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神々の化石群

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

【あらすじ】
小都会の暮らしに飽いていた大学生の僕が、変わり者の准教授に連れて行かれた田舎の不思議な光景の中で、不思議な青年と出逢う。
天空の里、神の里と言われる場所で、青年から語られる奇妙な神とヒトとの物語。
田舎の奇怪な風習、神話とヒトとの融合、何より不思議な青年の魅力に取り憑かれた僕が、彼と共に都会暮らしを決意するが、それは神とヒトとの約束の破綻を意味した。
神は、ヒトは、寄り添い合って生きられないのか。
神と、ヒトは、分かち難く癒着しているのか、それともどうしても交わり合うことはできないのか。
ヒトは神に依存しているのか、その逆なのか。
答えを探す旅に、言葉だけを武器に出かけた僕が、掴むものは。



【本編】

『これを僕の神に贈ろう』
 そっと握りしめた万年筆のインクは青く、いかにも、草稿、という雰囲気で、しばらく僕はそれを満足気に眺めた。
 昼下がりの、あの日からもう、一カ月が過ぎようとしている頃だった。



「きみの筆が鈍っていることは気付いていたんだ」
 にこにこと話すのは、人文学科の准教授、横田万希子氏だ。
 僕の取っている、正確に言えば、取っていた、ゼミの先生。
 この先生は短文を僕らに書かせることが大好きで、だからいつも課題に追われていた、という思いばかりが先に来る。
 中でも、僕の書くものをとても気に入ってくれていたことは、ハッキリした態度でよく解っていた。
 好きなものを好きと、嫌いなものを嫌いと言う、ハッキリした女性。
 決して嫌いではないのだが、そして学生人気もある先生なのだが、本人曰く『政治が下手』なのだそうだ。
「後期試験も終わったので、きみもヒマになるだろう?」
 確かに、最近バイトをクビになったばかりなので、時間はたっぷりある。
 余りに余って、持て余して腐ってしまいそうなほどに。
「面白い場所に、一緒に行かないか?」
 万希子先生は、発表前から面白くて仕方がない、という顔をしている。
 何がそんなに楽しいのかは、僕には解らない。
「古い、元学生から誘いを受けてね。そう言えば、彼がここに在籍していた際、面白い話を聞いた、というのを久方ぶりに思い出したんだ」
「先生の、教え子ですか?」
「そうだね、元はそういう縁になる。でも全く忘れていたのだが、先日、ふとハガキを貰ってね。そう言えば彼は面白い場所の話をしていたなあと思い出した、そういう次第なんだ」
 何がどう面白いのかの話は、今してくれる気はないらしい。 
 これは、頷かなければ、或いはきっぱり断らなければ、話がどこにも行かないやつだ。
「どう面白いのか、簡潔に述べよ。横田万希子くん」
「県内だが、車で二時間は走ることになるだろう。そして標高は600を超える場所だとも聞いている。幽けき場所。幽界で共に寝起きしてみないか?」
 ちなみにだが、と先生は続けた。
「勿論だが、私はきみの倍以上生きているからね。きみの貞操の安全は保障するよ」
「そんな心配してません!」
 つい、ボケに素でツッコんでしまってから、しまった、と思わなくもないのだが。
 ツッコんだ僕に、万希子先生は笑った。
「どうだい、なかなか体験できないと思うよ。キャンプなんかの比じゃないと思うがね」
 スリルは。
 先生は、してやったりと笑っていたが。
 スリルも、ついでに言えばサスペンスも、求めてはいない。
 ただ、毎日がくだらなくて味気なくて、色褪せてしまっているだけだ。
 大学に入った頃は、志望大学だったし、志望学部だったし、新生活だったし。
 いろんな新しいことに浮かれて、ただ浮かれていたら一年が過ぎた。
 生活費の足しにするためのバイトも、生まれて初めてだったので楽しかった。
 それも、二年目、三年目、と来て。
 僕は何がしたくてこの大学に入ったのかなあ、と考えてしまうくらいに、それはただの『日常』になっていて。
 くだらなく味気なく、乾いていた。
 大袈裟に言えば、存在意義を見失いがちだったのかもしれない。
 文章を書くのが楽しかったのは、ただの逃避だ。
 僕がいなければ成立しない世界を、持ちたかった。
 僕でなければならないと、僕のペンから生まれる世界は叫んでいたから。
 でも、そうでない世界は。
 ただ課題を終わらせて、読みたかった本なんかも読んで、元々人と付き合うことはあまり得意ではなかったし。
 大学の中で、僕だけが、ぽっかりと浮かんでいるような気分になった。
 そんな中で、いろいろと僕に構ってくれたのが、万希子先生だ。
 本屋で同じ本に目をつけて、図書館に入れて貰って、どちらが先に借りるのかで揉めたり。
 僕の文章の強みと弱みを、じっくりと話してくれたり。
 彼女と話すことが、確かに今の生活の中では最も『楽しい』という感覚に近い。
 だから、それに触れることで、ひび割れそうな自分の何かを修復したかったのかもしれない。
「お金のかかるところなら行けませんよ。僕、バイトクビになったんで」
「そうか、それはますます都合がいいな!一泊千円の民泊に宿泊する予定だから、金はほぼかからないと思ってくれ!」
「え、一泊千円?それ大丈夫なんですか?じゃあ二人で二千円?」
「いいや、どうやらひとつの施設があってな。それを借り受けるのに千円らしい。だから二人だと、一人五百円になるな」
「……それ、ちゃんと屋根、ついてます?」
「なかなかに失敬だな。大丈夫だ、その辺りは先方に確認済みだ。安心してついてきたまえ」
「……世間の宿泊施設がそれなりに高いのって、『安心料』も含まれてるんだって今初めて知りましたよ」
「大丈夫だと言っているだろう? 先方は元教え子なのだし、なに、悪いようにはしないよ」
 ぽん、と肩を叩かれてはもう、はいそうですかとしか言いようがない。
 そうして、僕は曲がりなりにも自分の意志で、あの場所に、あの存在に、出逢うことを決めてしまったのだった。





「ヒッチハイクなんて真似はしないぞ。そんな手段であの場所に辿り着くのは不可能だからな」
 そう言って、万希子先生は笑って、随分古い乗用車を駅のロータリーに回していた。
 それに黙って乗り込むと、先生はカーナビを操作した。
 ナビが指した場所は、聞いた記憶もないような山の中だ。
「神話の里だと、古屋―――私の元教え子が、そう言っていた。あちこちに神の住まう里なのだと」
「そういうのって、出雲のお家芸なんじゃないんですか?」
 ナビの指す通りに、多少覚束ないながらも車を走らせ、風景の緑はどんどん濃くなっていく。
 地方都市、だというのは知ってはいたが、本当に少し離れたら簡単に人の住む景色が掻き消える。
 あちら、こちらに点々と、数軒家が見えているだけの場所なんて、珍しくもない。
 世界はこんなに広いのに、どうしてみんな、狭い場所に肩を寄せ合って住みたがるのだろうと、不思議になってくる。
 広い場所に手足を伸ばして、ごろりと寝転がる方が楽しそうなのに。
「出雲は確かに神の里だが、あちらの神は超メジャー。こちらの神は、聞いたこともないような神様だらけで楽しかった」
「聞いたこともないのに、何で神様だって解るんですか?」
「きみは、神社で手を合わせる前に、そこに祀られた神の由来を調べるかい?」
 それは確かにしない、と思う。
 ただ、神官がいて、そこに神が居ると言われるから、手を合わせるのだ。
 どういう来歴の神様だかなんて、それこそ超メジャーな神様でもない限り、知らないのが普通なのかもしれない。
「この国は、ひどく寛容なんだよ。すべての宗教に。不寛容だと思われがちだが逆だ。すべての神もすべての仏もありがたいと本気で思っているから、ひとの神を攻撃しない。だから自分の神を攻撃されることにひどく敏感だ」
「先生、歴史をやれば良かったのでは?」
 それか神学。
 そう茶化して言うと、先生は笑ったそぶりも見せない。
「歴史はね。趣味だよ。一生続けて行ける、一生答えの出ない学問だ。今こうして、きみや私が生きていることも、数年のちには教科書に載るのかもしれない。載らないかもしれない。この国が存続する限り、だんだん教科書の分厚くなり続ける学問だよ。面白いが私には向かない」
「先生は、答えの出ないものが嫌いですか」
「見くびって頂いては困るね。正答ではないが最適解がある。それが国語という学問の良さだし素晴らしさだと私は思っているよ。きみの書く文章に、私がいつか解説をつけるとしよう。そしてきみは、笑って私に礼を言うだろう。でも私の書いた文章は、きみにとって正答ではない場合が多分にあるだろう。正当ではないが最適解。だからきみがそれを受け容れてくれることも、私は知っているんだよ」
 その最適解をいつまでも探っていたいねと、まるで鼻歌のような調子で先生は言う。
「じゃあいつか、僕が先生の文章に解説をつける日が来たら?」
「それがきみの探った最適解かと、私は嬉しくなるだろうね。私という人間に向けられた、たったひとつの、幾万の選択肢の中から選ばれたそれを。私はきっと、喜んで額縁にでも入れるかもしれないな」
 それじゃあ、僕がそれを書けるように偉くならないと。
 つい零した言葉に、先生はやっと笑った。
「偉くなる必要なんかない。偉くなくても文章で食っている人間は山ほどいる。偉くなるんじゃないよ、巧くなるんだ」
「文章を、巧くなるんですか?」
「まあそれはそうだが、それは第一義だと私は思っているよ。絵のヘタな人間は絵では食っていけないだろう。それが最初の一歩過ぎて、そしてその一歩は多分、我々から想像すると途轍もなく隔たりがある。文章を書ける、と文章の技巧は全くイコールではない。難読な文章を書くことが喜びの人間もいれば、多くの人に届ける為に文章をまろやかにして行く人もいる。それのどちらを、きみは『文章が巧い』と言うかな?」
「それは――――」
 少し、考えてしまう。
 憧れるのは、やっぱり昭和の文豪だ。
 頭の中を難読漢字で一杯にして、難しいことしか考えないで生きて、それをカッコいいって思われたい、そういう欲は当然ある。
 でも、ただ『伝える』ことが目的なら、それは先生の言う『最適解』ではない、のは解る。
 目前に風景が浮かび上がるように、さらりと頭の中に入って行ける。
 それだって、年月をかけないと得られない技巧であるには違いないだろう。
「文章の用途、によりますかね」
 濁した言葉は、けれど本心だ。
 先生の著作を数点読んでみたことはあるのだが、先生は明らかに後者だったからだ。
 伝える、事を目的とした先生の文章は明瞭で、読みやすい。
 もう一冊の本を読み終わった、事が信じられないくらいに、つるりと脳内に情景が、言葉が入ってくる。
 でもそれは、僕の憧れる『文豪』の姿とは、少し違うから。
「きみは太宰や三島、芥川なんかが好きだろう」
 文章の傾向からか、それはただの当てずっぽうなのか。
 言われた名前は、誰でも知っているビッグネームだ。
「それは……誰でも読みます、よね?」
「そうだな、文章を志すなら誰でも読むのかもしれない。でも私のゼミは夏目を選んだ。何故だか解るかい?」
「えっと……教科書にもなってるから?」
「メロスなんかは教科書にも載っているだろう。そうじゃないよ、私も以前、ゼミで太宰を取り扱っていた。でも、彼の作風に惹かれる、というのかな。青春期をダメにしてしまいそうな学生を何人も見た。だから、多感な時期に与えてはならない劇薬と判断してひっこめたんだ。メロスで人生は誤らないかもしれないが、人間失格を読んでインドまで修行に行ってしまった学生が出たんだよ」
「……いや、何でインド?」
「それは解らない。彼は帰ってこなかったからね。特にインドに惹かれる描写はなかったように私も記憶しているんだが、どうしてだか、人生を叩き直そうとして何故かインドに行ってしまった。そして彼は帰ってこなかった。だから、多感な時期に太宰や三島は劇薬であるという判断をしたんだ。自己責任であっても服用して欲しくない」
「薬か何かみたいに言いますね」
「薬だろう。人生を、絶望を救ってくれる薬。きみもそれを文学に求めた一人じゃないのかい?」
 そう言われてしまうと、返す言葉がない。
 確かに、緩んで、引き締め方も忘れたような『日常』の中で、彼ら主人公たちの辿る日常は、何か光のようなものにさえ見える。
 酒色に溺れた主人公は、何か違う世界を見ているように感じてしまう。
「そういう、後ろ向きな欲望は、私にだって解るんだ。でも、きみの倍以上生きているからだろうか。きみには、きみたちには、もっと明るくて綺麗なものを見て貰いたいと、勝手に感じてしまう。暗く湿った場所で酒に溺れて日常に毒づいて挙句女を巻き込んで死のうとした男の人生ではなく、もっと綺麗なものに触れて貰いたい。世界は美しいと、知るのはいつだってできるはずだからだ」
 もうどれくらいの街の影を通り過ぎただろう。
 集落から集落への感覚が、どんどん遠くなっていく。
 住むのに適していたのだろうか。
 それとも、誰かから隠れようとしたのだろうか。
 様々に想像させるような、小高い丘の上の集落を抜け、盆地の集落を抜け、集落に出会わない代わりに鬱蒼と緑を映した長い河の傍を車は走って行く。
 時々、山の下の方にぽつりぽつりと家が点在している。
 どうしてそこに住もうと思ったのだろうか。
 誰もいない、他の家もない、そんな場所に、どうして家を構えて暮らそうと思ったのだろうか、最初のひとは。
 何度も何度も不思議がっているうちに、山をいくつも通り過ぎた。
 もう、誰も、どこにも住んでいないのではないだろうか。
 そう思う頃、カーナビが久し振りの仕事をした。
 700メートル先、左。
 左にしか行きようがないだろうなぁ、と、右側に横たわる大河を見て思う。
「神話の里で。……きみの神様に出逢えたらいいのになと、私は勝手に思っているんだ」
「僕に信仰はないですよ」
 左に大きく曲がると、信じられないくらいに細い道が現れる。
 この山道に、対向車が現れたらどうするんだろう。
 そう思ってしまうくらいの、険しく細い山道を、先生は少しでも怖いのか、恐る恐るアクセルを踏む。
「あるさ。きみの中には、神様の原石がいる。信じて愛して磨いてあげたら、この国の神様でも敵わないくらいに強く光る神様が、きみの中にはもう居るよ」
「それ、メジャーな神様たちに失礼じゃありません?」
「だから言ったろう。私もこの国の人間だ、ひとの神には寛容なんだ。きみが愛し護るそれを、私は決して攻撃しない。だからきみも、私の神を攻撃してはいけないよ」
「先生の神様って?」
「そうだなぁ……創作の際には私を奮わせてくれる貧乏神様が一番強そうだな、今のところ。マイナーな神でいいんだ、でも一番信じられる神様を心の中で一人、握っておくと良いよ」
「神様を、握るんですか?」
「それは比喩だ、別に握らなくても、頭の上に頂いて平伏してるんでも私は構わんよ。ただ、その神様に見られたくないことをきみは決してしないだろうし、私もしない。そういう神様が一人いると良い」
 きゅる、とタイヤが鳴く。
 そんな傾斜だし、知らない道で先生も緊張しているのだろうし。
 そろりそろりと、でもやっと開けた視界には、集落、と呼んでいい場所があるのが見て取れる。
「……どうしてここに住もうと思ったんですかね?」
 さっきから、家を見かけるたびに頭の中で繰り返した疑問だ。
 それを思わず口に上らせると、先生は到着した安心感からか、ほ、と息を吐いて。
「知らんよ。まあ、平家の落人っていう話が私は好きだな。こんなに遠く離れた、こんな山奥に、敵の神を勧請して暮らす平家の落人」
「ここに祀られているのは平家の敵の神なんですか?」
「八幡様の祭りが一番綺麗だと、古屋が嬉しそうに言っていたからな。八幡様は源氏の氏神だ。敵の神だろう」
 そして、集落の真ん中、と適当に目算をつけた辺りで、ナビが『運転お疲れ様でした』とか言っている。
 冗談じゃない、まだ宿には着いていない。
 思ったが、先生は適当な民家の前で、日向ぼっこをしているおばあちゃんの前に車を止めた。
「すみません。朝霞大から来た横田と申しますが、古屋融さんはいらっしゃいますか? どのお家ですか?」
 先生が、そんな普通の女性のように話しているのを初めて聞いたので、僕は車の中で一人ひっそり驚いていた。
 これは私のキャラクターなんだ、と言って、変わった喋り方を続ける先生。
 男言葉でもなく、女言葉でもなく。
 先生はどんなキャラクターを演じているんだろう、と想像することは、それなりに楽しかった。
 でも、相手によって使い分けるんだな、なんて当たり前のことに、今気付いた。
「古屋の家をゲットしたが、アイツ本当に居るんだろうな?」
 車のドアを閉めながら、先生は携帯を握って半信半疑だった。
「さっきからメッセージを送っているんだが……って、ここ、圏外だ……」
「え、圏外!?」
 言われて、僕も自分の携帯を取り出す。
 アンテナがひとつも立っていない。三角は空っぽだ。間違いなく圏外だ。
「こうなれば家のドアを叩くしかないんだろうな。久しぶりだが、判るかな?」
「先生は変わってないと思いますよ」
「何故それをきみが言うんだ。古屋がいたのは随分前だ、変わっているかもしれないだろう。まあ、私もこれでも女性なのでな。老けたとか言われても、聞かなかったことにして欲しい」
「それは勿論心得てますよ」
「勘のいい学生で有難いよ」
 少し車を走らせた、本当にここを乗用車が走って良いのかどうか解らないくらいの細い道の角。
 先生は、さっき『ゲットした』と言っていた、古屋さんの家だろう、そして庭だろう場所に、なかなかに危ないハンドルさばきながらも車を停めた。





「表向きは取材旅行で滞在することにしてあるんだ」
 先生が言っていた民泊、というのは物凄い場所だった。
 もう廃校となったらしい元・小中学校の敷地を丸ごと。
 眠る場所は、元体育館だったらしい。
 広くて寒いが、村人と古屋さんの心遣いで、ストーブが運び込まれている。
 もう暦の上では立派に春だというのに、標高の高さからか、冷え込むのでありがたい。
 風呂は最も近い西川さんのお宅で借りる。
 とは言っても、この村は、殆どのお宅が西川さんと古屋さんらしい。
 だから、それぞれを区別するために、屋号で呼び合っている。
 屋号のない家は二軒。
 『ヤカタ』と呼ばれるくぬぎさんのお宅と、そのまんま名字で呼ばれている『栂井つがい』さんのお宅。
 この民泊の管理は『ヤカタ』で行われていて、出て行く日に清算したらいいのだそうだ。
 物凄いどんぶり勘定だな、と思わなくもなかったが、そこに余所者が口を差し挟む権利はない。
「明日は『ヤカタ』とやらに出向くが、その後はきみの好きにしたらいい。この神の里をひとりで歩くも、私の好奇心に付き合うも。それは、私は干渉しない」
 今日は到着日で、古屋さん―――先生の元教え子の古屋さん―――宅で、これでもかという歓迎を受けた。
 美味い酒に、山の幸をふんだんに使った料理。
 初対面なのにこんなに甘えて良いのかな、と思ったりもしたが、お客さんはもてなすものだから、と古屋さんは嬉しそうだった。
 古屋さんはこの里に一時帰省している、らしい。
 ここでずっと暮らすのは無理だと、時々戻ってきて家の管理をしているのだとか。
 確かに、こんな絵に描いたような限界集落で暮らすのは難しそうだ。
「先生は、ここに何の好奇心があるんですか?」
 取材旅行、というのならば、取材対象があるはずだ。
 それを聞くと、先生は、寝巻の上にダウンを羽織った状態で考えている。
「そうだな。ここの人たちが、ここに根を下ろした歴史が知りたいんだ、私は。神の里と言われる前に人は住んだのか、神の里だから人は住んだのか。神と人との交わりを知りたい」
「結局歴史ですか。先生、歴史の本、出したら?」
「歴史で本を出す気はないよ。趣味程度の俄か知識で手を出せる分野じゃないんだ、歴史は。考察班と資料絶対主義者と物語崇拝者で入り混じってドロドロだ。淡々と考察するのも向かないし、だからと言って資料のないものは存在していない、と扱えるほどドライでもない。あの分野に根を下ろそうと思うなら、ひとの神を攻撃する覚悟がいる」
「ひとの神は、攻撃できませんか」
「したくないね。私の神を攻撃されたくないからだ。私は私の神と対話しているので、それで大体のことはすべて丸く収まる。丸く、でもなかったとしても、どこかに収まるものだ。私は私の神に恥ずかしくない行動を取りたいので、ひとの神を墜とす真似はしたくない」
「先生の神様は、先生に厳しいんですね」
「なぁに、そうでもないさ。きみだって抱いているだろう。神の名は、『羞恥心』という。神の名は、『虚栄心』ともいう。それらすべてを都合よく収める為の言葉が、私にとって神なのだ」
 なるほど、と思う。
 恥ずかしい、と思う感情は、自分を守ることがある、と多々、思う場面がある。
 誰に対して、なにに対して、というとそれはとても難しいが。
 何か言語化できないものに対して、恥ずかしい、と思うことは、確かに僕には出来ない。
 そして、そういう僕の態度は、時に褒められたり揶揄われたりする。
「神の名は、『世間体』かも知れませんね、僕の場合」
「何でも構わないさ。それに対して恥ずべきことをしたくない、そういう気持ちは大切なんだ。ナシくん、その気持ちは失くしたり薄れたりさせてはダメだぞ」
 ふ、と先生は落とすように笑って、風呂上がりで少し湿った僕の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
 まるで、それは小さな子供にするかのように。
 そうされることは、少し気恥ずかしい年齢にはなっている。
「……小学生じゃないんですよ」
「無論知っているとも。でもナシくん、私はきみを産んでいてもおかしくない年齢だ。可愛いなと思って、頭の一つくらい無料で撫でさせても減りはしないよ」
「先生は本当に、変な人ですね」
「そう言われても悔しくないのは、私がそれなりに自覚しているからなのだろうかな?」
「聞かれても困ります」
 どう思う、と言った先生の顔を一度見遣って、それから僕はただの時計と化している携帯のディスプレイを見た。
 こんな場所なのに、何とか確保しているふたつのコンセント。
 時計としてしか存在意義がないが、それでも充電が切れたらそれなりに困る現代人だ。
 時間はもう、夜の十一時を指していた。
 随分と古屋さんの家で粘ってしまったんだな、なんてことに、今更気付く。
「『ヤカタ』で許可を取ったら、きみはこの里を好きに歩くもよし、私の好奇心に振り回されるもよしだ。私は好奇心が満たされるまでここに居る心積もりではあるが、きみはもしも途中で山を降りたければ好きにしたらいい。町営バスが一日二本出ているそうだ」
「二本……ですか」
「うん。最寄りのJRまで連れて行ってくれるそうだ。朝と夕方のたった二本。それでもあの山道をバスが毎日来るなんて、凄いことだよな?」
「最寄りのJRって、どこですか」
「ああ、それはきみにだって解る駅だ。ただ、そこまでバスで一時間かかるそうだがね」
「……よっぽどのことがないと先生と一緒に帰った方が賢いですよね」
「そうだとは思うが、こればかりは無理強いしようと思っていない。私の好奇心はいつ満たされるか解らんのだし。だから、戻る手段もあるよと、先に伝えておこうと思っただけだ」
「……寝ます。明日は先生、僕に起こされなくても起きてくださいね」
「安心するといい、年寄りは寝が浅い。きみより早く目覚めるだろう」
 そう言って、先生はやっと、かけていた眼鏡を外して枕元に置いた。
 それを確認して、僕は何となく、西川さんが置いて行ってくれた、屏風のような障子のようなものを、僕と先生の間にずらして立てかけた。
 男女で泊まるとは思ってなかったから、と、貸してくれたものだ。
 昔で言うなら、几帳か何かに当たるのかな。
 こんなものひとつに隔てられるとは、昔の人の恋心とは随分淡くできていたんだな。
 勿論、僕は先生に何の下心を抱いているわけではない。
 ただ、隣に女性が眠っている、というのが、どうにもくすぐったくて。
 落ち着かなくて、それで隔てると、ようやくそろそろと瞼が落ちかけた。
 先生の喋りに緊張したのか、運転に緊張したのか、知らない場所に緊張したのか。
 泥のように、夢も見ずに深い眠りを貪った。




 ――――だから僕は、それを夢だと思わなかった。
 だって僕は、実際に、目を開けていた、というのが自分の意識だったからだ。
 暗闇で、小さな子供が泣いている。僕は特別に子供好きではないのだが、ちょっと気になってしまうような、子供がするとは思いにくいような泣き方だったからだ。
 子どもは、大声をあげて泣くものだと僕は思っていた。だから、気になってしまったのだ。
 声も上げずに、恐怖からでも痛みからでもなく、ただ、静かに涙を流す子供の泣き方が。
 無音の音、を聞くような静かさで、涙を流す子供。蹲って、膝を抱えて、でも前を見据えて涙を流す子供。
 そこには何があるのだろうか、と思うような、ただただじっと、なにかを見つめて、涙を流す子供。まっすぐ前を見つめて、涙を流す子供。
 頭を撫でるのが正しいのだろうか、横に座って話を聞くのが正しいのだろうか。
 子供の取り扱いを知らない僕は、呆然と子供を眺めている、という愚をただ犯しているだけだったが、子供の瞳の中に、僕はいない。多分、子供の存在する空間の中にも、僕はいないのだろう。
 存在しない子供。
 存在しない僕。
 互いに、触れ合えたら、認識し合えたら。
 この子供の、敢えて言うならば、寂寞を、僕がどうにかしてやれるなら。せめて、頭のひとつでも撫でてやれるなら。
 僕は、子供が好きではないけれど、好き嫌いで考えたこともなかったけれど、この子供の孤独を、僕が頭に触れることで癒してやれたら。
 ただ、何故か、そんなことばかり考えていた、おそらく夢だったのだけれど、本当に一生懸命考えていた夢だったのだけれど、目が覚めた時には、すべてを忘れていた。




 翌日、『ヤカタ』に挨拶に行った僕らを迎えてくれたのは、『ヤカタ』のご主人夫妻。
 椚さんご夫妻なわけだが、一応『紹介』という形になった古屋さんはずっと『ヤカタは』『ヤカタは』と苗字なんて知らない風に話していた。
 語源が不明だな、と思っていると、先生がズバリと訊いた。
 御屋形様、なんて言葉がありますよね、と。
 つまりそれは多分、村の代表者、というところが語源になっているのではないかと。
 それに、ヤカタの夫妻は笑って首を横に振った。
 御も様もつかないただのヤカタですよ、と。
 ただのヤカタ、の意味が不明だ、と思う頃には、先生はいろいろと夫妻の口を開かせることに成功していて。
 出された一杯のコーヒーが空になっているのを確認して、ヤカタのご主人がニコニコと僕らを案内してくれたのは、広い広い家の中。
 空気が重く沈んでいる色が見えるようだ。
 そんな、廊下の突き当たりの部屋を、ご主人は開け放った。
 その先には、逆に張られた注連縄しめなわと、几帳きちょう。そして御簾みす
 ただの知識でしかないが、出雲大社以外の場所で、逆に張られた注連縄を見ることなんてないと思っていた。なのに、ここでは当然のように逆に張られた注連縄。出雲とゆかりがある地域なのだろうか、と思ったりもしたが、あまりにもここと出雲は離れていると感じる。
 好奇心で、ひょい、と御簾の向こうを覗き込んでみたら、空の床の間があるばかりで、他には何もない部屋だ。
 どう見たって、いくら目を凝らしたって、何も居ない。ただただ薄暗い空間があるばかりの、何もない床の間だ。だから、それが厳重に、逆注連縄や几帳、御簾で隔てられている意味が解らない。
「こちらには、わらし様がおられます。わらし様の住まわれる『ヤカタ』の管理人がわしら。そういう意味でしょうな」
 何もいない、何も無い場所を掌でそっと、うやうやしく高貴な人を紹介するように指し示して。
 指で指すには畏れ多い存在なのか何なのか、僕には解らなかったけれど。
 何一つ冗談ではないことが、ご主人の表情から解った。そこにはきっと確かに『わらし様』がおられるのだという、絶対の自信のある所作から感じ取った。
 そして、僕らをそこに案内したから、或いは『わらし様』に紹介したから満足したのか、先ほどの居間に戻るようだ。
 その時、最後に歩いていた僕の後ろで、御簾が、しゃらん、と音を立てた。風もないのに、誰も触らないのに、誰も、何も居ないのに。
 思わず立ち止まってそちらを見たが、御簾は揺れた気配すらない。どころか、その音に、そのごく僅かな音に気付いたのは、僕だけだったらしい。ほかのみんなは、もう一瞥もせず先ほどの居間に戻っていく。
 そこには、新しい煎茶が準備されていた。
「ここはねぇ、釘を一本も使わない、昔の神社と同じ建てられ方をしてますの。なので、この古い家も、修理しようにも大工がいないんですよ」
 おっとりと笑った奥さんが、そんな風に説明してくれた。
「それは凄い。この家は、築何年くらいなんですか?」
「そうですねぇ……正確には解らないんですが、200年か300年くらいですか?」
「百年違ったらだいぶ違いませんか?」
「同じですよ。直せるものもいない、でも何故か朽ちませんの、この家は」
「わらし様がいらっしゃるから」
 夫妻と先生の会話は、これから長くなりそうだ。
 それを全部聞いていたいような、それとも面倒臭いような。
 それは顔に出てしまったのか、つい、開け放たれている窓の外の景色を眺めてしまう。
「そこから見えますでしょう。あの、大きな杉の木が」
「ああ……あれ、杉ですか」
 僕の不躾な視線を咎めた訳ではなさそうだ。
 奥さんが、確かに見える大きな木を指差して言った。
「そう、あの樹には決して近づいてはなりません。あれは祟り神です。葉に触れるだけで病気になると言われています」
「よそから来た子供がアレに触って、三日三晩熱を出したという話もありますし。注連縄を張ることも許さない、祟り神です。祀る事さえ許さない。……間違っても触れたりしないように」
「あのう……祀ることも許さないって、祀ろうとはしたってことですね?」
「勿論。ずいぶん昔の話だそうですので、私たちが見た訳ではありませんが。注連縄を張ろうとした男の身体に雷が落ちて死んだそうです」
「それから、あの神には近づかないことになっています。よそから来た方でも関係はありません。治らない病気になると言われています」
 夫婦は、この話には随分熱が入るらしい。
 間違って祟られるのも面白くないし、そういう話を聞いておけたのはありがたいとは思うけれど。神の里、と言われるだけあって、本当に随分と信心深いんだな、というドライなものが、正直、僕の感想だ。
「治らない病気って、具体的に? 疫病が流行ったとかですか?」
 先生の好奇心はそこにあったらしい。
 食いついた先生に、夫妻はまずいことを言った、みたいに一瞬顔を見合わせたけれど、この様子になった先生の視線には敵わなかったらしい。
「そいう話も残っておりますし、あのう……気がおかしくなった、という話も残っております。実際に、私どもの親戚筋の中で、あの樹をバカにして蹴飛ばしたものが消息を絶って、どこかで首を吊っていたという話があります」
「それはそれは……なかなかリアルな話ですね……」
 先生も、さすがにここまでリアルで重い話が出るとは思っていなかったのか、どう対応して良いのか解らないのだろう。
 ちらり、とこちらを見たけども、僕にどうしろというのか。
 一瞬考えて、話題転換としては急だったかもしれないけど、最初から気になっていたことを聞いてみた。
「あの、ここは『沖田村』ですよね?」
「はい?」
 ここに来ておいてバカな質問ではあるのだが、そもそも最初にこの山を登った時から気になっていた。
 こんな山中の、ほぼてっぺんの場所につく地名が何故『沖』なのかと。
 まあ、地名がついた頃の代表者の名前が沖田だった、と言われたらそれまでの質問ではある。
 でも、それを言ったら、夫妻は一瞬、視線を交わして。
「……麓の河、見事だったでしょう」
「ええ、荘厳なくらいでしたね」
 ご主人の言葉に、先生が短く応える。
「あの河の治水工事の際、人柱に立った『沖田比売おきたひめ』が、この村の出身に当たります。彼女への感謝を誰も忘れないように、と名が改まったと」
 さらりと言われた言葉は、結構なショックを僕に与えた。人柱。言葉でしか聞いた事のない、人柱という忌まわしい行為、忌まわしい因習が本当にあったのかと。
「人柱、ってそんなこと、本当にあったんですか?」
 つい聞いてしまうと、それは当たり前のことみたいに夫妻は頷き合う。
「彼女の魂が沖に行ってしまっても彼女を忘れない、というつもりで命名されたそうですね」
「へえ。じゃあ、元は違う名前だったんですか?」
「ええ、確か『若田』というのでしたよね?」
 確認するように言った奥さんの言葉に、ご主人は無言で頷いていた。
「皆さん、そんなに村の事にお詳しいんですか?」
「そうですね。程度の差はあっても、この村で生まれたら、お伽噺に聞かされます」
「そうですかあ~……だから古屋もやけに詳しかったんですね。いえ失敬こちらのことで。でも、自分のルーツをはっきりさせるにはいいかもしれませんね、寝物語に神話というのは」
「近頃の子供は、そんなこと思いやしませんけどね」
「うちにも子供が二人ばかりいますが、我々が死んだら家は見てやると言って街に出て行ってもう数十年です。戻って来るかどうか、それもあてのない話です」
 ころころと笑いながら、けれど夫妻はどこか寂しそうだ。
「それは、お子さん就職されて?」
「街の方でしかできない就職をしましてね。農業にも林業にも、興味がないそうです」
「これだけの田畑、これだけの歴史を前に、惜しいことですね」
 本気でそう言っているのだという声音で、先生は頷いた後、気付いたように僕を見た。
「ああ、そういえば紹介が遅れまして申し訳ありません。彼は私のゼミを取っていた学生で、現役朝霞大生、今度四年になるにのまえ 小鳥遊|《たかなし》くんといいます。こういう字を書くんですがね」
 言いながら、先生はあらかじめ打ち込んでいたのか何なのか、液晶画面を夫妻に差し出した。
「これ、ニノマエさんとお読みするんですね?」
「難読漢字で見た気がしますね、こう書いてタカナシ」
 夫妻が驚いたのを満足そうに見遣って、先生は笑った。
「そうなんですよ! 苗字も名前も、決して難しい字が入っているわけではないのに難読漢字。彼のご両親の言語センスに私は感動したものです」
「当人はただただ迷惑なだけですが」
「でもいいネタだろう。世の中、なかなかいないぞ? 名前を言っただけでいろいろと話が盛り上がる人なんて。きみはご両親のセンスに感謝すべきだ。そして、きみ自身のセンスにも私は感嘆したものだ」
「ご当人のセンスというと?」
「ええ、彼の名前は長いし読みにくいので、タカくん、と私は呼ばせて頂くが構わないかどうか了承を取ると、彼は言ったのです。それだと強そうに聞こえるから、ナシくんでお願いします、と。これはもう、今までの人生で何度となく彼は繰り返してきた遣り取りなのだと思いましたし、確かにタカくん、がナシくん、になった途端、弱そうな印象を受けるのだから可笑しくて」
「あら、確かに」
「でも、虚勢を張ろうとしない点は好感が持てますね」
「名前なんかで虚勢を張っても……」
 一体何を褒められているのか解らなくて、きょろきょろと視線を彷徨わせてしまう。
 あそこはあの杉。近寄ってはならない禁忌の杉。
 でも、その向こうに見えるものが、きらきらと瞬いている。
 それが気になって視線を定められないでいると、ご主人と先生は笑った。
「あとは、好きなように散策してくださって構いませんよ。若い方に面白いものがあるとは思えませんが、こんな里で」
「そうだね、お言葉に甘えて行ってくると良い。私はご夫妻さえ構わなければ、もっとこの里の歴史をお聞かせ願いたいのだし、きみはそれでは退屈だろう?」
 二人に言われて、ポケットに入れた携帯だけを確認する。
「ただ、あまり帰りが遅いと私が心配だからね。20時にはここに……いや、体育館に戻っていてくれ。西川さんのお宅にお風呂を借りに行くのも、あまり遅くなってはご迷惑だ」
「ああ、そういえば今日は栂井がお二人に振舞うと言って猪を仕留めてましたね。なので、もう少し早くお帰りになった方がいいかもしれませんよ? 栂井の夕食は早いから、きっと18時頃には準備ができているでしょう」
 先生の言葉を追いかけて、奥さんがそんなことを当然のように言ったのだが。
「いやそれはあまりに図々しいのが過ぎやしませんか?」
「いいんですよ、街からのお客さんには楽しんで頂きたいし、猪は悪さをするし。一石二鳥です」
 にこり、と奥さんは笑った。
 それはきっと、この奥さんも発案者の一人なのだろうな、というのが伺えて、どこかくすぐったくて。
「……ありがとうございます。17時半には戻ります。少し、好きに歩かせてください」
「動物には気を付けて。猪なら大丈夫でしょうが、クマもいますからね、これを」
 立ち上がった僕に、奥さんが持たせてくれたのが、おみやげ物で売ってそうな大きなカウベル。掌の中にやっと収まるサイズだ。
「クマはこの音が嫌いです。だから、山に入るならこれを鳴らして歩きなさい」
 渡されたカウベルは、コロン、と錆びた音を僕の手の中で響かせた。
「それから、言い忘れましたが、村の真ん中にある神社。あそこは参ってはいけないところですので、そこには行かないようにしてくださいね」
 触れてはならない杉。
 参ってはならない神社。
 なるほど、なかなか先生の好奇心は満足しないだろうな、と一回思ってから、解りました、とだけ言って、ヤカタを出た。




 きらきらと瞬いているのが何なのだろう、と気になる気持ちは勿論あった。
 でも、あれ以上、『差し支えのない話』というのがどうにも、僕には出来そうにない。
 あんな善良そうな人まで『苦手だ』と感じてしまうほど、自分の人間不信が重症だとは思いたくないのだけれど。
 桜並木、とまではいかないのだろう、数本並んでいる、樹齢の行ってそうな桜に並んで、唐突に生えている『あの杉』。
 間違っても触れたりしないように、だいぶ離れて歩いた。
 それでも、舗装された道路をすっぽりとその影が覆うくらいには大きな杉だ。
 一瞬、その見事さに息を呑んで、『祀ることも許さぬ神』というワードが頭の中を過ぎったので、足早に過ぎていく。
 ずっとずっと進んでいくと、数軒軒を連ねていた家もなくなって、ただの土手、そして小川という風景だ。
 そのうち舗装すらされなくなって、砂利道に変わる。
 砂利を鳴らしながら歩いていると、山に埋め込まれたように、打ち棄てられたほこらがあった。
 こんな信心深そうな里の中で、打ち棄てられた祠。しかも山にほぼ埋まっている。その存在は、あまりにアンバランスな印象を僕に与えた。
 きっとこの祠にも、何かしら来歴があるんだろうなあ、と思いながら先へ進む。
 そこをまだまっすぐ進むと、キラキラの元が解った。
 それほど落差があるわけではない、でもこんな山奥にあるにはあまりに見事な滝。
 清涼な滝から流れている小川の透明度も凄くて、一切の曇りがない。
 あまりに綺麗すぎると、魚も住まないらしい、という話をどこかで聞いたな、と思いながら、流れ落ちる水を掌で掬ってこくりと飲んでみる。
 現代っ子の僕は、川の水を飲む、なんて初体験だったのだが、どこか甘いような、不思議な柔らかい水だった。
 それからゆるりと辺りを見回すと。
 滝が注ぐ首先、という表現が正しいかどうかは、僕には一瞬解らなかった。
 滝が流れ落ちるちょうどその数歩前、水が落ちようとする場所に、人がいた。
 抜けるような白い肌、つやつやと輝いているのが離れた場所からでも解る黒い髪、ゆったりと伏せられた切れ長の目はふわりとやわらかく垂れている。
 長目の前髪は、彼の顔半分を覆うようにキラキラと輝いて、まるで日本画のようだった。
 着ているものは白いセーターと黒いパンツ。
 ぴったりとしたスキニーなそれのせいで、異様、と言いたくなるくらいに長い脚がよく解る。
 その、異様に長い脚は、ゆったりと邪魔そうに組まれていて、その膝に何かいる。
 滝の落下点を眺める場所で、彼は膝にウサギを乗せていた。
 ウサギは、黒く丸い目をぱちぱちとさせていたけれど、彼の膝から逃げる様子はない。
 そして彼は、ウサギを撫でる訳でもないのに、愛しいと、伏せられた綺麗な目が語っていた。
 とても、綺麗な男。
 とてもとても、うつくしい、男。
 派手な容姿、というのではないのに、ひどく目を惹く男。
 白い肌に不似合いな、口紅を塗ったような唇が、でも不思議と風景に似合っていた。
 幽けき場所。
 先生が、僕に言った誘いの言葉を何故か唐突に思い出した。
「あの。……こんにちは」
 こんな場所に人がいるなんて聞いていない。
 それに、たくさん会った訳ではないが、古屋さん、西川さん、ヤカタの人々の言葉を総合しても、この村に若い人間はいない、という意味だと取っていたので。
 こんな、年恰好が僕と変わらないくらいの若い男の出現に、少々驚きはしたのだが。
 この狭い村で、ウロウロと出歩く異邦人は僕だ。
 挨拶くらいはしておこう、と僕は意を決して言ったのだが、どうも男には届かなかったのか。
 ウサギから離さなかった目を、ふ、とこちらに向けて。
 きょろり、きょろり、と周囲を見回している。
「あの。こんにちは」
 もう一度言うと、彼はやっと、僕とバッチリと視線を合わせて、そして突然相好を崩した。
「俺に言ったのかぁ。こんにちは、大学の先生の……なんだったっけ?」
 他に誰かが居るのかと聞きたくなるような、でも聞くのが怖いような言葉を彼はつるりと放って、その拍子にウサギが逃げた。
 それでも、特にウサギに頓着はなかったのか、彼は立ち上がって、そして少し横にずれた。
 そして、滝壺ではない地面に、まるで体重を感じさせない動作で飛び降りてきた。
「危っ……!」
 咄嗟に手を出してしまったのだが、僕の腕で何の助けになるわけでもないし、彼はひらりと着地して、けろりと笑っていた。
 笑うと、とても幼い。
 まるで少年のような素直な笑みに、どうリアクションするのが正解なのかが解らない。
「大丈夫だよ、毎日飛び降りてるから、こんくらいの高さ。で、今来てる大学の先生の? 何だっけ?」
 さすが、ネットワークは早いらしい田舎だ。
 どこの誰がどうしているのか、村の人間には把握済みのことらしい。
「教え子です。にのまえ 小鳥遊たかなしって……」
 こんなに若いのに、言葉遊びのような難読漢字を知っているだろうか。
 ふと不安になったが、さっき先生がしていたように、携帯のディスプレイにでも表示したら解るだろう。
 そう思ってスマホを取り出したら、三角が満タンだった。圏外ではない。こんな、森と滝しかない場所なのに。
「ん? 何を見せてくれるの?」
 そう言って、彼は面白そうに僕の携帯を覗き込んで来たので、自分の名前をメモ画面に入力して見せる。
「ああ、にのまえ たかなしね。面白い名前を貰ったね、いい風景だ」
 そう言って、彼は屈託なく笑った。
 この字が読めることが、正直言ってとても意外だった。
 いやでも、先生の元教え子の古屋さんだって、文学青年だったから先生の元に居たんだろうし。
 意外に、ここで暮らしていたら、文字とは相性が悪くない気がする。
 他に遊ぶものが特に思いつかないのは、僕が骨の髄まで現代っ子だからだろうが。
「あの、どちらかのお家の……?」
「それ、説明して解るかなぁ?」
 悪戯っぽく笑った彼に、僕は確かに、と項垂れる。
 解る家は、先生の教え子の古屋さん宅、お風呂を借りる西川さん宅、それからヤカタと今日猪肉を振舞ってくださる栂井さん宅だけだ。
 栂井さん宅はまだ未訪問なので、『解る』というのもおこがましいし、屋号で言われたらお手上げだ。
「ごめんごめん、意地悪言った。ヤカタに住んでるよ。でも、俺に会ったのは内緒にした方がいいんだけどね」
「え、ヤカタに? 今日、さっきお邪魔したけど?」
「うん、知ってる。でもね、俺に会ったとは誰にも言わない方がいい。俺、ムラハチブされてるから」
「……なんだって?」
「だから、ムラハチブ。村を八つに分けるって書いて村八分」
「意味は知ってるけど、なんでそんなんされてんの?」
「それが俺の役割だからだよ」
 言いながら、彼はにこりと笑った。
 とてもとても綺麗な、透き通ってさえいそうな笑みを浮かべて。
「俺はいるけど、村の誰も俺を認識しない。ヤカタの人間だって、俺を気にかけない。実際こんなトコで遊んでるなんて、彼らは知らない」
「そんな役割って……ちょっと意味が解らないんだけど」
「外の人に通じる理屈なんてないかもね。でも、この村にはこの村の掟があって、住人は暗黙の裡に全員それを守る。守れば平和だって、全員が信じてる」
「それは、アンタも信じてんの?」
「ん~、寂しくなることはあるよ。それはもうしょっちゅう。俺、だって、お喋り好きなんだもん。誰かと思いっきり話したいもん。だから、よそからのお客さんは大歓迎」
 言いながら、彼の瞳からはほろりと涙でも零れ出すのではないか、という表情で。
 可哀想に、というのは、違うのかもしれない。
 胸の奥に湧き上った感情は、感情を同じくする、というのとまったく同じ意味での、同情、だったのかもしれない。
 大学で、あの広いキャンパスで一人、歩く時。
 友達同士、肩をぶつけ合って、小突き合って、いかにも青春を謳歌しています、という他の学生を見た時。
 どうして自分はこうなんだろうな、と思ったことがもう、数限りなくある。
 数限りなく、どうして自分はひとりなのだろう、と思ったことが、ある。
 それは、彼の感情ではないのかもしれないけれど、僕の中では同じものとして沈殿した。
「ねぇ、タカは他の誰にも、俺のこと言わない?」
 唐突に呼ばれたそれは、自分には『似合わない』と思った、強い響きを持つもので、だから今まで拒絶してきたもので。
 でも、彼の唇から紡がれたそれは、何だかとても良いもののように思えた。
 とても素敵な、とても優しい、何か特別なもののように感じた。
 だから初めて、それを訂正することはしなかった。
「誰にも言わないって約束する。先生にも、言っちゃダメなんだよ、ね?」
「うん、あの人これからずっと、村の中ウロウロするんだよね? 多分、俺と接点持ったら何も聞けなくなるよ。だから内緒にするのは彼女を守る為でもあるかな」
「じゃあ、絶対に言わない。だから、名前を教えて欲しい」
 ヤカタに住んでいる、というのなら苗字は椚だろう。
 彼が、僕の名前を、良い風景だ、ととても綺麗に言ってくれたように。
 彼の名前がどんなのであっても、それは君に相応しいと、言ってあげたい。
 この閉ざされた村で、一人で過ごしている彼に。
「うん。……じゃあ、ミキ、かな」
「じゃあってのは何? どういう字を書くの?」
「うん……こう、かな」
 そこらに転がっていた細い棒で、彼は地面の上に文字を書いた。
 『樹』と。
 これなら普通は『いつき』と読みはしないだろうか、と一瞬思ってしまったが、僕は人の名前をどうこう言えた名前じゃないので。
 木の、樹。
 鬱蒼と茂る緑の濃いこの村の名前であっても、多分全く違和感はない。
 それほどに、彼は風景と違和感がない。神の里と呼ばれるこの風景に、すべてに、違和感がない。
「ここにはたくさん茂ってるから、どの樹でも選び放題だね」
「でも、どの樹かは決まってるんだけどね」
「じゃあ、それはやっぱり愛された証拠だよ」
 この樹のように伸びやかであれと願ってつけられた名前なら。
 そう思って言うと、彼は一瞬だけ表情を曇らせて、いや表情をスッと能面のように失くして。
「そうかな……?」
 まるで、彼の小さな言葉に呼応したかのように、森がさああと風が渡る音を響かせた。
 その音は、もしかしたらきらきらと波紋を投げる、滝の落ちる音だったかもしれなかった。
 そんな静寂を孕んで、彼の言葉は哀しく響いた。
 愛された、事を、多分信じていないから。
 この閉鎖的な村の中で、更に隔離だか無視だかされているのなら、それは信じられない事なのかもしれない。
 馬鹿なことを言ってしまった。
 後悔しながら、別のことを聞く。
「ねぇ、ミキはどうしてここに居たの?」
「それは、寂しいからだよ」
 僕の投げた質問に、にこりと笑って樹は返してくれた。
 寂しいからここに居た。
 民家さえなくなっている、村の外れの場所に。
 多分きっと、村の中に居ても寂しいから。
 それは、あの人の多いキャンパスの中で僕が抱いた感慨に、きっととてもよく似ている。
「おれのそばにいてくれたひとが、もうだれもいないからだよ」
 まるで赤子のように、覚えたての言葉を紡ぐように。
 零した樹は、もしかしたら泣いているのではないかと思えたのに、その表情は薄く、笑っていた。




 その夜、栂井さん宅で、猪肉の焼き肉をご馳走になった。
 猪肉は臭い、という都会人の先入観があったのだが、捌きたてだとそうでもないらしい。
 じゅわじゅわと、吹き出す脂。
 それがぽとりと落ちて、一瞬発火する炭火。
 煉瓦でドラム缶の中で燃える炭を囲って、その上に網を乗せて。
 そうしてする焼肉は初めての味で、満天の星空が見たこともないくらいに綺麗で。
 こんな満点の星空は見たことがないし、輝く月が眩しいなんて思ったのも初めての事だった。
 月の蒼さで、月の光で、自分の身体から影ができるなんて。
 想像したこともないくらい、自分はこの自然の一部なんだってことを感じることができた。
 焼肉パーティーには、栂井さん宅だけでなく、ヤカタ、西川さん、とお世話になっている人が顔を出しているのに。
 ここに居ないのは当然なのか、樹。
 こうやって笑い合う人たちの中にお前がいないのは当たり前なのか、樹。
 そう思うと、箸で掴んだ猪肉が、しょっぱくなっていくような気がした。
 噛む肉の脂は抜けていない。
 レモンで食べたら、と栂井の奥さんが施してくれた心尽くしもよく解る。
 こんな風に、見知らぬ他人に良くしてくれるのに。
 美味しいと言ったら、嬉しそうにみんな、顔を綻ばせるのに。
 ただ、どうしてここに樹がいないのだろうと。
 叫ぶでもなく、僕は茫然とその光景の中に居て、そして先生には何も言わずに一日を終えた。




 その夜、また僕は夢を見た。
 鎌を持った男が、目を血走らせて僕を追い回す夢だ。
 その形相の恐ろしさと、単純に武器の恐ろしさに僕は必死で逃げていたけれど、途中で気付いた。
 男は、泣いていた。
 叫ぶように、吼えるように、絞り出すように泣いていた。
 かなしい、かなしい、かなしい。
 その感情が僕にシンクロして、僕は、殺されちゃってもいいのかもしれない、という気分に、一瞬なってしまった。
 おまえに、殺されるなら。
 仕方がない。
 おまえにころされるのは、きっと、しかたがない。
 何故そんなことを思ったのかは知らない。けれど、男は、その瞬間、僕に届くはずだった鎌を放り投げて、声をあげて泣いた。わんわんと、昏い空間で、泣き叫んでいた。
 あまりに強烈な夢だったので、僕はそっと目を開けると、灯りひとつない深夜。
 夢のイメージを引きずったのか、それともそれ以外だったのか。
 僕の布団の横には、膝を抱えて静かに泣く子供と、鎌を振り上げながら号泣している男とが、ちょうど僕を挟んで居た。
 僕は、子供の頭を撫でてやりたくても、男の鎌を取り上げたくても。
 かなしい、かなしい、かなしい。
 その気持ちだけが僕に流れ込んできて、それに同調してしまって、息が苦しいほど哀しい気持ちになって。
 こわい、のではなかった。不思議と、こわくはなかった。
 ただただ、かなしくて。どうしてやることもできないことが、かなしくて。
 指一本動かせない状態で、ふたりの泣く姿を見るともなく見ながらまた、またすぐに眠りに落ちた。




 翌日、特に約束をしていたわけでもない。
 ここに居るのかな、と見当をつけて滝に行くと、お目当ての彼は居た。
「ああ。おはよう」
 にこりと笑った顔が、やっぱりとても綺麗で。
 今度は、いつ僕に気付いたのか、という顔ではない。
 最初から近づく僕に気づいて、そうして彼は笑ったのだ。
 晩餐に誘われるでもない、彼は。
 昨夜、きっと灯りが消えていたのだろう、それでもヤカタで過ごしたに違いない、彼は。
「昨日は楽しかった? 年寄りは集まると昔の話をしたがるから」
 笑っている樹に、僕はつい、その意外なほど細い腕を引く。
「どうしてあそこにいなかったの?」
 それは、彼にとって残酷な響きを持っていたのかもしれない。
 彼は一瞬だけ表情を曇らせてから、無理矢理に笑った。
「望まれてないのに。……こんにちは、なんて誰ができるかな?」
 樹は笑っていた。
 僕を試すのでも、村人を試すのでもない。
 ただ彼は、笑っていた。
 かそけき場所。幽|《かそ》けきひと。
 このひとを前に、何度同じ感想を抱くのか解らない。
「ごめん」
 零すと、彼は可笑しそうに笑った。
「いいよ、別に。それより俺と会ったこと、ホントに誰にも言わないでいてくれてありがと」
「そんなこと、お礼を言われるようなことじゃない、し」
「そうだね。でも言わないでいてくれたから、俺は今日もタカとおしゃべり出来てるんだし。だからありがと」
 にこにこと笑う顔に、全く邪気はない。こんなにも無邪気で、綺麗なひとを、初めて見た、とさえ思っているのに。
「お礼に、何か話そうか? この村のこと、調べに来たんだよね?」
「いや、僕はそういうつもりでは……あ、でも、『沖田比売』と『参ってはいけない神社』には興味があったかな」
「ああ、奥の院」
「奥の院って言うの?」
 やはり村人の中だけで通じる、独特の呼び名があるらしい。
 ぶらりと村を歩いただけで、そして『参ってはいけない神社』の前には行ってみたけれど、壊れた鳥居に書かれた文字は読めなかった。
 あまりに特殊な文字に、もしかしてこれは日本語ではないのではないか、と思ったけれど、それがじゃあ何の文字なのかは僕には解りようもなかったし。
 正式名称は何かあるんだろうけれど、それは先生が勝手に調べ上げる気もしたし。
「通称だけどね。鬼の棲む場所、奥の院。入ったら取られるよというのが俗説」
「取られるって、何を?」
「そりゃあ、命でしょ?」
 それはまるで当たり前のように言われて、そんな物騒な場所がこんな平和そうな村に存在していることが怖い。
「でも本当は。奥の院の鬼は、もう誰も取ったりしない。彼の取りたい命は全部取ったから」
 そこに座ると良いよ、と。
 彼の持っていたのだろう、ハンカチがちょうどいい岩の上に広げられた。
 話をするためにちょうどいい、と思うくらいに点在している岩の上に、彼も座った。
 ありがとうと言って座ると、樹はどういたしましてと、また子供のように綺麗な笑顔を浮かべる。
「奥の院の鬼の正体は、沖田比売に恋した宮司。沖田比売が数枚の金貨と二年の年貢の免除の代償で売られて行ったその日に、沖田比売の家の者を皆殺しにした」
 だからもう、彼の復讐は完遂してるから他の誰も取る必要がないんだ。
 まるで昨日の天気を語るみたいな樹の表情に、僕はつい、ポカンとしてしまう。
「なに?」
 にこりと笑って、樹は僕を見遣って来る。
「……いや、ミキがあんまり詳しいから驚いてる」
 昨夜、先生からも少し話をされたのだ。
 それは、あの、『参ってはいけない神社』について詳しい人はいなさそうだ、という残念な報告で。
 子供の頃から、あそこに近づいてはいけません、と代々言われてきているから、『何故』なのかを実は誰も知らないと。
 そもそも何故なのかを知っている代の人に出逢いたかったな、と先生はとても悔しそうだっから。
 時代を下ると、風化してしまう記憶や物語はたくさんある。その悔しさは僕にも解ったので、どこかに文献とかないんですかね、という話をしたばかりだった。こんな、村中の家に蔵と呼ばれる建物があるような場所なのだ、全部をひっくり返したらありそうな気がしたのに。
「ここに居ると詳しくて当然だよ」
「いや、ヤカタのご夫妻だって栂井さんだって、何故なのかは知らない、ただ小さい頃からそう言われてるからってことだったらしいよ?」
「そうなの? 結構興味ないんだね、あの人たち。危ないものは何故危ないのか、知ってた方が絶対お得でしょ」
 そんな訳で奥の院はもう無毒化、とミキはまた笑った。
「ついでに言うなら、沖田比売はこの村だけの『比売ひめ』なんだ。続いた飢饉で貧しさを極めたこの村が美しいだけの娘を権力者に売り払った、その気まずさから『比売』なんて言って祀ったけど、それはこの村だけの話。沖田比売の祠はたったそこにある小さな祠でしかない。娘を人柱にして治水工事をした麓の権力者からしてみたら、ただの買い取った貧しい娘でしかない。沖田比売の恩恵を受けている麓の村にとっては、彼女は神様でも何でもないの」
 そこにある、と樹が指差した先を見ると、確かにそこにあると言われなければ気付かない、ぼろぼろの朽ちた木でできた小さな祠が、滝の上にあった。この信心深い村に存在するには、あまりにもアンバランスな祠。この村で見つけた、ふたつ目のアンバランスな、朽ちた祠。
 祠は一目で解るほどに朽ちて、もう元が何だったのか解らないくらいになっていて、それになんだか胸が詰まった。
「可哀想でしょ? 拝まれもしない神様は、そうやって朽ちていって挙句に忘れられるだけ」
「でも、感謝を忘れないように村の名前にしたって」
「その時は、ね」
 どこか皮肉気に、樹は笑って見せた。
「数枚の金貨と年貢の軽減。それによって救われた村は、確かに忘れないように村の名前にもしたし、小さな祠も建てたし。『比売』なんて言って祀ってやったから大丈夫だろうと村人は思っただろうね。そして実際、沖田比売の力は絶大で、今の世に至るまで、麓の大河は氾濫したことがない。学のない貧しい村の娘は、健気に川の流れが穏やかであるように祈って、水の底に沈んでる」
「その沖田比売に恋をしたのが宮司……?」
「そう。実は沖田比売が沖田比売になる前、つまりただの村娘だった時。りくという娘だった時。ほぼ毎年氾濫して、下流の村の田畑を飲み込むので、麓の大河の扱いに権力者が困って、人柱を探しているという話は、こんな雲上にも聞こえて来てた。それが自分の娘じゃないかと、誰もが怯えてた時に、この村の意識は決まってた。村を救うために、この村で最も美しい娘だったりくを差し出そうと。だから、りくは自分の運命を知っていたので、誰とも情を交わそうとしなかったし、周囲の目もそうなってた。りくは神の嫁になると」
 すらすらと、頭の中にある物語を読むみたいに、樹は語って聞かせてくれる。
 淀みない物語は、哀しいけれど面白い。
「その神の嫁に恋をしたのが当時の奥の院の宮司だった六太という男。六太は村の意志に反抗しようとしたけれど誰も六太の世迷いごとに耳を貸さない。勿論、当のりくでさえも。そしてある日、覚悟を決めたりくは、麓の権力者に引きずられて行った。数枚の金貨と二年の年貢の免除という代償を支払った権力者にとってはただの買い物だったかもしれない。でもりくは、村の安寧の為に、村に生きる大切なひとたちの為に、大河の安定を祈った。そして、六太はりくの家族を皆殺しにして、奥の院に引き籠った。それが今から―――400年は前の話」
「……すごいね」
 溜め息をつくように言うと、樹は何が? と面白そうに訊いてくる。
「ミキの話を聞いてると、まるでその時に見てたみたいで面白い。大体、昔話って、「~だったらしい」って話ばっかりじゃない?それも、出所が全部曖昧で。聞いてるうちに訳が解んなくなるのに、ミキの話は面白いよ。断定されてるから、聞いてる方も聞きやすい」
「それはどうも」
 表情を柔らかくして、樹はふざけるみたいに胸に手を当てて会釈してくる。
 そういう一連の動作も、彼の雰囲気にとても合っていて好ましい。
「じゃあどうして、今ここに住んでる村人は、奥の院が何故参ってはいけない神社なのかを知らない、って言ったんだろう?」
「それは、参られたくないからじゃないかな? 事情を知らないよその人に。この村が抱えた、沖田比売って言う借金みたいな気まずい存在を、綺麗な物語に昇華するために六太は存在していちゃいけないから。人に恋をされた神、てのもマズいのかもしれないし、神の係累を殺した男がいるっていうのも村としては黙っていたいことなのかもしれない。実際、六太のしたことで、『沖田比売という神の系譜』は途絶えたことになるわけだから。今の世まで沖田比売の系譜が続いてたら、絶対に『神の系譜』扱いだったはずだし」
 多分だけど、と言って樹は笑った。
 神の里で、殺された神の系譜。
 確かにそれは、存在しない方が良いのかもしれない。
 存在しない方が都合が良いものとして、抹消されてしまうのかもしれない。
 そうやって抹消されてしまった神の現在を、僕らは知る由が無いのだから。
 でも今のこの世まで残っている、こうして僕が聞かされている、表面的には語られることのない沖田比売のアナザーストーリーは、面白く、心地好く僕に沁み渡ってきている。
 こうして、楽しそうに語ってくれる樹がいるからだというのは解っているけれど。
「六太は、本当に鬼になったの?」
「本当の鬼を、タカは見たことがある?」 
 質問に質問を返されて、僕は一瞬考えこんでしまった。
 確かに僕は、これが鬼という生き物だ、というのを見たことがない。
 まるで僕の頭の中を読んだように、樹は少しだけ意地悪そうに微笑んだ。
「人を何人も殺せる生き物は、もう人じゃないよ。今だって言うだろ? 何人も人を殺す人間を、『殺人鬼』だって。勿論、彼らの頭に角は生えてないし、皮膚が赤かったり青かったりもしない。でも言うだろ? 『殺人鬼』って。鬼は、ヒトと同じ姿をしているんだよ」
「……あ」
 それは凄く、含蓄の深い言葉だった。
 鬼は、人と同じ姿をしてる。
 それは、この狭い村の中で、人から爪弾きにされている、樹が言うといやに得心してしまう言葉だ。
 彼にとって、この村のひとは。
 鬼なのだろうか。
 彼を存在していないものとして扱う、村のひとは、彼にとって。
「タカは優しいね。とても良い子だ」
 くしゃりと破顔して、樹はその白くて長い指を僕に伸ばして、頭をわしゃわしゃとかき混ぜてくる。
 まるで小さな子供のように僕を扱う樹に、どこかホッとしたのは事実だ。
 彼の中に在る筈の、暗くて湿った場所を、彼は努めて出さないようにしてくれている。
 そして、ただの友人のように、僕に接してくれている。
 どうしてそんなことができるのだろう、と思う。
 閉鎖的な空間で、閉鎖的なしきたりばかりが横たわるこの村で暮らして。
 どこか遠くから来ただけの僕に、どうして彼は優しくできるのだろう、と思う。
 とても不思議な気持ちになりながら、僕は彼の話に、いつまでも耳を傾けていた。





 話、としてならしてもいい、という許可を樹から貰っていたので。
 その夜、僕は先生に奥の院の由来を話した。
 歩いていると奥の院に入り込みそうになったので、村の人から止められて聞かされた話、という少し凝った、そして意外にありそうなシチュエーションの嘘付きで。
「なるほどなぁ……そういう話があるなら、余所者に隠したいのも解らなくはないな」
 先生は、僕のヘタクソな話に深く頷いてそう言った。
 樹が語って聞かせたような、魅力的な話ではなかっただろうと思うのに、先生は頭の中で僕のヘタクソな話を繋げたらしい。
 さすがは物語を組み立てるプロだと思う。
「確かに、村の名に冠するような人の係累が今いない、というのも不思議な話だったが、殺されていたか。村の外から来た殺人鬼なら詰って糾弾して、その時代ならおそらくリンチの果てに殺して終わりだったろうが、中から出たというなら身内の恥。ましてや、殆どが親類縁者という村の中からしてみたらまさに身内の恥。身内の恥を隠すうちに、『知りません』になったんだろうなぁ」
 しかしきみのニュースソースは面白いな、と先生は笑った。
「私が聞きたかった話を聞いてくるのがとても巧いなきみは。しかし私だって負けないからな」
 そう言って、先生は今日の夕食であるところのから揚げにかじりつく。
 今日の夕食は、西川さんが持たせてくれたおにぎりと、鹿のから揚げ。
 鹿肉なんて初めて食べたが、鳥よりもあっさりしているのにジューシーで、とても美味しい。
「神に恋した人間の話は世界中にあるが、神になる前の恋、というのは面白いな。人間を神にするのが得意な日本人ならではだろうな」
「得意なんですか? 日本人は」
「そうだね、世界中でこんなにただのヒトを神にするのが得意な民族もそういないだろうと私は勝手に思っているよ。基本的によその国では、神は生まれたときから神だ。キリストだってそうだ、死ぬ直前には神でしかない力をいとも簡単に使っている。でもこの国では神とヒトとの混血が盛んだ。スサノオに嫁いだクシナダヒメはいつの間にやら神扱いだが、彼女はただのヒトであったはずだ。『いつの間にか神様』というのがこの国のキーワードと言っていい。生まれ直す必要も、一度死ぬ必要もない。いつの間にやら神様の列に並ぶのが得意な民族だ」
「それって、図々しいって言いません?」
「違うな、ひとの善性を信じているのだよ」
 いやにキッパリと言ってから先生は頂いた漬物に手を伸ばして、ぽりぽりと咀嚼した。
「こうして、赤の他人に押しかけられて、それでも毎日御心づくしをくださる。これは人の善性だし、それをすべての人間ができると信じている。施し、愛する才能に長けているのだ。生まれながらにして神になる才能に長けているのだ」
 私はだから、そういう日本人を愛しているよと、先生は嬉しそうに笑った。
 それはそうかもしれない、と思うけれど、僕にはそうですねと笑えない。
 赤の他人に施しを与える同じ掌で、樹をぶっていることを知っているからだ。
 物理的な意味で殴られるのよりももっとひどい暴力を、僕は知っている。
 愛する、の対義語があるとしたら、それは、無関心、だと僕は思っている。
 その最もひどい暴力を、ここの村人は樹に腹一杯食わせているのかと思うと、そうですね、なんて言って笑えない。
 あんなに慣れっこく、あんなに綺麗で、あんなにやさしい樹に、誰も笑いかけたり話しかけたりしないのかと思うと。
 ただ出逢ったことですら内緒にして欲しいと彼が頼むほど、どこの誰とも知れぬ僕に頼むほど、村の人が彼に与えている態度は冷淡なのかと思うと。
 理不尽の檻に閉じ込められた彼が可哀想で、憐れで、どうにかしてやりたい。
 でも僕は、彼にできる何の力も持ってはいないのだ。
「ナシくん。ここには、美しい日本の心が凝縮されていると、私は思うのだが、きみは何を見出すだろうね」
 それが楽しいのだと語る先生の瞳は、穏やかだ。
 施し、愛する心、という先生のさっきの言葉が僕の脳裏に鮮やかに浮かぶ。
 ああきっと、今この時も僕は、先生からそれを受けているのだと、何故だか唐突に思うことができた。
 疲れて萎れていた僕に、何かを与えようと。
 この奇妙な小旅行は、多分その為なのだと。
 不意に了解したので、ただ僕は、唐揚げをかじりながらこくりと頷いた。
 その気持ちを僕が受け取って、そして正しくそれが伝播するのは。
 この、僕の胸のうちに灯った何かが花開く時なのだろう、と何となく、近い未来を想った。





 そして、僕はまた、この里で夢を見た。
 今度は、襤褸ぼろ切れより少し上等な着物を着た男が、泣き叫びながら人を次々に殺していく夢だ。
 これは、六太だ、と僕には何故か解った。そして、昨夜見た、鎌を持って僕の傍で泣きながら佇んでいた、神殺しの男だと。
 六太の怒りと悲しみが、僕の夢を覆い尽くしてゆく。恋をした女性が、木の柱にくくられて、泥の中に埋められてゆく。それを、六太は半狂乱になりながら見ていた。ただただ、何もできず、叫ぶことしかできず、六太は見ていた。絶望という言葉が、これほど相応しい顔を僕は知らない。この世のすべてが無意味になり、無色透明になり、そして真っ赤に染まった瞬間だったのだろう。六太にとって、もう世界は呪わしいものでしかなくなった。
 そして、六太の頭には、角が生えた。
 愛した女性を殺したすべてを呪う顔をした六太は、もう誰から呪っていいのか解らず、まずは権力者の夢に現れてぼりぼりと頭から喰らっていた。泣き叫びながら、りくを返せりくを返せりくを返せと繰り返し呪いながら。
 りくはもう、『沖田比売』で、りくではない。六太の探して愛した娘はもう、神になって、愚かにも麓を守っている。愚かに、そして律儀に。静謐の中で祈りながら、世界を守っている。
 彼女は既に金貨で売られた小娘ではない、もう彼女は、『沖田比売』なのだ。祀り上げられて、時には祈られて、だから彼女は愚かにも、律義にも、守り神となった。
 それを知らない六太は、ただただ恨み続けていた。愚かしいほど律義に、六太はすべてを呪った。
 彼女を売った彼女の家族を、彼女の身体に、魂に、治水の祈りを込めたすべてを。
 六太が呪ったものは。
 自分のためにはたったひとつだったかもしれなかった、『りく』の、ヒトだった時の、家族やあの村に暮らす村人の安寧への祈り、願い、そういったものまで六太は呪った。
 それらを呪ってしまったと自覚さえしないまま、六太は、愚かにも、りくの祈りを壊した。
 沖田比売ではない、りくの祈り。
 六太が愛したのは沖田比売ではない。りくだったはずだ。
 それなのに、六太は、壊してしまった。りくの、最期の、たったひとつだったかもしれなかった、うつくしい祈りを。
 そして、沖田比売の祈りを壊すことはできないまま、奥の院で、殺したりくの家族の髑髏を抱き締めて、そして涙を流していた。
 まるで、それはりくであるかのような表情で。
 りくに囁きかけたかった優しさで、殺したりくの家族の髑髏に囁きながら、六太は愚かにも、どこにも行けずに泣いていた。 
 これは夢だと、僕には解っていた。夢を見ながら、はっきりと知覚していた。ただ、愚かで律義なりくの表情も顔立ちも見ることが出来なかったのは、六太の現世までも残る嫉妬のせいだろうかなんて、考えながら僕は眠っていた。

 




「そういうものを見たことがない」
 翌日、やっぱり滝壺を訪れた僕に、樹は綺麗に笑って見せてから。
 あれやこれやと話しているうちに、僕の住んでる場所、というどうでもいい情報へと話題は変遷して。
 僕が住むのは、大学の為に一人で暮らしている、特に学生向けであるとも思わない、安いアパート。
 学校から近いので、ただそれだけが気に入って借りたそこは、隙間風も入り放題で両隣のテレビの音さえ聞こえてくる。
 ヘッドフォンをして暮らしていたらそれほど騒音も気にならないし、とにかく学校からは近いし。
 そういう話をしていたら、樹は「アパート?」と言って茫然とした。
「いろんな人が一部屋借りて暮らすところ……」
「それは全部家族?」
「いやいや全くの他人だよ、同じ形の部屋ばっかりが集まってるんだ」
 アパート、という言葉から、形態が想像できない人間、というのに初めて逢ったので。
 僕はあれやこれやと言葉を尽くしてみたが、樹がピンと来ている様子はない。
 確かに、この村にアパートと言える形態の建物は存在していないし、でも樹の年恰好を見たら、僕と同じかもしかしたら少し上くらいだ。
 その年になって『アパート』が想像できない人間、なんて、こちらこそ想像できない。
「本当にこの村から出たことがないんだな……」
「だからそう言ってたろ?」
 何を当たり前のことを、みたいに樹は首を傾げたけれど、それが異常な事であることくらいは解る。
 この年恰好の成人男性が、この村から出ることを許されず生きている、という事実に、背筋が震えた。
 村八分、と樹は最初に言っていたが、人権侵害も良いところだ。
 村八分、なんて生易しく言うべきではない。人権蹂躙だ。
「でも楽しそうだな、みんなで集まって暮らすのも」
「う~ん……多分、想像と現実がかなり乖離してる。確かに集まって暮らしてはいるけど、お隣さんとなんてゴミ出しの時くらいしか会わないから挨拶も滅多にしない」
「? 一緒に暮らしてるのに?」
「ん~……一緒に暮らしてる、ってのがそもそも多分違う。隣で暮らしてる、くらいのカンジで、一緒ではない。一緒に暮らしてる、ってのは、同じ部屋で寝起きして初めて言うと思う」
 なんでこんなことを説明してるのかがよく解らないが。
 彼の想像する住宅事情と、実際の住宅は全く違う。
 そう言えば、壁一枚の場所で寝起きしているのに、マトモに顔も認識してない。
 それは結構寂しいことなのかな、と思っていると、樹は「解った!」と言って手を打った。
「俺がヤカタに住んでるってのと、ヤカタの人間は別々、みたいな話?」
 無邪気な子供のように言われて、ズキン、と胸が痛む。
 それともまた違う話だと、僕は思うので。
 この村の事情を鑑みれば、同じ家で暮らしていたらそれは『家族』とカテゴライズされると思う。
 殆どが血縁である、ということを考えると、違う家で暮らしていてさえある種、共同体のような意識でいることは言われていなくても明白だ。
 それなのに。
 同じ家に居ながら、お前だけは別だという扱いを受ける樹は、どうしてそんなに異端視されるのだろう。
 他所から来た僕らでさえ、まるで家族のように扱われるというのに。
 そういう扱いは、正しくない。
 そうやって殺される彼の人権は、正しくない。
 何が正しくて何が間違っているかなんて、そんな難しいことは僕にはまだ解らないけれど、それでも。
 こうやって僕に笑いかける樹の人権が踏み躙られていることは、絶対に正しくない。
「あー……ごめん、気、使わせちゃった?」
 黙り込んだ僕に、樹はごめんごめんと軽く笑いかける。
 そんな軽い話じゃないと思うのに、でも彼はまったく気にしていないように笑った。
「面白い話してくれたお礼に、何でも話すから。この村の話しかないけど」
「アパートなんかの話が面白がられてこっちが驚くよ」
「自分の傍にあるものって、当たり前だって思うよね」
 にっかりと樹は笑った。
 僕が何を思ったのかは見通しているように。
 そしてそれに一切頓着はしていないのだと、僕に示すように。
 それが彼の優しさだと、僕はもう解っている。
「じゃあ、当たり前らしいけど、あの祟る杉の話は?」
「うんそれはここで暮らしてたら当たり前だけど。不可触の神ってのはホントかな、注連縄を張ろうとした男は雷に打たれて死んだ。苛々してて怒ってばっかりでヤな神様だよ、名前だけはなんでか『櫻姫』」
「それは、ミキでも『何でか』って話なの? 杉なのに櫻?」
「うん、何でか、って話だよ。この村が存在する前から生きてる杉だけど、あの神が祟るようになったのは割と最近の話。……とは言っても500年は経過してると思うんだけどね」
「500年が最近って単位なの?」
「この村は歴史だけは古くて、1000年を超えるからね。時の施政者の重税から逃げ出した農民が隠れ住み始めて、ぽつぽつできた村なの。こんな山の上だから、わざわざ流れた農民なんかを探しに来たのはもっとずっと先の話。自分たちの口をまつる分だけを生産してた農民が隠れ住むには絶好の場所だった。自分たちだけの若い田んぼを守っていこう、って感じで『若田』と自分たちで名付けた。それを改名したのがもっと先の時代の、沖田比売事件」
 時系列を解り易く言われて、なるほどなと納得する。
 平家の落人説が好きだと先生は言っていたが、最初にここに住むのは武家より農民の方が根を張り易かったのはすぐに理解できる。
 じゃあ、敵の神を勧請した、ってのは先生のファンタジーだったわけだな、とこっそり思う。
「沖田比売の頃には、施政者に見つかってたの?」
「そう、秀吉のやった検地にここも含まれたから。村も子供が増えて、山ふたつ向こうの村とか、何なら麓の村とかとも交流があったからね。『隠れ住む』という意識がなくなった頃には、ただの不便な村の出来上がり」
「不便な村って認識はあったんだ?」
「そりゃあ不便でしょう。開墾するにも山には広さに限界がある。斜面に段々畑を作ったけど、いかにも不便。魚も川に住むだけの魚じゃ農民皆に行き届かない。作物と魚を交換するために麓に降りるのもなかなかの重労働。だから、基本、他の場所とは没交渉にならざるを得ない」
「確かに、不便だな」
「現代だって、山を降りるには車が要る。山を降りてもすぐに村がある訳じゃない。遠く遠くどこか遠くの村に行くには一日以上の仕事になる」
「そんな村がどうしてずっと現代に至るまで栄えていられるんだろう?」
 それはとても不思議な事だったので、素直に口に出すと、樹は何かに思い至ったような顔で笑った。
「それは、わらしを掴まえたから」
「……掴まえた?」
 意味が解らなくて、鸚鵡おうむ返しに問い返すと、樹はうん、と頷いた。
「村の小さな子供が、遊んでくれる相手が一人多いことに気付いた。それはどこの子供でもなくて、でも不思議と、いつも遊びに混ざっていた。どこの子なの、と聞く子供はいなかった。知らない子供なんて、彼らにはいないはずの、とても狭い村だから。そしていつか大人たちは気付いた。飢饉もなく、日照りもないこの村の恩恵は、誰から、どこからもたらされているのか。そして一計を案じた大人たちが、あの逆注連縄の向こうにわらしを閉じ込めた」
 あの逆注連縄、というのはきっと、ヤカタの奥の部屋の逆注連縄なのだろうと、想像しなくても解った。
 誰もいない、何も無い、と僕が思ったはずのあの先。
 現代には不似合いな几帳と御簾と、空の床の間。
 風もなく、人の気配もないのに、揺れた御簾。
 床の間に飾られたわらし。
 冷たい部屋の床の間に飾られてしまったわらし。
 飾られて、逆注連縄を張られて、結界の中にひとりきりで閉じ込められてしまったわらし。いつもずっと、子供たちと楽しく遊んでいたのに。その楽しみも奪われて、話しかけてくれる者もなく、ただそこに存在だけしていろと閉じ込められてしまったわらし。
「それは、いつ頃の話……?」
「さあ」
 にこり、と樹は笑った。
「この村ができた頃かもしれないし、もっと先かもしれない。この話もここの村の人間の『後ろめたさ』が滲み出てるよね、神様には何をしてもいいと思う反面、甘えてる」
 何をしてもいいと、思っていないから村の人は飾って隠したのではないか、と僕は思った。
 几帳と御簾に隔てて、現代でも指を指すことはしないし、わらし様、と言った。
 それは尊敬とか、畏怖とか、そういうものを感じたし、その扱いは現代に至るまで悪くなっている感じはしない。
 指を指して『アレ』と言われた、櫻姫、に比べれば段違いの扱いだと思う。
「この話には続きがあって、それが座敷わらしって名前で呼ばれる前に、このわらしに嫁いだ娘がいる。その娘から始まった家が栂井」 
「え、神様と結婚したの?」
「座敷わらしが神様かどうかは知らないけど。わらしが特に気に入った娘が、処女のままで子供を産んだ。その子から始まった家が今の栂井。単純に、『つがい』から来た言葉だけど、それじゃああんまり露骨なんで『栂井』って字になっただけの話」
 がりがりと、樹は地面に木の枝で『番』『栂井』と書いている。
 なるほど、これはよく解る話なんだけど。
 聖母マリアの処女受胎なんて話だってあるくらいだから、神様にとっては珍しくない話なんだろうか。
「じゃあ今生きてる栂井さんは、神様の子供の子供ってこと?」
「その子供の子供の子供の子供……ってくらいもう遠いから、まったくただの人間だけどね」
「でも、殺されちゃった沖田比売の系譜とは違って、本当に神様の血脈なんじゃないの?」
「系譜かと言われたらそうだろうけど、多分本当の意味で『神様の子供』だったのはわらしの子を産んだ女から生まれた、その子だけ。あとはまったくただの人間」
「なんでそんなことが言い切れるの?」
「その子は病気ひとつするでなく140年生きたけど、その子や孫たちは普通に老衰で死んでいったから」
「140年って……凄くない? ギネスに載れない? 何で死んだの?」
 神様の子供なのに? と畳みかけるように聞いた僕に、樹は全く無感動な顔で言って寄越した。
 くるくる変わる彼の表情が、こんなふうに、何も映さず凍てつくのを、僕は初めて見た。それは、一瞬、程度の違和感だったけれど。
「自分の曾孫ひまごが老衰で死んだ夜に、櫻姫の身体に紐を掛けて首を吊ったから」
 自分の曾孫が老衰で死ぬ。
 それを看取ることがある。
 普通ならまずあり得ない事態に、背筋がぞわりと怖気だった。
 不可触の神の身体に紐を巻き付けて自分を殺すほど。
 それは、どのくらい深い絶望だったのだろう、と思う。
「櫻姫は、祟らなかったの」
「祟ったよ? だから男は死んだ。祟りで死んだのか、首に紐をかけたから死んだのかは、誰にも解らなかったけどね」
 神様の子供だったから、同じ神様の祟りでしか死ねなかったのだろうか。
 祟りに縋ってでも死にたいと思う気持ちは、さすがに今の僕には解らない。
 どうしてもどうしてもこの世に生きていたくないほどの絶望を、僕は味わったことがない。
 勿論、今の僕の、単純計算で七倍以上の時を生きた男の気持ちなんて、解りようがないけれど。
「櫻姫が本気で祟ったら、死なない人間はいないことの立証だね」
 それほどに恐ろしい神様は、憐れで愚かな鬼と化した男とは段違いの怖さだ。
「そういうことを、村人はみんな知ってるの?」
「みんなかどうかは知らないけど。栂井の家にはさすがに残ってるんじゃないの、自分ちの祖先の話だし。でも自殺したってのは聞こえが悪いから、なんかぼかしてあるかもね」
「どうしてそこまでのことを、ミキは知ってるの?」
 逆を言えば、もしかしたら栂井の家にさえ残っていないような事柄を。
 神様の系譜である家にさえ、残っていないかもしれない話を。
 どうして樹はすらすらと覚えていることを並べるように話せてしまうんだろう。
 アパートの概念さえない、ひどく浮世離れした彼は、どれほどにこの村に詳しいのだ。
 心底不思議だったから訊くと、樹はまた、とても綺麗な笑みを浮かべた。
「この村にただ閉じ込められて、話し相手すらいなくて。そうやって生きてると、無駄にね、もう誰も見向きもしなかった古文書なんか読んだりしちゃうんだ。今の村人でさえ興味のないようなものでも、俺には他に相手してくれる人がいないからね。本を相手に生きるのは、結構楽しいよ」
 もしかしたら、いつか先生が僕に言った、現実からの逃避として文学を選んだようなそれなんだろうか。
 僕のものと比較されては迷惑だろうが、彼も彼の無聊を託つ為に相手を選んだ。
 彼の孤独は、とても心地好い。
「おしゃべりだって、ミキは自分の事言ったよね?」
「うん? だって俺、結構おしゃべりでしょ?」
 可笑しそうに樹が笑うので、僕は笑い返すのを失敗した、ひどく下手くそな表情だったに違いない。
「ミキとおしゃべりしてくれる相手が、昔は居たの?」
 今はどこにも居なくても。
 何の理由でも、今は誰も、彼に見向きもしなくても。
 最初から孤独なのじゃなければいい、と思って訊いた僕に、樹は柔らかく笑った。
「昔はいたよ。けど今はいない。そういうもんだって思ってるし。……だから今は、タカがおしゃべりの相手してくれるから嬉しい」
 そんなことがとても嬉しいのだと、樹はふわふわと現実感のない笑い方をした。
 どこかに消えてしまっても不思議はないほど柔らかいそれは、どうしようもなく、僕を泣きたい気持ちにさせた。





「神様の子供は一代限り。……ふぅん、興味深い話だねぇ……」
 今日の夕食に、と頂いた山菜ごはんのおにぎりと、タケノコの煮たのと、猪肉を煮たのと。
 僕たちが思っている以上にこの村で猪肉はメジャーなようで、そんなに簡単に手に入るのか、と認識が壊れそうだ。
「しかしきみは凄い話を聞いてくるね、これがきみの創作であっても面白いくらいだ」
「人んちでこんな創作しませんよ」
「だろうな」
 納得しながら、先生はタケノコを口に放り込んだ。
 醤油で甘辛く煮られたそれは、それまで僕が食べたどのタケノコよりも美味しかった。
「ひとつの家が生まれる原因になったような人間が自殺とは確かにいかにも聞こえが悪いから、栂井さんもこんな話はしてくれないだろうなぁ」
「やっぱり『聞こえが悪い』て感覚、あります?」
「あるね、それは当然だ。殺されたよりより性質が悪い。大抵の宗教で禁止されているのが自殺だからね」
「禁止してない宗教ってあるんですか?」
「それを『自殺』とは言わない場合に限るがね。ほら、聞いたことがないか、ウサギが旅人に自らを食べさせるために火に飛び込む寓話を」
 ぐるりと頭の中を検索してみると、確かに記憶の隅っこに引っかかっている。
 クマが魚を捕って来て、狐が木の実を採って来て、何もできないウサギが自分を食べさせるために薪の中に自らの身体をくべた。
 そういう話があったような気がする。詳細までは思い出せないが。
「あれは自殺には当たらない?」
「自己犠牲、というんだ。美しい話となってるわけだから、あのウサギに罪はないはずだ。宗教上の寓話だな」
「ここでも宗教ですか……」
「ずっとずっと宗教の上に居るんだぞ私たちは。ただ、ひとの神を撃ってはならないから表立って攻撃しないだけだ。表立ってひとの神を撃つ行為は『美しくない』として批判の種になり易い。この国は争いごとが極端に嫌いだからな」
「極端ですか、争うことが嫌いなのは」
「極端すぎるよ。聖徳太子のアレを思い出してみたまえ。国策だというのに、天皇を立てろや国宝を敬えの前に『和をもって尊しとなす』が来る国だぞ。そんな頃からどれほど争いごとが嫌いか解るだろう」
 それを例に出されては解り易いような、もっと解り難くなったような。
「争いたくないから、沖田比売を売ったし、争わないためにわらしを閉じ込めたんですかね」
 村の中が穏やかであればいい。
 ただこの村さえが穏やかであればいい、という傲慢さが透けて見える行為のような気もする。
 売られた沖田比売の悲哀や、閉じ込められたわらしの切なさは、そこに加味されていない。
 ぼんやりと言った僕に、おにぎりを頬張りながら先生は言った。
「それなんだがね、ナシくん」
「何ですか」
「どうもきみの話には個人的な何かが挟まっていると、私は思うのだよ。それを面白いと思って聞いているのも事実なのだが、どうにも少し、胡散臭い」
「胡散臭い?」
「そう。立場がね、おかしいんだ。村の人間ではなく、視点がまるで神様の方にある。神様の話を聞いて来たのかと私は少々疑っている」
 言われて初めて、ああ、と納得した。
 そう言えばそうなのだ。
 確かに樹の話は面白いが、それは視点が違うからだ。
 神様を奉じて生きている人間のソレではなく、この村に住んでいる、住んでいた神様の方から見た話をしている。
 どうして、そんな視点を樹が手に入れたのか。
 僕はそれを知っているが、どう説明して良いのか解らない。
 物語を美しく編むことで、神様の腹を宥めるのが多分、文章の役目。
 神様を信じていますよ、奉じていますよ、あなたたちの物語はこんなにも美しい。
 そうした目的で編まれた物語は、この国には数限りなくある。
 美しい物語にすることで、神様を神様たるカテゴリーに押し込める。
 神様がこれ以上人間に何かをしないように、もっと露骨に言えば祟らないでくれるように。
 源氏物語、平家物語、太平記。
 この国の不朽のベストセラーたちは、神様の視点で編まれている。
 あなたたちは素晴らしいですよと、物語は全編通して言い続ける。
 そしてそれは時代を下ると、『本当にそんな美しい神様たちがこの国に居る』と人々に勘違いをさせる。
 その為に編んだ物語は、役目をずっと続けるのだ。それはおそらく、この国が亡ぶまで、永遠と言い換えることができるほどに、永い時間。
「誰か腕のいい歴史家でも居るんですかね、この村に」
 この村に今でも息づく神様が暴れ出さないように。
 神様たち、時には鬼になった男たちでも、二度と暴れ出したりしないように。
「そんな歴史家が居るなら是非会ってみたかったがね。私たちは明後日にはこの村を出よう」
 唐突とも言える先生の言葉に、僕は思わず頬張っていたおにぎりに噎せた。
「おいおい、大丈夫か? だってこのまま居座るのも居心地が悪いだろう、この村の人は私たちに良くしてくれ過ぎると思わないか? 一泊千円で返せる恩だとは私は思えない」
 そういえば、最初はそういう話だった、と今更に思い出す。
 確かに、宿賃が千円で、毎食誰かしら差し入れてくれて、人様の家でお風呂を借りて、無償提供のストーブも借りて。
 僕たちがこの村にかけている負担は、あまりにも大きい気がする。
「私の方だって、聞きたい話はたくさん聞いたよ。どれほどここの村人が、土地に息づく神様を愛しているか。知っているかい? ここの神様たちの祝祭には、子供たちがちゃんと戻って来るそうだ」
「へえ?」
 それは初めて聞いた話なので、目を丸くして僕は聞いた。
「あの丘の向こうに、稲村さまという神様がいらっしゃるそうだ。五穀豊穣の神で、稲村さまの祝祭は年に二回執り行われる。その際には、子供たちは街から帰省するのだそうだ。誰一人欠けることなく。明日、稲村さまにお参りさせて頂くが、残念ながら祭りの日ではないからね。祭りの日には、またここに来させて頂こうと思っている。あとは、勧請した八幡さまのお祭り。こちらの祝祭は年に一度だそうだが、秋に行われるらしい。勇壮で、美しい祭りだと、古屋は言っていたし、写真を見せて貰って是非見たいと思ったよ。どの祭りにも、家ごとに担当者が決まっているのがしきたりだとも。祭りの手順は口伝で、全ては家中で相伝されるそうだ。作法も、儀礼もすべて」
 お祭り、というのにイマイチぴんと来ないのは、元々僕がそれなりの都市の出なのだからだろうか。
 大学に来るまで地方とは無縁で、神様、というのとは切り離されて育ってきた。
 祭りと言えば焼きそばにりんご飴、なんて貧困な発想しかない。
 祭りとは、祭祀だ。
 神に感謝し、神に奉じる為に執り行われるものだ。
 そんな当たり前のことに、今突然気付くことができるくらい、それは僕の中でイメージしにくい出来事だ。
「あ、でも先生、八幡さまは敵の神だから勧請したわけではないっぽいですよ」
「……それは知ってしまったよ。どうして八幡さまを勧請したのかは不明だが、とにかく平家の落人説はないようだな」
 ブスくれて先生は猪肉を頬張った。
 そういう伝承は、村人の中でもちゃんとなされているらしい、と僕は少し、ホッとした。
 古文書だけを紐解いて生きている、可哀想な樹だけが知っているわけではないらしい。
「しかしきみのニュースソースは非常に興味深い。私には秘密かい?」
 誰にも言わないで、と樹は言ったから。
 何も頼むことも頼ることもしない、あの樹が最初に作った約束事だったから。
 僕はそれを、壊す気になんてなれない。
 おしゃべりだ、と自分を評しながら、でも誰とも話すことがない、と当たり前のように言った樹を。
 それが当たり前だと思うなんて、彼の周囲は歪んでいる。
 少しずつ少しずつこの村は歪んでいて、ついにはその歪みをあの樹に到達させたのかなんて思ってしまうくらいに。
「秘密ですね。望まれていないことは、僕には出来ないから」
「それは、望まれたらできると受け止めてもいいかい?」
 悪戯っぽく先生は笑って、最後のひとかけらだったタケノコを口に入れた。
「望まれたらできる子だよ、きみは」
 口の中でタケノコを咀嚼しながら、先生は満足そうに笑った。
 先生が、僕に何を見ているのか、解らなかった。





 その夜も、僕は夢を見た。
 あの、最初に頭を撫でたいと感じた子供が、僕の顔を覗き込んで、まるで皮膚の下まで透けて見えるような視線で、ただ僕を見つめていた。
 ただ、どうしたって、僕とは目線が合わない。
 子供が見ているのは僕なのに、そして僕も子供を見つめているのに、どうしても、見ているところが違う。
 僕は、子供の瞳を見つめていたはずだ。
 それなのに、子供は、僕の瞳の奥の何かを見ようとしているかのように、視線がかみ合わない。視線が、絡み合わない。
 僕は、子供と見つめ合いたかった。同じものを見ていると、僕らは同じ空間にいると、子供に教えたかった。
 けれど、子供はどうしても、僕を見ない。いや、僕を見ているのだが、僕の瞳のもっと奥、もしかしたら、脳味噌の奥までを見ようとしていたのかもしれない。
 さびしい。
 かなしい。
 今度は、僕がそう思う番だった。
 君と見つめ合うことすらできないことが、僕は哀しいよ。
 君の見ている、僕の瞳から、脳味噌の奥から、この気持ちが君に伝わるといいけれど。
 僕はそんなことを祈りながら、ただ、僕と視線の合わない子供の、一度も瞬きをしない瞳を、ずっと見つめていた。





「明日帰る……の」
 その決定を伝えたら、樹は解り易くしょんぼりして見せた。
 こうして話しながら、夢のように過ぎた時間。
 この時間を夢だと感じているのは僕だけかもしれなかったけれど、でも夢のように時間は過ぎて行った。
 密度の濃い時間。
 ヒトと神様の物語。
 今でも生きているヒトと、今でも生きている神様の物語。
 それだけではない、樹と過ごして、くだらない話だって交わした。
 僕が住むアパートのボロさ加減や、大学の学食の不味さ。
 日向に住む猫の表情や、いつだって忙しなく過ぎていく人々の表情。
 僕はそれらすべてから置いてけぼりを喰ったような気がしていたのだけれど。
 樹は、僕の言葉を無視しないし、興味深そうに聞いてくれた。
 それがどれほどに僕を充たしたか、彼には解らないかもしれない。
 僕は、樹と話すことで、身体の中の何かがチャージされた。
 僕の話をすべて、興味深い、と聞いてくれる樹の存在で、チャージされて行ったのが解った。
 チャージされて、正しく吐き出す。
 それが人の正しい生き方かもしれないなんて、初めてここにきて、思う。
 清涼な滝の前で、綺麗な樹の前で、初めて、思う。
「そうか……まあ、帰るところがあるんだもんな。そうだよな、俺の相手ばっかして過ごす訳にはいかないもんな」
 僕に聞かせる為というよりは多分、自分で納得する為に。
 ブツブツと呟く樹が、可笑しくて笑ってしまう。
「一緒に、来る?」
 それは反射だった。
 ここに置き去りにされる樹が可哀想で、ここで誰とも話さない生活をする樹を想像したくなくて。
 息を詰めて、息を殺して、存在しないように存在する樹のことを考えると、頭がおかしくなりそうなのは僕の方だった。
 反射で言った僕に、樹はおそらく反射で叫んだ。
「行く!」
 白い肌を薄らピンクに染めて、樹は見たこともないほどに真剣だった。
 神様たちの話をするより、村の子供の話をするより。
 とても真剣な樹に、僕はその綺麗な髪を撫でた。
「村の人は、誰もいないよ?」
「解ってる。誰もいなくていい、今もいないのと同じだ」
「すぐにここには帰れないよ?」
「解ってる、別に帰りたい訳でもない」
「この村の人、もう誰とも会えないよ?」
「会いたいと思う人なんていない」
 キッパリと、樹は言った。
 誰一人、こんな数日前に現れた僕より軽いのだと。
 頷いた樹は、とてもとても、切羽詰まった子供のようで。
「先生が帰る車に乗ったら、ミキを乗せたのがバレちゃうから。出来るだけバレない方法を取ろうか」
 こくこくと、樹は頷いた。
 それが正しい方法なのかどうか、僕には解らない。
 でも、この縋るように見つめてくる樹を置いて行くのが、正しい方法だとはどうしても思えなくて。
 僕が選ぶ、たくさんの選択肢の中での最適解。
 これは、誰にとっての最適解なのか。
 ここを去った僕が、ひとりでこの滝の前に佇む樹を想像して耐えられないのか。
 それはただの、子供の我儘じゃないのか。
 僕だって、ただの大学生で、何の力もないのに。
 考えたけれど、目の前で泣きそうだった樹を想うと、何かが止められない。
 僕が練ったプランに、樹はただ、うん、うん、と頷いた。
 一緒に行ったら、プリンとか食べられる? という、どこか明後日な質問を笑いながら往なして。
 この可哀想な子供を盗み出す方法を、僕はあろうことか、本人に根気よく、言い含めた。





 そして翌日。
 先生は、ひとりで村を降りた。
 僕は、前日に『もう少しだけここに居たい』というワガママを言い含めていたので。
 それなら滞在日程を一日伸ばそうか、と言う先生に、先生は予定通り帰ってください、と返した。
 僕はバスとJRで帰りますからお気になさらず。
 いつもよりも渇いたそれは、それでもちゃんと先生に届いたらしい。
 荷物だけはきみの家に届けよう、と言った先生に、それもちゃんと持って帰りますから、と固辞した。
 そして、村の外れ、道祖神の足元。
 たった一つだけあるバス停に、僕と樹は、その翌日に居た。
 誰にも見られないように、そこで待ち合わせしよう。
 樹の村の中でのポジションは、結局僕には解らなかった。 
 ただ、誰と一緒に居るところを見た訳でもない。
 ずっとあの滝の傍で坐する樹は、神々しくすらあった。
 そういう風に生きている樹を、要らないというのなら。
 彼を解き放つために、僕が連れ去ってもいいのではないか。
 そう自然に思えたのは、最寄りのJRの駅で、樹が困惑して、でも笑っているところを見てからだ。
「これをここに入れるの?」
 村の中では、それでも怖いものなんていない、という風に笑っていた樹が、困惑した風に切符を持って僕に尋ねる。
「そう、そこに入れて、出てくるからちゃんと受け取って。帰る駅でもそれは必要だから」
 僕はICカードを持っていたけれど、樹に限ってはそうではない。
 帰りつく駅までの切符を買って渡すと、樹は恐々と操作をする。
「要るの? これ。最後まで要るの?」
 丸い穴の開いた切符を、樹は恐々と差し出してくる。
 全てがデジタルとなったこの世は、樹には少し怖いものだったのかもしれない。
「要るよ。料金が足りなかったら乗り越し清算とか必要だから、ちゃんと持っててね」
 樹の服の、少ないポケットにそれを捻じ込みながら、僕はそう言った。
 数千円のものだろうが、貧乏大学生の僕にはそれでも痛いに違いない。
 こくりと幼く頷いた樹は、初めての使命を帯びた子供のようだった。
 はじめてのおつかい。
 そういう番組を、前に見た気がする、と思うくらいに。
「大丈夫、失くさない」
 うん、と自分に言い聞かせるみたいに、樹は頷いた。
 それから、車窓に映る景色に樹がはしゃいで、解る限り答えてあげて。
 本当に、あの村以外の場所では生きてなかったんだな。
 そんなことが解るくらいに樹ははしゃいで、だから、僕の胸はだんだん重くなっていった。
 全てのことを忘れたみたいにはしゃぐ樹の表情とは、まるで裏腹に。





「とりあえず、飯食おうか」
「うん?」
 僕の住む街の最寄りの駅で、やっと腹が空いていたことを思い出したので。
 樹は、僕の言葉に不思議そうに首を傾げた。
 財布を取り出してみてみたら、一万と飛んで数千円。
 大した出費ではなかった沖田村での生活は、殆ど僕の財布に打撃は与えなかったらしい。
 金のかかるところなら行きませんよ、と僕は最初に言ったが、本当にかかった経費はとても少なかった。
「簡単でいいよな、そんな凝った飯食いたい?」
 とても美味しかった猪肉やタケノコや、採りたてのタラの芽や蕨といったそれぞれ差し入れられた里の味。
 あれらを擬えて、と言われたら、完全に無理がある。
 そういうものをお求めなら完全にお手上げだが、そうでないならそれなりの手段はある。
 聞いたら、樹はよく解っていない顔で笑ったので、一番手近にあった、日本中に支店のあるバーガーショップに彼を連れ込む。
 きょろきょろと珍しそうに周囲を見回したのを見て、これも初めてだったらしい、と頭の中で答え合わせをしてから、簡単に注文する。
 あんなに、里の味、郷里の味、を散々食べていたので、余計だった。
 ジャンクな食べ物が欲しい、のはもう、現代っ子の病気だ。
 暫くして、二人分のバーガーとポテトが運ばれてくる。
「いい匂い……」
 くんくんと、運び込まれたものの匂いを嗅いで、珍しそうに樹は言ったけれど。
「食べ方が解らない……」
 いい匂いの正体をどうしていいか解らない、と途方に暮れた顔で言うので、可笑しくて笑った。
 包装紙を半分剥いで、食べやすいように包んでやって。
「こうやって掴んで、食べるんだよ」
 自分の分も同じようにして、齧って見せてやると、樹はやっと安心したように笑った。
 物凄くヘタクソに、バーガーのはじをかじりながら。
「美味しい……」
 鼻の頭にソースをつけて、多分小さな口にはパテが少しと、ハンバーグの少ししか入っていなくても。
 でも、そう言って感動している樹に、僕は感慨を覚えた。
 こんな小さな、小さなことで喜んでいる樹が、嬉しかった。
「全部食べ終わったら、顔中拭かなきゃなんないね」
 もそもそと齧る樹の顔は、だんだんソースまみれになっていく。
 幼児が不器用にご飯を食べているみたいだ。
 それが可笑しくて、僕は樹の鼻の頭についているソースを指先で拭いた。
 初めて食べるからなのか、樹は夢中になって、はむはむとバーガーを頬張っていたけれど。
 こんな時間をあげられて良かった。
 そう思うくらいには樹は楽しそうで、嬉しそうで、あの村に居た時の暗い雰囲気なんか、全て吹き飛ばしていた。

  




 何も知らない、となったら今度はどこだろう。
 僕のアパートに来た樹は、『これが住んでる部屋全部!?』と信じられないような大声を上げたし、それに僕はどう返していいか解らなかったし。
 あの村の、あの中心部のようでいてぽっかりした場所に住んでいた樹にしてみたら、僕の生活がせせこましくて、信じられないのは解らないでもない。
 一部屋しかない居住空間、そして申し訳程度のキッチンに、ユニットのバス、トイレ、簡単すぎる玄関。
 それが生活の全てだ、ということを、意外なほどあっさりと、樹は受け容れた。
 勿論、これで全部? というクエスチョンは、常に付きまとったが。
 あの村ではできない体験をさせてあげたいと思った。
 でもそれは、あまり想像の域を出なくて。
 考えることは、常に食べ物のアンサーを出した。
 だから、今日はやっぱり日本中にチェーン店のある、安価なイタリアンのお店に樹を連れて来ていた。
 周りにいる人たちにきょろきょろしながら、樹はずっと嬉しそうだった。
 運ばれてきたナポリタンに、樹にしては珍しく渋面を向けてくる。
「どうしたの?」
 聞いた僕に、樹はどうしようか、と一瞬逡巡したように見えたけど。
「これで食べるの?」
 大真面目に樹が握っていたのは、何の変哲もないフォークとスプーン。
 テーブルマナーを全く知らない子供が、いろいろ考えた結果らしい。
「そうだよ、スプーンの上でフォークをくるくるって、こうやって回して。絡めて食べるんだよ」
 実演を込みで教えてあげても、樹は渋面をやめない。
 僕に教えられた通りに、パスタを数本、やっとフォークに絡める。
 それも本当にやっと、といった具合だから、使いこなしていない人間には、本当に難しいらしい。
 フォークを使いこなせない人種なんてのに初めて出会ったから、それは新鮮な驚きではあったけれど。
 くるくるとフォークに数本、パスタを絡めて、それをやっと口に運んだ樹の感想。
 美味しい、であるといい、と思った僕の予想は、見事に裏切られた。
「金属の味がする」
 渋面に文句までつけそうな樹の言葉に、僕は驚いた。
 でもそんな僕に構うことなく、嫌そうに樹は言った。
「めちゃくちゃ、金物の味。……うえええ、美味しくない……」
「いや、お前が食べてんの、フォークじゃないよね!? パスタだよね!?」
 つい訊きたくなった僕に罪はない、と思いたい。
 めちゃくちゃ難しい顔で悩んでいる樹に、僕はしばらくじっとりと目を向けて、そして一つ、吐息した。
「美味しくないと食事も拷問だもんね。お箸貰おう」
 言ってやると、解り易く樹は顔を輝かせた。 
 別に、ここは日本だから、箸で食べていけないってことはないはずだ。
 パスタを箸で食べるのはマナー違反かも知れないが、ここは誰もそんなことを気にしなさそうなチェーン店だ。
 貰った箸で、やっと樹は『美味しい』と言って幸せそうに笑った。
 そういう、幸せな顔をできるのが何よりのはずだ。
 良かったね、と言いながら、僕は自分の目の前に運ばれたボンゴレを片付けた。
 当然、それは何なのだと好奇心を輝かせた樹に、ほぼ半分くらいは奪われたのだが、それでも悪い気はしなかった。
 村では、食事をする樹を見なかったので、彼がその外見からすると驚くくらい食べる、というのも知って、でもそれも好ましいと思った。
 だから僕らは、繰り返したのだ。
 楽しいと思うことは半分こにして二倍に。
 嬉しいと思うことにも半分こして二倍に。
 幸い、悔しいとか、哀しいとか、思う隙はなかった。
 だからただ、ポジティブな感情を、二人の間で増幅し合った。
 それは、今まで僕があまり感じたことのなかった、幸せ、というものに、多分とてもよく似ていた。
 だから、彼をあの村から奪ったことは、正当な事だった。
 こうして、金物の味がする、なんて嫌そうな彼を見ることは、とても。
 僕の中で、彼を連れて逃げた僕を正当化する、何よりの証拠になった。
 あの村で寂しそうに過ごす彼の、年相応の楽しそうな生きている姿。
 それが見ることができたのだから、きっと何よりも良いことだったと。
 自分の行為を正当化する為に、樹の態度はすべて、好ましかった。
 箸で食べるクリームソースのパスタ、の姿でも。
 手掴みで食べる、という発想のない彼が、箸で掴むナゲットの、でも美味しい、と眦を下げる様子でも。
 これで良かったのだ、と勝手に、強く思い込む為に、樹は完璧な舞台装置を用意した。
 あの狭い村で、ひとりで寂しさに震える樹を見るより、こっちのほうがずっといい。
 僕が何度となく思った事は、樹には届いたのか、届かなかったのか、よく解らない。
 新しい、樹の知らない食べ物や飲み物を与えるたびに、オーバーなくらい樹は喜んだし、美味しいと言った。
 それですべてが良いんじゃないかと、僕は本当に、思った。





「? おかしいな……」
 いつもいつも外食、というのはなかなかに貧乏学生の財布には厳しいので、簡単に作ってあげられる食事にしよう、と思って、近くのスーパーに買い物に来た。
 麺類ばっかり続くのもどうかとは思ったので、でも難しい料理は作れないので。
 それほど外れができないお好み焼き、とか、焼きそば、とか、チャーハン、とか。
 簡単漢飯系を作ろうと、僕はスーパーで樹を連れて買い物をした。
 スーパーにも初めて来た樹は、商品の多種多様さに目を輝かせていたけれど。
 支払いの段になって、不思議なことに気付いた。
 一万と数千円。
 樹をここに連れてくる前の所持金。
 あれから三日が経ったし、いろんなものを食べさせているし。
 その度に会計している筈なので、だから当然手持ちは少なくなっている筈だ。
 ―――筈、なのに。
 支払いを済ませても、変わらずに財布の中に在る一万円と数千円。
「どしたの? タカ」
 商品を袋に詰めるのは、僕の仕事だ。
 最初は樹がやりたがったが、柔らかいものを下に置いたり、ぐちゃぐちゃに詰めたりするのでやり直しとなるからだ。
「いや、お金が減ってないな? ……と思って」
「減ってなかったら嬉しいじゃん」
「いや逆に怖いよ。使ってるはずなのに。僕、無意識に万引きしてないよね?」
「レシートあるのに?」
 ぴらり、と樹が僕にそれを見せる。
 一番最初、コンビニで買い物をした際に、何を貰ったの、と樹が嬉しそうに聞いて来たので。
 特にいいものを貰った訳じゃないんだよ、と言いながら、見せてあげてからは何故か、樹は『レシート』を気に入ったらしい。
 お釣りは僕が受け取るが、何故かレシートだけは樹が受け取りたがる。
 買い物をしても、食事をしても、必ず貰える何か、と認識しているのかもしれない。
 現代人は何もお得感が無いのだが、樹にとっては『ついでに貰える何か』として付加価値があるんだろうか。
「そうだよな、レシートあるよな……おかしいな……?」
 じゃあ、無意識にお金をおろしてる? いや、銀行にも行ってないしATMも触っていない。
 不思議になりながら、スーパーを出て、僕にとっては通い慣れたアパートへの道を辿る。
 買い物袋を半分ずつ持って、樹はいつも上機嫌だ。
「あ、ねぇねぇ! あそこに入りたい!」
 樹が指差したのは、コーヒーショップだ。
 派手な看板のある所は飲食店と、別に教えた訳でもないのにそういうルールだと樹は理解しているらしい。
 見たことのないものに、いつでも瞳をキラキラと輝かせている。
 買い物袋は、樹のリクエストもあって、日本酒なんかが入っていてなかなかに重い。
 どうしようかな、と一瞬考えたが、多分だけど、コーヒーも飲んだことがないんだろうな、と想像はつく。
 リクエストに応えてあげたいが買い物袋は重い。
 考えて出した答えはシンプルだ。
「よし、じゃあ生モノも買ったし、一回アパートに帰って買い物片して、それからもう一回出かけて来たら良いだろ?」
「うん、それでいい」
 あっさりと頷いた樹は、片方持たされている荷物の重さは感じていないようだ。
 箸より重いものを持ったことがない、なんて勝手に思っていたけれど、別にそういう訳でもなかったらしい。
 真っ直ぐアパートに帰って、とは言っても途中に居た野良猫なんかに樹が構い始めたので、予想よりもゆっくりの帰宅になったが。
 荷物を片してから、僕らはもう一回街に出た。
 どこに行きたい、何をしたい、が明確ではなかったけれど、何を見ても、樹は楽しくて堪らないと、柔らかい垂れ目をふわふわ伏せて笑っていた。
 





 本当に身一つで村を出てきた樹には、当たり前だが着替えがない。
 大して変わらない体格で良かったと、僕の服を着せて思う。
 ユニットバス、に入った事がない樹に、その扱い方を教えるのは少し骨が折れた。
 このカーテンを閉めるんだよ、を言い忘れて、初日はトイレ部分まで水浸しにされたのだ。
 言わなかった僕が悪いのか、気付かなかった樹が悪いのか。
 二日目以降はきちんと使えるようになっていたので、特に何も言うことはない。
 長い長い春休み、の大学生で良かった。
 これから先をどうしよう、と思わなくもないが、後先を考えない、というのは人生で初めてだったような気がする。
 昨日は街の中を適当に巡って、あれは何、これは何、と聞く樹にいちいち説明して、僕でも知らなかった風景をたくさん見つけた。
 ただ流れるように普通に生きていたら、自分の住んでいる街を特別視することもなかった。
 だから、僕もそこにそんなものがあるなんて知らなかったものをたくさん見つけた。
 住宅街の山手にある寂れた神社。徒歩で行ける場所なのに、そんなものがあることを僕は知らなかった。
 入ったこともない小さなブティック。樹の服を買おうか、と思ったけれど、マネキンの服を一式着せた後、そのあまりのお値段に断念した。
 市営の図書館。すべてが本で埋め尽くされている光景に、樹は解り易く目を輝かせたが、彼の読みたい本を全部抱えて帰ろうとしたら大変なことになったので、三冊までに留めさせた。
 今は、部屋の中で、のんびりと借りてきた本を読みながら寝っ転がっている。
 その横で、僕は昼ごはん用にチャーハンを作っている。
 料理の才能はあまり無い、というのが僕の自分の腕への正直な感想なのだが、何を作っても、樹は美味しいと喜んでくれる。
 自分の作った料理を褒められるって、結構嬉しいことなんだな。
 ひとりで食べる分には、機械的にとにかく腹に溜まればよし、で作っていただけだったのだが、人が楽しんでくれているとなると力の入り方が違う。
 いつもよりも気持ち、パラパラに仕上がったチャーハンを皿によそって、テーブルの前で寝そべっている樹に声をかける。
「ほら、お昼ごはん。本しまって」
「ん~……」
 ご飯、となるといつも樹のテンションは高い。
 そう思っていたので、どこかのったりとした動作が気にかかる。眠いのだろうか。
 緩慢な動作で本にしおりを挟んで、ぱたり、と身体の隣に置く。
「どうかした?」
 小さなテーブルの向かい合わせに二つの皿を並べると、樹はぼんやりとしてチャーハンを注視している。
 いつもだったら、ご飯、でテンションが上がるのに。
「ん~ん……ちょっとだるい」
 でも食べる、と言って100均で買ったプラスチックのスプーンを手に取った。
 こういうものを食べる時、スプーンを使わない、という選択肢はないな、と思ったので。
 最初にフォークを『金属の味』と嫌がったことを考えて、100均でそれらのプラスチックバージョンを揃えておいた。
 プラスチックの味がする、と言われたらどうしようかと結構ドキドキしたのだが、その苦情は今のところない。
「いただきます」
 きちんと、顔の前で手を合わせてから、樹はもそもそとチャーハンを頬張り始めた。
 ひとくちが大きい、と樹の食事を見ていつも思っていたのだが、今に限っては特に食べる気がしていない、というのが丸解りの遠慮深さだ。
 小鳥が食事をしているのかと思うくらいに減らない皿と、薄らと赤い頬。
 色が白いので、少し上気していてもよく解ってしまう。
「ミキ、風邪でも引いた?」
 長い前髪を掻き上げて、その額に手を当てると、結構熱いのが解る。
「うわ、熱あるねこれ。どうしよう? 薬飲む?」
 とは言っても、基本的に僕もあまり体調を崩さない人間なので、薬のストックが思いつかない。
 ドラッグストアに走ればすぐだが、この発熱をしている樹をそこまで行かせるのは酷な気がした。
「ん~……要らない」
 もそもそとご飯を食べながら、樹が緩く首を横に振る。
 要らないって、こんな熱は自然治癒しないだろ。
 そう思ったので、食事の途中だったが、僕は財布を掴んで立ち上がった。
 樹が食事を終えたら、何か薬を飲ませないと。
「喉痛いとかある? 頭痛い?」
 症状を聞かないと、買って来る薬の見当もつかない。
 確かここにあるはず、と引き出しを開けて、電子体温計を取り出す。
「これね、挟んで脇に」
 ピッと一回目の音を鳴らしてから、スプーンを持っていない方の腕にそれを挟ませる。
 相当だるいのか、樹はされるがままだ。
 すぐに二回目の音が響いたので、と取り上げると。
「うわ、38度……これはきついでしょ、ご飯食べたら寝てていいから」
 そんな発熱、自分だって前はいつだったか記憶にない。
 でも、身体の節々が痛んだりとか、そういうのがきっとあるはずだ。
「頭痛い? 他にどっか痛いとこない?」
 聞いても、樹はぼんやりとご飯を食べているだけで、ふるふると首を横に振る。
 それはどこも痛くないのか、ただ我慢しているだけなのか。
 本当なら病院に連れて行くべきなんだろうけど、何も持たずにここに来た樹には、病院で出す保険証がない。
 病院にかかる費用を実費で支払う財力が僕にはないので、次善策としては症状を下げる薬を買いに行くことしかできない。
「ちょっと待ってて、ご飯食べたら寝てて。薬買いに行ってくる」
 バタバタと慌ただしく出て行った僕を、多分樹は見送る元気もなかった。





 解熱剤を飲んでもダメ。
 風邪薬を飲んでもダメ。
 樹の熱は、一向に下がらなかった。
 どうしてあげたらいいのか解らずに、これはもう救急で病院に担ぎ込むしかないのでは、と思っていると、樹が布団の中から手を伸ばす。
「……水が欲しい」
 喉を痛めているのではなさそうだ。
 弱々しいながらも普通の声を出した樹に、僕はペットボトルで買っている水を差し出す。
「ちょっとでいいから、塩」
 水を飲んだ樹が、そんな妙なオーダーを出してくる。
「え、脱水症状とか? ちゃんと水分取ってたよね?」
 水分と塩分、と来られたら、思いつくのは脱水症状だ。
 本当に一つまみの塩を小さな皿に盛って来ると、樹は指にそれをつけてぺろりと舐め、それから大きな息を吐いた。
 脱水症状なら、もっともっと水分取らせないとダメだな。
 多分、水ではなくてスポーツドリンクの方が良いはずだ。
 冷蔵庫に常備しているそれを樹に渡しても、樹はこれにはいやいやと首を振る。
「駄目だよ、水分取っておかないと」
「……水が良い」
「水より吸収いいの、薬だと思って飲んで」
「水が良い」
 小さな子供のようなワガママだ。
 仕方なく、追加の水を渡してやると、こくこくと呑んでいる。
「あと、酒」
「何言ってんだよ、こんな時に酒なんてあげる訳ないでしょ」
「飲んだら治るから」
「アル中みたいな事言わないで寝てて」
 樹の頭を押さえるが、やっぱり熱い。
 どうして薬が効かないのか、少し苛々した気持ちになってしまう。
 水と塩で治る症状なんて、本当に脱水症状しか思いつかない。
 脱水症状だとしたら、アルコールは余計に症状がひどくなるはずだ。
「俺がここに居たら、タカ、困るね」
 ぽそりと、苦しそうな息の下で樹は言った。
「こんなんでここに居たら、タカ、困るよね?」
「そんなんだったらね。だから早く治そう」
 言っても、樹は難しい顔をやめない。
「すごくすごく楽しかった。外の世界、すごくすごく楽しかった、ありがとう、タカ」
「何言ってんの急に」
 まるで夢の時間は終わりであると、樹自身が悟っているように聞こえる。
 そんなつもりは毛頭ない。
 いつまでも樹をここに居させてあげられるか、なんて、それは確かに確証のないことなのだけれど。
 少なくとも、今放り出すつもりは全くなかった。
 でも、僕の困惑なんかそっちのけで、樹は悟りすましたみたいに続けた。
「どこにいても迷惑かけるなら、俺は村に帰るよ。多分村でもそろそろ大騒ぎになってると思うし」
 それはそうかもしれない、とまるで他人事のようには考える。
 人ひとり、あの小さな村から消えたのだから、たとえ普段は無視していても無視できる問題でもない。
 事件のない村の中で、暫時お邪魔していた大学生と一緒に姿を消した人間が居たら、簡単に関連性は見つけられるだろう。
 未成年ではないとは思うが、それでも略取、とかそういう罪に当たるのかもしれない。
「帰りたいの、村に」
 そこだけをキッパリ聞くと、樹は一瞬、声を詰まらせた。
 それでも懐かしい村なのかもしれないし、けれどこの楽しさを知ってしまったし。
 いろんなことが読み取れる表情をした。
 その途端、携帯が鳴り始めた。
「あ、ちょっとごめん」
 ディスプレイを見ると、発信者は万希子先生だった。
「もしもし?」
『ナシくんかい? つかぬ事をお伺いするんだが、今電話は大丈夫かな?』
 どこか興奮している声音で、万希子先生は早口で言った。
『今古屋から問い合わせがあってね。わらし様がどうしたのと言って聞かないんだが、きみに心当たりはあるかい?』
「どうしたのって……どうしたんですか?」
 消えた樹の話かと思ったのに、あの屋敷の奥で祀られているわらし様の話とは。
 一瞬結びつかなくて、鸚鵡返しに問い返すと。
『ああ、今村が大変なことになっているらしい。三日三晩降り続いている雨で地盤がぐちゃぐちゃ、雷がバンバン落ちているそうで電話の向こうでも大騒ぎだった。そして、わらし様が居なくなったんだと、村人が大騒ぎしているらしい』
 わらし様が居なくなった。
 その言葉の意味を頭の中で咀嚼するより早く、樹は薄らと笑っていた。
「……大変なことになってるでしょ?」
 それは予見できたことなのだと、小さく零した言葉は僕の耳に届いた。
 居なくなったのは。
 僕があの村から連れ去ったのは。
 一体何だったのかと、脳裏で正確に繋がるときには、樹は布団から起き上がっていた。
 ぼうと、発光さえしていそうなその姿に、僕は息を呑んだ。
 薄く微笑んでいる樹に、僕はただ、息を呑むことしかできなかった。
 この感情は、畏れというのだ。恐怖ではない畏怖、知らないものへの畏れ、そして実体を持った神というものへの、荘厳なまでの清冽さに、ただただ圧倒されて。
「あそこから離れて、生きられないのは俺も一緒だったみたいだね」
 どこか絶望した風に言ったその樹の姿に、僕は一体何を言っていいのか解らなかった。
 でも、あそこから離れることが、もう物理的に出来ない、というのなら。
 還してやらなければ、樹が生きることができないというのならば。
「……先生、一時間後に車で僕のアパートに迎えに来てくれますか」
『それは構わないが、心当たりがあるのだね? きみの住所を教えてくれ』
 聞かれて、僕は機械的に場所を告げてから、通話を切った。
 一時間、というのは、僕が樹からすべてを聞き出すために、どうしても欲しい時間だった。

 




「水と酒と塩。神様三点セットだね」
 湧き水ではないし、お神酒ではないし、粗塩でもないけれど。
 それを樹の前に並べると、樹は指先でそれらに触れて、ぺろぺろと舐めていた。
 水分が欲しいのでも、塩分が欲しいのでも、酒を飲みたいのでもない。
 そうしていないと、多分清浄が保たれない。
 神様にそれほど理解のない僕でも、理解できる動作だった。
「うん、これで結構いけるんじゃないかと思ったけど、無理だったみたい」
 子供のような無邪気さで、樹はへらっと笑った。
 無理だった、事を、彼自身も知らなかった。
 捕らえられた座敷わらしがそこを離れたらどうなるのかなんて、多分誰も知らなかった。
 だから、こうなってしまったことは、彼の咎ではない。
 誘い出した僕には、充分罪がありそうだが、それは甘んじて受ける。
「どうしてミキって名乗ったの?」
「ん~……特に名前はない、と思ってたから。ヒトの名前と違って、神の名前ってのは呪いにも繋がるんだ」
「呪い?」
「うん、祝詞ってあるでしょ? あんな感じで、名を持ったら実体を持つ。実体を持ったら呪いの的にだってされる」
 ぺろぺろと塩を舐めながら、樹は何でもないことのように言った。
「実際、呪われてるしね、俺は。村人からずっとずっと、もう長いこと呪われてる」
「いや、村を繁栄させたわらし様でしょ!? 呪いどころか崇め奉られてるじゃん?」
「そっちはね。でも何でも表裏一体って言うのかな。半分は『櫻姫』の名を押し付けられて呪われてる」
 余りにも意外な名前が出てきて、一瞬脳内での処理速度が遅れてしまった。
 苛々していて嫌な神様だ、といつか目の前の樹が吐き棄てた。
「え、そっちも一緒なの!? わらし様と櫻姫って同じ人?」
「本人が言うんだから間違いないよ。閉じ込められたわらしがいつの間にか力を持って、結界の外まで出られるようになった。外に出たら、物凄く寂しくてやりきれなかった。村人は俺を閉じ込めたことでみんな笑顔で暮らしてるのに、どうして俺だけが一人なんだろうって思うとやりきれなかった。寂しくて寂しくて、それであの樹に宿った」
「……だから、どの樹かは決まってるって……」
「そう、よく覚えててくれたね」
 種明かしを始めて、樹は嬉しそうに笑った。
「誰もいないって言うのは?」
「うん、実際村人で俺が見える人は今、居ない。子供たちとは遊べるんだけど、今あの村に子供はいないし。もう三十年くらい誰とも口をきいてなかったよ」
「それで、どうしてわらし様が居ないって村人に解ったの?」
「俺と村との約束が壊れたから。雷って、俺の怒りの発露だったのね。俺の身体に触れなかったら、もう雷は落としませんよって約束したの、昔。その頃は子供がいたから、子供に聞いてもらって。それが多分今はバンバン落ちてるんじゃない?」
「え、でも雷って自然現象だよね……?」
「それがあんな小さな村に降り注いだら、充分不自然現象でしょ。俺も自分が離れたらこんなにコントロール効かないと思ってなかったし、自分の身体がこうなるなんて思ってなかったし」
 それにね、と当たり前のように樹は続けた。
「沖田比売の約束も壊れかかってる。彼女はもう、限界だ。だから雨が降る」
「神様に限界ってあるの?」
「そう、あるよ何にでも、寿命が。彼女が神になってから、もう生まれ直す季節に差し掛かってる。彼女は永遠と同じ意味で400年と祈りを抱いて水に沈んだ。学のない娘だったから、400年を永遠と間違えた。だから彼女の祈りは400年しか効果はないし、400年しか彼女の寿命はない。自分から最初に寿命を決めた稀有な例でもあるけど、だから新しく生まれ直さないと、あの河も氾濫する」
 三日三晩降り注いだ雨、というのはどのくらいの水量になるのかは僕には解らない。
 でも、寿命が切れている沖田比売と村を離れたわらし。
 それはなかなか最悪なコンボなんじゃないだろうか、という想像は簡単にできる。
「沖田比売が生まれ直すのはどうしたらいいの?」
「一度村に連れて帰る。そうしたら彼女は新しい祈りを抱いて生まれ直す。俺だってそろそろ生まれ直さなきゃいけないから手伝うよ」
 それは物凄く簡単な事みたいに樹は言うが、具体的に何をするのかが全く見当がつかない。
「それ、村人とか、僕とかがしなきゃいけないこと、ある?」
「沖田比売の方は、祠を新しくしてやって欲しいかな。新しい住まいが欲しいから。俺の方は特に何もないよ、ゆっくり時間をかけて生まれ直すから」
「神様にも、寿命があるんだね」
「寿命のないものなんて、この世にないよ。俺たちは、人のそれより少し、ゆっくりなだけ。繰り返し繰り返し、新しい自分を生み直す。新しくなってまた、ゆっくりと眺めるだけ」
「ゆっくり眺めてて。……辛くなかった?」
 わらし様は、村人と子を作ったはずだ。
 その子供は、櫻姫の身体に紐をかけた。
 自分の子供が自分の身体で死んでいくのを、この優しい神様は、どんな気持ちで眺めたのだろう。
 まるで僕の頭の中を読んだように、樹はゆったりと笑った。
「失敗したんだなってのは解った。同じ時間を人に与えたら、こんなに簡単に絶望するのかって。同じ視点に辿り着くずっと前に、自らの身体を縊り殺すなんて、思いもしなかった」
「だから、もう誰とも関わろうとしなかったの?」
「そうだね、傍に居て、発狂されるよりずっといい」
 落とすように樹は笑った。
 神様の悲哀、なんて、考えたこともなかった。
 悠久の視点から眺める世界は、どんなに忙しなくて、せせこましくて。
「僕に関わったのは、退屈だったから?」
「あ、それ。誤解されるのもちょっと嫌だから言っとくと、本当にあの辺散歩してて見つかったことないの。だからタカが俺に声かけて来たの、本当に俺びっくりして」
「え、なにそれ」
 違う違うと顔の前で手を振りながら、樹はまるで釈明しているかのようだ。
「何で見えてんのかなってびっくりしたんだってホント。子供じゃないと俺見えないもんだと思ってたから」
「でも、村娘と子供作ったんだよね? それ、子供じゃないんじゃないの?」
「ああ、そう、あの時もそうだった。子供の頃から遊んでた子が、結構成長しても俺が見えてるから、不思議で不思議で。そういうことってあるんだなって今回、またびっくりした」
「待って、じゃあ先生が迎えに来ても、ミキが見えない?」
「いやそれは頑張るけど。多分見えるようにできるというか、う~ん……」
「頑張らないとできない事なんだ?」
「だって、お店とかに入って二人分の料理、片方だけ誰もいないのに消えてるとかおかしいでしょ。そこは頑張ったていうか」
「そんなこと頑張ったから力が減ったとかそういうことないの?」
「ないこともない……かも知れないけどよく解んない……」
 消えそうに樹が言うのが可笑しくて、軽く吹き出してしまう。
 そんな無駄なことを頑張らせてしまったのなら、毎食この部屋で作ってあげたら良かった。
 そうしたら、タイムリミットは明日か明後日か、とにかくもっと伸びたのかもしれないのに。
 こうやって、日常の何でもないことを喜んでくれた、そんな些細なことが、僕には嬉しかったし、楽しかったのに。
「いいよ別に、なにも頑張らなくて。先生にミキが見えなくても、それはそれで構わない」
 僕がこの、ちょっと抜けてる神様の姿を知ってる。
 優しくて、村の事がやっぱり気がかりで、でも人一倍寂しがりな神様を知っている。
 ひとりぼっちの神様の姿を、僕は知ってるから。
「財布の中身が減らないのも、ミキのせいだったんだね?」
「そりゃあ、だって俺の食事代払わせてるって可哀想じゃん……」
「何にも可哀想なことないの。そうやって気にかけすぎるんだね、ミキは」
 多分、自分に関わる人間を、放っておけないのだ。
 最初の最初、を僕は知らないが、きっと放っておけなくて、だからあの村に住んだ。
 関わってくれることが嬉しくて、一緒に遊んでくれた子供たちが愛しくて、だからきっと、あの村を今でも見捨てられない。
 そういう優しい神様だってことを、僕は知っている。
 だから、この神様を、ひとりにしたくない、と強く思う。
 あの場所で、話す相手もいなくて、彷徨っている樹を想像したくない。
 それはまるで、自分の孤独のような気がする。
「でも、本当に楽しかった。夢みたいだった」
 そう言って笑う樹は、この時間の終わりを覚悟しているような顔で。
 それを終わらせたくない、とこんなに思っている僕は、けれどすぐに鳴った着信で、いったん考えることを辞めざるを得なかった。





「ずいぶん麗しい方だったのだな、わらし様は」
 先生は、僕と樹を後部座席に乗せて、車を走らせながらそんなことを言った。
 先生に、彼を見る素養があったのか、それとも樹が『頑張って』いるのかは解らない。
 どうも、と手を上げる樹に、先生は大きな溜め息を吐いた。
「きみのニュースソースは本当に神様だったわけだ。そりゃあ、村の事に誰より詳しくても不思議はない」
「先生は、疑ったりしないんですか?」
「疑わしい要素が彼にはないよ。玲瓏というほど冷たくもなく、美しいというほど尖ってもおらず、可愛いというには整いすぎている。麗しい、が彼にぴったり嵌まらないかね? そういう生き物を私は見たことがないし、実際にきみがあの村から盗み出したのは彼だった。なるほどなと納得しているところだ」
 神様をお乗せするにはボロ車ですまないね、と先生は笑いながら言っていた。
「村の方には、これからお連れすると連絡を済ませている。しかし、道路事情がどうかなあと、私は首を傾げているところなんだ」
 高速を使っても、村まではなかなか遠い。
 そして、ひっきりなしにカーラジオから流れてくる気象情報。
 河川の氾濫に注意するように呼び掛けているそれに、僕の背筋も少し凍る。
「早くしないと、間に合わないかもしれない」
 樹は、僕と先生、どちらもに聞こえる声音ではっきりと言った。
「沖田比売の力はもう限界だ。早く連れ帰らないと、下流を飲み込むことになる」
「それは、アクセルを踏む足に力が入るね」
「先生、でも安全運転でお願いします」
「それは勿論請け負うが、火急の要件だ。それに、彼も随分具合が悪そうだ」
 先生に言われて、隣に座る樹に目をやると、確かに熱でもありそうだ。
 水と塩と酒では、もう誤魔化しが効かないのかもしれない。
「大丈夫? 頑張ることないよ? ミキ」
「うん、別に頑張ってない」
 小さく零した樹は、どこか胡乱な表情だ。
 頑張っていないのに、どうしてこんなに具合が悪そうなんだろう。
 車内が少し緊張して、先生はバックミラー越しにチラチラと様子を窺っているのが解る。
 そうこうしているうちに、どんどん樹の具合が悪くなっていく。
 座っていることもきつそうで、僕は助手席に座って樹を後部座席に寝かせてあげたら良かったと悔やむ。
 でも、寝ているとか起きているとか、姿勢の楽さの話ではない気がする。
 いくつもの街を過ぎて、いくつもの村を過ぎて、風景が濃い緑一色になっていく。
 暗雲に覆われた世界が、大粒の雨で車体を叩く音が聞こえる。
 ぐったりとした樹を、とりあえず僕の身体に凭せ掛ける。
 熱くて熱くて、発光しそうだ。
 火の玉が身体にくっついているようだ。 
 言葉もなく、ぜえぜえと荒い息を吐く樹が可哀想で、そんなことをして少しは良くなるのかと、肩を擦ったりしてみたが効果はない。
 いつか見たのよりも、ずっと水位の増えた河の流れが恐ろしい。
 下流を飲み込む、と言った樹の言葉は、現実になろうとしているとしか思えない。それは、生まれ変わることもできなかった、沖田比売の死を意味する。
「ねぇ……ねぇ! もうすぐお前の村があるよ! もうすぐお前の村に届くよ!」
 その場所しか生きる場所がないというのなら。
 こんなにも、ぐったりとしながら、求める場所。
 命の限りで求める場所を、僕は知らない。
「生きてる、か?」
 先生の言葉に、僕は反射的に叫んだ。
「死なせないよ! こんな近くで、死んだりなんか、させない!」
 村にしかお前の生きる場所がないというのなら。
 あの閉鎖的な村に、お前を帰そう。
 あの場所でなら息ができるというのなら。
 あの場所でしか、息ができないというのなら。
 そこでなら、生まれ直せるというのなら。
 そこでなら、繰り返し繰り返し生まれ直して、永遠、がおまえのものになるというのなら。
「もう……ちょっと……」
 ぽつり、と樹が言葉を吐いた。
 その瞬間。
 まさに、瞬間、と言っていい。
 樹の肩を擦っていた僕の手が、ぱたりと落ちた。
「…………え?」
 何が起こったのか理解できなくて、何も無い空間を撫でた。
 そして、車体を叩いていた雨の音が、弱くなっていくのを聞いた。
「どこに……というのは愚問だな」
 小さく、独り言のように言った先生は、後部座席で何が起こったのか、バックミラーで見て把握したらしい。
「この山の傍からもう彼の神域か。彼は帰ったんじゃないのか」
 もうすぐ、この山を登れば村がある。
 確かにそういう場所に差し掛かってはいた。
 でも、本当に帰ったのかどうか、ちゃんとそこに居るのかどうか、確かめたくて。
「……おっと。この先は無理のようだ」
 降り続いた雨で、地盤が弱くなっていたからか。
 山道を登る直前に、道を塞ぐように倒木があった。
「こう来られては、我々にできることはないね」
 先生は、倒木を避けるために細い道をバックで下る。
 そうしているうちにも、雨雲がまるで切り払われているかのように、小さく、そして段々と止んでいくのを見て取れた。
 村に行く手段は、もう今のところない。
 陸の孤島になってしまうであろう村で、彼がどう過ごすのか。
 雨が止もうとしているということは、彼は無事、沖田比売を連れ帰ったということなんだろうか。
 何ひとつ確認する手段がなくて、それでも他にできることもなくて、僕と先生は、今来たばかりの道を戻るしかなかった。





『倒木と土砂崩れ、どちらも直ったらしいので、村に行くかい?』
 あれから数日。
 先生からかかってきた一本の電話を、まるで命綱のように握りしめて、僕はまた、村に行った。
 沖田比売は生まれ直したのだろうか。
 河は結局氾濫することもなく、だからつまり、間に合った、ということなのだろう。
 村の大切なわらし様を盗み出した僕には、なかなかに冷たい視線が注がれたが、でも村人も思うところがあったらしい。
 弾劾裁判か、中性の魔女狩りかという勢いで僕は糾弾された。
 それは当然のことだと思ったので、甘んじて受け止めたけれど。
「そもそもどうしてわらし様と出逢ったんだね?」
 助け舟のように、村人ではなく先生に問われて、僕は最初の経緯を語った。
 ヤカタを固辞した後に、砂利道の向こうに光るものがあったので興味が惹かれて滝に行ったら彼が居た、と。
 そう言った僕に、村人たちは一様に信じられない、という顔をしてから、代表で、なのか、ヤカタのご主人が言った。
「あの朽ちた祠の先に、滝なんてありませんよ」
「……え?」
 それは普通に僕が驚く番だった。
 あの場所は、この村に存在しない。
 存在しないと、少なくとも村人が思っている場所。
 じゃあ僕は毎日、一体どうやって、どこで誰と逢っていたのか。
 大前提が揺らぐようなことを言われて戸惑っていると、西川さんの奥様が言った。
「こんな狭い村の中を歩いている筈なのに、お見掛けしないねって話にはなってたんです。……異界に誘われてたんですね」
「いえ、祠の、あのぼろぼろの祠の先の砂利道で……」
「その祠は解ります。もう土砂に殆ど埋まった祠。あの先にあるのは、山です。滝なんてどこにもない」
 断定されて、そんな馬鹿な、という気持ちになる。
 では、あの神様の住んでいた場所に。
 たった一人で動物を供にしていたあの場所に。
 何故か踏み込んだ人間、ということになってしまうんだろうか。
「神様に招かれたんですね、一さんは」
 まるで納得するようにヤカタの奥様に言われる。
「わらし様がいらっしゃる場所、なんて考えもしませんでした。いつもずっと当然のように、あの床の間にいらっしゃるんだと私たちは信じてました。でも、そうじゃなかったんですね」
「基本的にはヤカタに住んでる、とは言ってましたが……」
 どこか寂しそうに言われたので、居ない訳じゃない、と言うことは忘れなかった。
 ただ、寂しがりだから、あんなにひとが大好きな神様だから。
 だから僕は、覚えている限りのことを皆さんに伝えた。
 彼は小さな子供と一緒に遊んでましたよと。
 みんな、この村で生まれた人のことを、驚くほどよく覚えてますよと。
 小さな子供の頃、遊んでくれたわらし様を、村人は皆覚えていた。
 見えなくなっただけで、今もいる。
 彼は、村人に愛情を注ぎ続けている。 
 だから彼の言うように、沖田比売の祠を新しくしてほしい。
 ちゃんと、そこに居るのだと、祀ってあげて欲しい。
 彼は不可触の神だという姿も持っているし、わらし様という性格も持っているので、そこは何とも言えないが。
 外から来た僕に言えるのは、ようやくその程度だったけれど。
 言われた通りにしよう、とヤカタのご主人がまとめてくれたので、弾劾裁判はお開きとなった。
 無罪放免、ではないかもしれないが、それなりに有益な情報を僕は村人に与えたはずだと信じる。
 そして僕は、あの砂利道の先に行くことをようやっとで許された。
 村人には見えないという場所。
 村人はそこに行ったことがないという場所。
 異界。
 シンプルに、そう称された場所。
 もう僕の為には開かれないのかも、と考えながら、慣れてしまった道を辿る。
 ぼろぼろに朽ちた祠。
 もしかして、樹が言った新しくするべき祠とはこれだろうかなんて、今更に思い当たる。
 滝の傍、が村人たちに開かれていない場所だというのなら。
 沖田比売を祀った祠は、ひとつじゃなかったのかもしれない。だって彼は、滝の上のあのボロボロになった祠を、沖田比売の祠だと言った。けれど、あの場所は、村人では入れない。村人が修繕できる祠はきっと、これだけだ。
 沖田比売に祈りを乗せた、この村の住民は、この場所に沖田比売を祀って祠を作ったのかもしれない。でも、いつしか時が流れて、祠は土砂に半分埋まってしまった。その時に、世界と、あの場所を、沖田比売が切り離したのかもしれない。水の神になった沖田比売が、美しい滝の風景を守るために。あるいは、そこに祀られた、自分の本体を守るために。
 この祠を新しくしたら、あの場所は、異界、じゃなくなるのかもしれない。沖田比売が作り出した異界でなく、誰にも開かれた美しい場所になるのかもしれない。
 ぼんやりと祠を眺めて、その先の砂利道を辿る。
 祈るような気持ちで歩いていたら、さやさやと流れる水の音が聞こえてきた。
 一体何への安堵だったのか、僕にもよく解らない。
 でも確かな安堵の溜め息を吐いて、美しい流水に近付いた。
 滝の傍、朽ちた祠の傍に果たして彼は居た。
 まるで数日前の具合の悪さなんかなかったように、血色のいい状態で、またウサギと遊んでいる。
「良かった」
 何が良かったのか、もう解らない。
 そこに居てくれて良かったのか。
 存在しないというこの場所が、また僕を受け容れてくれたことが良かったのか。
 沖田比売の生まれ直しに間に合って良かったのか。
 彼が村の中に戻ることができて良かったのか。
 また出逢えて良かったのか。
 全てを詰め込んだ僕の言葉に、樹は笑った。
「またここでひとりになっちゃうけどね」
 にこり、と樹は笑った。
 そうだ、彼はずっと言っていた。ここでひとりだと。
 それは多分彼の意識的にやっていたことなのだ。
 村人に、この場所は開かれていないというなら。
 村人が言う通り、この幻想的な風景が、異界だ、というのなら。
 彼は望んでか、いつからか望まれてか、この場所にひとりで居たのだ。
「ねえ、ここが誰にも見えない場所だって、なんで話してくれなかったの?」
 あんなにも当たり前に通ったこの場所が、そして今日も開かれたこの場所が、異界、なんて呼ばれているのはいかにも不思議だったので、もうネタ晴らしをしてくれてもいいだろうと樹に言ったら、困った顔で笑っていた。
「最初に、だから俺驚いたでしょ? ここに来る人がまたいると思ってなかったから。こんにちはって言われて、俺に言ったの? って驚いたでしょ?」
「そんなのもう忘れちゃったよ」
「忘れちゃったかぁ。ずーっとずーっとここに居たからさ。ここに入って来れる人、居たの? って本当に俺、驚いたの」
「それは、ただの偶然? 樹が僕を誘ったとかそういうんじゃない?」
「うん、ホントにただの偶然だと思うよ。何だろうなぁ、って俺も思ったもん。だから言ったでしょ、ここに来てることは誰にも言っちゃダメって。ここに滝があるよなんて言ったら、即日タカは吊し上げに遭ってたと思うよ」
「そういうニュアンスの言い方だったかなぁ?」
 何でもない事のようににこにこと樹に言われて、でもまったく腹が立たない。
 そんな風に、神様と人が触れ合うのは、もしかしたらすべて、ただの偶然なのかもしれないし。
 神様だって、全てを作為的に回している訳じゃない。
 神様にだって解らないようなことが、この世界にはある。
 それを素直に信じてしまうくらいには、僕はこの神様を好きだ。
 この神様が語ってくれる、この里に暮らす全ての神様が、好きだ。
「でも、僕は何故かここに来ることができる。ミキと話すことができる」
「うん、そうだね。なんでだろうね、俺が寂しい寂しいって思い過ぎてたから、引き摺り込んじゃったのかなぁ?」
 首を捻る樹に、僕は笑みが止まらない。
 寂しさを分け合う。
 楽しかったことを二倍にしたみたいに、時には寂しさを、半分に分け合う。
 そういうことが、この神様の上にだって、起きて良いはずだ、と思えるからだ。
「確かにタカが来てくれたら寂しくないけどね。ああいうとこで暮らしてるタカには無理でしょ?」
 楽しかったけどね、と樹はにこにこしている。でもその表情には陰りがあった。
 それはもう諦めている、みたいな顔だったので、僕がこの数日で考えたことを、えへんと一つ咳払いをして発表してやる。
「僕がこの村に引っ越して来たら、ミキは一人じゃなくなるよね?」
「え?」
 何を言われたのか解らない、みたいに、ポカンとした顔を見ていると、自分の企みが成功したみたいで少し、気分がいい。
「すぐにじゃないよ、勿論。大学を卒業して、免許も取って。それからここに来たら、ミキに話し相手ができるよ?」
「え、いや、ここでタカが何をするの? 農業できる? そりゃあ、空き家はいっぱいあるけど」
「農業はしたことないけど頑張る。ここって売り出してる空き家があるって知ってる? ミキ。車一台買える程度の値段だから、頑張ってバイトしたら行けそうな気がする」
「そういう話じゃないよ? この村、本当に本当に何もないよ? 不便だよ?」
「それは今更教えられなくても知ってるよ」
 樹の村紹介があんまりにも直球で、可笑しくて吹き出してしまう。
 この村には何もない。
 神様の伝説がたくさん残る、ただ何もない村。そんなことはもう知っている。
 でも。
「ミキが一人になってるのを想像する方が、僕には嫌だった。だから、大学卒業まではここに何度も通うし、卒業したらこの村でもできる仕事をする」
「この村に仕事はないから、子供たちが出て行ってるんだけど?」
 何も解らない、みたいな顔で、樹は首を傾げ続ける。
 神様にだって、解らないことはあるらしい。
 それが何だか可笑しかった。 
「文筆業。希望としてはね。卒業までに大作を一本書いて、それで身を立てられそうだったら最高でしょ? そもそも、人生にヤル気なかったからもう四年になるのにロクに就職活動もしてなかったし。これってお導きかなって思った」
「お導きって……誰の?」
「そりゃあ」
 面白くて面白くて、僕は樹の傍で笑った。
 ひとの人生を変えることなんて、想像もしていない、みたいな顔をした神様に。
 ひとはただ、繰り返し生まれては繰り返し彼の傍で死んでいく、そういうものだと思っている、神様に。
「神様のお導きじゃん。これからも、ずっと守っていくんでしょ?」
 ひとの、脈々と途切れない営みを。
 それをずっとずっと、横たわる河のように姿を変えないで、見つめ続けてきた神様に。
 そっと傍に、誰かが寄り添っても良いのじゃないかなんて、本当の本気で思うのだ。
 それは多分。
 彼自身の作為ではなく、彼を瞳に映すことができた、彼の庭に紛れ込むことができた、僕でも良いのじゃないかなんて思うのだ。
 神様に選ばれたのではない。
 神様を選んだのでもない。
 ただ、こんな風に出逢ったことが、ただの偶然だとは、もう僕には思えない。
 この村に滞在していた時に、夜な夜な見た夢に現れた子供は、きっと彼だったに違いない。僕の傍で涙を流していた子供は、もうきっと絶対、彼だったに違いないのだ。
「約束するよ。僕はきみの身体に縄をかけて死んだりしない」
 ただのヒトの身体は、いつか自然に朽ちるのだろうけど、それまでは決してそれをしない。
 いつか土に還る時まで、自分でそれを選び取ることは決してしない。
 神様を救いたい、なんて、ひどく傲慢な思いからではない。僕はそんな高所大所に居ない。ただ、寄り添いたい、と望むのだ。
 僕の傍で泣いていた子供でもある樹と、僕の傍で泣いていた六太、そしていつか沖田比売になる前のりくにも出逢えるんじゃないかなんて。一緒に、この神の里で、暮らせるんじゃないかなんて。
 言うと、樹はくしゃりと笑みを歪ませた。
 どうしていいか解らない、子供のような表情だった。
「そんなことを言ってくれる人は、もう居ないと思ってたんだよ……」
 嗚咽のように零れ出した言葉に、僕も同じように、表情を歪めたのかもしれない。
 ひとりきりで、ひとりきりで、だから僕たちは出逢った。
 誰の作為もなく出逢った僕らは、一人きり、であることを、もうやめたいと、こんなに願っていた。
 そう自分が願っていることを知ったのは、彼に出逢ってから後だった。
 永いときを生きている神様でも、まだこの世に生まれ出でて二十年しか経っていない僕でも、同じように不器用だ。
 不器用な僕たちは、いつか同じように、自分の欠片を見つけたように、安心して暮らせるのかもしれないと、どこか他人事のように思った。
 僕たちは、こんなにも似ている。
 寂しいと言うことがこんなにもヘタな僕たちは、世界から見たら、きっと同じ形をしている。
 だから一緒にいよう、と言うことは、とても。
 泣き出したのではなく、ヘタな笑顔を作っている樹にそれを言えるのは、もう少し時間がかかりそうだったけれど。
 僕もヘタな笑顔を作りながら、僕の決定を拒まない、優しくて不器用な神様に手を伸ばした。
「それから、僕は、きみのことをずっと、ミキって呼ぶからね。わらし様でも、櫻姫でもなく。僕が出逢ったのは、ミキだから」
 他の誰でもない。僕がこの村で出逢った神様は、ミキというひとりで寂しがる子供だった。
 僕の言葉に、樹は、何を言われているのか解らない、という顔をして。
「僕たち、生きていこう。僕っていう何も知らない僕と、その僕に出逢ってくれたミキとして」
 こんな言葉で合っているのかどうか解らない。この言葉は、彼に届くのだろうか。もっと相応しい言葉があるんじゃないか。
 ああ、これが、『言葉を探す』ということ。相手に真っ直ぐ届けるための、言葉を探すということ。

 僕たちは、下手くそだね。
 生きていくことが、下手くそだね。
 そう言った僕の言葉に、樹はとても、とてもとても綺麗な笑顔を見せてくれたので、それですべてが良いような、不思議な気分を味わった。





 神の里で出逢った僕たちは、神の里で暮らすことを選んだ。
 選んで、選ばれて、そうやって暮らすことは、とても得難いものだったと。
 人の間に居てさえそれができなかった僕が、選ぶことができたのが神様だなんて、もしかしたら少し狂っているのかもしれないな、なんて他人事のように考える。
 これは宗教ではなく、綺麗な祈りでもない。
 どういうものを信仰と呼ぶのか、それさえも僕には解らない。
 でも、ただ強烈に、あのひとりきりの神様に寄り添いたいと、そう思うだけだ。
 この気持ちが祈りでなくても、信仰でなくても、もっと違う何かでも。
 それに気付くまでにはおそらくもっと途方もない時間がかかるので、僕はまず、僕にできることを始めよう、と意気込んで、買って来た真新しい原稿用紙を広げて、そして万年筆の青いインクで、さらりと最初の言葉を書いた。


 ―――ヒトの想いを、僕の神に捧げる為に。
 寂しがる神様に、束の間でも、少しでも寄り添う為に。

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