母のこと #21 老いる

比較になる例をあまり知らないので単なる印象ではありますが、母の老いの訪れは早く、急ぎ足でした。
母は当初その顔を見ていた筈でしたが、やがて対面することをやめてただ遠くに連れ去られていくのに任せました。

老後を迎える

まだ元気がある母は、マネキンとして大阪都市部の百貨店で面白ろおかしく働いていましたが、年を経てくると近県の小さなお店に派遣されるようになっていきました。
客層も客数も違う上に、移動距離が長くなるので通う苦労も募ります。
対して働き甲斐は段々と減っていき、最後にはもうやめるべきかを悩みながらの勤務でした。
歳とともに外見から若さがなくなっていくのは自然のこととして、内面的にも新しい決済方式に慣れないとか、変化していく職場環境に馴染めなくて不満が多くなるとか、適応しづらいことが増えていきました。
母の中には老後への不安があったので、できる限り長く働きお金を稼ぎたい気持ちがありました。しかし、働く条件が厳しくなるにつれて段々と諦めの色が濃くなり、メインでついていたメーカーが百貨店の販売から全面的に撤退を決めたのを機に引退を決意しました。

そこから母の老後が始まります。
想像する母が描いた老後とはこのようなものです。
・子どもと孫に敬われ、離れて住んでいても時々は顔を見せてくれる
・お金の心配がない(生活に不安がなく、折々の孫のお祝いごともでき威厳が保たれる)
・たっぷりある時間を使って読めなかった文学全集を読んだりたまっている生地で洋裁をする

人との関わり

母は、自分が当たり前と思うことをしていたら、想像した(望んだ)通りのことになると思っている人でした。やることが適切か、相手が望んでいることか、実際の効果はどうだったかと言った綿密な予測や検証、改善は不得手です。
現実は母が思う通りには運ばず、常に不満を抱えている状態になっていましたが、相手が態度をあるべきように改めればよいというのが母の考えで、自分としては何ら考え方ややることを変えることはしませんでした。
自分は当たり前のことをしているのだからと、間違った現実が当たり前のものに直るのをずっと待っていたのです。

母は娘、娘婿、孫と同居していました。
娘は、家計を支えるためにフルタイムで働いており、自分の世話を充分にはしてくれませんでした。家事・育児も母の基準を満たしません。しかし、休みの日には一緒に出掛けることもあり、大事な話相手、世話をしてくれる存在、また自分の支配力を揮うことができる対象でした。
娘婿は、今では話にならない存在です。思ったより経済力はなく、体は弱く、大酒飲みで、礼儀がなく、頼り甲斐がない。娘の結婚については「失敗だった」と断言していました。
そして、孫はどうか。祖母の言うことを聞かず、疲れている時にやってきて散らかしていく、小悪魔のような存在です。子育ての記憶をとっくになくした母にとって、小さな孫はどう扱ったらいいのかよくわからないもので、同居して内孫同然で、可愛い娘が生んだにも関わらず、進んで可愛がるそぶりはありませんでした。

別居している息子はと言えば、自分がしんどい時に愚痴をこぼしにやってくるけれど、商売がうまく行っている時には忙しいので寄り付かないのが常でした。母は息子の愚痴を聞くと心配になるので聞きたくない、来て欲しくはないと思いつつ、やはり時には顔を見せて欲しいという複雑な思いを抱えていました。
また、兄の家族は一年に一度お正月に数時間訪れる以外に来ることはなく、それ以外では母の実家の丹後でお正月、ゴールデンウイーク、お盆の3回会う以外に接点はありませんでした。
兄の三人の子どもは母方(兄嫁)の実家に世話になることが多く、父方の祖母である母には馴染む機会がありません。それは、第三子のことでもめて以来兄嫁が決めて仕向けたことでした。
母は、節目の入学祝いを出すことは当たり前と考えていましたが、普段兄の子供と接する機会がないことについては特に何も考えてはいないようでした。

総括すると、以下の通りです。
・娘はすぐそばにいてくれるが至らない点が目について気になる
・娘の夫は気に入らない
・娘の生んだ孫は別に可愛くない
・息子は顔を見せないか、見せると心配をさせる
・息子の妻、息子のところの孫三人はみんなよそよそしい

大阪で気に入らない娘家族との同居をなんとかしたいと丹後の実家に帰ることを弟に相談しましたが、世間体があるので戻ってくるなと言われ、確かに田舎の口うるささを知っている母は丹後に戻ることを諦めました。
妹も丹後で暮らしていましたが、若い頃と違って気が合わなくなり会えば口喧嘩になることが増えていました。それでも姉妹の絆はあったのかもしれませんが、妹の子供や夫が相次いで心配になる事態もあり、この頃交流はあまりありませんでした。

離婚していた夫に対しては、籍を抜いた後も何度か復縁を考えていたようでした。身の回りの世話をする代わりに経済的な世話をしてくれないかと持ち掛けようと思っていたらしいのですが、父は早々に世を去ってしまいその選択肢も儚くなっていました。

引退してからの母は、友人知人と会うこともなくなり、離縁していたので大阪(夫側)の親戚とのつきあいもなくなり、限られた家族と帰省の折の自分のきょうだいとのつきあいのみが人との関わりになりましたが、その内容は自分が望んだものでは決してありませんでした。

経済的な不安

老後の母には、公的な年金がありませんでした。
長く夫である父の自営業を手伝っていましたが、「どうせ年金は受け取れないから払う必要がない」と父が言ったことを真に受けて、支払い猶予の手続きさえしていませんでした。
マネキンとして働いていた時は非正規雇用で、公的に母は無職の状態を維持して所得税・住民税は一切納めていない代わりに、社会保険も年金もかけてはいませんでした。実質家計を支えていた母ですが、父と離婚する前は父の、離婚後は娘の、娘の結婚後は娘婿の扶養家族になっていました。
老後の不安からやっと役所に相談に行くと、多額の支払いを一気にしなければいけないが、それでもらえるようになる年金の月額はわずかしかないことがわかりました。
母は公的年金を諦めて、年金型の保険と貯金の切り崩しで老後を過ごすしかないことを認めざるを得ませんでした。
バブルの頃、ブームに乗って株を買ったことがありました。
詳しくは記憶していませんが、多分損をしたことでしょう。わずかな評価額の株をまだ持っていましたが、離婚前に父から借金のための差押えの恐れがあると聞いた時に、名義を娘に変更していました。名義が誰にしろ、財産と言えるようなものではありませんでした。そもそも母は投資というものができるタイプの人間でもありませんでした。

母の財産は、とにかく自分が必死に働き、貯めたものです。
一時期は気持ちに余裕があり、何度か国内外の旅行に出かけました。
娘一家が中古の一戸建てを購入するという話が持ち上がった時は、当然自分も同居するし、娘一家が岡山に移っても自分はずっとその家に住めるというシナリオのもとに、頭金を肩代わりしました。
しかしながら、家の頭金は、実は娘が受け取った父(もと夫)の死亡保険金でした。自分のために父を被保険者にして掛け捨ての保険を内緒でかけていた母は、父が亡くなった時離婚していたので保険金を請求できなかったのです。娘に指示をして請求させ、出た保険金は本来自分のものであると全額娘から取り上げていました。家の頭金は、その保険金と丁度同額でした。母としては、自分が働かずして手に入れたお金だった分、出しやすかったし出した事実を作ることができました。
父が生前に母に買い与えていた軽四が随分古くなった時、人生で後にも先にもこんなことはもうないと思い切って新しい軽四を自腹で購入しました。
父が懇意にしていた車の修理工場との付き合いを続けており、そこに頼んで新古品の車を探してもらいました。中古車ではないけれど、新車よりは安いものを探したのです。それでも安い買い物ではなかったので、購入金額の3分の1を共同で使うことになる娘が負担しました。
母はお金を持っていなかった訳ではなく、出す時には出せたけれど、贅沢に使える程でもないと言ったところでしょうか。

母は昔から家計簿をつけたことがなく、父の会社で経理をする為に一時期簿記の勉強をしていましたが、どうしても性に合わなかったらしく続きませんでした。(続かなかったのは、父との不仲でやり甲斐もなかったという別の要因もありましたが)
母の頭の中での財産管理は、ざっくりとして、決まった方針もなく、計画性もありません。
引退した当初は外出時の飲食、洋服や好きな雑貨の購入など、自分のお金で賄っていました。また、娘が家計で困っているのを見かねて、食費として月々渡していた時期もありましたが、引退してからは娘が断ったので、定期的に出ていくのは効きめの有無がよくわからないサプリメントの支払いくらいでした。
兄から月に2万円の仕送りがありましたが、それは経済的な不安から頼んで送ってもらっていたもので、予告なく滞ることがありさほどあてになるものでもありませんでした。しかも仕送りが始まってから、兄嫁が母の日に花を送ってくることがなくなり、仕送りとトレードオフされた形になっていました。
自分でかけた年金型の保険金がいつからおりるのかはわかっていましたが、自分としての月々の入用がどれくらいか、使えるお金をどれくらいに抑えれば何年持つか、そんなことをいちいち考えて憶えていたりどこかに書きつけることはできない母でした。
預金残高が減るのがイヤで、なんとか節約できないかと考えた結果、思いついたのは美容院に行く回数を減らそうということがせいぜいでした。
白髪が増えるとイヤになるので美容院にいかなくてはならない
→染めた髪の染めがなるべく剥げないようにして美容院の回数を減らしたい→洗髪の回数を減らせばいい
という考えのもとに、母の髪にフケが見えるようになってきました。
同じ頃、化粧も下手になってきて、たまの外出で化粧をしてきても、呼び止めて直してあげると言ったことが始まります。

とにかく、お金のことについて、母は不安でした。
そのうちに、常に自分のすべての通帳と印鑑を持ち歩くようになっていました。
気づいた娘がその管理を引き受けたいと言ってきた時、母はさして抵抗せずに任せました。自分の不安をいくらか娘に預かってもらえればそれはありがたいことだったのでしょう。

健康への不安

母は健康に恵まれた人生を歩んできた人でした。
大きな病気や怪我の経験はなく、出産以外で入院したこともありません。
目がよかったので、眼鏡もしていませんでした。

体のことで最初に困ったのは、老眼です。
よく見えていた人が見えなくなることは、ずっと近眼だった人の比ではありません。
どちらが卵かにわとりかは不明ですが、老眼が来て集中力もなくなり、老後の楽しみにしていた洋裁や読書は難しくなっていきました。
母は父が持っていた古い日本文学全集を大事にしており、いつか読もうと思い続けていましたが手に取ることさえない状態でした。
部屋の押し入れにはいつか縫おうと思っていた洋服の生地が売るほどありましたし古いミシンもメンテナンスをして持っていましたが、それを取り出して服を作ることもできませんでした。
時折既成服の直しをしてみたり、簡単なスカートを作ろうしていたことはありましたが、少しやっては疲れたと言い、作業はなかなか進みませんでした。
ある時母が、針山がなくなったと言いにきたことがありました。
あったはずなのにどれほど探しても見つからないと、不思議な形相をして言いにきたのにびっくりして、一緒に探そうと母の後ろから母の部屋に向かおうとしたら、母の来ているニットベストの背中にその針山がくっついているのが見えて問題は解決しました。
疲れを感じた母は、休もうとして針山があるところに横になってしまい、分厚いニットベストを着ていたので針山の存在に気づかなかったのです。起きて作業を再開しようとした母は、針山が消えていることに気づいたのですが、背中に目はないのでどうしても見つかりません。
母の背中から針山を取って手渡すと、母は相好を崩すというか、爆笑してしまい、その後何年も思い出しては笑っていましたが、娘の私にとってこの件は母の様子が変わっていく兆候だったのではと思えてなりませんでした。それほどに、娘のところに来た時の母の表情は印象深いものだったのです。

母の様子は徐々に変わっていきます。
夕方暗くなっても部屋の電気もつけないで新聞を読んでいて、何度注意してもそれを繰り返すようになりました。
また、何かにつけて横になっている時間が増え、動きが緩慢になっていきます。
若い頃料理の腕が自慢だった母ですが、途中で失敗してどうしようと相談しにきたり、途中でやることを放棄してしまうといったことが起こるようになりました。
認知症を疑って、検査してくれるところを探しましたが、予約が取れたのは一か月以上先でした。そして、検査を受けても認知症との診断は出ず、老人性うつと言われて抗うつ剤を処方されました。

この頃になると母は頻繁に手先の震えを訴えるようになります。
間近で見ていると、小刻みな震え方ではなく、しかし思うように動かしづらい状態になっているようでした。
その話を聞いた田舎の叔母は、アルツハイマーだと決めつけて20枚以上ものアルツハイマーに関する資料を送りつけてきましたが、その診断は出ていないし、同居する娘の私が見る限りアルツハイマーの手の震えと母のそれは別物でした。
もと看護師で病気のネタに食いついた叔母は、自分の肝炎の検査入院に母をつきあわせて母の検査もさせてみたり、田舎でしばらく母を預かって生活の刺激を与えてみたりと奇妙ながんばりを見せていましたが、検査結果として特に診断が出ることはなく、医師は3つの病名をメモしてみせて「これのどれかだと思うけど現時点ではわからない」とだけ言うにとどまり、田舎に行って帰阪した母は気疲れしたのでもう行きたくないと自室でまた寝て暮らすことになりました。

娘の離婚に伴い娘婿を除いた三人暮らしになり、娘が働いている昼間孫とふたりになった母は、頻繁に孫とトラブルを起こすようになり、頼んだ夕食作りはできなくなり、服薬や通院が自力でできなくなりました。
食べこぼしが多くなり、失禁を繰り返すようになりました。
車で30分ほどのところに住む息子に娘から母のことを相談しましたが、久しぶりに会う息子の前で気を張った母は元気そうで、息子は特に問題ないだろうと帰っていきました。田舎の叔母のところでも同じだったようで、特に問題ないから、もっと家事をさせてやれと言われた娘は、母のやることの後始末に毎日悩んでいたのにこれ以上家族親戚に相談しても無駄だと悟りました。
保健所に相談した結果、介護認定をしてもらいましたが「要支援」の結果しか出ませんでした。よく話を聞いてくれる地域包括支援センターのケアマネージャーと相談して、訪問看護サービスと送迎つきのデイサービスを週に何日かだけ利用する手配をしました。
この頃、母はやはり認知症ではないかと考えていました。
やがて母は、自殺未遂で保護され、精神病院に措置入院することになります。

母を襲った病気について、この時はまだ誰もその正体を知りませんでした。
しかし母はすでに尋常ではないことがわかり、息子と叔母が母のために俄かに動き始めました。
母を助けて、もとの母に戻る術がないかの模索が始まりました。ここまで来るに任せた娘を責め、時には泣きながら話し合いをしましたが、母の病気もその治療法もわからない状態を打破する鍵は誰も持っていませんでした。
この頃母は60代の半ばでした。
彫りが浅い顔はシワが少なく、細い眼を更に細くしてよく笑いましたが、入院してからは急に人相が変わってしまい、表情も少なくなりました。一度に5年分も10年分も老けたように見えました。

叔母が、田舎の知り合いの病院に母を引き取って検査や治療を受けさせたいと言い出し、できることは全部したいと言う兄がそうさせてくれと言うままに、娘の私は母を田舎の病院に送り出しました。
それが生きて母を見た最後になりました。




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