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終活はもう始まっている


慢性期の病棟で回診をしながら、たまに考えることがある。

自分と入院中の患者さんたちとの間には、たった50年ほどの時間の隔たりしかないということだ。医師と患者という一見対極にいる関係性で、違いは50年という時間の差でしかない。それだけの時間を過ごせば、私も何か病気を患い、同じようにベッドで横たわるようになる。

それは避けることのできない事実で、その時は平等にやってくる。自分の残りの年数も50年ほどだと思っているけれど、これから過ごす日々にどんなアクシデントがあるかは誰にもわからない。

私たちは毎日、最後の日に向けて一歩ずつ歩を進めていく。終活はもう始まっているのだ。


・・・


朝の眩しい光が入る病室で、やや黄ばみがかった薄緑色のカーテンを開く。ベッドのそばで腰をかがめ、患者さんの顔を覗き込む。

「おはようございます」と声をかけて、笑顔が返ってくる人もいれば、反応のない人もいる。私の顔を覚えてあれこれと世間話をする人もいれば、入院の不満を漏らす人もいる。

たまに起き上がってベッドの横で座ろうとする患者さんもいらっしゃって、その元気な振る舞いからパワーをもらうこともある。けれど、多くは長い入院生活や闘病に疲れてしまって、横たわったままだ。

医師として働いていると、この景色が当たり前になってしまうけれど、目の前の患者さんたちもほんの50年前には、階段を1段飛ばしで駆け上がり、バリバリと仕事や育児に励んでいたはずなのだ。

その若い頃の姿を、しわくちゃの表情や手足からはうまく想像ができない。

だから、元気だった頃の写真を飾っている方の病室では、まじまじとその写真を見てしまう。この前は、山頂で撮った写真を枕元に飾っていた方がいらっしゃった。娘さんが飾ってくれたらしい。

話を聞いてみると、若い頃は登山が趣味で、毎月大きな山に登っていたそうだ。山男らしい精悍な顔つきで、日焼けした逞しい腕がその写真には収められていた。撮影者は数年前に他界した奥さんだったらしい。懐かしむように話すその表情には、写真で見るような元気がない。その数ヶ月後、彼は最後の日を迎えた。

彼から最後に聞いたのは、もう一度山に登りたいと言う願いだった。こんなに弱った体だけど、思い出の山にもう一度登りたかったな、と口にした。


・・・


多くの患者さんたちと接してきて、こういう風に最後の願いをぽろっと聞くことがある。そのどれもが私にとっては難しいことではなかった。山に登りたい、ドライブに行きたい、あそこのディナーが食べたい、桜を見に行きたい、などなど。私にとっては難しくないけれど、患者さんにとっては夢のような願いたちだ。


今の自分ならその願いが叶えられるのだから、もっと自分のやりたいことに素直になりたいと考えるようになった。

私だったら何を願うのだろう。入院中のベッドで私が願うことはなんだろう。

私はきっと、本が読みたいと願うだろう。幼い頃からずっと本ばかりを読んできた。今も本が好きで、それは50年後も変わらない。人生最後の日、好きな本のページをめくる自分が簡単に想像できる。

そのゴールが最初から見えていたら、人生はもっと楽に生きられるはずだ。多くを欲しがることも、他人を羨むことも、自分を蔑むこともなく生きていける。何か大きな失敗や、人生の喜びを経験したとしても、最後の日、私は穏やかな気持ちで好きな本のページをめくっているだろう。

私は毎日、その日に向けて一歩ずつ歩んでいく。今日も好きな本をめくりながら。


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