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月の下で香るモクセイ 第4話

 ずいぶんと長く眠っていた気がする。
ゆっくりと眠れたことに対する幸せを味わう。もう聖也と聖奈の夜泣きに起こされることもなければ、早く起きて子供たちの世話をする必要もない。 
 とっても嬉しいはずなのに、私の罪の重さを再認識する。
 窓から入り込んでいる朝陽は柔らかく、私の人生においてはじめての優しい朝を演出していた。
 太陽に優しく笑いかけながら、私は自分の身を起こす。
 体の重さは消えていて、フワフワと身が軽い。やはり休養とは人間にとって大切なことだったのだ。
 万里さんはどこに行ったのだろうか。私はベッドから降り、リビングに出ようとする。
 ドアノブに手をかけ、ふと手が止まる。ドアの向こうから、足音や何人かが話し合う声が聞こえてきた。ほとんどが男性の声である。
 私は恐る恐るドアを開けた。すると、ドタドタという足音がこちらに近づいてくる。
 顔を上げると、そこには何人もの警官がいた。
「阪東花澄、あなたを殺人の容疑で逮捕する!」
 警官はそう宣言し、私に両手を出すように指示した。隣の警官は高らかに逮捕状を掲げている。万里さんはどこにもいなかった。
 私は恐る恐る両手を出す。重い手錠がそこにかけられた。ガチャン、という残酷な金属音が、私の人生の終了を告げる。
 十九年、まったくもって楽しくなかった。だけれど、この一晩をここで過ごせただけ幸運といった方がいいだろう。
 私は、姿の見えない万里さんに謝り続けた。もしかしたら、私を匿った罪で彼女も逮捕されてしまうのだろうか。私は姿の見えない彼女に心の中で謝り続ける
 両手には白い布が被せられ、私は外に出された。
 それと同時に、シャッター音がけたたましく鳴り始める。フラッシュの眩しさに、思わず目を細めた。マスコミが大量に来ているのだ。
 私は人生で最大の恥辱を味わいながら歩く。でも、縮こまるともっと恥ずかしい。私は震える足自分を支え、なるべく堂々と歩き、無数に群がっているカメラを一つ一つ睨みつけた。
 最後の反抗である。
 体が非現実的に軽い。私は笑っていた。頭がフワフワしている。何も考えられない。むしろ、この公開処刑を楽しんでしまっている。
 なんて罪なヤツだ。
 パトカーに乗せられた私は、窓から差し込む朝陽を見つめる。自由な彼に、私の気持ちなどわからない。
 最悪の罪人としてこの生涯を終えることには、後悔しかない。
 けれど、こうなる運命だったのだ。あんな環境に生まれた時点で。
 その時、ひときわ強い日差しが、私の瞳を突き刺した。

「――はっ!」
 私は息を切らしていた。体中が汗だくである。私は自分の体を抱きしめて、今自分がここに存在していることを確かめる。
 確かに私は、万里さんの寝室で寝ていた。
 夢だった。けれどきっと、いつか現実になる。襲ってくる寒気。
「大丈夫?」
 右隣から聞こえた声。布団がバサッと捲られ、女神のような女性が現れる。
 万里さんだった。やはり同じベッドで寝ていた。よくよく考えれば当たり前のことなのだろうが、初対面の人と一緒に寝ていたと思うと、妙に小っ恥ずかしい。
 あの気の強そうな化粧は落とされている。ラメの輝きは消え、肌は少しばかり毛穴が目立つ。真っ赤なリップははがされていて、ベビーピンクの唇は少し血色が悪い。それでも、はきりとした顔立ちであることにはかわらない。とっても、とっても可愛い。
 年上の女性に対してかわいいと思うのはあまり適切ではないと思うけれど、かわいい。女の子は何歳になってもみんなかわいい、と誰かが言っていた気がするが、その通りなのかもしれない。ただし、美人に限るという条件付きで。若かろうが老いていようが、宝石はいつまで経っても宝石だし、石ころはいつまで経っても石ころなのだ。いくら石ころを磨いたって、宝石にはなれない。宝石は汚くても宝石である。
 寒気は消えたが、羞恥心から頬が火照っていく。私がベッドの上で頬を赤くしていると、万里さんは急に起き上がり、そして私の頬をそっと撫でた。
「万里さん……?」
 万里さんの手のひらは程よくひんやりしていて、心地よい。物理的な刺激とは裏腹に、私の頬はどんどん赤くなっていく。
「顔、赤いよ? 大丈夫?」
 額に手を当てられる。私はビクッと体を震わせた。
「熱はないね。どうしたんだろう」
 あなたのせいです、あなたのせいで私は興奮してしまっているんです、と言いたいが、言ってしまったら変な好意を抱いていると勘違いされそうだ。頭の中にドロドロと熱いものが流れていく。胸が高鳴る。
 私は紅茶を胃に流し込んで自分を落ち着けた。マフィンをかじりながら、向き合って座っている万里さんをこっそりと観察する。マフィンの粉がボロボロと落ちていく。ちょっと食べ方が汚いけれど、それすらもかわいい。やはり美人は得だなと思う。エックスかなんかで、裁判でも美人の方が罪が軽くなりやすいと見たことがある。
 私は不釣り合いなほどに高そうな服に体を包まれていた。当然服なんて持ってきているはずもない。丈が短めの、タイトなブラックワンピース。万里さんが着たらきっとサマになるのだろうが、体にメリハリがほとんどない幼児体系の私には似合うはずもない。
 外に出ると、まだ朝の七時なのに汗ばむほど暑かった。真夏の日差しは私たちを容赦なく痛めつける。
 万里さんの日傘の下に入り、懐疑的に街を見つめる。誰も、私が殺人犯だとは疑っていない。
「ささ、着いた着いた」
 広尾の雑居ビルの一階に、万里さんのお店「synchronicity」は存在していた。
 私は万里さんとカウンターに立ち、お会計のやり方を教わる。
「で、レジはこうやって使ってもろて、もしお客様がペイペイだったらこれを読み取っていただいて……あ、キキちゃんおはよう」
「おはようござい……ってどうしたんですかその子?!」
 キキちゃんはぎょっとしてこちらを見るが、私はそれ以上にぎょっとした。いちごミルクのような可愛らしいピンク色をした頭の若い女性が店に入ってきたのだ。頭だけではない。瞳もピンク色で、いわゆる量産型のピンク色のワンピース。ピンク色のバッグには、マイメロディのぬいぐるみがぶら下がっている。まるでアニメから出てきたみたい。2.5次元の舞台女優と言われても違和感は抱かないだろう。キキちゃんは万里さん以上に個性が強そうだ。
「親戚の子。スミちゃん。雑用係として連れてきちゃった!」
「うっわあ、可哀想。ごめんねえ。店長怖いよねえ」
「失礼だなあ、まだアシスタントのくせに」
「いつか表参道のキラキラスタイリストになりますってばー」
「いつになることやら」
「もー、店長ぅー。ピンク頭がキツいって思われない年までには独立しますよー。私まだ二十歳ですよ? 行ける行ける!」
「二十代なんてあっという間に過ぎるよ……?」
 二人の付き合いは結構長いのだろうか。キャッキャと騒ぐ、個性強めの美女たちの隣で困惑する、ある意味個性強めな芋女の私。居場所がないように思えて、何となく天を仰ぐ。そうしているうちにさっさとキキちゃんはシャンプー台のセッティングに向かった。
「スミちゃん、ここ掃除して!」
「はい!」
「スミちゃん、レジよろしく!」
「はい!」
「スミちゃん、お客様にお水をお出しして!」
「はい!」
「スミちゃん、タオルお願い!」
「はい!」
 思ったよりも忙しく一日を過ごした。けれど、万里さんはもっと忙しそうだった。「宮崎
、昼休憩入りまーす」と彼女が言ってから「ただいま戻りましたー」までの時間はわずか三分である。けれど、休憩を取っていない人も結構いた。お客様は絶え間なくいらっしゃるし、予約は常にギチギチである。ひっきりなしに鳴る電話を取るのも私の仕事だった。そしてエクセルにお客様のお名前や予約内容を入力していく。
 夢中で過ごして、営業終了後の店内でやっと一息つく。キキちゃん含むアシスタントは、カットモデルで練習をしていた。
「スミちゃん」
 カウンターの中で座っていると、万里さんが隣に来た。わずかながら顔に疲労の色が見える。
「お疲れさま」
「ありがとうございます」
「暇でしょ?」
「暇です」
「明後日、午後は予約入っていないんだよね。一緒に買い物行かない? 服でも買ったげる」
「行きます!」
 私は胸がときめくのを感じた。都会のショッピングモールで買い物という、ずっと夢に見てきたことが叶うのだ。私は自然と頬が緩むのを感じる。そんな私の頭を、いとおしそうに万里さんは撫でてくれた。

 待ちに待った八月十三日。昨日と今日の午前は普通に万里さんの店を手伝った。だがその間も、そわそわして仕方がなかった。たった一日半なのに、一か月くらい長く感じた。そのくらい楽しみだった。
 恵比寿の大きいショッピングモールの、信じられないほどに長いエスカレーターを上っていると、万里さんが「ほれ」とお金を渡してきた。金額は一万二千五百円だった。
「お給料。一日五千円ね。一昨日と、昨日の分。今日は半日だから二千五百円」
「くれるんですか」
「さすがに怖い店長の私もタダ働きはさせない」
 お茶目に笑う万里さんはとても可愛い。今日は、唇に紫のかった寒色系のリップが塗られていた。そして今日はアイラインが切開ラインまでしっかり引いてある。この人にはパーソナルカラーという概念はないのかと思うくらいに何でも似合う。
 その後、私と万里さんはショッピングを楽しんだ。
おしゃれで高そうな服屋さんと靴屋さんで店員さんに「とってもお似合いです、お客様!」とおだてられまくり、そしてやたらとまぶしすぎるランジェリーショップで店員さんに「綺麗なお胸ですねー!」と褒めちぎられまくり、やたらと派手なカバン屋さんでは「お客様にはこちらの方がお似合いですよー!」と高い方を押し売りされたりしたけれど。今日罹ったお金は、なんと総額二十五万円。だが万里さんは平然とクレカでお会計を済ませていくので、少々ビビった。
「ちょっとこの後店に戻ってもいい?」
「もちろんです」
 私たちは両手にやたらと煌びやかな紙袋をたくさんぶら下げていた。DiorもLouis Vuittonも、私ですら名前を聞いたことがあるブランドだ。絶対私には不釣り合いだろうに、万里さんが勧めるものだから乗せられてしまった。
 店に着いたが、彼女はいつもの入り口からは入らず、路地裏に入った。
「万里さん? 入り口はこっちでは……?」
「ここからも入れるよ」
 重そうな扉を万里さんは開ける。二重扉をさらに開けると、そこには美容室の個室があった。セット面とシャンプー台が一つずつ置かれ、広くて座り心地のよさそうなソファまである。
「ここは……?」
「私の店の個室。VIPルーム的な位置づけかな。芸能人のお客様もたまにいらっしゃるからさ、やっぱりお客様には落ち着いてサービスを受けてほしいよね」
 そういって万里さんはさっさと手を洗う。その表情は自信に満ち溢れていた。なぜそんなに得意げな顔をしているのかは私にはわからない。
 彼女は煌びやかな紙袋から、一番高かった白色のセットアップの洋服を取り出し、私に手渡した。
「とりあえずこれに着替えて。向こう向いてるから」
「え、なんで……?」
「いいから」
 万里さんの優しい声色から、少しの圧を感じたので、私は着替えた。セット面の鏡で自分んを見ると、顔と体が合成でちぐはぐになっているように感じる。とても高級な服を着ているのにも関わらず、首から上は芋っぽいのだから。
「終わりました……」
「じゃ、ここ座って」
 万里さんはセットチェアを回転させた。なぜか、鏡に背を向けるように座らされた。そしてクロスをかけられ、「おまかせでいい?」と聞かれる。彼女が何をしようとしているのかは分かった。
 いい匂いのシャンプーで髪を洗われ、髪の毛を切られる。綺麗な手つきで髪が形を変えていくのが、見なくても分かる。私は高鳴る胸を抑えた。髪に神経は通っていないとはいえ、なんとなく体がびりびりする。
 ふと、頭皮に少しの刺激が走った。多分、何か塗られているのだろう。けれど鏡は見れないので、何をされているのかは知る由もない。
 謎の液体を塗られてからしばらく経つと、急に万里さんはこちら側に回ってきた。やけに意地悪そうな顔をして。
 彼女は手を洗うと、肌色のクリームを手にとって、私の顔に塗り始めた。彼女の顔は真剣で、そのまなざしは私を捉えてはいない。ただ私の顔はキャンパスとして映っていることだろう。私の髪を切っているときもこんな表情だったのだろうか。
 ピンク色のアイシャドウに胸をときめかせる。私も、やっぱり普通の女の子だったのかもしれない。女の子、と呼べる年齢かはぎりぎりなところではあるが。あんなに男性ばっかりの決してキラキラはしていない仕事をしていても、化粧なんてしたことがなくても、やはり可愛いものにはときめく。
 グロスを手に取られ、ゆっくりと唇をなぞられる。その指をしゃぶりたくなってしまったが、そこは理性で堪えた。唇に万里さんの体温が残っていて、下腹部がじゅん、と熱くなるのを感じる。
 勝手に恥じらいながらうつむいていると、彼女に手を取られた。そして爪を削られる。不潔に割れたり伸び放題だった爪は、少しずつ、だが確実に美しさを纏っていった。万里さんに美しさを授けられていく。
「ネイルに関しては完全に素人だから、下手だったらごめんね」
 死んでいた爪はトップコートを塗られたことによって生きる希望を取り戻していた。桜のように薄くて可愛らしいピンクが宿る。そしてその上から、星屑のように輝くラメを塗られ、小さな宇宙が作られた。宇宙というのは壮大に思えて、本来はこのくらいかわいいものなのかもしれない。きっと、世界はかわいいでできている。
 また万里さんは私の背後に回る。彼女にすべてを託してみたい。されるがままになってみたい。だがその望みは、きっと叶わない。彼女に寵愛を受けてみたいと思うが、きっと彼女にはもうすでに別の愛すべき相手がいることだろう。
 悶々としながらも髪をもう一度洗われ、髪にコテを当てられる。そしてくるくると彼女は巻いていった。とんでもない技巧のように思えるが、最近の女子高生はみんな髪を巻いているらしい。私にはこれを習得できる気がしなかった。
 ふわりと香る彼女のヘアオイルと同じ匂いのものが髪に塗られた。まるで、彼女に抱きしめられていると錯覚してしまう。香りは優しく私を包んで、そして酔わせる。また切なくなる。
 クロスを剝がされる。ただそれだけなのに、まるで裸にされたかのような気がして赤面した。
「最高だね」
「え?」
 万里さんはそっと私の輪郭を撫でた。
 振り向いて彼女の顔を見ようとしたが、制されて、ただ自分の膝を見つめる。自信なさげに内股になっている私の膝。彼女の言葉の真意は、わからない。
 突然、セットチェアがもう一度回された。私はひたすらに自分の膝を見つめた。鏡とは残酷なもので、いつだって私のことを騙す。鏡の前で女は一番美しくなるのだ。だけど、美しいのはそこだけで、鏡の中の自分を肯定したところで結局誰かに肯定されないと本当に美しいとは言えないと思う。写真の中の自分ほど怖いものはない。それと同時に、鏡の中の自分ほど好きな自分はいない。
 万里さんに強引に顎を持ち上げられる。目が合った。恐ろしい、恐ろしい自分と。
 別人だった。
 甘いピンクブラウンの髪はくるくると巻かれ、目元はローズピンクで彩られている。唇には綺麗なグラデーションが描かれ、まつ毛は乙女の象徴であることを主張するかのようにはっきりと上がっている。まるで魔法にかかったような気分になった。これが阪東花澄であるという事実が信じられないが、鏡の中の自分はいつだって美少女に映っている。だから実際は――。
「綺麗だね、スミちゃん」
 蠱惑的な声は私の心に熱を抱かせた。
 恐る恐る振り返ってみると、そこには女神のような魔法使いがいた。私に魔法をかけた人。そして、私よりも何倍も綺麗な人。
「万里さんの方が綺麗ですよ」
 私がそう言うと、万里さんは首を振って、私の頬を両手で包み込んだ。そのまま唇を彼女と重ねてみたいと思うものの、そんなことがあるはずもない。ただその優婉な笑みを私に向けるだけ。そこに言葉はいらなかった。
 視界が彼女で飽和され、思わずため息が漏れる。私は彼女のことを、上目遣いで見つめた。これが私の、精いっぱいの求愛だった。
 そんな私を見た彼女は、そっと手を離し、私の手を握る。そしてそのまま、夜の都会を歩いて帰った。なんとなく離れたくなくて、手をしっかりと繋いだまま、体を彼女にぴったりとくっつける。そんな私を見て、彼女は私の頭をそっと撫でた。
 もしかしたらずっと、彼女のそばで笑っていたいのかもしれない。

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