ごく稀に娘婿や孫娘が一緒になることがありました。
その際の会計は自分が出すことが多く、大きな出費にはならずにいい恰好ができる気持ちのいい経験をする場でもあります。
娘が家で仕事をしたり(仕事がなかったり)している時は、気軽に前の晩に声をかけておけば翌日一緒にモーニングを食べにいくことができました。
しかし、娘の仕事が忙しくなり、毎日出勤するようになるとそれができなくなります。母は決してひとりでいくことがなく、連れ合いがいなければ行くことができなくなってしまいました。大好きなモーニングを食べに行けないこと、娘が自分の都合通り動かないことは、母のストレスになりました。
仕事を引退して家にいる老い始めた母にとって、それまでできていたことができなくなることは、我慢しがたいことでした。
・老眼
母はずっと視力がよい性質で、眼鏡をしたことがありませんでした。
趣味の洋裁で目がいいことはありがたく、年を取って引退したら洋裁三昧で楽しむつもりでいましたが、老眼になってそれどころではなくなってしまいました。
マネキンの仕事を引退する前からすでに老眼鏡が必要になっており、それまで眼鏡をかける習慣がなかったために、見えないことと眼鏡へのストレスは相当なものでした。
お洒落な眼鏡ケースを用意して気を紛らわそうとしたりもしましたが、荷物になる、忘れると困る、そもそもなんでこんなに見にくくなってしまったのか納得できない。
そんな母は、老後にゆっくり洋裁をすることも読書することも投げ出してしまうようになります。
・旅行
マネキン時代の終わり頃からでしょうか、母はそれまでの人生では考えられなかった海外旅行に幾度か出掛けました。
そう多くなく2~3回のことだったし、常に安いツアー旅行ではありました。また、ひとりで行く気丈さはなく、本音では気の置けない娘と一緒にいきたかったのですが、それが叶わないので手近な仕事仲間の女性を誘ってふたりで行くのが常でした。
帰国してからたっぷり2~3週間の間、母は娘に旅の思い出を語り続けます。とにかくしばらくはひっきりなしに旅行の時あんなことがあった、こんなことがあったと話し続けるので、「楽しかったんやね」と言うと「別にそんなことはあれへん」と返します。
母の中では旅行を「楽しむ」というチャンネルがないのか、感覚が麻痺しているのか、「楽しかった」とはひと言も言わないのです。しかし、旅行の話は続きますし、一度ならず出掛けていくのです。
行動と言動が明らかにズレていました。
話が長くなりました。
母は自分の考えと周りの考えが合っていないことや、自分の言っていることとやっていることが一致していないことについては、殆んど自覚がありませんでした。
どうも予想した事態と違うと辛うじて気づいた時は、困惑してそれまでの行動を引っ込めて視線を逸らすことでやり過ごそうとしました。
そうして母の人生は、母にとってよくわからない、解決できないことでいっぱいになっていくのです。
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