あらゆる人の心にある”優生思想”の顔を
ALS(筋萎縮性側索硬化症)を抱える人の嘱託殺人や有名アーティストの優生思想的な発言、そして有名俳優の自死などから
より身近な形で「生命」に対する話題に触れる機会が増えた。
一件、何の変哲もない議論の中にも「優生思想」が入り込んでいることはよくある。
優生思想に対して否定的な人間たちであっても、「学校選抜や入社選抜、様々な形での能力試験」などに対しては目をつぶり、その根源的な優性的な思想をうやむやにすることで、優生思想に加担していることにも気が付かないでいる。
人権に富んだ人でさえ、目の前の人を救わずに己の利益になる人しか救わないのも優生思想的な暗黙の心得なるものがあるのだろう(人権を掲げる団体ほど内部は侵害のオンパレードも珍しくない)。
もしかすると、人間が人間として存在し、優劣がハッキリとして格差がある以上、優生思想そのものをなくすことは困難なことであるだろう。
しかし、その問題に真摯に向き合い、注意深く問題を見ていきながら、議論を重ねて、最悪の出来事が起こらないようにして行かなくてはならない。そう、誰かを大きく傷つけることにならないように。
ー優生思想の簡単な簡単な歴史ー
優生思想の概念は、イギリスの人類学者・遺伝学者でもあったフランシス・ゴールトンが、ダーウィンの影響を受けて提唱された。
ゴールトンは、マルサスの人口論などにも影響を受けて、ユージェニックス(eugenics)という考えになった。そして、「生存に適していない」(“unfit”)人間は、生まれてこない方が、その人にとって、はるかに幸せではないか(飯田2009「欧米における優生学とその影響」『生命科学と社会』)という思想に行き着く。それは、ポジティブ・ユージェニックスという優れた人を残そうという危険なものだった。
ゴールトンの考えが「優生思想」という概念の出発点ではあるが、優性的な思想は古くから存在している。それは、プラントにまで遡ることが出来るという。
「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たち
と、できるだけしばしば交わらなければならな
いし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、
その逆でなければならない。また一方から生ま
れた子供たちは育て、他方の子供たちは育てて
はならない。……そしてすべてこうしたことは、
支配者たち自身以外には気づかれないように行
われなければならない」(プラトン『国家(上)』
岩波書店、364-367頁)。
もちろん、プラントのいた時代は現在のような世界ではなく、常に戦いの世界である訳であり、より強い者を残さなければ国の滅亡を意味していた。
しかし、その一部の選ばれた人のみを残していく考え方は形を変えてゴールトンという存在により可視化され、新たなる戦火の元で、世界最悪の確固たる地位を築きあげる。
それが、ナチ党の総統であるアドルフ・ヒトラーが進めた政策であった。
そもそもドイツには、ゴールトンより10数年後にドイツでプレッツ博士による「民族衛生学」が提唱され、更に10年後に世界初となる「民族衛生学協会」が立ち上がった。そして、第二次世界大戦より少し前に「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」よって、優生思想の一翼をになっていく。
この時代ヨーロッパは、第一次世界大戦後の混沌としており、経済的な不安や全体主義的な影響も大いにあった。そして、優れた遺伝子を残す政策への転換が図られる始めていく。
結果として、1933年にナチス政権下において、人びとの命を 「生きる価値のある生命」/ 「生きる価値のない生命」の二つのカテゴリーに分けた( 姫岡とし子 「ナチズムと人口管理」学術の動向 16項)。そして、「強制断種政策」と「障害者安楽死政策」が取られ、忌々しく史上最悪の事件がアウシュヴィッツなどで起きてしまったのである、
その背景は、世界大戦後の大きな様々な不安からなるものであり、何かを誰かにその罪を擦り付けていなければ生きていくことが難しかったのかもしれない。その標的が、ユダヤ人になった(当時の大不況のなかでも比較的裕福な者が多かった)。だからこそ、自分たちアーリア人が搾取や迫害を受けているように思ってしまった。
第二次世界大戦が集結し、ドイツは完膚なきまでに追い詰められたが優生思想は消えることはない。
舞台はアメリカに移ることで、それまるで正しいような形で優生思想が使われ始める。それが、IQなどの議論である。もちろん、日本もつい最近になるまで優生思想的な法律を残しているという暴挙を冒していたわけで、世界にはまだまだ根強く優生思想は蔓延っているのだ。
ー優生思想は誰の心にもあるー
先にも述べたが、優生思想を反対しているものでさえ優生思想的なものを暗黙のうちに受け入れ黙認している。そして、自らの恵まれを棚にあげて、自分は優生思想がもたらす惨禍には関与してない顔をする。
恵まれたものを持ち、なんの疑いもせずに思想や哲学などを学び、一流とされる企業や学校などに所属しながらも「優生思想」という問題を直視して戦うことは素晴らしい。
しかし、闇雲に否定したり一部を容認するのならば違うはずである。
優生思想の根本には「生存に適する/適さない」という2つの概念があった。「生存」という考え方は、その時代と社会で大きく意味は変わるはずである。
(先進国などに限るのなら)我々が生きる世界や環境での「生存」は、いかによい教育を受け、いい学校に入り、いい企業に入り、職があり、教養に溢れているなどのものだろう。
実際そうではない者は、生きるに値しないという状態に陥る。自己責任論といった自分の力だけではどうにもならなかったものを、己の責任として放置あるいは葬りさられるのが関の山なんてことも存在する。
どんなに人権に富んだ人でも、人権に携わる企業や団体にいても「生存に適する/適さない」人を分けているし、救える/救えないということも状況や見えない基準で決めている。
私は、常に誰かに優劣をつけながら生きている。そして、自分が劣位に置かれるならば、あらゆる権利や生活を奪われていくこともある。
こうでなければならないルール、見えない生活基準のルール、持っていないものを蔑む心、お金でしか買えない時間や機会、声をあげなければ対価がなければ救済されないなどなど、社会にはあらゆる形で優生思想が存在している。
その優生思想に、誰もが加担をして、それを「その人間の努力のなさや行動しなかった」という本当にそうなのか分からない理由を振りかざし、言い返せないように最もらしい理由を並べて弾圧していく。
そもそも優生思想を否定する前に、自分の考えはそうではないのかという問すら立てられないほど人間は毒されている。いや、優生思想は元々備わった考えだからこそなのかもしれない。
構造主義的にというか、社会がある人々のみで作られて、それによって構築された思想や思考を受け継ぐから社会が変わればいい!という人のもいるだろう。学者の多くもそんな感じだろうが、本当に構造上の問題だから、優生思想がはびこり揺るがないものになったのだろうか。
例え社会が変わっても、人に優劣をつけて選抜するシステムが存在する限りは変わることはない。ましてや、それを肯定するのであれば…
僕の頭ではよく分からなくなってくる。
ーおわりー
社会が混沌として、さらに先行きが不透明な社会になった。そうだからこそ、より良い方向に変えていこうとするのではなく、より格差を広げて、より不可視化させる道を歩んでいる。
何かの形で噴出した問題は、長く続くことはなく、どんなに否定する人でさえもいつの間にか受け入れてしまう。
何が正義で、何が悪であるかというのが問題ではない。
常に存在する普遍的な「人間の権利」を、どのように捉えていくかにある。そして、恵まれた人達で独占している様々恩恵をどのようにして適切に処理をしていくのかなど考えなくてはならない。
しかし、そんな余裕もなく次から次へと問題は起こってしまう。
取り残される人、支持する人、反対する人、受け入れてしまう人、何も考えずに進む人、自らの利益のためだけに生きる人…
人が多様である限り、人が安定や安全を手にしたいと望む限り、我々の心にある優生思想は消えるのことはない。
自分が底辺に落ちても、どこかで優生思想な考えはあるはずである。いくらあらゆる機会が奪われても、書けているということが恵まれているのかもしれない。
人が生きる限り続く「優生思想」
あらゆる人々の心の中に、様々な顔で存在している。