ちょっと視点を変えてみると

電動車椅子当事者が旅行中、トイレに行きたくなった。
15分ほど行けば知人宅があるのでそこで借りようと思い訪れた。
友人はトイレを貸すことは可能だが、部屋が散らかっているので片付けたり電動車椅子が入れるように準備するので15分待って欲しいと言った。
にも関わらず当事者が「いやもう漏らしそうだガマンできない、私の尿意の方が優先されねばならないから入れろ」と迫り「これは虐めだ、障害を持つ者への差別だ」なんだと騒いだらどうなるだろう?

貸すことは可能と言うのに自分を優先しろと迫る当事者は広く社会に認められるのか?差別と言えるのか?
知人宅に向かう時に連絡をしていれば待たずに済んだかもしれない。
障害を持つ者も日本という社会に居る。
お互い思いやり最大限の配慮をすることが受け入れられ前提なのではないだろうか?挙句、騒ぎ立てている時間で片付け準備できるだけの時間を費やしたとしたら、その行動自体が無意味なものになるし、ガマンできないと騒いだのは何だったのかと言うことにもなる。

障害を持たぬ者が持つ者のために最大限の配慮をすることは当然だとしても、障害を持つ者が持たぬ者から最大限の配慮を受けられることが当然であり権利であると思うことは違うのではないだろうか。
合理的配慮を求める側は、自らも合理的配慮をしなければならない。
この点が社会全体で欠けてしまっていて、結局は壁を高くし溝を深くしてしまっているのでは無いだろうか。

一度、嫌な思いをした人は決して忘れない。
これは障害を持つ者も持たぬ者も変わらない。
知人は絶交するだけでなく、障害を持つ者に対して不信感、拒絶感を持つことだろう。
この電動車椅子当事者もトイレを貸してもらいたかったのなら、事前に知人に連絡を入れトイレを借りたいが大丈夫だろうかと確認をしておけばよかっただけのこと。

ただ、今回の騒動の実態というのは、その部分だけでなく多くの複合的な問題からゴチャゴチャに絡み合ってしまい、もっと根深いものになってしまっている。
マスコミや著名人、弁護士、国政政党など市井の人ではとても関わりを持たぬような権力との繋がりをひけらかしたのもマズかった。
それを解きほぐすことは相当な努力が要るであろうところまでに至ってしまっている。
まずは、誹謗中傷、罵詈雑言は止める排除する。ついで事実事項を客観的な視点から見直し主観で語られている部分を補正する。そして何が問題なのかを抽出しそれに対して第三者評価を受け、双方で議論をすることが解決への糸口になるのではなかろうか。
もちろん、議論するとて不特定多数のものが声を上げてしまっているのでどうしようもないのだが。

せっかく問題提起としては好事例であったろうに、その手法に問題がありすぎた。

ありがとうございます。どうぞご贔屓に。