母のこと #23 入院

母は体が丈夫な人でしたから、出産以外で入院したことはなかったと思います。盲腸の手術もしていません。
そんな母ですが、ついに心身の調子を崩して入院することになります。
入院生活は長きにわたりました。

当時の状況

母は財産や所持品の管理が出来なくなりつつありました。
何かの時に母の実印が必要になったのですが、母はどこに実印があるかわからなくなっていて見つかりませんでした。
仕方なく急いで実印を作り直し、届けをし直すといったことがありました。
(結局もとの実印は後から見つかり、立派な印鑑が2つ残されることになります)
母がトイレをウォシュレットに変えて欲しいと言った時、その費用は母が負担することになったのですが、口座から出してくる手続き自体は通帳を管理していた私が代行せざるを得ませんでした。
母の私への依存度は、心身が弱くなるほどに強くなっていました。

当時お世話になっていたケアマネージャーと保険屋さんは、何かあった時の為にといろいろ腐心してくださり、提案をもらいました。
というのも、母と私と子どもの3人の暮らしについて、他の家族親戚は関わっておらず、気持ちの上でも金銭的にも何の援助もない状態だったので、母のことで私と子供の生活が行き詰まるのではないかと、他人であるケアマネージャーと保険屋さんが心配する状況でした。
特に心配されていたのが、経済的なことでした。
何かお金が必要になったり、私が母の世話などで働けなくなってしまった時に、使えるお金と言えば母名義の預金が一番頼れるものだったのですが、勿論それは母名義の母のもので母以外の人間が勝手に引き出せるものではありません。
その心配を解消するために成年後見制度を使ってはどうかとの話があり、人を紹介されて相談に行ったことがありました。しかし、当時の母の状況を伝えると、認められない可能性が高いとのことで諦めました。

私はフルタイムで働き、子ども(母の孫)はまだ小学生でしたから、母の日常生活を支える手は足りていませんでした。
母は要支援の認定を受け、地域包括支援センターのケアマネージャーに相談することになりました。保健所の助言と合わせて、母は週に一日か二日のデイサービスと、訪問看護のサービスを利用しました。
母は、すでにサービスを選ぶことや契約の手続きをひとりですることはできなくなっており、サービス利用の契約には私が立ち会いました。
保険の契約内容を変えてはという話があった時は、母と一緒に話を聞き、その変更の手続きにも立ち会いました。(ただ、この時どんな変更をしたのか詳細は憶えていません。)

母は、慣れない人や慣れない状況と対峙する際には気を張って、普段より元気そうに見せる癖がありました。
なので、いつも行く美容院や喫茶店の店員は誰も母が徐々におかしくなっていく兆候に気づいていませんでした。
同居していない兄や叔母も同様で、母のことで相談しても、大丈夫と判断してしまい何の頼りにもなりませんでした。

最初の入院


仕事をしていたある日の午後に、職場に警察から電話がかかってきました。
母が自殺を図って保護されているので、引き取りに来て欲しいという連絡でした。
住んでいる区の警察署に迎えに行き、自宅に連れて戻りました。
母は、住んでいるマンションの近くの団地の階上から飛び降りようとしているところを、ある住民に見つかって止められ、通報されたのでした。
帰宅後に母に話を聞くと、時間帯が悪かったみたいだと言います。
そして、「またやる」とはっきり言いました。

すぐにケアマネージャーに連絡を取ると、ケアマネージャーが素早く動いてくれ何をすべきかの指示がありました。
かかっている駅前の心療内科に紹介状を書いてもらい、すぐに入院させる運びになりました。
母がまた自殺を図る気でいることが明白だったので、隔離して保護しなければならないとの周りの判断で、母は精神科のある病院に措置入院することになったのです。
先に入院の手続きを急ぎ、母は窓に格子があり外からしか鍵の開け閉めができない個室に入りました。
措置入院のために家庭裁判所に行ったように思っていたのですが、市役所だったのかもしれません。気が動転している状態だったせいか、正確な記憶がありません。ただ、どこかに行って大仰な手続きをする必要があったという印象だけが残っています。

母のためにトイレにウォシュレットを取り着けた直後で、母が自分のためのそれを使ったのは2週間ほどの間でした。
また、母のために用意した大人用のおむつは一枚も使われることがありませんでした。
デイサービスや訪問看護は打ち切りの手続きを行い、入院に必要なものをまとめて病院に持参し、兄や田舎の叔父(母の弟)と叔母(母の妹)に連絡を入れます。その傍らで、子どもの面倒も見て、自分の仕事にも支障がでないようにしなければなりません。

母はそのまましばらく個室で過ごした後、相部屋に変わります。
主治医の見立てで措置入院は解除になりましたが、今後の母をどうするかの方針が決まるまでは入院していられるようにお願いしていました。
入院中に介護認定の時期が来たので、入院したまま認定の手続きをしてもらいました。母だけを見て認定すると軽いものにしかならないのですが、私からの聞き取りをもとにして、当初見込みより重い結果にしておくと担当した方から連絡をいただきました。母が「できる」と答えたことも、私から見ればできていることにならない、そんな私の話を「信用できる」と判断されたとのことでした。
また主治医の勧めがあり、精神障害者保健福祉手帳の申請を行い、三級の認定が出ました。
引き続きケアマネージャーとは連絡を取り、相談に乗ってもらっていました。
母は退院後家に戻るのではなく、別の施設に入れるべきとのことで、入れる施設を探してもらっていました。母が勝手に家に帰れないような、でも訪ねるのに遠過ぎないような、大阪府内の施設を探していました。
世話がかかる母が私と子供の生活に干渉しないように、しかし様子を見に行くことはできるようにという配慮から出た策でした。
入居の費用には母の私的年金を充て(公的年金はないので)、不足分は生活保護で賄えばよいとのことでした。そうすることで、私と子どもは母の負担を負うことなく生活が継続できるだろうとの見立てでした。

母は相部屋の他の入院患者とおしゃべりをする以外にすることはなく、退屈しながら過ごしました。
お見舞いにやってきた兄は母の異常にやっと気づき、私を責める一方で母のためにできることがないかと懸命に考えている様子でした。それに付き合わされて、兄嫁も度々見舞いに一緒に訪れました。
兄は自分ができることを一所懸命探している様子で、入院の荷物を入れて持ってきたキャリーケースの駒がひとつ壊れているのを修理に持っていったり、入院で役に立ちそうなものを考えて用意するように兄嫁に言いつけていました。ただ、普段の母の生活を全く知らない兄と兄嫁だったので、持参されたものがどれほど母の役に立ったのかはわかりません。その気持ちはいくらか母の慰めになったと思います。
私は、母の退屈凌ぎに何冊かの文庫本を持っていきました。宮尾登美子の小説でした。母が好きな作家でしたが、老眼があったので読めたかどうかは定かではありません。

病院の中だけで過ごす母は、自分の思いの純度を増して、段々と妄想めいたことを言うようになっていきました。
ある時母は、私に前の夫と復縁するようにと言いました。
母が描いたシナリオはこうでした。
復縁したら自分が娘婿に話して、稼ぎをすべて私に渡すようにさせると。そうして私が働かなくてもよいようにして、自分の世話に専心する。母が一番望んでいるのは、最後の部分です。
入院している母の頭の中には、私が世話をする子供のことはなくなっているようでした。入院中に孫のことを話題にすることはなく、一度お見舞いに連れて行った時も孫を見ても何の反応も関心も示しませんでした。
そして、娘婿に自分がどれ程腹を立て、嫌っていたかも覚えていないようでした。
また、母は私の仕事についても考えていませんでした。母にとってそれは、本来しなくてもよいはずのもの、すべきでないものだったのかもしれません。それが私にとってどんなものかを想像することは、母にはできませんでした。
そんな母の様子から、私は仕事・家事・育児を圧して毎日のようにお見舞いにいく状態から徐々にその回数を減らしていきました。
そのことは叔母の非難を招きましたが、当の母はすでに文句を言う元気をなくしていました。

やがて母は自分がいるフロアから出てもよいとの許可をもらい、病院自体から出ることはありませんでしたが、運動不足解消のために階段の上り下りを日に何度かするようになりました。
しかし運動不足は解消しきれなかったらしく、母は入院前より体格がよくなり、更に人相が変わりました。頬がよりふっくらとし、夢を見るようなふわっとした、しかし感情が見えないような不思議な表情をすることが多くなっていきました。
険しくならなかったのは幸いでしたが、一気に老けてしまったような印象を受けました。
母はある一線を越えてしまっていたのでしょう。
それは、まだ名前がわかっていなかった病気が進行した証拠だったのかもしれません。
母は自分の意思で勝手に病院から外出はできないので、気晴らしができるようにお見舞いに行った兄や私が時々外に連れて出てたりしていました。
母は喫茶店に行くのが大好きでしたから、車に乗せて喫茶店に連れていったのが母と対峙した最後でした。飲むのはいつもコーヒーで、お茶うけも欠かさない人でしたが、その時はずっと病院にいてお腹が空かないと言い、勧めたケーキを断りお茶しか注文しませんでした。それが意外で、少し照れたような曖昧な顔だったその時の母を今でもよく憶えています。

転院


ケアマネージャーと考えていた母の施設入居は、兄の横槍でとん挫しました。
田舎の叔母は、母の病気がよくなればすべてが解決すると考え、自分の地元である丹後の知っている病院で母を治療したらどうかと言ってきました。そして、もし病院を出ても、こちらにある施設で暮らしたらよいと言います。
母の世話をせず母の病気のことを知らなかったことを後悔していた兄は、叔母の言葉に乗り、母がよくなることならできる限りのことをしたいので、母を丹後にやりたいと考えたのです。
ずっと母の世話をするつもりだった私は当初その案に反対でしたが、最終的には兄に母を任せることにしました。
秋に緊急入院してから年を越し、半年足らずの入院生活でした。
私は、今の入院先からそのまま丹後の病院に連れていってくれるように兄に言いましたが、それを聞いた叔母が私に抗議をしてきました。叔母曰く、母は一旦自分の家に戻って、自分で持っていきたいものを用意する権利があるとのことでした。
仕方なく私は母を迎えに行き、家に連れて帰りました。
兄が迎えに来るまでの間に、母に自分で荷造りをするようにと伝えましたが、母は何を持っていけばいいのか、それをどのように準備すればいいのかよくわからない様子に見えました。母にしてみれば、必要なものは勝手によいように判断して送ってくれる方が余程楽だと思っていたことでしょう。
叔母の思いに反して母は、物事を考え、判断する力をすでにそれほど持っていなかったのです。
兄が迎えに来て、母は丹後に向けて旅立っていきました。

私は、丹後の病院までお見舞いにいくことはしませんでした。
私のその態度がまた叔母と兄の逆鱗に触れるのですが、今も私は母が入院したのが丹後のなんという病院で、そこでどのような検査や治療をしたのか知りません。(病院の名前は聞いたかもしれませんが、記憶に残っていないのです。)ただ、叔母がそうだと主張していたアルツハイマーの診断は出ませんでした。
母は入院前から老人性のうつとして処方されたいた抗うつ薬を服用しており、転院の際にはそれを持参していましたが、転院後はすぐにやめるように言われて服用を中止したそうです。その判断が誰のものかはわかりません。
また、精神保健福祉手帳は兄にも叔母にも受け取ってもらえなかったので、それが使われることも更新申請されることもなく失効しました。
正確な記憶ではないのですが、多分転院直後に母はまた自殺未遂をしたはずです。それを聞いて、抗うつ薬を止められて、抑うつ症状からそのようになったのだったのだろうと考えたような記憶がうっすらとあります。
叔母も兄も、母の精神状態について理解するよりも、自分の見立てや願いを重視した結果かなと思います。ただ、とにかくふたりは母の病気を見つけて治療することが最優先と考えていました。精神状態より、体を見ていたのだと思います。

母の入院生活で必要な費用は、叔母から連絡があるので母の預金から出して振り込んでくれと母から連絡があり、そのようにしていました。
叔母は二、三か月に一度金額を連絡してきました。費用の明細を求めましたが、それについては一度も回答がありませんでした。要は、叔母の言い値で支払いをしていたのです。入院費の他に差し入れたものの金額も入っているという話でしたが、詳細は一切わかりませんでした。
叔母や兄が勧めた丹後での入院生活ですが、その費用については終始すべて母が自分で負担していました。

丹後の病院では、母はとにかく早く退院したい、病院を出たいと主張していました。病気の診断も出ず、何の治療をするでもなく、多少の不自由はあっても日常で困るような身体症状はないと考えている母にとって、病院に閉じ込められているのは、耐え難いことだったのでしょう。
そして母は、叔母の判断で知らぬ間に退院していました。

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