正しい理由とか説明とかなくても良いと思うって話
友人宅で日本に旅行した人を集めて「日本の面白かったところ」を聞くという会を企画したことがある。その時のイタリア人から見た日本で出会った人の話が面白かった。
と彼らは言った。続けて、
「でも、結局なんだかよく分からなくてさー。だけど、こっちが分からないっていう顔をしている限り、説明がずっと続くんだよ。だから、途中でもういいやってなるんだけど。説明すごいよね。」
そこにいたイタリア人達がうんうんと自分の受けた長い説明について語り始めた。ほとんどの日本人は英語があまり得意でなかったにもかかわらず、長い説明をしてくれたという。
(イタリア人は説明が適当なことで有名なんだけど、それは置いておいて)
これはもちろん親切だからなんだけど。それだけかというと、多分、ちょっと違うなとも思う。
なんとなく思うのは、正しい説明を正しく伝える(大袈裟に言うと)義務があるくらいに思っている。
これは、私の日常生活においてもは「なんにでも説明・理由がある」と思っているのに通じることだ。大したことじゃなくても。なんか理由が必要な感じ。
有給休暇を取るのに理由を書き。学生時代は遅刻理由を書き。電車の遅延証明書を並んでもらい。何でも理由が必要。常にちゃんとした説明がないとダメ。なんでも説明できるべきと思い込んでいる。
しかし、その説明って本当に必要?と今は思う。
例えば、友人の誘いに参加できなかった時。
「日にちがどうしても合わなくて」とか「その日はXの予定が入っていて」みたいな「真っ当な〇〇に参加できない理由」を伝える私。夫(イタリア人)は「ごめん、行けない」で終わり。
夫は、「その日はムリー。ごめーん。」。一方、私は「その日は〇〇でXXだから、行けない」と説明しないと、なんだか相手に対して失礼かなと考えてしまう。この差はなんだろう?
行きたくないはワガママじゃない。
そのうえ、NOの理由をいろいろ説明しようとすると、嘘をつく必要もでてくる。さらに相手に不快を与える危険性も上がる。(例・そっちの用事の方が私より大事なの?的な)だから、できないことへの説明は不要と彼はいう。
この正しい理由を説明したい問題は、自分も他人から「ちゃんと説明してもらえるはずだ」が大体セットになっている。こっちも面倒だ。
相手が「その日はムリ」となったときに、「どうして?」「その理由は?」と聞くという、かなり野暮なことにつながりかねない。プロジェクトの進捗状況でも、親でもあるまいし。
だから、まぁその時からってわけでもないけど、一つ訓練を始めた。理由つけずに「それはムーリー」って言う訓練。常に自分の気持ち優先。
昼ごはんがブドウだからって、説明はしなくていいんだ。
インスタにも最近エッセイを載せてるよ。文章ってどうなんだろう?とタグを迷っている。。。
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