母のこと #8 息子を育てる

母は男の子と女の子をひとりずつ生んで育てました。
私の兄にあたる息子をどのように育てたのか、私視点にはなりますが書いていきます。

名前

小学校の時授業で自分の名前の由来を親に聞いてくるという課題が出ることがあるのですが、子供にその名前の由来を聞かれた時の母の答えは常に「普通の名前がよいと思った」に尽きます。
兄の名前は男性の名前としては至極平凡なものでした。
親や親戚の誰かから漢字をもらったとか、誰かに考えてもらったとかのエピソードは、一切聞かされていません。

息子が小さい頃

胃腸の病気になり、2回入院させています。
幼稚園くらいの頃なので、母が泊まり込んで付き添っていたようでした。
後になって、病気の原因は父が兄にことあるごとにお土産と称して甘いチョコレートを沢山与えたことだと断言していました。
父は小さい兄を可愛がっていて、お菓子を与えたり遊んでやったりしているのを、母は上手に相手をすると思いながら見ていたようです。
ただ、躾という面では父はおかしなほど厳しく、悪さをしたら怒るという以上に、悪さをするかもしれないと気づいたらその瞬間に怒っているような躾け方だったので、母は自分から兄を躾ける、叱ることは積極的にしなかったのかもしれません。
娘を連れあるくことが多かった母が、小さな兄に構っている印象があまり残っていません。
男の子は外で元気に遊んでいればそれでいい、くらいの感じでした。

兄が小学校になってもその様子は変わりません。
ある意味母は兄について心配をあまりせず、心配がないから気にしてないということだったのだろうと思います。
特に学校の成績がよい訳でも悪い訳でもなく、大きな病気もせず、淡々と毎日を過ごし成長していく、そんな「普通」が一番よく問題ないとしていました。
幼少期に厳しく躾けられた兄は、父親に対する恐れからか、どちらかと言えば大人しく内弁慶な性格でした。
小学校時代にスイミングスクールに通わせ、送り迎えには父も協力し、子育てに関しての夫婦仲も悪くはありませんでした。

まだ幼い私は随分後まで知らなかったのですが、兄は小学生時代に問題を起こしてひどく親に叱られていました。
当事、手のひらサイズのゲームが流行っていて、同じ大きさでいろんな種類のものが出回っていました。今のゲーム機とはまったく違って、中のソフトウェアを抜いて入れ替えるようなものではないので、他のゲームがしたいと思ったら本体ごと新たに買わなければなりません。それほど高価なものではなかったと思いますが、そういくつも買ってもらえるような家でもなかったのに、兄はそのゲームを沢山持っていたようです。
母がその数が多いことに不審を抱いて問いただしたところ、兄は母の財布からお金を抜いていたことがわかりました。
両親と兄との間にこのことについてどのようなやりとりがあったのかは不明ですが、このことを母はいつまでもよく覚えていて、私に話して聞かせたのでした。

息子の犬

一戸建てを購入して、ふたりの子供を鍵っ子にするタイミングで、室内犬を飼うことになりました。
それまで何度か動物を飼うことがあり、犬も飼っていたことはありましたが、この頃は動物は何も飼っていませんでした。
兄のリクエストがあり、鍵っ子の子供が淋しくないようという配慮もあって、子供が世話をしやすいような小さな室内犬を飼うことにしたようです。

当初積極的に世話をしていた兄がそうしなくなってからは、母が娘と一緒に長くこの犬の世話をすることになります。
このことはまた別に詳しく書くことにします。

息子のギター

兄は小学校で卓球部に入り、放課後にスイミングスクールに通って運動する傍ら、音楽に興味を持ちFMチェックを始めました。
まだ学校で英語の授業は始まっていなかったのに、FMラジオで洋楽を聴き始めていました。
一戸建てを買ってからは、兄に二階のひと部屋を与えており、そこに母が立ち入ることはあまり多くありませんでした。兄がいない時に、掃除をしに入る程度です。かと言って、兄のプライバシーを守るために敢えて立ち入らないようにしていたということでもありません。
母が兄の趣味について関心を持つことはほとんどありませんでした。
家事と仕事に忙しかったことと、基本的に他人への関心が薄かったのではと思います。相手が家族であれ誰であれ、自然とわかる以上に、何をどんな風に考えるのか、どんな興味を持っているかと言ったことを、相手に深く尋ねることはしないのが母でした。
兄は音楽への関心からギターを欲しがりました。中学生の時です。
この時、すでに子供を鍵っ子にして昼間全く家にいなかった母は、ギターが欲しいという兄の願いを誕生日か何かの機会に叶え、それだけでした。
兄がどのようにギターを覚え、どこで、誰と、何をして、何を考えていたのか、母は知らなかったし関心もなかったと思います。
ただ、家でギターの練習をしているのはよくあることだったので、どんな曲を弾いたり歌ったりしていたのかは、なんとなく耳に入っていたでしょう。
フォークソングや流行の歌謡曲をよく練習しており、妹に歌を歌わせて横で演奏の練習をよくしていました。

兄がエレキギターを弾き始めたのは、高校に入ってからでした。
兄は成績がよい方ではなかったけれど、なんとか公立高校の下の方に滑り込めたということで、まぁそれなりになんとか、というレベルだったようです。
水泳部に入って部活に精を出す一方で、趣味のギターをエレキに持ちかえて、文化祭でバンド演奏をするなどにぎやかな高校生活を送っていました。

エレキギターを弾くには、ギターだけでなくアンプが必要になります。
また、エフェクターなどの機材が欲しくなる、楽譜やレコードが欲しくなる、という調子で、兄が欲しくなるものがどんどん増えていくのに、父は高校卒業まで子供にアルバイトをさせない方針を採っていました。
父のその方針に逆らわなかった母は、もしかしたらものをねだる兄と父の板挟みになっていたかもしれません。徐々に父に反抗的な態度をとるようになるのが先か、父の方針に逆らってアルバイトを始めたのが先か、どちらかは不明ですが、兄はこの頃から父親とそのやり方に逆らわない母に反抗するようになります。

仲間とつるんで遊ぶことが多かった兄は、原付バイクを乗り回して違反で捕まったり、喫煙で停学になったりと、段々と非行が目に付くようになっていきました。
その頃の父は、仕事ばかりで家のことは母に任せきりになっていました。
兄に何かあれば母が出ていくことになり、母は心配のあまりに兄に過干渉になり、更に兄がそれに反抗するという悪循環に陥りました。
母が兄の部屋に掃除に来て、兄の机の上のノートなどを無断でチェックしていることがありました。母には兄のプライバシーへの配慮意識が低いかない状態で、とにかく自分の不安をなんとかしたいとしか考えていない様子でした。
後から思うと母は子離れがなかなかできない人で、自分の子供は自分という存在の延長と考えている節がありました。自分の一部であるはずの自分の子供が、自分の想定を超える困った行動をとることに戸惑い、受け入れ難いものを抱えていたのでしょう。
ある時、兄と言い争った母は、兄に突き飛ばされて壁にぶつかり、顔に傷を作りました。2センチ四方くらいの傷ひとつだったのですが、兄に手を上げられたことが母には大きなショックで、その後「私は子育てに失敗した」と言いながら泣き崩れていました。
母は逐一父にそのようなことを報告し、父に介入を求めていたと推測しますが、父が兄を叱るようなことがあったのかは定かではありません。少なくとも父がそんな兄と母の間を取り持って納める様子は見受けられませんでした。

息子の家出

兄はミュージシャンになることを夢見て、その道を行くために高校を辞め、更にその時付き合っていた彼女と結婚すると言い出しました。
兄は非常にモテる人で、中学の卒業式の日には一日で三人から告白された記録を持ち、高校に進学してからも彼女がいない時はなかったのではと思います。
母が自分の学歴が低いことを子供で挽回しようとしていたので、兄が高校を中退すると聞いて賛成することはありませんでした。時代背景としても、大学の進学率が上がりつつあり、高卒資格は当たり前になっていたので、高校中退で中卒になることはあり得ないと母は思ったでしょう。この点については父の判断を待たず、母が徹底して反対しました。
その結果、兄は家出しました。

最初は友達の下宿に転がり込んでいた兄ですが、そこで長期間お世話になる訳にも行かず、結局兄の為に別の下宿を用意し、入居費用を出して住まわせることに落ち着きました。
母は、兄がお世話になっている兄の友人に会いに行き、話を聞いてその人に迷惑をかけている状況をなんとかしなくてはと思ったのでした。
母の依頼を受けて、お金を出したのは父だと推測します。母は自由になるお金をそれほど持っていなかったはずです。
兄はその後、やはり高校を中退します。
親元を離れて、飲食店でバイトをしながら生活していました。
しかし、それは長く続きませんでした。
兄はひどく体調を崩し、治療をしなければならなくなったのです。正確な病名は聞いていませんが、不規則な食生活が原因だとのことでした。
母は兄に家事を何も教えずに育てました。家出をした兄は、自分で料理をすることはできませんでした。バイト先が飲食店だったので、そこで料理を覚えたと本人は言っていましたが、結局体調を悪くしたということは、トータルでバランスのよい食事が何でどうやってそれをとるかということまでは身につかなかったのでしょう。
兄はバイトを辞めて、父の仕事を手伝いながら治療し、やがて実家に戻ってきました。仕事場の人に「もうすぐ実家に帰る」と話し、外堀を埋めるような形で帰ってきたのでした。子供が家に帰りたいのにそれを拒否すればきっとひどい母親だと思われる、そんなことを母は恐れていました。

しかし、帰宅した兄はまたほどなく出ていきます。
結婚したのです。
兄は当時、中学の同級生の女性とつきあっていました。
高校を中退したせいか、中学時代の友達と仲良くし、みんなで泊りがけで遊びにいくことが何度もありました。彼女がその仲間に入っていたらしいことを後から聞きました。
彼女の父親から苦情の電話が入り、母は困り切って、二人を結婚させて事態を収めることにしたのでした。まだ二人は22歳という若さでした。

母と息子

母の子育てでは、男と女ではっきりとした違いがありました。
男の子には、家の手伝いはさせず、門限もありません。女の子は、毎日夜7時になったら、台所に来て手伝うように言いつけていました。(晩ごはんは8時でした)また、門限が決まっていて、年齢とともに遅くはなりましたが、遅れて帰ってくるとひどく叱るのが常でした。
女の子は学校から帰ってきたらお弁当箱を台所の流しに出しておく約束があり、それを守らないと翌日のお弁当を詰めてもらえないペナルティがありました。しかし男の子だと、母は部屋まで行って通学カバンを開けて、お弁当箱を取り出して翌日中身を詰めて渡してあげるのでした。

兄が本当に小さい頃を除き、父が子供の躾に関わることはほとんどなく、躾の現場は常に母が取り仕切っていました。母がひとりで判断できないことがあった時だけ、母から父の判断を仰ぎます。そんな母はまさに昭和の価値観を基準にした子育て方針を採り、性別によって育て方や躾は明確に変わるものでした。
母にとってそれは「当たり前」のことで、どこからクレームが来ても修正されることはありませんでした。

出典は不明ですが、「娘は父に似る」「息子は母に似る」とよく言われました。
兄は外見が父親似で、内面は母親似でした。性格が明らかに母に似ている兄を、母は可愛いと思っているようでした。もしくは、憎めないと思っていたのでしょうか。
母は何事についても全面的ということがない人で、兄に対しても愛情と憎らしさの両方を抱えており、心配な反面関わりたくないと言った、複雑な気持ちを持っていたように思います。
母の子育てが失敗だったのかどうかは、兄との関わりの中では判断しづらいような気がします。
娘である私の子育てとは違って判断しづらいところが、母と息子である兄との関係の妙な絡まりに繋がっているような気がします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?