月の下で香るモクセイ 第8話
気づけば、隣の隣の県の田舎に来ていた。海のよく見える、穏やかな街だった。無人の改札をくぐって外に出ると、恵比寿には吹かない風が私たちを出迎えた。
もう日が暮れ始めている。その街の海岸は、断崖絶壁のすぐ下に大海原が広がっていた。夕日に染められて、美しく色づいた海。その色を永久に忘れたくないと思いながら、私は地面に座り込む。
崖に腰かけて、足を海風にさらす万里。彼女はすでに、すべてが終わることを悟っていた。
今日の万里は、いつものブラックコーデではなかった。真っ白なワンピース。こんな彼女はこれまでに見たことがなかった。それは、まるで死装束のようにも見える。近いうちに、私たちは葬られる。この広い、広い海に。
万里は振り返り、ここに座り込んでいる私に手招きした。
「こっちおいでよ」
「落ちるよ? 怖い」
「どうせここに飛び込むのに」
「そういう問題じゃない」
足を宙ぶらりんにするのは、やっぱり怖い。何しろ崖なのだ。それを平気でできる万里の神経を疑いながらも、私は彼女の隣に座った。やっぱり、一緒にいたかった。一ミリでも近くにいたかったし、一秒でも長く彼女の呼吸を感じていたかった。
会話を交わさず、ひたすらに万里の横顔を眺める。彼女は、だんだんと紫になって行く海を眺めている。その瞳は、夜景を眺める瞳とはまた違っていた。安堵と悲しみが混じった瞳だった。
沈みゆく太陽。最期の夜がやってきた。
星鏡が、揺蕩う。民家すら疎らにしかなく、街灯りはない。だが、その分星の美しさは恵比寿とは比べ物にならなかった。
四人を殺した夜に見た星空を思い出す。あそこも田舎だったので、星が綺麗だった。
あの広い宇宙の中に、四人はいる。そして、私たちも、明日の朝陽が上る頃には、あそこに存在していることだろう。
銀河は広大で、あの星の一つ一つに、私たちのような悲しき恋人がいるのかもしれない。そして、今まさにこの宇宙へと飛び立とうとしている者がいるのかもしれない。心中すれば、きっと私たちは冥土でも結ばれる。そう信じていた。
岩波が、まるで私たちを煽るかのようにさざめく。
夜風は放り出された足を冷やす。
「花澄」
もうじき、この名前も呼ばれなくなる。阪東花澄は、故人と化す。
「何?」
万里の顔が、私の首筋に埋まった。そして、そこを強く吸い上げられる。
「いっ……」
鈍い痛みが神経に伝わった。でもその痛みは甘く、煽情的なものであった。顔を離した万里の口元は、濃艶な弧を描いている。
私は万里の首筋に吸い付いた。香水がふわりと香る。多分、これは金木犀だ。私と万里が出会った日の香り。服からは、寝室のチューベローズが微かに香る。まるで私たちに警告するかのように。私が愛した証拠を残すように、そこを強く吸い上げる。首筋をそのまま啜る勢いで、ジュッという悩ましい音を立てながら、私は万里のそこに紫色の愛を遺した。
月はもう、だいぶ高いところまで上がっていた。この時間が、終わりに近づいている。甘く痛む自分の首筋を撫でていると、私の右肩に万里がもたれかかっていた。可愛い顔で眠っている。
胸の奥から、どうしようもない愛おしさが込み上げてきた。
もうすぐ死ぬというのに、眠気というのはお構いなしに訪れるらしい。でも、ここで眠ってしまったら、もう二度と彼女の寝顔を見ることは叶わなくなる。それが恐ろしかったので、私はずっと彼女の髪を撫で続けることにした。
猫のような強いまなざしは、今は柔らかく瞼の裏で眠っている。眠ってしまえば彼女は、ただの可愛い私の恋人だった。今はあの、すべてお見通しとでも言いたげな余裕のある表情をしていない。
強い人でも、眠っているときには当然ながら無防備になる。だから、私は彼女といくつもの夜を超えられたことが嬉しかったのだ。初めて彼女に触れたのも、彼女が眠っていた時だった。
あの夜のように、私は彼女の手を取る。しっかり暖かかった。そのことに安堵しながら、私はその細胞一つ一つを愛でるように手の甲を撫でた。こうして指を絡めたまま眠って、朝になったら彼女に抱きしめられていたっけ。
もっと前の夜も思い出す。万里の家に来て、お風呂に入っていた時のこと。金木犀の香りのシャンプー。私は金木犀の香りが何だかわからなかった。次の秋にはたっぷりと味わうはずだったのに、もう私には秋は来ない。私は、この夏に永遠に閉じ込められるのだ。彼女とともに。
私たちは九月に行くことはなく、私たちが出会い、永遠となった八月を抱きしめたまま死んでいく。それは儚くないし、美しくもない。私は姑息だと思っている。今逃げることさえできればなんでもいいと思っているし、万里と共に生きる手段が、逃げる手段がこれしかないのだから。どうせその場しのぎである。だが、姑息で何が悪いのだとも思う。恋人なんて、みんなそうじゃないか。
最初は確実に愛し合っていたはずなのに、いつしかご機嫌取りだけの関係になって行って、結婚してたり、ましてや子供なんていたら離れることも容易ではないので、惰性でそばに居続ける。それを愛と呼ぶ人もいれば、私のように姑息だという人もいる。
旦那デスノートや、レスなどの話題を見るたびに、結局は関係を継続させるために姑息な手段を取る人の多さにうんざりする。
この燃えるような愛が続いているうちに、永遠の存在となってしまう。これこそ最高の姑息な手段だが、これが一番だった。
死してもなお、彼女を愛し続けることができる。最高だ。死んでしまえば、永遠に私たちは凍結される。そして、解凍されない。生きていたって、私は怯えながら彼女を愛することとなる。そんなのは嫌だ。
月は傾き始めていた。もうすぐ、朝焼けが私たちをこの世界から連れ去り、そして私たちの望みが叶う。
自分勝手すぎることは、わかっていた。でも私は盲目になっていた。何も見えていなかったし、何もわかっていなかった。
世界は少しずつ、だが確実に私たちを拒み始めた。水平線の向こう側に、何があるのだろう。そこにはきっと、希望があって、絶望があって、愛があって、姑息な恋人たちがいる。そして、惰性の愛もある。
当たり前のように宙ぶらりんになっている足。万里さんとここに初めて座ったときは怖くて仕方なかったのに、今は何にも感じない。死ぬことへの恐怖が、だんだん薄れていく。むしろ、楽しみになってくる。なんなら、今すぐにでも彼女を抱きしめたまま海に飛び込みたいくらいだった。
今すぐに、醜い自分の肉体を脱ぎ捨てて、美しい泡沫となって、儚く散りたい。でも、私は待つ。彼女が起きるまで。朝が、私たちを殺しに来るまで。
私は、まるで母親にすがる子供のように、眠る万里に抱き着く。よくよく考えれば、彼女は大体私の母親と同年代くらいだった。そんなことに今頃気づくほどに、私は盲目になっていた。
もっと、見ていたい。可愛く眠り続ける、もうすぐ永久の眠りにつく万里を。だけれど、どうやら私も眠くなってしまったようだ。私は最後まで必死に抗おうとする。だが、その努力も虚しく、私は万里と頭をくっつけあって眠りに落ちた。
頬に唇を落とされて目が覚めた。昨日もこうして目覚めた気がする。幸せだ。
だが、すぐにただ事ではない雰囲気を察する。
閑静な田舎のはずのここだが、人だかりがこちらに近づいてきているような気配がした。あくまで気配だが、悪い予感は当たるものだ。
「おはよう」
人生最後のその言葉を聞きながら、私は必死に笑顔を作る。
「おはよう。ねぇ――」
「お迎え、多分もうすぐきちゃうよ」
万里はすでに覚悟が決まっているようだった。私もそうだ。
今日は風が強く、白波も荒ぶっている。今日なら、確実に死ぬことができる。ここの海は浅くて、海底は固い岩となっている。そこに頭から飛び込めば、即死になるはずだ。私は崖の下を見つめる。怖くはないが、ただただ不安だった。
万里は、本当に死んでもいいと思っているのだろうか。
「花澄、綺麗だね」
万里は水平線を眺めながら言った。昨日の黄昏時と同じ色の海は、確かに美しい。
「うん、綺麗だね。晴れててよかったね」
「違う」
万里がそう言って、私の頭を掴んだ。至近距離で見た彼女。化粧はやはりはがれかけているが、その姿を私に見せてくれていることがなぜだかとっても嬉しかった。
「花澄が綺麗なの。世界で一番」
罪だ。万里の言葉、一つ一つが罪だ。彼女の言葉だけで詩集を作りたいくらいに、彼女の紡ぎだす言葉が全部好きだった。そして、心地よかった。星屑のように、小さいけれどまばゆいような言葉をささやかれるのが好きだった。
ずっと私だけに愛を伝えていてほしい。
「万里も綺麗だね」
「私が?」
「うん。すっごく。自覚してなかったの?」
「自分に自分で恋に落ちることほどみじめなことはないよ。他に愛する対象は見つけた方がいい。でもね、自分って本当に裏切らないんだよ。いいことも、悪いことも全部返ってくる。そういう意味では、自分を愛したほうがいいのかもしれないね」
いいことも、悪いことも、全部返ってくる、か。
いまのところ私は、殺人の罰を受けていない。むしろ、これから幸せになろうとしている。だから、その言葉には少し懐疑的だ。そもそも、なぜ私に罰が当たらないのだろう。子どもたちが少しの間の夢を見させてくれているのだろうか。
その時、けたたましくパトカーのサイレンが響いた。
しかも多分、これは数台一気に来ている。サイレンが重なり合って、響き合って、不協和音を生み出していた。
私は、まるで他人事のように冷静に、客観的にこの状況を達観していた。むしろ、万里の
方が怯えている。握った彼女の手は、冷たかった。まるで、もうとっくに死んでいるかのように。私だけを遺していってしまったかのように。
もうじき、私たちに真っ赤なスポットライトが当たるだろう。その前に飛び込み、命を絶えさせなければ。
「なんで花澄が泣いてるの?」
「万里もでしょ?」
死ぬのは怖くなかったはずなのに、なぜだか私は泣いていた。だが、それは万里も同じだった。二人とも、ボタボタと涙を流していた。本能が死を拒否しているのだろう。でも、本能ですらもう私たちを止めることはできない。
「万里、本当にごめん」
私と共に心中することによって、彼女はすべてを捨てることとなる。その美しい肉体も、店も、夢も、輝かしい人生も。それでも彼女は私と死ぬ道を選んだ。あの時、私を追い出すことも可能だったはずなのに。
あふれる涙を指で拭われる。そして、最期の抱擁を交わした。
「もう私は怖くないよ、花澄」
そして、最期の愛の言葉をささやいた。
「愛してる、万里」
「私も愛してる、花澄」
涙で濡れに濡れた唇を合わせ、抱き合ったまま私たちは海へと飛び込んだ。そして、二度と上がってくることはなかった。浪華に飲まれ、永遠にその海の底で孤独を味わうことになった。
万里だけは。
私は、最悪の結末を迎えることとなった。