死と生と向き合った1年のこと
2019.3.8
弟が亡くなり、今日で1年が経ちました。
2018年は、自分の人生で最も激しかった一年でした。精神的に最も辛かったと言ってもいいかもしれません。
自分自身がこの期間のことを整理することも兼ねて、この1年間のことを何度かに分けて、少しずつ書いていきたいと思います。
思い出しながら書いているだけでも、動悸が激しくなり、胸が苦しいのですが、書くことに意味はあると思っています。
2018.3.8
1年前の今日は木曜日で、食品製造メーカーの総務担当である私は、通常通り出勤して事務の仕事をこなしていました。
その時期は業務上の都合でお昼休憩をずらして12時台も仕事をしていました。
12時半頃、私の電話が鳴り、画面には発信元に「群馬県 高崎市」とありました。私自身は高崎にほとんどゆかりはなく、しかし、高崎には弟が住んでいたので、その時点で既に嫌な予感がしました。事故や事件に巻き込まれたのだろうか、とか。
電話に出ると、相手は高崎警察署の方で、弟の家族であることを確認された後、「弟さんが部屋で亡くなっているところが見つかりました」と告げられました。
私はショックを受けながらも冷静さもあり、警察の方の、捜査の一環と思われる質問に答えていきました。質問に答えながら、その内容から、「弟は自殺したのかな」と察しました。
すぐ父に電話をすると、「高崎警察署から電話がきて」と伝えると、「そういうことだから、今お母さんと高崎に車で向かってる」とのことで、夜に高崎で合流する約束をして電話を切りました。(この時点では両親は、警察から、弟の生死は伏せられていました。)
午後1時になり、総務部の先輩が戻ってくるとすぐに状況を伝え、震える手で無理やり昼食をとりました。午後は抱えている仕事の消化と引き継ぎに充てて、定時に帰宅しました。
もちろん本来ならすぐに高崎へ向かうべきところなのですが、「危篤」とか、「大怪我で生命が危険」とかではなく、「亡くなった」と伝えられた私は、なかなか腰を上げられませんでした。もやもやといろんなことを考えながら、結局だらだらと支度をして、夜中の11時頃、高崎のホテルで両親に合流しました。
軽く夕食をとってシャワーを浴びた後、弟が亡くなった状況を大まかに聞いて、日記を書いて、その日は寝ました。
知りたいこと、考えたいことも山ほどあり、それなりに興奮していたかと思いますが、意外と苦労せずに眠りにつきました。
当日、両親は既に弟に対面していましたが、私が亡くなった弟と対面するのは、翌日に持ち越しとなりました。
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