夢創作をするのに信念が何もない
わたしは夢小説を書くのがたぶん、好きだと思う。好きであるはずなのになぜ好きなのかが何もわからないので、”たぶん"という書き方をしているし、自分で自分のことがはっきりわかっていないので、"思う"という書き方をしている(その辺りが曖昧なのは申し訳なく思う)。わたしには信念らしい信念が無い。自分のキャラクター解釈で他の人を殴ろうという気概で二次創作をしているというわけでもなければ、自分の作った創作物で魅力的な漫画やアニメ、ゲームのキャラクターがいることを知ってもらいたいとも思わない。正直なところ、好きな漫画やアニメ、ゲームを誰かに知ってもらいたいという目的で何かやるならば、二次創作という手段を使うよりも魅力的だと思っているところを公開ブログに書いてみたり、twitterでハマっているところを人に見てもらった方が面白そうだからやってみよう/見てみようにさせる効果があるように思うから、それをするために二次創作という手段を用いようと思わないからである。
わたしは二次創作が好きだ。原作の作中には描かれていないキャラクターの一面(これはあくまで二次創作をする側の解釈によるもの)があったら良いな、という思いだったり、原作でこういうキャラクターをしているから(これも読み手側が一つの作品を見た中でそのように受け取った解釈のことである)、もしこういう場面にキャラクターが遭遇した場合に、こんな反応をするだろうな(したらいいな)、ということを見ることが出来るから二次創作というものが好きだと思っている。その中でもわたしが、原作の上で描かれていないキャラクターの面を自分の仮定で書く場合に、一番都合がいいと思ったのが夢創作という二次創作形態だったというだけのことである。それは、一人のキャラクターを描きたいと思うなかで、原作に登場する別のキャラクターを用いて何かを書こうとしたときに別のキャラクターを自分の解釈の都合がいい方向に寄せるやり方でしか書くことができなかったので、どうしても歪な形になって自分の書きたいものが表現できなかったからである(勿論、原作中のキャラクターを使って表現をすることができる人もいるのであるが、わたしにはできなかったという話である)。だから、原作中の一人のキャラクターを書く上で自分の都合がいいように勝手に動かすことができる原作中に登場するキャラクターではないキャラクター(以下、夢主と記載する)を使って書くということが都合が良かった。前述の通り、夢主というキャラクターを使わなくてもキャラクターの一面を書くことはできるので、別にわたしがやりたいと思っている事は何も夢創作という二次創作形態で書く必要は特に無い。
他者の夢創作に関する熱量や信念の持ち方を見るたびに、自分の夢創作に関する感覚はこれでいいのかなと思うことがある。わたしの人生において夢創作はもう結構な長さの付き合いになるはずなのに、夢創作というもののことを好きだと思うことはあっても、夢創作という事柄に関して深い思い入れがあるというわけではない。好きだと思うけれど、それだけの話である。あくまでわたしにとっての夢創作は、自分がやりたいことをやることに一番適している手段であったというだけのことだった。だから、信念らしい信念のようなものを夢創作という形態には抱いていない。
正直なところ、信念らしい信念が無くても1週間に1本ずつというゆっくりとしたペースではあるけれども、覚えてる限りだと5年くらいは楽しく夢小説を書き続けることが出来ている。気が変わったりしなければこれからも、自分のペースで創作活動をしていくのだと思う。それでもたまに、特に信念も何も持っていないわたしという人が夢創作をしていることに失望されてしまうのかなと思う時がある。しかしながら、たぶんわたしに夢創作に関する信念らしい信念を持たないまま、二次創作活動を続けていくのだと思う。