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くるりが歌った東京
生まれ育った故郷を離れ、今、東京に住んでいる。東京という言葉には、たくさんのイメージと詩情がある。
田舎にいた頃の東京のイメージは、くるりの東京だった。
東京の街に出てきました あい変わらず訳のわからないこと言ってます
恥ずかしくないように見えますか 駅でたまに昔の君が懐かしくなります
君がいないこと 君とうまく話せないこと
君が素敵だったこと 忘れてしまったこと
東京の街というよそよそしいフレーズで始まるこの歌は、君への未練を繰り返し口にする。田舎から上京した誰かが、夢を追いながら東京の街で懸命に生きている。その生活の中でふと君のことを思い出す。
君という存在の解釈はいく通りかあると思うのだけれど、私は「君」=「故郷」のことだと感じた。東京という街に住む私が、育った故郷に思いを馳せる歌。
バイト先へ向かう駅で、故郷から東京まで来た日のことを思い出す。この駅を乗り継いで行けば、君に会うこともできるんだな、と懐かしむ。
サビに入ると君がいないこと、君とうまく話せないこと、君が素敵だったこと、ちょっと思い出してみようかな、と強烈なノスタルジーと後悔が湧いて出てくる。
君とうまく話せないこと、からは田舎の両親との軋轢を連想する。田舎に住んでいた頃に感じていた、東京への憧れと田舎への嫌悪、平凡な日々を過ごす両親への反発。けれど東京という街に来た今になっては、君のどれもが素敵だったことを思い出す。
上京への強い憧れを抱いていた若い頃と、東京で思い描いていた生活ができずに悩み、田舎への郷愁が募ってきている今をこの曲は歌っているのだと思う。
東京にはたくさんの夢があって、それと同じようにたくさんの破れた夢がある。捨ててきた故郷への思いと、両親や地元の友達とうまくやれていないこと。ドラマチックに進まない現実と、自分のちっぽけさを感じる毎日。
小さなプライドを曲げて故郷に帰れば、きっとにこやかに受け入れてくれるんだろうけれど、それも辛い。上京して過ごしたつまらない時間を否定してしまうことになるから。
くるりが歌う東京という詩情は、夢を追う人だけのものだ。
東京に住んで、この歌をもっと深く聴けるだろうか、と思っていたけれど、私の中でこの曲の響きは変わらなかった。きっとくるりの歌う東京は、私のような平凡な人間のものではなかったのだ。
「東京という街」に踏み込めなかったのは悲しいけれど、「東京という街」を眺めることはできる。駅前の路上ライブ、地下のお笑いライブ、1枚千円もしないコンサートのチケットに前衛的な演劇。ここに夢を追って毎日を生きる誰かがいる。
その誰かを応援できるのは、「東京という街」を眺める私のような存在だけかもしれない。追いかけたい大きな夢はないけれど、夢を追う誰かの応援はできる。
エンタメに厳しい風が吹き続けている2020年。きっと多くの人が「東京という街」で人生を狂わされた。デビューできるはずだった舞台は延期に、イベントを打てるはずだった劇場は閉鎖し、今もまだ未来に光は見えない。
先の見えない闇で歩みを進めることは難しい。そこに小さな光が灯ることを願って、今日も好きなエンタメを買う。