解散
コンビ組みたての頃、二人でよくネタ合わせをした町外れのファミレスだった。家からは離れていたが、ランチタイムでも混まないお店だった。
店内にはいつも俺らと同じように行き場のない人間たちがポツポツといた。座り心地の悪いソファの上であぐらをかいて新聞を読むおじさん、ブツブツと何かを呟きながらタバコを吸うおばさん、机の上に突っ伏して眠っている若者。どのテーブルも近くを通ればほのかにアルコールと嘔吐物の匂いがした。お互いの匂いが混ざらないようにするためか、行き場のない人間たちは一定の間隔を保って座っていた。
その秩序に従って、俺らはいつも喫煙席の隅で待ち合わせた。店員の目が届きにくくて、長居する罪悪感から逃れるためだったかもしれない。
あの頃はドリンクバーだけ頼んで、何時間もノートと相方を眺め続けた。漫才の展開を書いてはつまずいた。コントの設定を書き出しては詰まった。大喜利のお題を書いて答えを10個も書けずにペンが止まった。あの番組に出たらこう振る舞おうとセリフを書いては二重線で消した。ページごとに漫才、コント、大喜利と区切ってみても、ページが全て埋まることはなかった。埋まらない空白は、そのまま目の前に立つ壁になって、才能のなさを突きつけてきた。
面白いことの一つも思いつかない頭のくせに、ズキズキと痛んだ。ドリンクの甘みで舌が痺れた頃に窓の外を見ると、日は沈んでいた。喉のあたりで絡む唾は粘着質で、熱を持っていた。薄まった烏龍茶でも流れていかなかった。喉の熱さで顔が火照った。
アイデアを出さないのにタバコを吸い続ける相方を見てかあっと熱くなった。相方を罵倒する言葉が山のように湧き出た。そのひとつひとつを吟味もせずに投げつけて、最後には灰皿を相方に投げた。静まった店内に灰皿のぐわんぐわんと揺れる金属音が響いた。タバコの灰が床に飛び散った。おばさんがギョッとした目でこちらを向いて、大きな声で念仏を唱え始めた。その手首にはパワーストーンのブレスレッドがいくつも巻かれていた。
相方は何も言わず、荷物をまとめて店を出た。
それから相方はネタの打ち合わせに来なくなった。
謝ることもなく、どうせ居たって何もアイデアは出ないんだから、と一人でネタを書き続けた。狭い喫煙席でノートだけをにらみ続けて、あっという間に時間が過ぎていった。首も腰も痛めて書くお笑いが面白いはずがなかった。
舞台の控え室で目も見ずにネタを渡した。相方は原稿を読んでも、何も言わなかった。笑うこともなかった。壁の前に立って少しネタ合わせをして、すぐ舞台に上がった。客は笑うと思った。ツカミのボケがスベって、膝の力が抜けた。取り返そうと声を張って、強くツッコミをいれても、笑いを取り戻すことはできなかった。表情だけは暗くならないように、口角を上げ続けた。客から目をそらしたくて横に目をやると、冷たい視線が突き刺さった。お前はもう終わりだと言われたような気がした。
その日から劇場に呼ばれることはなくなった。
ーーー
喫煙席のドアが開く。バイトの夜勤明けのようで、眠たそうな相方が入ってきた。店員にドリンクバーだけを頼んで、すぐコーヒーを取りに行こうとする相方を呼び止めた。
「座れよ」
最後ぐらい落ち着いて話そうと思っていたのに、その顔を見たら腹が立ってきた。相方がそっぽを向いたまま正面に腰掛けた。
3つ隣の席に念仏を唱えたおばさんが居た。こちらを伺いながら、小さくブツブツと呟いている。あの日の失敗を繰り返さないようにしないといけないと思い、単刀直入に切り出した。
「もう無理だよ。お笑い続けらんない」
相方がしょぼくれた目を見開いた。俺の言葉を少しも予想していなかったような表情だった。こいつは解散を考えたことはなかったのだろうか。劇場に呼ばれなくなって、久しぶりに誘われたら、解散を切り出されると考えるものじゃないのか。こいつ、本当にお笑いのことを考えているのか。俺は毎日毎日考えているというのに。
「お金がない。劇場に呼ばれない。客も笑わない。同期はテレビに出ている」
「あぁ、あいつらね」
養成学校では目立つところのないコンビだった。昨年の秋頃からキャラクター漫才を始め、深夜のネタ番組に出て人気に火がついた。最近は朝の番組にもレギュラーで出演している。同期の中では一番の出世頭だった。
「でもまあ、あれならすぐに越せるだろ」
見開いていた目はいつものように戻って、落ち着きを取り戻したようだった。タバコを一本取り出して、ライターで火をつけた。余裕な振る舞いに苛立ちが増した。
「なんでそんなことを簡単に言えるんだよ。毎日必死に考えても良いネタは思いつかない。あいつらはつまらなくても、テレビに呼ばれている。俺たちは劇場にも客にも呼ばれない。もうこれ以上は無理だよ」
苦しい生活だった。劇場の支配人にも、客にも俺たちの存在価値はないと言われたようなものだった。長居していると強まっていく喫煙席の冷房のように、世間は冷たくて居場所がなかった。冷房に当たっても風邪を引くだけだが、世間の冷たさは心を追い詰める。
顔を上げると、同じ境遇の男。こちらを見ていた。
「お前のネタ、好きだよ」
真剣な目だった。その妙な迫力にたじろいでしまった。そして妙にじわりと心がぬるくなる。そのぬるさは冷たさを覆うように広がっていく。違う、違う。こんなものじゃない、こんなことじゃない、俺の苦悩はこんな言葉では救われない。頭ではそう思っても、じんわりと包んでいく温度を止めることはなかった。それでも、俺の苦悩はもっと深くて、もっと大きなもののはずなんだ。
「俺のネタ原稿で笑ったことないくせに」
相方を突き放そうと思って出た言葉に、自分の小ささを感じた。
俺はそんなことを気にしていたのだ。大きくて深かったはずの苦悩は、そんな小さなものだったのだ。照れ隠しのようにケラケラと笑う声が聞こえた。
「だって、恥ずかしいじゃん。相方のネタで笑うの」
そういえばこいつは、コンビ組みたての頃も同じようなことを言っていた。ネタを書き上げた後は、早く家に帰りたがった。原稿を読んでも笑わない相方に改善点を聞いても、大丈夫、としか返ってこなかった。
早く家に帰りたがる理由を知ったのは、相方と同居していた先輩と二人で飲みに行った時だった。
「あいつはさあ、お前のネタ原稿見て一日中笑ってるぞ。いつも帰ってくるなり今日のネタはすごいです、天下取れますって。笑いながら読み聞かせてくるんだ。うるせぇだろ、そんなの。俺も聞きたかないんだけどさあ、あいつが笑ってるの、面白くてさあ」
ホッピー二杯で顔を真っ赤にした先輩が嬉しそうに話した。あいつが俺のネタで笑うなんて知らなかった。それを誇らしげに言うなんて想像もできなかった。嬉しかった。ものすごく嬉しかった。
「お前ら、頑張れよ。絶対売れるから」
帰り道の途中、俺らよりも3年長く売れていない先輩が応援してくれた。
「売れたら俺の借金まで返済してくれな。ほら、俺、あいつの家賃とか払ってるわけだし」
急に弱々しい声を出した先輩が面白かった。
「いや、情けないなあ、自分で売れて下さいよ」
ツッコミを入れて、今日はありがとうございました、と頭を下げた。膝に額がつくぐらい腰を曲げた。それ以上に気持ちを表現する方法がなかった。
こいつは俺のネタで笑ってくれていると、知っていた。なのに、うまくいかない苛立ちに苦しんで、すっかり忘れていた。こいつはこれまでも、ずっと笑ってくれていた。
二本目のタバコを取り出そうとする男に、もう少し言いたいことがあった。
「でも、どうやって生活するんだよ。バイトだけで。お笑いの収入なんて月に1万円もないんだぞ」
好きだけではうまくいかない。そのことはこの何年かで散々思い知らされた。好きなことで、生きていくyoutuberの数がほんの僅かなことを知っている。お笑いだけで食っていける人がほんの一握りだと知っている。俺らはそのスタートラインにも立てていないことを、知っている。
「俺たちが普通に会社勤めしていたら、月収20万円くらいか?」
相方が話を変えるように切り出した。
「俺たちはその20万円に足りない分、例えば19万円分の宝くじを毎月買い続けているようなものなんだよ。一度当たりさえすれば、月収何百万円の未来が待っている」
言葉に詰まった。相方はその宝くじに外れる可能性を少しも考えていないようだった。その自信はどこから、と言う答えが聞きたかった。
「俺はこれからもその宝くじを買い続ける。俺はもうお前に賭けたんだ」
照れるぐらいにセリフめいた言葉だった。
「うるせぇ。バカかよ」
相方がまたケラケラと笑った。そして真剣な目に戻る。
「じゃあネタ作りでもしようか、久々に」
二人でのネタ作りは楽しくて、久しぶりに大笑いした。ペンは快調で、相方のアイデアも冴えていた。この時間が好きで、コンビを組んだことを思い出した。
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