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母のこと #12 ファッション

母は若い頃から洋裁を趣味としていて、服が大好きでお洒落な人でした。

洋裁

結婚したばかりの頃は専業主婦であったことと既製品を買うお金がなかったので、商店街の生地屋さんで布地を買っては洋服を自作していました。
子どもの服もよく作ってくれました。
生まれた家の二階にある寝室と続きの小部屋に足踏みミシンを置いて、時間があれば母はそこで洋服を作っていました。
裁縫箱やメジャー、少し曲がった長い竹製の定規や、折り畳み式のヘラ台がいつもそこにありました。
その頃の母は、沢山のまち針、青と朱色の鉛筆をセットで思い出の中にいます。
近所の親しい本屋さんに頼んで、いつも洋服の型紙がついている「スタイルブック」という雑誌を買っていました。
雑誌の付録をもとに新聞紙を切って型紙を作り、布を切って仮縫いしてミシンで本縫いをする。
そこには母が思う自分らしさがあったのだろうと思います。
ただ、私が知っている限り母が奇抜な服を作ることはなく、かなりコンサバなありきたり、当たり前なデザインの服がほとんどでした。

日常の服

きついお姑との同居のせいでしょうか、母はいつも家の中でタイトスカートを履いていました。
暑がりで、真夏だけは薄い生地のワンピースを着ていることが多かったのですが、そうでなければ大体下はタイトスカートです。
家の中と外で服を着替える習慣はなかったので、自宅で楽なルームウェアやジャージを着る文化は我が家にはありませんでした。
母がタイトスカートを脱ぐのは寝間着に着替える時です。
当時は今のようにAラインスカートやフレアスカートなどの選択肢があまりなかったので、母の中で大人の女性の服装として「スカートはタイトスカート」と決まっていたのではないかと思います。

着物

丹後ちりめんが有名な機織りの土地に生まれ育った母は着物に慣れ親しんで育ちました。大阪の家では着物用の箪笥をひと棹持っていて、その中は嫁入りで持ってきたものでいっぱいでした。しかし嫁入り後は、段々と着物を着る機会が少なくなっていきます。
私の従姉(母の姪)の証言によれば昔の母はいつも着物を着ているという印象だったらしいのですが、私が物ごころついた頃にはほとんど着物を着ることはありませんでした。
古い写真の中で子供のお宮参りや七五三の時に着ていた着物がありますが、それは大体が若い人向けの小紋でした。持っている着物も帯も普段使いのものが多かったようです。昭和のよくあるスタイルですが、小紋に黒羽織を着て卒入学式をこなしていたんだろうと思います。セミフォーマルでも使えそうな帯で使用感のあるものがありましたが、それは名古屋帯でした。重い柄の豪華な礼装用の帯は見当たりませんでした。
母の着物は嫁入り後に買い足された感じがなく、年を取ると色柄やサイズの関係で着るものもなかったのかもしれません。

私が知る限り、母が着物を着るのは特別なイベントがある時でした。代表的なのは多くいた甥、姪の結婚式で、その際には黒留袖をレンタルして参列していました。母は黒留袖や色無地を持っていませんでした。
父が会社を有限会社から株式会社にしてお披露目会をした際には、手持ちの着物を着て出ていました。これは、いい洋服を買うことができなかったので、着物だとフォーマル感が出るだろうと考えた結果だろうと思います。小紋の着物のどれかに、先述のセミフォーマルっぽい名古屋帯を締めていたのかもしれません。
一度お正月に着物を着る気になって、久しぶりに着物に袖を通したことがありましたが、「しんどい」と言ってすぐに洋服に着替えてしまっていました。その頃にはもう体が着物を忘れるくらい、着物を着ない時が長くなってだのだろうと思います。

百貨店の店頭に立つようになってから、催事会場で着物のセールを見るようになった母は、B反ではありますがフォーマル用の袋帯と娘用に付け下げの反物を買ってきて仕立てたことがありました。私にはそれ以外に訪問着、夏用と冬用の喪服、浴衣を仕立ててくれましたが、自分用にはその袋帯と訪問着を一点ずつしか仕立てず、またその袋帯は自分で締めることがついにありませんでした。
私の結婚披露宴の際には仕立てた訪問着を着て参列してくれましたが、黒留袖を誂えることができなかったのは心残りだと後年呟いていたのを憶えています。

仕事服

婦人服を売る仕事についてからは、制服はありませんでしたが白いブラウスと黒のスカートを履くというルールがあり、それが母の仕事服になりました。
色の指定がある以外は余程奇抜でない限り形はなんでもよかったので、黒のスカートと白のブラウスを何枚も買い集めて着ていました。冬はその上から黒のニットカーディガンを羽織ります。
職場への生き帰りに着るコートなどの上物や首に巻くスカーフなどは自由に楽しんでよかったので、色や形が違うものを沢山買い込んでいました。

引退後

百貨店の仕事を引退した後の母は、外に出る用事がほとんどなくなってしまい、なるべく楽で体形に合った服を着るようになりました。スカートよりはパンツスタイルが多く、ジャケットよりはカーディガンといったやわらかい服装を好みました。
家の中では、自室にこもりがちになり、やがてベッドに横になっていることが多くなります。化粧もしないことが多くなり、たまにすると上手くできなくて私がなんとか直すような状態になっていきます。
世代なのか性格なのか、いわゆる断捨離はできない人だったので、楽な服を新たに探すと、その分また服が増えてしまい、母の部屋は服でいっぱいでした。
最晩年の母は小さな部屋にひとりで住んでいましたが、そこでは収納し切れない服が溢れていました。
母が使わなくなったそれらがどうなったのか、私は知りません。

服の買い方

母が百貨店で働くようになるまで、我が家は基本的に百貨店とは無縁でした。
わかる人にしかわからない例えになりますが、天王寺で百貨店をぶらぶらした後に、歩道橋を渡って道向かいの近商ストアで服を買って帰るのが我が家のスタイルでした。
そうでなければ通販で、下着も含めて服はなんでも注文葉書を書いて自宅に届けてもらう買い方は、カタログを見る娯楽もあってよく利用しました。
使う通販会社はセシールかベルメゾンです。
母が百貨店に出入りするようになってからは、百貨店でも安く買える催事やお店があるという情報が入るようになり、百貨店で買い物をする機会が少しずつできてきました。
しかし母はずっとブランドを嫌っていて、ブランド料を払うよりはその分いい生地やいいデザイン、縫製にお金を払いたいと考えて公言していたので、決してブランド志向の買い物はしませんでした。
母は買い物が好きで、いつも服を買うことを楽しんでいました。
ただ、勝手に人のものを選んでしまう悪い癖もありました。それさえも母にとっては娯楽だったのでした。

アクセサリ

贅沢ができない時代が長かった母は、指輪と言えば純金製のシンプルな結婚指輪をひとつだけしているのが普通でした。
他にアクセサリはほとんど持っておらず、買う余裕もなければつける場もないといった生活をしていたかと思います。
なぜかブローチだけはいくつか持っていたのですが、それは当時の流行だったのかもしれません。たまによそいきの恰好をした際に、上着の胸にブローチをつけていたのを憶えています。
一時期父が貴金属関係の友人と付き合っていた頃には高価なものをいくつかプレゼントされていたようですが、それについては父との関係性の問題からあまり喜んでいる様子ではありませんでした。実際、父が選ぶものはセンスが微妙なものがほとんどだったのと、母の機嫌をとりたいという下心が見え透いていたので、それによって母が懐柔されることはありませんでした。

百貨店勤めをするようになってからは、やはり華やかな環境になったせいかディスプレイ用として安価なアクセサリを買ってマネキンに飾ることもあれば、休日のお出かけ用にネックレスを買ってみたり、貴金属の通販に凝ってみたりと、段々とアクセサリを楽しむようになっていきます。
娘である私がアクセサリの手作りを趣味にするようになると、一緒に材料を見に行っては自分用に材料を買って加工を頼んできました。
晩年に近くなってからですが、母は洋服と同じようにアクセサリも楽しみました。自分のお金で、自分が好きなものを買い、身につける。ほんの数年ではありましたが、母にもそんな満たされた時期がありました。












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