月の下で香るモクセイ 第5話
充電が百パーセントになっているスマホ。さっきLINEを交換してもらったのだ。名前は「宮崎万里」で、誕生日は八月二十九日。今日は、八月十三日。万里さんからのお給料で、何かしらの誕生日プレゼントは買えるのかもしれない。尤も、それまでここにいられればの話ではあるが。
隣でスヤスヤと寝息を立てる万里さんが美しい。疲れたのだろう。いつもは私の方が早く眠りについてしまうから、初めて見る寝顔。私はそれに夢中になっていた。
私は彼女の手を取ってみる。美容師というだけあって、爪は短く整えられていて、透明なジェルネイルが施されていた。水仕事のはずなのに一切荒れておらず、すべすべで触り心地がいい。彼女の手の甲をさわさわと撫でていると、触れてはいけない神聖なものに触れている気分になる。美しい少女を破瓜させてしまったかのような罪悪感もある。子供たちを殺した、寒気のするような罪悪感とはまた違う。ただひたすらに秘められていて、それでいて美しいものに触れてしまったという、誰かに話したいような罪悪感だ。けれど、多分話すことは許されない。
ふと、魔が差した。私はそっと彼女の指と、私の指を絡める。そしてそのまま眠りに落ちた。
どんな花とも形容しがたい、甘い匂いに包まれながら目を覚ます。まだ薄暗い。そして、心臓が心地よく活発に動いている。
私はその意味がすぐにわかった。万里さんは、私のことをぎゅっと抱きしめていた。そしてそのまま眠っていたのだ。そう言えば、私は眠る目に彼女の指と自分の指を絡めたまま眠っていた気がする。
私は、彼女に包まれているその幸せに涙が出そうになった。そして、彼女の体に甘えるように抱きしめ返す。宇宙を抱きしめるかのように強く、でも優しく。宇宙よりも彼女は寛大であった。私をそのまま受け入れてくれるのは、彼女だけだった。
このまま、彼女と言葉もなく抱きしめ合っていられたら、どれだけ幸せなのだろう。
でも時は残酷に過ぎ、私たちは何事もなかったかのように朝食を食べていた。バターの塩味が心地よいトーストをかじりながら、朝のニュースを眺める。そして左手でエックスのタイムラインを流し読みする。退屈だ。いや、退屈であってほしかった。
そのニュースは次の瞬間、私の感情を揺さぶった。
『次のニュースです。先日未明、神奈川県座間市のアパートで四名の遺体が見つかりました。すべて死後数日は経過していて、また子供とみられています。また、この家に住む十九歳の長女と両親とは連絡が取れなくなっております。神奈川県警は――』
私は思わずトーストを皿に落とす。
恐る恐るエックスのトレンドをチェックする。案の定、「座間市」「子供の遺体」「殺人事件」というトレンドが並んでいた。
『物騒すぎる。子どもが可哀そう』『前にも座間でこんな事件なかった?』
変な汗がぶわっと吹き出した。私は思わずスマホをソファに投げ飛ばす。呼吸が荒くなっているのを万里さんに悟られたくなくて、じっとうつむいた。だが彼女にはすべてお見通しだった。
「どうした?」
「暗いニュース、嫌いなんですよ」
せいぜいこのくらいの嘘はついておこう。絶対に目は泳いでいるが、彼女に心配はかけたくない。そもそも私の存在が迷惑なのかもしれないが、私は彼女のことを間違いなく愛していて、ただ彼女の隣にいたかった。
それが、私の最後の欲だった。このまま、子供たちが私のことを許してくれないかな、とも期待してしまっていた。
許されないことのはずなのに。
私は休憩室で、ビニール袋に対して盛大に嘔吐していた。
あれから私の感情はずっと振り子のように揺れたままで、どうにも中心でぴったりと静止してくれない。激しく、罪悪感が私の感情を揺らし続ける。
そんな私を見かねた万里さんは、店の休憩室で私のことを休ませてくれた。店を手伝うことができなければ、私はいよいよただのお荷物となる。その事実が悔しいのと、ただただ襲い掛かってくる罪悪感と、嘔吐によって出てくる生理的なものとが合わさった、ぐちゃぐちゃの涙が溢れだしてくる。
少しだけ開けられた扉の隙間から、客の髪をカットしている万里さんが見える。本当に楽しそうだ。私といるときの、何倍も。いつまでも見ていたいような表情をしている。
私は、世界一不幸であり、世界一幸せだった。
もう胃の内容物はすべて吐き出したのだろう。嘔吐はしなくなったが、吐き気は止まらない。水を飲んだらまた吐いてしまいそう。軽く口をゆすぎ、ソファにこの身を委ねた。
その時、ヒールの音がこちらに近づいてきた。
「大丈夫?」
聖母かと錯覚しそうになった。万里さんが休憩室まで来てくれた。嬉しい。だが、こんな情けない姿を見せてしまっていることが恥ずかしい。
「はい、すみません……」
抑えようとすればするほどに、涙が溢れだしてくる。その涙に、羞恥も混ざってきた。いよいよ、よくわからなくなってきた。
「謝らないの。大丈夫だからね」
万里さんが優しく背中をさすってくれる。やっぱり涙は止まらない。人に優しくされると泣いてしまうのはなぜなのだろうか。渇いた喉で、しゃくり声を上げ続ける。
窓から飛び込む夕日は、まるでこの関係性の終わりを意味しているように思えてしまった。そして、さらに泣いた。
一週間経ち、体調はだいぶ回復してきた。あれから、事件の報道はされているものの、特に警察から声をかけられたということもない。
だから少し安心しながら、万里さんと二人で過ごしていた夜のこと。
「おい、開けろ!」
男の怒号と、ドアをゴンゴンと叩く音が聞こえてきた。いつかのあのアパートを思いだす。まさか父親かと思ったが、その声は父親よりは確実に若いものだった。私がたじろいでいると、万里さんは真顔ですっと立ち上がり、玄関の方へと向かう。
「万里さん?!」
私が引き留めようと万里さんの腕をつかむ。だが、いとも簡単に振り払われてしまった。そして、笑いながら彼女は首を横に振る。
「近所迷惑になるし、私は大丈夫だから」
だがその瞳には不安の色がにじんでいた。私はもう一度必死に彼女の腕をつかむが、逆に彼女に手を取られ、私はリビングの端っこにあるクローゼットに押し込められる。万里さんに、「ここから絶対に出ないでね」とささやかれた。状況を理解してできていないうちに、玄関のドアが勢いよく開かれる音と、ドスン! という鈍い音が同時に響いた。私は背筋をビクッと震わせる。
あの時、投げ飛ばされたときと全く同じ音だ。
「おいこのクソアマ! 何度言ったらわかるんだ?! 俺の女なんだからさっさと金よこせ!」
「お金なら用意しますから、何をしたら許してくれますか……?」
どうやら男は万里さんから金銭搾取をしているらしい。しかも、この様子だと常習犯なのだろう。私の記憶と目の前の景色が、はっきりと重なった。クローゼットの扉の隙間から、ただひたすらに怯える万里さんが見える。その瞳は、今までにはないほどに揺れていた。いつも余裕のある笑顔の彼女がこんな表情をしていることが信じられない。
男の髪型は黒髪マッシュで、前髪のせいでその目は見えない。どんな瞳の色で万里さんを睨みつけているのかは気になったが、同時に見たくもなかった。
「今日までにって言っただろ!」
「無理なんです、ごめんなさい……」
万里さんはまた腹を殴られ、床に倒れ込んだ。腹の中が煮えくり返るような怒りが湧いてくる。目の前で彼女が傷つけられているという現実が、どうにも許せない。
だが、頭は怒りで熱いのに、下半身はひどく冷え切っていて、怯えていた。がくがくと震えて、立っているのもやっとである。本当は今すぐにでもあの男を殴り飛ばしに行きたいところだが、体が言うことを行かない。頭は行けと言っているのに、体はそれを拒む。結果的に傷つくのは体だから、無理もない。けれど、ここで動かないわけにはいかない。私は必死に膝を殴り、動かそうとするがびくともしない。私は焦燥感に駆られた。
「じゃあ謝罪しろ。わかるな?」
「……はい」
万里さんは床に膝をついて、そして頭をこすりつけた。いわゆる土下座である。美しいその髪の毛が、汚らわしい男の足の裏によって踏みつけられ、汚される。彼女のすすり泣く声が部屋に響いた。
やめてくれ、と思わず口から漏らしていた。あの男に対してはもちろん、万里さんにも、そして自分に対してもそう言いたかった。今すぐにこの空間が終わってほしい。彼女がこれ以上傷つけられないでほしい。
だがその願いもむなしく散ることになる。
「誠意が伝わらん。脱げ」
「……はい」
脳天を殴られたかのような衝撃が走る。何も考えられない。その間にも彼女は、膝をついて服を脱いでいた。カットソーをキャミソールごとまくり、ズボンを足から引き抜く。下着姿になった彼女は、ブラジャーのホックに手をかけ、乳房を露わにしようとしていた。
ダメだ、こんな奴の前でこんなことをしたら、何をされるかわからない。
その時、私の頭に守れなかった子供たちの顔が浮かんだ。
日向、夏美、聖奈、聖也。ほかの何よりも眩しい笑顔。もう二度と見ることのない、私アが殺した彼らの希望。
もしかしたら、万里さんも守れないのかもしれない。
突然、足の震えが止まった。体中の細胞すべてが私に行けと言っている。彼女のことを守れるのは私だけなのだ。そう考えれば、もう怖いものなどなにもなかった。
気づけばクローゼットを飛び出し、男と万里さんの間に大の字で立ちはだかっていた。
男が目を丸くするのが前髪の隙間から見えた。人相の悪いその顔を、私はじっと睨みつける。
「やめて、ください」
思いのほか声が震えていた。涙声になっているのが自分でもわかる。やっぱり怖かった。けれど、私は荒い息でなんとか自分を落ち着かせようとしていた。精いっぱいの憎しみをこめて、彼を睨む。
「なんだ? メスガキ」
成人女性だっつーの、というのは今はどうでもいい。
男の拳が私の頬がめり込みそうになったが、ぎりぎりでかわす。そして、思いっきり男の脛を蹴り上げる。痛みにうずくまる男。運送業に従事していたおかげで、そこまで屈強ではない男とは張り合えるくらいの力が付いた。
男は立ち上がり、私のことを抱き上げると床に叩きつけた。回転する視界の端に、下着姿のまま唖然とする万里さんが見える。動揺と心配の混ざったような表情。彼女のことは、絶対に守りたい。だが、そう簡単にはいかない。
「ぐふっ……ごほっ、ごほっ」
「調子乗ってんじゃねえよ!」
背中に今までにないほどの痛みが走り、私は思わずむせた。床に吐瀉物がぶちまけられる。どうやら、衝撃で吐き出したらしい。私は全身の痛みとともに、必死の思いで立ち上がる。口元をぬぐうことすら許されず、男にひたすら殴られた。
視界の輪郭がぼやけ始める。殴られ蹴られ続けている私。そろそろ万里さんに矛先が向かってしまうのかもしれない。それだけはなんとしてでも阻止する必要がある。でも、体中に力が入らない。泣いている万里さんをなんとなく見たくなくて、目を瞑る。このまま眠ってしまいそうだ。
「おい、このまま死んじまうか? 情けねえなあ!」
「がはっ……!」
下腹部に足を突き刺され、グリグリと圧迫される。また私は吐いた。万里さんに買ってもらった綺麗な服が、吐瀉物によって汚されていく。彼女との思い出が、汚れたものとなってしまう。
抵抗する体力はとうに枯れ果てた。必死に呼吸をして酸素を取り入れるが、肺が焼け付くように痛くてそれすら苦痛だ。呼吸をしないと生きていけないのに、それすらもしたくなくなるという矛盾。やはり死神は私に鎌を下ろそうとしている。
明確に意識が薄れていく。私は何も守れないまま、すべてを犠牲にしたままこの命を終えるのだ。全くもって意味のない人生だった。そして、私は世界で一番最低な人間だった。万里さんはどうなってしまうのか。
彼女を守れなかったことだけが、ただただ悔しい。
瀕死の私を見下し、男は気味の悪い笑みを浮かべた。そして、万里さんのところへと向かう。マズイ。どうしよう。けれど、もう動けない。
「スミちゃん!」
泣き叫ぶ声が耳に突き刺さった。そして私の心臓はまた熱を持って動き出した。意識が明瞭なものへと戻る。
髪の毛をつかまれ、顔をぐしゃぐしゃにして泣いている万里さんと目が合った。体を動かすだけで、ところどころが痛む。今度は、全身の細胞すべてが私に行くなと言っている。だが私は鋭く痛む神経に鞭を打ち、立ち上がった。
万里さんの美しい顔が、髪が、体が、心が、あの男に傷つけられる。許せない。私はふと、父親に殴られた時のことを思い出した。
確か、鼻を殴られたのが一番食らった気がする。
ならば、それに賭けるしかない。
もう一度、私は男の脛を蹴り上げた。足の先に力が入らない。
「まだ生きてたのか? メスガキ」
メスガキメスガキうるさいわ、と怒鳴りたくなったが、代わりにそのエネルギーを拳にこめる。だがそうこうしている間にも床に押し倒された。頬を何度も殴られる。そのたびに神経が悲鳴を上げる。だが押し倒されたことにより、男の顔が近くなった。きっと、今しかない。私は体中の力を振り絞って、神経が千切れそうになっているのではと思うほどの痛みに打ち勝って起き上がる。そして、男の小鼻をへし折る勢いで殴った。
「が、ぁあ……」
私は恐怖で目を瞑っていた。効いているのかはわからない。恐る恐る目を開けると、男は私の横でうずくまっていた。顔面を抑えている。よく見ると彼は鼻から血をボタボタと垂らしていた。それこそ不安になるほどの出血量だったが、ざまあみろ、と心の中で呟いてみる。
なんとか立ち上がった男は、鼻を抑えながらこちらを睨んできた。だが、もう攻撃する気力はないようで、そこから動かない。
「万里さんは大切な人なんです。金輪際、傷つけないと約束してください!」
私は、精いっぱいの恨みをこめて、男に懇願した。もうこんな万里さんを見たくはない。
男は舌打ちをし、足早に部屋を去った。私は後ろで下着姿のままうずくまる万里さんの肩からブランケットをかける。彼女はボロボロと涙を流していた。そして、私にものすごい勢いで抱き着いてきた。こんなに年上の大人で、ましてや万里さんのような人でも、こんな風に泣くんだ、と少し意外に思った。
「スミちゃん……」
私の胸の中で泣き続ける万里さんを、私はしっかりと抱きしめた。私を受け入れてくれた万里さんにできる恩返しと言えば、これくらいしか思いつかない。綺麗な、綺麗なその髪の毛。そっと撫でると、すっと指になじむ。男によって汚されたものを浄化するかのように、指先に力を込めて撫でた。身長の割に華奢な肩が、やけに孤独に見えた。
「ごめんね。本当に、ごめんね」
なぜ謝るのだろうか。私は、万里さんがここにいてくれるだけで幸せだというのに。
万里さんの頬が腫れている。私はそこにそっと触れる。彼女が微かに顔をゆがめたので、脊髄反射のように素早く手を離した。代わりに背中に手を回し、再び抱きしめる。彼女の体温をしっかり感じられるということに安堵しながら、私は彼女の涙を指でそっと拭った。
「本当にごめんね、スミちゃん。でもありがとう」
私にはその言葉だけで十分だった。さらに抱きしめる力を強めて、一生離れたくないと思った。
「元カレ」
「え?」
「さっきの人。付き合ってた頃もああやって殴られたり無理やり裸にされたりしてた。最近はあんな風に金づるになってたんだけど、スミちゃんがいてくれて本当に助かった」
私たちは部屋を掃除し、傷の手当をした。そして今はリビングで隣り合って座り、紅茶を飲んでいる。万里さんは砂糖を入れていないので、私も強がって入れていない。だが、あんまりおいしくない。飲むたびに顔をゆがめてしまいそうになる。大人しく砂糖を入れておくべきだった。
「スミちゃん、強かったね」
「一応、運送業でしたから。重いものも運べます」
「流石。頼もしいね」
ふと、喜多川課長や雄一はどうしているのだろうと思った。私が飛んだことに対して、どう思っているのだろうか。怒らせてしまっているだろうか。悲しませてしまっているだろうか。それとも、なんとも思っていないだろうか。私は色井急便にとって必要な人材であれたのだろうか。後悔の念は絶えることがない。
万里さんがティーカップに口をつけた。私はふと、そのティーカップを羨む。無条件に彼女に大切に扱われ、キスまでしてもらえるティーカップ。私は嫉妬をしながら、自分のティーカップを哀れに思った。何も私とキスをするためにティーカップとして生まれたわけではないだろう。
憐れみの意を込めて口をつけた場所を指で拭う。
「スミちゃん」
いつか彼女に花澄と呼ばれてみたいな、と思った。けれど、正体を明かすわけにはいかなった。私は彼女に拒まれることを何よりも恐れているのだから。
「はい」
「スミちゃんはさ、私のこと好きなの?」
図星を突かれて、私はわかりやすくうつむいた。顔が赤いのが鏡を見なくてもわかる。ここで嘘を吐くのは気が引けた。私は、「はい」と蚊の鳴くような声で呟く。隣に座っている彼女が、肩に手を回してきた。さらに私の体温は上がる。
「万里さん……」
「私も」
どうにかなってしまいそうだった。感情の起伏が激しすぎて、いよいよ死んでしまいそうである。あからさまに慌てる私を見て、万里さんは柔らかい笑みを漏らした。その可愛らしい顔をじっと見つめてみたいとは思うが、羞恥が勝ってそれはできない。
何を思ったのか彼女は、私の首の後ろをそっと撫でた。
「んっ……」
官能的な刺激から思わず声が漏れる。どれだけ恥ずかしい思いをすればいいのやら。私は気持ちを紛らわすために、万里さんの肩にそっと甘えた。まるで猫でも愛でるように優しく、彼女は私の頭を撫でる。
でも、さっきの男は元カレなのだ。つまり、万里さんは異性愛者である可能性の方が高い。彼女はあくまで、私のことを小さな子供を可愛がる感覚で好き、ということで、私の思いは叶わない。そう考えると泣きたくなった。