放下考
あれこれ読んでいると、「知らんかった~!」ということに多々ぶちあたります。
「日本文学100年の名作 第8巻」
に収録されている田辺聖子の「薄情くじら」
それを読んでいて、関西弁の「ほかす」(捨てる)は漢字で「放下す」と書くことを知りました。
なるほど~!
地方からでてきてまだ1,2年のころ、大学生のアルバイトで歯科医院の受付をしておりました。
先輩が「これは、こうして」と説明してくれるのですが
その一環で
「これは、ほかして」
そのような単語の存在を知らなかったわたしは聞き取れず
「え?」
「これは、ほかして」
「え?」
これは同じループが無限に繰り返されると心配したのでしょう、
同じく地方から出てきて、一緒にバイトをはじめたA子ちゃんが慌てて横から
「捨てる、という意味」
と助け船をだしてくれましたが、生まれも育ちも京都の先輩は
「ほかす」が方言で、関西でしか通じないことをご存じなかったようです。
単語「ほかす」との出会いはそのように衝撃的でトラウマでもあり
京都にでてきてン十年たったいまでもよう使いません。
そういえば、「よう〇〇せんわ」という言い回しは
関西では「とてもじゃないけどしない」というような意味なのですが
京都に出て行ってはりきってたわたしは、1,2年目のころ実家に帰省した際
えせ関西弁を駆使しようと、実家の家族とよもやま話をしているときに
「タバコは、よう吸わんわ」
と言ってみたところ、別の地方に進学して、この言い回しを知らなかった姉が
「よう吸わないどころか、タバコなんて全然吸わないわ!」
と言い、「あんた、タバコ吸うの!」と母親に怒られ
なんだか弁解の機会を逃した悲しい思い出がありますが
のちに大阪で就職した姉はその後、この言い回しを理解するようになり
「あのときは、わるかったなあ」
と思ってくれたでしょうか。
さて、「放下す」でびっくりしたわけです。
言われてみると、意味が通るわけですが
「放下」という言葉はわたしのなかでは長いこと、「ほうげ」と呼んでいたからです。
なぜほうげで覚えていたかというと、
一時期、能にはまって観世会館やらあちこちの能楽堂で能を鑑賞していた時期があります。
あるとき、仕舞・一調・舞囃子の会がありまして
それは盛沢山で贅沢な会、とてもたのしかったのですが
そのうちの舞囃子に「放下僧」がありまして
町角で芸を披露しながら仏法を説く放下僧(ほうかそう)に身をやつし、敵討ちをとげる兄弟の話なのですが
かわいらしい太鼓を胸からさげたちんどんみたいな恰好してる僧が
にっくき仇に狙いをつける鬼気迫る場面に心打たれたものです。
能の演題としては「ほうかぞう」と読むのだそうですが
解説として渡された紙に「ほうげにみをやつし」と書いてあったのだか、
そのあと調べて禅の「放下 ( ほうげ ) 」
を知ったのだか、ともかく、以来「放下」は「ほうげ」と覚えていたのです。
ところがさいきん、祇園祭の鉾に
「放下鉾(ほうかほこ)」
というのがあるのを知りました。
「ほうげだかほうかだか、ヤヤコシー」
と思ってたところに「ほかす」も加わって、さらにややこしいことになってしまった!