石と方舟〜2024パリ・オリンピック〜

 むき出しの肩とふわふわの羽飾り。華やかでタフでコケティッシュなレディ・ガガの、まさしく「キャバレー」ショウタイムから始まり、これから満ちようとする月のような不屈の荘厳さを湛えた、セリーヌ・ディオンの「愛の讃歌」で開幕を宣言したパリ・オリンピック。

 街が舞台。何百年もあるがままの川が、建物が舞台装置。そこに散りばめられる人間たちは、過去も未来も理想も現実もごちゃまぜで、勇敢で負けず嫌いで、時に醜悪で不遜で、良識が眉をひそめようとも、つんと顎を上げて、濃い化粧とフレンチ・カンカンで笑い飛ばして、愛を語り、愛を歌い。

 素敵だなあ、おフランスだなあ、パリだなあ、と、うっとりの開会式でありました。

 個人的に開会式は12年ロンドンがナンバーワン。ミスタービーン、ジェームズ・ボンド、ビートルズ、自前で世界標準を持ってる国はやっぱすごいなーってずっと思ってきた。でもパリときたら、ガガちゃんアメリカ人、セリーヌはカナダ人、聖火ランナーもフィナーレのあんないいとこでスペイン人のナダル。もちろん自国のヒーローたちもあちこちに配置されてたけど、ああ、あんまり関係ないんだ、何が何でも全部「お国自慢」じゃなくてもいいんだ、と気づかされたり。ま、衣装はディオール、ツールはヴィトン、選手団の公式ユニフォームはベルルッティ。通奏低音はしっかりMADE IN FRANCEが支えているわけですが。

 生憎の雨。河畔や橋の上に置かれて容赦無く濡れてたピアノにちょっとドキドキ。日本だったらぜったいテント張るな。でもフランス人張らないんだな、カッコ悪いから。

 五輪史上初の競技場以外での開会式。「アホちゃうか」「警備大変すぎる」「出来るわけないじゃん」外からも内からも反対の声多数だったという。それでも「やりすぎて叱られるとこまでがセット」みたいなことを国を挙げてまんまとやっちゃった、ということに、もう何年も窮屈で息苦しさを感じることの多い国に暮らすへそ曲がりは、ちいさい声で「ブラボー」って言いたくなってしまったのかもしれない。そのなんとかなるさ的な雑な感じが、ちょっと痛快だった。やれない、って決めないで、どうやったらやれるだろう、ってみんなで考えたのかな、と想像できることがうれしかった。たった3年半前、東京オリンピック開催が揺れる中、同じことを呼びかけてボコボコに叩かれた体操の代表選手を思い出す。引退したその人は今回NHKのアンバサダー解説を務め、味わい深いコメントが好評を博している。皮肉、いやフランス風に、セ・ラヴィ、と言うべきか。

 問題のシーン。マリー・アントワネットの生首は「サロメ」を思い出して、あれはお盆に首が乗ってたっけ、オスカー・ワイルドってフランス人だしな、しかしヘビメタ似合うな、とか感心しつつ、コレクションのランウェイ風色とりどり最後の晩餐も、昔観た「ヘドヴィグアンドアグリーインチ」とか、こないだ観た「ドッグマン」とか、ドラァグクイーンものを思い出した程度で、基本的には「わーすごーい」と喜んで見ていた。

 宗教的な反発は日本人のわたしには実感がないが、やりすぎ、攻めすぎ、の声があってもいい。でもそれをもってして丸ごと「開会式ダメ」「フランスダメ」ひいては「オリンピックダメ」になるのはわたしにはよくわからないし、フェアじゃないと思う。ガガちゃんのキャバレーもセリーヌの愛の讃歌も、間違いなく後世に語り継がれるパフォーマンスだったし、「ラ・マルセイエーズ」を凛と歌ったオペラ歌手アクセル・サン=シレルの、歌はもちろんディオールのドレープの魔法でトリコロールの国旗と一体型になったドレスはほんとうに美しかった。クライマックスの聖火で点灯され舞い上がった大気球がパリの街を照らした光景も忘れ難い。スタジアムや選手だけではなく、街と、そこに暮らす人々を照らしてこその光、と、勝手にメッセージを受け取って感激していた。

 思わず目を奪われる美しさと、思わず目を背けたくなる醜さと。どちらもあるのが世界。2024年のオリンピック開会式が光とともに影も色濃く暴いたのだとすれば、それは世界を映す鏡なのだろう。気持ち悪い、不快だ、感じるのは自由。天秤のどちらの皿に気持ちを乗せるかは、それぞれが決めればいい。結局のところわたしはオリンピックが好きなので、大胆、とうなずくけれど、乱暴、と吐き捨てる人がいてもいい。フランス映画だって、合わない人にはひたすら退屈なんだし。

 ただし、思うことの自由と、それを文字にして発信することの自由は似て非なるもの。開幕直前、19歳の不道徳。開幕直後、24歳の慟哭。例によって熱狂するSNS。「ルールはルール」「厳罰当然」「メンタル弱い」「みっともない」。我ら凡百の想像をはるかに超えるレベルで過酷なまでに心技体を鍛え上げ、ゆえに国を代表し世界に名を連ねる選手のつまずきに、嬉々として投げつけられる石。決して傷つかない場所から投げつけられる名前も顔もない石。そのひとたちは、書かれた文字同様、口汚く生きているのだろうか。あるいは、一点の曇りも非の打ちどころもない人生を送っているのだろうか。たぶん違う。匿名のマスクを外せば、そこにいるのはどこにでもいる誰かの息子や娘やおとうさんやおかあさんだ。彼らは見知らぬ他人を許さない。「関係ない」からだ。でも見知らぬ他人に石を投げて溜飲を下げる自分は許す。そのグロテスクさに比べたら、ドラァグクイーンの最後の晩餐なんて、かわいいもんだ。

 不寛容の時代。ひとはもっと許していい。でもそのためには許された記憶が必要なのだけれど。

 サティの、ロートレックの、レオス・カラックスの国で始まった祝祭。行進ではなく、セーヌ川に船で登場した選手団。選ばれし者たちを乗せた船。方舟だ、と思った。乗り損ねた人々は、ある者は石を、ある者は声援を投げる。強さも弱さも成功も失敗もうれしいも悔しいも全部乗せて、4年(今回は3年)にいちど満ちる月を目指す船。山あり谷あり疑惑のルーレットあり(笑)、いつになく騒がしい気もするけど、あの淋しい静寂しかなかった東京の分もどうかにぎやかに、アスリート諸氏を受け入れ、許し、許されて欲しい。さあ楽しみ尽くそう。旅はようやく折り返しを過ぎたところだ。

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