月の下で香るモクセイ 第9話
『本来なら死刑となるところを、置かれていた家庭環境と犯行動機から情状酌量され、無期懲役となった。このニュースは全国で大々的に報じられ、私にはたくさんの罵詈雑言が浴びせられた。やはり、すべては自分に返ってくるのだ。また、心中をしようとして、私だけ未遂に終わって逮捕されたという少々変わった事件性から、この事件を創作に使うものも現れ、なんなら映画化もされるらしい。でも、同情の声も少なからずあった。私の家庭環境についても報じられたからだ。それでも私は、やっぱりあの時、両親を殺しておくべきだったと今でも思う。 20XX年X月X日 阪東花澄』
あれから、十六年が経った。皆がこの事件を忘れたことだろう。
あの時、海に飛び込む瞬間に万里が私の下敷きになってしまったのだ。その結果、私は死ぬことができなかった。後頭部を強く海底の岩に打ち付けた万里は、即死だった。血まみれになって死んでいる万里を見た瞬間、私は今すぐに海で溺れて死のうとした。だがそれは失敗に終わり、逮捕されたのだ。そして、殺人罪、自殺幇助罪などの罪で刑務所に入ったのだ。
私は、あれから毎日懺悔し続けた。日向に、夏美に、聖也に、聖奈に、そしてすべてを捨てて愛してくれた万里に。
毎日塀の中で、退屈な日々を送り、変わらない労働をしながら過ごす。当然の報いだった。
一瞬たりとも万里への愛が薄れたことはない。万里はあの時の美しい万里のまま、今も私の中で生き続けている。あの燃えるような愛はあの瞬間で凍結されたのだ。
刑務所の中では、手紙を書くことができる。でも、私は今まで誰にも書いたことがなかった。だって、塀の外に私が愛している人などいないから。中学時代の友達で卒業後も関係が続いた子はいない。親なんて今もどこかでのうのうと生きているらしい、腹立たしい。とても。だけど、自分の過ちの方が何倍も腹立たしかった。
私はペンを手に取ってみる。もう届かない相手への手紙を、私は綴った。
「宮崎万里 様
拝啓 こちらは、紅葉の美しい季節となりました。私はあれから十六回目の秋を迎えることになります。あなたの年齢をあなたが亡くなってから知ったのですが、私はあの時のあなたと同い年になりました。
三十五歳など、イメージのつかない年でしたが、こうして迎えてみると案外自分は子供っぽいなと思ったりするのです。ずっと塀の中にいるからなのかもしれませんが。
誰も面会に来てくれたことはないし、孤独な日々ですが、これも当然の報いです。あなたが来てくれたらどんなに幸せだろうなあと思うのですが、私があなたのことを殺してしまったのです。かなうはずもありません。せめて夢に出てきてくれれば、嬉しいです。
ところで先日、本を読んでいたところ、万里一空という四字熟語を見つけました。万里、という字があったので、ついあなたのことを思い出しました。一般的に知れ渡っている『ひとつの目標に向かって努力する』という意味もあるのですが、本来は『どこまでもこの世界は一つの空の下にある』という意味のようです。
空はまるで世界に張り巡らされた鏡みたいだな、と思うのですが、と同時にこの鏡にあなたは映らないことを思い知らされてしまうのです。あなたがこの世界にいるのであれば、私は生きる価値を見出せるでしょう。あなたがそこにいるのであれば、私は地球の中心にだって潜り込んで見せます。
なんて言ったところで、あなたには届きません。届くはずもありません。
ああ、涙で便箋が濡れてしまいそうです。
もしあなたが生きていたら、今年で五十一歳ですね。きっとその年でも、だれよりも美しかったことでしょう。私はもうあなたの輪郭もぼんやりとしか思い出せませんが、本当に美しく、いつまでもながめていたいようなお顔であったことは覚えています。
あなたの家にはじめてお邪魔した際、金木犀の香りのシャンプーを使わせていただきました。私は金木犀の香りが何だかわからなくて、次の秋には味わいたいなと思っていたのです。けれど、私はあの夏に永遠に閉じ込められてしまいました。だから、金木犀の香りが鼻腔をくすぐるたびに、私はここにいるべきではないな、と思ってしまいます。あなたと金木犀の香りに包まれながら、笑い合っていたかったです。チューベローズに包まれながらあなたと抱き合っていた、あの背徳感まみれの夜も、大好きです。
愛しています。世界の何に代えてでも、あなたを守りたかったのに、殺したのは私でした。万里さん。あなたに会いたいです。愛してるって言わせてください。あなたへの思慕は、永遠に薄れることはないのです。抱きしめさせてください。どんな責め苦が待ち構えていようとも、あなたがもう一度笑ってくれれば、それでいいんです。でも、それすらもう叶わない。全部、全部、私の始めたことだから。 敬具
20XX年10月X日 阪東花澄」
真っ黒になった便箋を見ながら、私はため息を吐く。気づけば涙が溢れていた。私は声を上げずに静かに泣く。あの日、双子を抱きながら泣いたように。双子と万里にしか見せられなかった涙。私の涙を受け止めてくれる人は、ここにはいない。だから一人で泣くのだ。
こんなものを書いたって、何にもならないというのに。いつか愛が薄れてくれるその日を待っていたけれど、あの日に置き去りにした愛はそう簡単に私の心を去ってくれなかった。あの日からずっと、私は彼女を渇していた。
ふと、開け放たれた鉄格子付きの窓から、残酷に強く秋が香る。
ああ、金木犀だ。
もう見ることのできない彼女の笑顔が脳裏によぎり、私はいつまでも慟哭した。