発売から45周年のあれ
セザンヌスターを貰った。
発売から45周年、キラキラ輝くパッケージが変身心をくすぐる玩具菓子だ。
昨日、親友達(来世も一緒が良い)と遊んだ際にそのうちの一人が「買ってきたんだ」と人数分のセボンスターを取り出した。
ジャンケンし、勝った人から選んで、みんなで開封する。ものすごく充実した時間だった。こんな事、女児の頃ですらやった記憶がない。とんがったクラスメイトと閉鎖的な田舎では、そもそもセボンスターを持ってた子はいたのだろうか。
公平なジャンケンに負け続けた自分は余ったものを手に、みんなで開封すると、パッケージにもある(蓋側に載ってる)ものが顔を覗かせた。びっくりした。出るんだ。いや、そりゃ出るだろうが。いやでも、出るんだ。
実はセボンスター、買ったことも貰ったこともない。どれだけ記憶の中をかき分けてもない。親からウチは金がないを耳タコになるまで聞いていたので、ねだった事もない。恐らく初セボンスターだ。なんなら存在を認知したのも大人になってからだと思う。
最近も駄菓子コーナーを見ると「あるなあ。人気漫画にも取り上げられていたな。可愛いけど、買ってもな〜」と素通りしていたあの輝きが、今、手の中にある。
自分一人で選んで買っていたら、絶対輝いて見えなかったことだろう。
率直に、すごく嬉しかった。
なにが嬉しいって、友人以上である親友のひとりがわざわざ買って、それを親友達と開封して、何が出た?とあの見あった時間がこれ以上ないほど嬉しい時間であり、幸せすぎるひとときだった。自分一人で選んで買っていたら味わえない輝きだった。何が出ても嬉しかったし、何が出ても絶対大切にしようと思ったら赤いキラキラしたものが出てきた。初詣のおみくじが小吉だったのはこのためだったのだろう。あの瞬間が間違いなく大吉の空間だった。
何気ない瞬間がこうやって大切な記憶のひとつになり、生きていくための輝きの一つになるんだろうな、と思う。人間、生きれてればやってられない事や放り投げたい事なんて山ほどある。それが精神的な場合だってある。それでも、その時。こういう瞬間が脳裏に残って、色褪せない煌めきになるはず。辛くてしゃがみ込んで、しばらく寝転んでいても、ゆっくり立ち上がれる杖になるんだろうな。
友人達と会って直接会話を交わす事は、最上級の癒しだ。自分にとって友人達はそれほどまでに大切な存在で、なくてはならない存在だ。会えるだけでとても嬉しい。そこからたくさん話を交わして、中身のない話を何時間もし、相対性理論を睨んだりして。時間の流れは平等ではない。本当にね。
そんな中に訪れたサプライズ。恐らく買ってきた親友はそんな強い思いはなかった事だろう。軽い気持ちで買ったものが、勝手に突き刺さっただけなのだ。
あの場で話すことでもなかったので、とても嬉しかったなあという記憶と共に記録しておくことにする。
またみんなで会えるのが楽しみだよ!
明日から始まる仕事はとても嫌だが、貰った赤い煌めきをバッグに入れ、社会人らしい笑顔を張り付かせて頑張ろう。