「振り向けばシャーロキアン ~『空き家の冒険』再び」 全話
(あらすじ)
病気で長期入院していた和藤創平は、復帰した土居蜂蜜株式会社でシャーロキアンを自称する「ホウム」こと白久豊務と出会う。ホウムを主人公としたミステリの創作を始めた創平の周囲で、独身寮近くの空き家での怪異、会社での特許漏洩疑惑が起きる。二つの事件に、頭を虎刈りにした「虎刈りモウラン」の影が見え隠れする中、件の空き家でホウムが襲われるとの事件が発生する。創平の同僚である半田菫の推理により、空き家の怪異はシャーロック・ホームズの物語を模したものであることが示唆され、特許漏洩疑惑、空き家でホウムが襲われた事件の真相が明らかにされる。
シリーズ次作)「もしかしてシャーロキアン ~『まだらの紐』の誘惑」 全話
「もしかしてシャーロキアン ~『まだらの紐』の誘惑」 全話|進見達生 (note.com)
(本編)
その人物は、顔にかぶっていた黄色い仮面をはずし、窓際の小棚の上に置いた。
冬の夜、ガラス窓を通して暗い街並みが見える。空き家となったこのアパートにいるのは、その人物ただ一人だった。部屋には、暖を取るヒーターも電灯もない。人物の白い息が、窓の外から室内を照らす街灯に映える。
その人物はほんの数分前まで、ここ二階の窓際に立ち、自分のかぶった仮面に向けて懐中電灯を点けたり照らしたりしていた。窓の下の狭い路地を通ったのは三人の人間、そして猫が一匹。最初の男は、空き家から漏れる明かりに気づかずに通り過ぎて行った。二番目の女は、はっとした様子を見せたが、気づかないふりをして足早に去っていった。そして、最後の男は、窓を見上げ、不審げに路地をうろついた後、名残惜しそうに路地を後にした。最後の男が立ち去ってから現れた猫は一瞬、二階のその人物に目を向けたが、何事もなかったように背伸びをして、隣の家の塀の隙間から姿を消した。
その人物はしばらくの間、窓から路地を見下ろしていた。おもむろに黄色い仮面を手に取り、顔に被り直す。ポケットに手を入れ、黒いマジックを取り出した。マジックの蓋を取り、白い壁に何か文字を書き始める。
その人物は文字を書き終えると、満足げにうなずいた。壁には、『RACHE』と書かれていた。
(一)
会社を辞めて、ミステリ作家になることに決めた。
今勤めている会社である、『土居蜂蜜株式会社』がブラック企業だとは思わない。営業の仕事で身体を壊してしまったぼくを総務部に転属してくれたことも、感謝こそせよ不満に感じることはない。
九月の末、会社の半期決算にあわせるタイミングで、もともと弱かった胃腸がやられてしまった。毎晩のように繰り返される接待で不摂生を重ねたことが原因の一つであることはもちろんだが、根暗な性格にあわない仕事ですっかり疲れ果てていたことが災いしたのだろう。
夜の十一時過ぎに接待先から独身寮に帰ったところで、感じたことのないような重く、激しい腹痛に襲われた。救急車を呼んで病院に直行、検査の結果、結腸に穴が開いていることが判明し、そのまま緊急手術となった。まさに悪夢のような夜だった。幸い手術はうまくいったが、そのあとも長い入院が続いた。
入院して一か月後、病院のベッドの上で会社からの異動辞令を受け取った。会社側もぼくの状態を配慮してくれたらしく、営業部から総務部に配置転換とのことだった。悪い会社ではないことを改めて感じ、申し訳ない気がした。
総務部が楽な仕事とは思わないが、嫌な顧客におべっかを使ったり、夜遅くまで続く宴会につきあうことを考えれば、メンタル的な負担が少ないことは間違いない。今の職場の同僚や上司も我慢のできない人たちではないし、一緒にランチに行ったりもする。
しかし、一言でいってしまうと、自分の将来のイメージが思い浮かばないのだ。三十も半ば近くとなり、しかも独身。これから三十年以上サラリーマンを続けていくことを考えると、沼の底に沈んでいくような感覚を覚える。
ミステリ作家になることが簡単ではないことは重々承知している。新人としてデビューできるのはほんの一握りであるし、その中で作家専業として生活できる人間はさらに少数と聞いている。しばらくの間は今の会社と二足の草鞋で生活し、しかるべき実績をあげてから会社を辞める、期間の目安は四十歳まで、とのプランをとりあえず立てている。
さて、ミステリを書くとなると、まずは名探偵だ。シリーズものとして長続きさせるためには、魅力的な主人公の存在が必須となる。しかし、ありきたりの好人物ではなく、少し癖のある、個性的なキャラクターが求められる。ただ、ぼくの中で、モデルとなる人間はすでに決めてある。
白久豊務、会社の同僚だ。
秋も深まった十一月の末、二か月ほどの入院を終え、ぼくは会社のオフィスに戻ってきた。総務部の小南部長に挨拶をし、与えられた新しい自分のデスク前に立つと、隣に見たことのない男が座っていた。
男は椅子から立ち上がった。身長はかなり高く、百九十センチ近くはありそうだ。鞭のように痩せていて、鷲鼻と鋭い目つきは中世の魔女をほうふつとさせた。しかし、顔立ちは整っており、クールな二枚目を言ってもよかった。年齢はぼくと同じ、三十代前半といったところか。
彼は、ぼくに向かって軽く頭を下げ、見かけにそぐわない柔らかなバリトンで言った。
「シロヒサトヨムと申します」にっこり笑った顔は、意外にも愛嬌があった。「『白く久しい』と書いてシロヒサ、『豊かに務める』でトヨムです。先月、中途で土井蜂蜜に採用していただきました」
「和藤創平です」ぼくも頭を下げた。「シロヒサトヨムさん、珍しいお名前ですね」
「しょっちゅう読み方を間違えられます。たいていは、シロクホウムと呼ばれます」
「なるほど、ホウムさんですか」
「ところで」彼はちょっと首を傾げた。「和藤さんは以前、営業部にいらっしゃったんですね。そして、胃腸系の病気で入院されていた」
「よくご存じですね。部長にお聞きになりましたか」
「いえいえ、状況から推理しただけですよ」
「推理?」
彼は微笑んで、自分のスーツの襟元に手を当てた。
「和藤さんは以前、襟のボタンホールに社員バッヂを付けていらっしゃったでしょう。社内を見る限り、ボタンホールに社員バッヂを付けているのは、営業部の皆さんだけです。和藤さんは今、社員バッヂを付けていらっしゃいませんが、ボタンホールに社員バッヂを付けたあとの窪みが見えました。窪みの跡はしっかりとついていたので、かなり長い間、バッヂを付けていて、総務部に移ったことをきっかけに自身ではずされたことが見て取れました。それで、ああ、前は営業部にいらっしゃったんだな、と考えたわけです」
「では、胃腸系の病気で入院していたというのは?」
「和藤さんのワイシャツの首回りがかなり緩んでいて、顔色も少し青白い。これは病気で痩せられたんだな、と思いました」さも当然といった様子で答える。和藤さんが部長にご挨拶をしているとき、ズボンのベルトの上あたりを押さえながら、話されていました。自分が胃腸系の病気で入院していたことを説明しているんだ、と勝手に想像したわけです」
「なるほど、よく見ていますね」
「決定的だったのは、和藤さんのデスクの上に置かれた薬の箱です」そう言いながら、ぼくのデスクの上を指さした。薬らしき小箱と紙片が置かれている。「契約社員の半田さんが、和藤さんの出社される前に置いていきました。ほら、添えてある紙は健康管理室からの申し送り表でしょう。『ビフィズス菌製剤』。これは、胃腸系の病気をした人が療養のために飲む薬ではないでしょうか?」
「いや、すごいですね」ぼくは本気で感心した。「まさに、シャーロック・ホームズ顔負けだ」
「ホームズ顔負けと言っていただくのはうれしいです」彼は恥ずかしそうに視線を落とし、左手の小指で自分の小鼻を掻いた。そして、少し得意げに言葉をつないだ。「ぼくはシャーロキアンなんで」
その瞬間、ぼくの処女作の主人公が決まった。シロヒサトヨムあらため、シロクホウム。この物語ではこれから、彼のことをホウムと呼ぶことにする。
さて、土居蜂蜜の本社は都内だが、独身寮は私鉄で五十分ほど行った千葉県N市にある。最寄駅であるT駅近くの商店街はそこそこにぎやかである一方、中心街から少し離れると古い住宅街が軒を連ねていた。N市は都心までの通勤が比較的楽な割に地価が安いので、会社の同僚でこの界隈に住居を構えている人も多かった。総務部の小南麻夫≪こなみあさお≫部長もそうだし、確か契約社員の半田菫も駅前通りに近いマンションに一人で住んでいるはずだった。
会社の独身寮は、駅から歩いて十五分ほどの距離にある三階建てのアパートだった。ホウムが独身寮二階のぼくの隣部屋に入居こともあり、すぐに打ち解けた。同じ年ということもわかり、お互いに敬語はやめることにした。
しかし、付き合いが深まるに連れ、初対面でのホウムの理知的で好人物との印象は、幻想であったことがわかってきた。ホウムの口調はいつも穏やかだったが、吐き出されてくる言葉は凍り付くほどシニカルな場合が大半だった。その指摘が的確であればあるほど、相手は馬鹿にされているように感じるのではないかと思われた。雄弁で皮肉屋、実は社内では煙たがれている存在であることがわかった。
理性的であることを自負するホウムだったが、度々、周囲に眉をひそめられるレベルの子供っぽさを見せることがあった。上司である小南部長が会話の中で的はずれなことを発言したときに「それは初歩ですよ、小南部長」と馬鹿にしたようにつぶやくことは笑って許されるにしても、ホワイトボードにマグネットを投げつけて『SH』という文字を作ろうとした際は、さすがに契約社員の半田さんにたしなめられていた。ちなみに、『SH』は「シャーロック・ホームズ」のことらしい。
総務部の同僚から、ホウムの父親は有名な養蜂家で養蜂業界でも相当な顔役という話を聞いていた。総務部の小南部長は大柄で押しだしのいい人だったが、そんな理由もあるのかホウムに対してあまり強くものを言えない様子だった。それでも、ホウムが仕事中に『刑事コロンボ』のテーマソングを口笛で吹いているときには、さすがに顔をしかめ、思わせぶりに咳払いをしてみせたりした。
そんな癖のある男ではあったが、ぼくとホウムは不思議とウマがあった。自信家で自己主張が激しいホウムと、控えめで優柔不断なぼくとの間に、鍵と鍵穴のごとく性格の合致が見られたのかもしれなかった。
出会ってから一か月ほどたった頃には、ぼくとホウムは週末になるとたいていは駅の裏通りに飲みに出かける仲となった。我々のお気に入りは『バールストン』という店名の英国風パブで、椅子やテーブル、カウンターはマホガニー調で統一され、店内のいたるところに英国アンティークと思しき調度品が飾られていた。
病み上がりのぼくは、当然アルコールはご法度だったが、ホウムはそんなぼくに気遣いもなく、毎回のようにビールだのスコッチウィスキーだのを節操なく飲み続けていた。
「ぼくは、三十過ぎまで大学で研究員をしていたんだよ。こう見えても、文学博士だからね」ホウムは時折、自分の身の上について言及した。「研究員といっても専攻は文学だったから、就職の口もない。実家が養蜂をやっていた関係で、親父のコネでこの会社に潜り込ませてもらった。ワトさんみたいに正規に採用された社員には、申し訳ないけど」
ホウムはぼくのことを、「ワトさん」と呼んでいた。彼の敬愛する名探偵の助手を務める男の名前に読み方が近い、というのが理由だった。そして、気安く声をかけてくれる豊務に応えるかたちで、ぼくも彼のことをその名探偵の名前にちなんで「ホウム」と呼んでいた。
「文学って、ホウムは何を研究していたんだ?」
ぼくがレモネードをなめながら尋ねると、ホウムはぐいっとギネスビールのジョッキを飲み干した。
「もちろん、ミステリだよ。十九世紀末から二十世紀前半は、ミステリの黄金時代だからね。ポーが創造し、コナン・ドイルが育てたミステリの潮流が、カーやクリスティ、クイーンなどに繋がっていくんだ」
「そういえば、シャーロック・ホームズのファンだって言っていたよね」
「シャーロキアンだよ。ホームズのファンというだけでなく、彼を実在の人物として、その推理法などを研究している」
そんなホウムだったが、飲み始めて一時間ほどすると、毎回口にする言葉があった。
「何か謎はないかな、魅力的な謎は」そう叫ぶと、カウンターに突っ伏してろれつの回らない声でつぶやくのだ。「しかし、ここのフィッシュ・アンド・チップスは最高だね、マスター」
そして、『バールストン』の店主らしい、胸に『田倉』というネームプレートを付けた顎鬚の男性が、ホウムに向かって、親指を立てて見せるのが、いつものパターンだった。
(二)
年も明けた一月の水曜日、一段と寒い夜のことだった。ぼくとホウムはいつものように『バールストン』のカウンターに並んで座り、こちらも毎回同じ、会社の同僚上司の悪口や世間に対する不満をぶちまけていた。とはいっても、話すのは九割がホウムで、ぼくは残りの一割程度であったが。
相変わらずぼくはレモネード、ホウムはビールやスコッチウィスキーなどのチャンポンだった。ホウムがそろそろいつものフレーズを言い出す頃、珍しく店主の田倉が口を開いた。
「ホウムさんはいつも、謎、謎とおっしゃっていますが」田倉も、彼のことをホウムと呼ぶことに決めているようだった。「お二人と同じ、土居蜂蜜の同僚の方が、面白い話をされていましたよ」
「同僚?」ホウムがオウム返しに言う。「どんな男です? それとも女?」
「男性ですよ、男前の。商品開発部の新宮さん」
ぼくとホウムは、しかめ面を作りつつ、顔を見合わせた。
新宮礼矢はぼくの二年後輩で、ぼくが総務部に異動になる直前まで三年ほど営業部で一緒に仕事をしていた。一見すると端正な顔立ちの好青年であるが、計算高く、自分の利益になりそうな人間とならない人間とでは、はっきりと態度が違っていた。ぼくは後者と見られていたようで、知り合った頃は親しく話もしていたが、ぼくが入院する直前あたりでは会話もおざなりで、ぼくの目を見て話すこともなくなっていた。
ホウム同様に失礼な男だが、地位や肩書などの色眼鏡で人を区別しないホウムの方が、人間的にはずっと好きだった。
ぼくが入院している間に商品開発部に異動になったとは聞いていたが、新宮の人を見下すような性格は変わらないだろう。特に、唇を曲げて、薄ら笑いを浮かべる顔つきは不愉快だった。昨年まで独身寮にいたが、N市内の賃貸マンションに引っ越して、今はそこに住んでいるはずだ。
「二、三日前、今お二人が座っているカウンターで、新宮さんが女性と飲んでいたんです。その際に新宮さんが女性に披露している話が、つい耳に入って。もちろん、聞き耳を立てていたわけでは、ありませんが」
「女性?」今度はぼくが田倉に問いただしていた。「新宮に親密な女性がいるとは知らなかったな」
田倉はぼくたちに顔を近づけると、声を潜めた。
「お客のプライベートを詮索した、なんて陰口を叩かれたくないので、私がしゃべったなんで言わないで下さいよ」田倉の声のトーンがさらに下がる。「お相手はレイチェル森屋ですよ、舞台女優の」
「レイチェル森屋って誰?」
ぼくの言葉に、ホウムがフンと鼻を鳴らした。
「ワトさんが知らないのは、無理はないかな」店の入り口に向かって、顎をしゃくって見せる。「レイチェル森屋はN市のローカル劇団『深夜の謎』の花形女優さ。テレビとかには出ていないから知名度は低いけど、千葉県の演劇業界ではちょっとした有名人らしい」
ぼくは振り返って、入り口に目を向けた。傘立ての上あたりに赤ワイン色のポスターが貼ってあり、英国風のアンティークな衣装を着た若い女性が大きく両手をあげている写真が掲載されていた。化粧をしていることを差し引いても、目鼻立ちのはっきりした、華やかな容姿の女性であることが見て取れる。
「『深夜の謎』は、ミステリ専門の劇団だよ」ホウムが言う。「住んでいる町のミステリ関係の情報を、ぼくが知らないわけにはいかないからね」
「レイチェル森屋を間近で見るのは初めてだったんですが、いやあ、綺麗な女性でした」田倉が興奮した口調でしゃべり続ける。「おじいさんがイギリス人の日系人だそうですが、顔はもちろん、立ち姿もしゅっとしていて。グラナダ版の『ボヘミアの醜聞』に出演しているゲイル・ハニカットを思い出してしまいました。ジェレミー・ブレッドのホームズもよかったですが」
「田倉マスターは、『深夜の謎』の公演を見に行ったことがあるんですか?」
ぼくが尋ねると、田倉は何度も首を縦に振った。
「もちろんです。ぼくもシャーロキアンの端くれですからね。『深夜の謎』の二月の舞台の演目は、ホームズ物の『まだらの紐』だそうです。レイチェル森屋は無論、ヒロインのヘレン・ストーナーの役で……」
田倉が続けようとするのを、ホウムが右手で制した。
「レイチェル森屋は、『森屋紅茶』の社長である、ジェームス森屋の一人娘なんだ」
今度は、ぼくがびっくりする番だった。
昨年末、『森屋紅茶』は新製品として『檸檬蜂蜜紅茶』のティーバッグの発売開始を大々的に発表した。問題は、この製品に使われている蜂蜜のマイクロカプセル化の技術だった。昨年の春、『土井蜂蜜』がこの技術に関係する特許を特許庁に申請したところ、その半月ほど前に『森屋紅茶』から同じ内容の特許が出されていることが判明したのだ。ぼくが退院した昨年11月末になっても、「社内に特許情報を漏らしたスパイがいる」という噂が社内で飛び交っていた。
新宮礼矢が、レイチェル森屋を通じて『森屋紅茶』に情報を漏洩したのではないのか?
「まあ、誰と飲んでいたかはともかく」そんなぼくの疑惑を振り払うように、ホウムが話をもとにもどす。「新宮氏はレイチェル森屋にどんな冬の夜話をしたんです?」
「この店から、お二人の会社の独身寮に帰る道から少しそれた裏小路の奥に、二階建ての古い空き家があるのをご存じでしょう」
「ああ、ありますね。あの木造の黒い壁の家のことかな?」
ぼくの言葉に、田倉が大きくうなずく。
「管理していたご老人がなくなって、もう五年以上たつはずですが、夜になると度々、明かりが目撃されるそうなんです」
「ホームレスか誰かが、もぐりこんでいるんじゃないですか。最近はすっかり寒さも厳しくなってきたし」
ホウムが言うと、田倉は身を乗り出して、ぼくら二人に交互に視線を走らせた。
「そう思うでしょ。前からそんな噂もありましたから。でも、新宮さんが見たらしいんですよ、黄色い顔の怪人を」
「黄色い顔の怪人?」
素っ頓狂な声を出したぼくに、田倉は満足げな微笑みを向けた。
「新宮さんの話では、一週間ほど前、仕事を終えて夜の十一時くらいにご自分のマンションに帰る途中、あの空き家の二階の窓から、光が漏れているのに気づいたそうです」田倉は、ここぞとばかり話を続けた。「何だろうと思い、新宮さんは道端から二階の窓を見上げた。すると、誰かが懐中電灯のようなものを点けたり消したりしているらしい」
「ほお、面白い」ホウムが自分の顎を撫でる。「まるで、誰かに信号を送っているようだ」
「新宮さんも、そう感じたそうです。そして、電灯が点いた瞬間、人物の顔が見えた」
「それが、黄色い顔の怪人だったわけですね」ぼくが言う。「黄色い顔というのは、黄色い顔の仮面をつけていた、ということですか?」
「顔が異様に大きかったそうですから、仮面をかぶっていた可能性が高いでしょうね」
「マスターは、その黄色い顔を見たことはないんですよね?」ホウムが底意地の悪い声で言った。「まるで、実際に目撃したかのようなお話ですけど、電灯の明かりのせいで顔が黄色く見えたのかもしれない」
「そうかもしれませんが、新宮さんの話を耳にはさんだだけなので、何とも言えません。よろしければ、お二人で件の空き家を見学されてはいかがですか?」
黒い壁の空き家は、この店から徒歩でも五分程度の近さだ。細い路地に面しており、築半世紀は超えていそうな木造二階建てで、確か以前は賃貸のアパートとして使われていたと聞いたことがあった。アパートは昔からの住宅街の中にあり、付近に住んでいる人も年配者が多そうだった。就寝時間が早く、SNSなどにも疎い住民が大半であるため、明かりが漏れる空き家の話も噂にはなるものの、情報として拡散するまでにはいたらなかったのかもしれない。
「どうする、ホウム。帰り際にちょっと見に行ってみるかい?」
ぼくの問いかけに対し、ホウムは首を横に振った。
「いや、今夜はもう遅いし、また日を改めよう」
「ホウムにしては珍しいね。あんなに、謎はないかって言っていたのに」
「まだ、情報が足りないよ。不明確な事象からスタートすると、大抵は誤った結論に達するものさ、ワトさん」ホウムは、手にしたジョッキを田倉に振って見せた。「マスター、最後にもう一杯だけギネスを」
(三)
空き家の窓に浮かぶ、黄色い顔。これは、ミステリの題材になるのではないか?
翌木曜日の朝、目が覚めたときに真っ先に頭に浮かんだ。そんな思いを引きずりながら、カレーパンとコーヒーの朝食をとり、いつものように七時半に会社に向けて独身寮を出る。冬の晴天の下、T駅までの道を小走りに急いだ。ホウムの出勤は毎度始業ぎりぎりの九時直前なので、出勤はいつも一人だ。
一月に入り、朝の通勤がますますつらくなってきた。耳や手の先の冷たさに耐えながら、会社近くの駅からオフィスに向かって歩く。突然、後ろから「おはようございます」と声をかけられた。
「ああ、おはようございます、半田さん。いつも元気ですね」
毛糸の帽子ですっぽりと髪を覆った半田菫が、口をにっとして笑顔を見せた。しまった、「元気ですね」はセクハラかも、と一瞬自分でも思ったが、菫は特に気にする様子もなく、早足でぼくを追い抜いて行った。
彼女もホウムほどではないにしても、少し変わった女性だった。小さくて可愛らしいメガネ女子で、一見すると中学生かと誤解されかねない容姿だ。その一方、総務部の小南部長に言わせると、「ものすごく優秀で、すぐにでも正社員にしたい」人材だそうだ。同僚の女子社員とのつながりは極めて希薄な様子で、唯我独尊を貫いているようにも見える。いつも愛想はいいが、決して自分をさらけださず、太い黒縁眼鏡の下の大きな目は獲物を狙っている猫を思わせた。
『土居蜂蜜』本社が入るビルは、都内の私鉄駅から徒歩で十分ほどの場所にあった。昭和の時代に建てられた建物ということもあり、最近多いワンフロアぶち抜きではなく、部署ごとに部屋の分かれたコンパートメントタイプのオフィスだ。
総務部の部屋は四階の東側。十二畳ほどの面積に部長を含め八人の部員が詰め込まれているが、デスクやコピー機などの占有率も高く、ぎりぎりとの広さと言ってもよかった。
出勤してすぐに、パソコンに疎い小南部長から、社内ネットワークのパスワード更新とメールへの文書添付のノウハウを尋ねられ、一時間ほど相手をした。その後は、昨夜の「空き家の怪異」の話が頭から離れず、午前中は何となくダラダラと過ごした。昼休みにコンビニでおにぎりを買って、四階にある総務部のオフィスまでエレベータであがる。四階のエレベータホールで、見知らぬ男が一人、商品開発部の山峯部長と立ち話をしていた。山峯部長の後には、緊張した面持ちの新宮もいる。
社外の人間と思しき、その男の印象は強烈だった。ホウムと同じ百八十センチを超える長身だったが、横幅も広く、体重も軽く百キロはありそうだった。頭が大きく、ごつごつとした顔つきは獰猛な虎を想起させた。そして何より、彼の姿を忘れられないものにするのは、その髪型だった。虎刈り……今の時代にそんな髪型の人間は見たことがなかった。
「それでは、毛利部長、ご検討をよろしくお願いします」
エレベータの扉が開くのと同時に、山峯部長が声をかける。新宮があわててエレベータのボタンを押す姿が少し滑稽だった。毛利部長と呼ばれた男は、軽く会釈をしながら、エレベータに乗り込んだ。閉まる扉に向かって、山峯部長、新宮が深々と頭を下げる。
「毛利蘭太郎、通称『虎刈りモウラン』」背後からの声に、びっくりして振り向く。コーヒー入りの紙コップを持ったホウムが、無表情で立っていた。「『森屋紅茶』の商品開発部長だ」
山峯部長の後をくっついて歩く新宮が、すれ違いざまにぼくをちらりと一瞥した。ぼくは軽く手を挙げたが、新宮は視線を前にもどし、無視したままさっさと歩き去っていく。
ホウムが、あきれた様子で肩をすくめる。
「うちの新製品を上市するにあたって、『森屋紅茶』に例の特許のロイヤリティを支払う方向で動いているようだね」
ロイヤリティ、つまり特許料を『森屋紅茶』に支払うということは、蜂蜜のマイクロカプセル化の特許について『土居蜂蜜』側が権利主張をあきらめた、ということになる。売り上げの一割程度をキックバックすることになれば『土居蜂蜜』としても大きな痛手だ。
「君は何でも知ってるね。どこから、情報を仕入れているんだ?」
「情報収集力、観察力、想像力の三つが、優れた探偵になる三大要素だからね、ワトさん」
ホウムは偉そうに言ったが、あらかた商品開発部の古参女子社員からの情報だろう。ホウムはひねくれた性格だが、見てくれがよいのと、女性に優しいこともあり、特に古株の女子社員には人気があるのだ。
ぼくとホウムは、肩を並べて総務部のオフィスにもどる。残り三十分ほどの昼休みで、ぼくはおにぎりを二つ食べなければならなかった。総務部の部屋には、パソコンの前で腕を組む小南部長、文庫本を読みふける半田菫の二人が座っていた。
「しかし、毛利部長は迫力があるね。うちの会社の連中では、太刀打ちできないんじゃないかな」
おにぎりをほおばりながらぼくが言う。ホウムは口をゆがめて見せただけだった。
ぼくは、新宮礼矢の姿を思い浮かべた。「悪いようにしない」と虎刈りモウランに言い寄られ『森屋紅茶』に特許情報を渡す新宮。『森屋紅茶』社長の令嬢であるレイチェル森屋に篭絡され会社を裏切る新宮。想像できないことではない。金と女、そして『森屋紅茶』での地位を約束されれば、新宮なら禁断の果実に手を伸ばす可能性はある。
ふと、昨日の『バールストン』での田倉マスターの話を思い出した。黒い壁の空き家から漏れる明かりと奇怪な黄色い顔の人物……目撃者は新宮礼矢だ。今回の特許流出の騒動とは無関係なのか?
「例の黒い壁の空き家はどうする?」
ぼくが言うと、ホウムが顎の下に手をそえて、じっと考え込む。
「ワトさんは今日、残業があるって言ってたよね。残業が終わった後、帰りがけに寄ってみるか?」
「会社を出るのは午後七時くらいになりそうだけど」
「大丈夫」ホウムが答える。「このあたりをぶらぶらして待っているから」
小南部長の咳払いが聞こえた。ホウムが、少しあわてて言い添える。「もちろん、残業代はつけない」
背後で椅子がぎしりと鳴った。振り返ったぼくとホウムの前に、小柄な身体を精一杯伸ばした半田菫が立っていた。
「『ライヘンバッハ荘』」菫が口を開いた。
ぼくはなんと答えればよいのかわからず、黙っていた。無表情のホウムも、同じく沈黙のままだった。菫は大きくため息をついて、言葉をつなぐ。
「T駅近くの黒い壁の空き家に行くんでしょう? あそこ『ライヘンバッハ荘』っていうんです」
「どうして、あの空き家の名前をご存じなんですか?」ホウムが興味津々といった様子で聞く。
「私、駅から自分の家まで色んなルートで帰るのが好きなんです」菫の大きな目が、きらりと光った。「この前、あの黒い壁の空き家の前を通ることもあって、そのときに玄関の横に看板があることに気づいたんです。近づいて目を凝らしてみると、『ライヘンバッハ荘』って書いてあって。夕方で薄暗かったですし、とても古かったので、そばに寄らないと読めないかもしれませんが」
「半田さんは、あの空き家の窓で光が点滅しているのを見たことはありませんか? あと、窓から黄色い顔が見下ろしているところを目撃したこととか」今度はぼくが尋ねた。
「光の点滅や、黄色い顔ですか」菫が考え込む仕草を見せた。「私が空き家の前を通るのは、月に一回あるかないかなので。昔はアパートだった、とは聞いたことがありますが、前を通りかかったときも人の気配は感じたことはありません」
「ところで、ワトさんは、『ライヘンバッハ』を知っている?」ホウムが突然、ぼくに話を振ってきた。
「……耳にしたことはあるけど」ぼくは首をひねった。「スイスかどこかにある滝の名前だったかなあ」
ホウムは満足そうに微笑むと、今度は菫に向かって、妙な質問をした。
「それで、半田さんは家庭教師をやられていたことがあるでしょう?」
「家庭教師?」菫は怪訝な顔をしたが、ホウムの言わんとすることに気づいたのか、苦笑いをした。「ああ、ガヴァネスですか。もちろん、ありませんよ。『ぶな屋敷』に行ったこともありません」
「さすがですね」ホウムが大げさに拍手をした。「半田さんもシャーロキアンの仲間のようだ」
何のことかさっぱりわからないぼくは、置いてきぼりをくった気分だった。しかし、ホウムに声をかけそびれたまま、無情にも昼休み終了のベルが鳴る。
午後の仕事が始まっても、気分は落ちつかなかった。午後三時、休憩を兼ねてエレベーターで一階まで降り、ホールの隅にある自動販売機まで歩いていく。自動販売機の前でホウムと菫が立ち話をしていた。
「ああ、ワトさん」ホウムが軽く手を挙げる「社内で特許の明細書を見られる立場の人が誰なのか、半田さんに確認していたんだ」
「何で、特許の話なんてしているんだ?」
「自動販売機の前で一緒になった縁で、半田さんにウチの特許の情報が申請前に『森屋紅茶』に漏れた可能性があることを話した」ホウムは悪びれる様子もなく答えた。「半田さんは社内ネットワークの管理に携わっているから、情報を持っているかもしれないとも考えてね」
「あたしも、よくわからないんです」菫は自信がなさそうだ。「幹部会議の参加者の方、つまり部長以上は社内ネットワークで特許明細書を見るためのパスワードを教えられる、との話は聞いたことがありますが」
「ワトさんは、ぼくらよりこの会社は長いし営業畑にいたから、特許情報を知ることができる立場の人間がわからないかな」
ぼくは、社内の各部署のことを思い浮かべた。
「そうだな、まずは明細書を書く本人である研究所の人間だな。商品開発部の連中も見られるだろう。当然、特許部のメンバーは知る立場にある」
「それだけでも、かなりの人数になりますね」菫がつぶやく。
「ところで、『森屋紅茶』が興味を示しそうなウチの特許で、まだ申請前のやつはあるのかな?」ホウムがたたみかけた。
「詳しいことは知らないが、蜂蜜を固まらない状態でフリーズドライする技術の特許申請を準備しているらしい。商品開発部にいる同期がそんなことを言っていたな。これは社外秘だけどね」
「あの、お二人とも」菫が腕時計に視線を落とした。「総務部員八名のうち、三名が三十分くらい部屋にいないことになりますよね。そろそろ部長が気にしだすのでは」
(四)
気づけば、あっという間に終業時間になっていた。忙しいと時間が早く過ぎるというが、今日は仕事らしい仕事をしないままに日が暮れてしまった。総務部の窓から見えるビル群の明かりが、季節遅れのクリスマスツリーのようにきらめいて見える。
総務部で残業は珍しかった。部長も含め、たいていは定時の午後五時四十分か、残業するにしても三十分程度で帰路につく。その日も小南部長を初め、総務部員のほとんどが午後六時過ぎには「お先に」と声をかけながらオフィスから出て行った。
今日は残業だと言ってあるのにかかわらず、ホウムが六時半にならないうちから苛立ちの様子を見せ、ぼくのデスクの後ろを行ったり来たりし始めた。ぼくに声をかけてきた。
「ワトさん、まだかかりそうなの? だめだな、仕事が遅いのは」
パワハラまがいの言葉にぼくは少しむっとしたが、強いて明るい声で答えた。
「あと、一時間もあれば終わるよ。何なら、先に空き家に行っててもらっても構わない」
「ああ、そうなの。じゃあ、そうさせてもらおうかな」ぼくは気をつかったつもりだったのだが、ホウムはあきれるほどあっさりと言った。「空き家の周りも探索したいしね。それじゃ、お先に」
半田菫も午後七時前に席を立ち、すまなさそうにぼくに頭を下げながら、出口に向かって歩いて行った。残された部員はぼく一人。ほとんどの電灯が消されたオフィスで、パソコンで残務処理を続けた。
午後七時半、ふと菫の言葉を思い出して、社内ネットワークを開いてみた。確かに『経営会議資料』とのサイトがあり、パスワードを入れないと開けないようになっていた。マウスを操作してネットワーク内を見ていくと、『社員の広場』のサイトに行き当たった。『社員の広場』には過去三年間分の社内報が収められているはずだった。
「……確か、社内報に社員の自己紹介のコーナーがあったよな」
ぼくも二年ほど前に、このコーナーに掲載するとのことで自己紹介文を書かされたことがあった。対してアピールすることがないので、ラーメンが好きとか猫アレルギーだとか、他人にとってどうでもよい内容でお茶を濁したと記憶している。
昨年の九月号、ぼくが入院する直前の社内報に目が留まった。新宮礼矢の自己紹介記事が掲載されている。新宮のさわやかな笑顔の写真の横に、彼自身のプロフィールが箇条書きで書かれている。その中の一文を見て、ぼくの心臓が跳ね上がった。
【千葉県N市を拠点とする市民演劇集団『深夜の謎』の劇団員です。十月と十一月は市民会館の中ホールでコナン・ドイル原作のシャーロック・ホームズ物の公演をやります。十月は『黄色い顔』、十一月は『空き家の冒険』です。ぼくの役柄は、なんとシャーロック・ホームズ! みなさん見に来てくださいね。】
新宮礼矢は、レイチェル森屋と同じ『深夜の謎』の劇団員だった。そして、『深夜の謎』の昨年十月と十一月の演目は、『黄色い顔』と『空き家の冒険』。今回の空き家騒動にかかわるキーワードがすべて、新宮のプロフィールの中に詰め込まれている。
大急ぎでパソコンの電源を落とし、部屋の消灯と施錠をすませて、オフィスを後にする。ホウムのことなので、すでに握っている情報かもしれないが、一刻も早く情報を披露したかった。
N市方面に向かう満員電車に揺られながら、昨日からの出来事に思いを巡らせる。
新宮は商品開発部員なので、特許情報を入手できる立場にある。特許情報は実際に『森屋紅茶』に流れたのか? 流れたのだとしたら、やはり情報漏洩の犯人は新宮なのか? 一方、『バールストン』の田倉マスターから聞いた情報に過ぎないが、新宮が空き家の窓に見えたという、点滅する明かりと黄色い顔の話もある。これも、新宮の創作なのか? しかし、創作だとしたら何が目的なのか? 『深夜の謎』の美人女優、レイチェル森屋の気を引くため、という可能性もある。レイチェル森屋は『森屋紅茶』の社長、ジェームズ森屋の娘だというから、そのつながりで新宮が『森屋紅茶』のスパイになっているのかもしれない。
ぼくの頭がクエスチョンマークで埋め尽くされる中、電車は独身寮の最寄りであるT駅に到着する。改札口を出たところで、半田菫が立っていることに気づいた。
「あれ、半田さん。先に帰ったはずじゃあ……」
「お昼休みに、『ライヘンバッハ荘』の話が出たじゃないですか。あたし、本当に『ライヘンバッハ荘』って書いてあったかどうかが少し気になったので、見に行くことにしたんです」菫は毛糸の帽子を脱いだ。「空き家の近くまで来たときに、十メートルくらい前を大きな人が歩いているのに気づきました。背の高い、太った人で、黒っぽいトレンチコートを着ていました。ステッキをつきながら歩いているようでしたが、年配の方の歩き方ではないように感じました」
ぼくは黙って菫の顔を見つめていた。改札口を行き交う人波の中、見つめあう二人は、ふいに出会った運命の人同士に見えたかもしれない。何も答えないぼくに向かって、菫は話を続けた。
「その人は、ステッキを振りながら、黒い壁の空き家のある路地に曲がっていきました。あたしも後をついていくかたちで路地に入ると、その人が空き家に入っていくのが見えたんです」
「背が高く、太っていて、黒っぽいトレンチコートを着ていたんですね? ステッキを持っていて、例の空き家に入った」
「はい」菫がうなずく。そして、びっくりするようなことを言い出した。「縞模様の変わった髪型をした人でした。あれは、虎刈りっていうんでしょうか?」
「虎狩モウランだ!」
ぼくの叫び声に、何人かの人が振り向いた。菫もあっけにとられた顔つきで、ぼくを見つめている。
「半田さん、行きましょう。空き家に入っていたのは、『森屋紅茶』の毛利部長です。ウチの特許が不正に取引されている可能性があります」
走り出したぼくの背後で、菫がはっと息を飲むのがわかった。
「和藤さん!」背中から菫の声が聞こえた。「白久さんはどうしたんでしょう?」
息を弾ませながら「わかりません、とにかく行ってみましょう」と答えるしかなかった。
ぼくたち二人は駅前通りを住宅街に向かって疾走する。菫は病み上がりのぼくを気遣ってか、並走しながら何度も「大丈夫ですか?」と繰り返し尋ねてきた。実際かなりしんどかったが、重い足を引きずりながらでも走るしかなかった。それにしても、先ほど菫も言っていたが、ホウムは何をしているのか?
繁華街を抜けて住宅地に入ると、周囲が急に暗くなった。ネオンの灯もなく、家の窓から漏れるわずかな光と頼りなげに光を投げる街灯を頼りに道を進む。ぼくたち二人は、空き家に続く狭い路地に向けて道を曲がった。
「あっ!」菫が小さく声をあげた。
黒い壁の空き家から、誰かが飛び出してきた。黒っぽいトレンチコートを着ている。手にステッキのような棒を持ち、空き家の入口付近で立ち止まって、周囲を見回していた。顔は見えなかったが、街灯の光に映えて虎刈りの頭がはっきりと見えた。
「おい!」ぼくは思わず声をあげていた。
その声に反応し、その人物はぼくたちがいるのとは反対の方向に駆け出した。躊躇しているぼくたちをしり目に、あっという間に突き当たりの道を曲がって姿を消した。
「くっそう、追いかけても、捕まえられそうにないな」最初から追いかけるつもりはなかったが、それを悟られないために、ぼくはいかにも悔しそうに言った。「でも、あの虎刈りは見覚えがある。やはり、『森屋紅茶』の毛利部長だ」
「空き家の二階に明かりが見えます」
菫の震える声で、我に返った。三つある二階の窓の真ん中から、ぼんやりと光が漏れているのがわかった。
「どうしましょうか?」菫がぼくの腕をつかんだ。
「行ってみましょう。ホウムがいるかもしれない」ぼくは、自分に言い聞かせるように答えた。「ぼくの後についてきて下さい」
空き家の玄関ドアは半分くらい開いていた。先ほどの虎刈りの人物は、よほどあわてて出て行ったらしかった。空き家の一階は真っ暗だったが、菫がスマートフォンの灯を点けてくれたおかげで、二階に続く階段までたどりつくことができた。一歩一歩足元を確かめて、二階に上がっていく。菫はぼくのコートの裾をつかみ、足元をスマートフォンで照らしながら、後に続いた。
階段は、ステップに体重をかけるたびに、みしり、みしりと音をたてた。菫の息遣いと相まって、不安が徐々に高まっていく。虎刈りの人物は逃げ去って行ったが、まだ何者かが潜んでいるかもしれない。そして、それが新宮礼矢である可能性も否定できなかった。もちろん武器になりそうなものは持っていないし、意気地なしの男と、意気地はあるが腕力は期待できない女の組み合わせでは、その何者かに対抗できるとは思えなかった。
階段を上り切ったところにドア三つ、並んでいた。真ん中のドアが細く開き、わずかな光が線状に見えた。先ほど見えた明かりは、この部屋からに違いなかった。
「誰もいないんでしょうか?」
ささやく菫の声にぼくは首を横に振った。そんなことはわかるはずがない、と伝えたかったが、菫がどう考えているのかを思いやる余裕はなかった。
ぼくはドアをそっと押した。まず、床に転がった懐中電灯が見えた。その懐中電灯に照らされ、人が倒れていた。どうやら男のようだった。まわりには新聞紙らしき紙が散らばっている。
「まさか」ぼくは懐中電灯を拾い上げ、倒れている男の顔を照らした。「ホウム!」
菫が小さな悲鳴をあげた。ホウムは目を固く閉じ、ぐったりとして動かない。息はしている様子だったが、懐中電灯で映すと頭からわずかに血が流れていた。
「救急車を呼びます!」
携帯電話を操作する菫の姿が目をかすめた。ぼくは静かにホウムを床に寝かせ、懐中電灯を周囲に向ける。懐中電灯の丸い光が、白い壁に書いてあるローマ字を浮かび上がらせた。
黒い字で『RACHE』と書いてあった。
(五)
ホウムは救急車でN市民病院に搬送された。状態は想像していたほどはひどくなかったようで、命には別条がないとの救命医の言葉にひとまずホッとした。菫の素早い連絡が功を奏したのかもしれない。
ただ、医師の話では「意識が回復するまでには少し時間がかかるかもしれない」とのことだった。本当に意識がもどるのだろうか、一抹の不安を覚えた。ホウムから両親は海外旅行中だと聞いていたので、ぼくが代わりに連絡先になることを病院に伝えた。
ぼくは、ストレッチャーで病院に運ばれたときのホウムの様子が気になっていた。ホウムは青いタートルネックのセーターだけという格好で、コートを着ていなかったのだ。会社からいったん独身寮に戻り、着替えてから空き家に行ったものと推察されたが、真冬の寒さの中でコートを着ていない姿は少し異様だった。倒れているホウムの周囲に、丸められた新聞紙が散乱していたのも奇妙だった。ホウムは新聞紙にくるまって暖を取っていたのだろうか?
救急センターの待合室で、ぼくは小南部長に携帯電話のショートメールで事の次第を連絡した。すでに深夜零時をまわっており、命に別状がないのであれば、電話で部長を叩き起こすまではないと判断したのだ。菫は待合室のソファーに座り、両手で顔を覆ったまま動かなかった。すっかり憔悴した様子だ。
ぼくと菫は、事情聴取のためパトカーで千葉県警のN警察署に連れていかれた。任意での取り調べとは言え、疲れ切った身体に強面の刑事からのしつこい尋問は堪えた。しかし尋問を受けることで、ホウムが棒状の凶器で正面から殴打されたことがわかった。ぼくと刑事のやり取りは、次のような感じだった。
「逃げた人物は……多分男だと思いますが、ステッキのような長い棒を持っていましたから、ホウムは……白久君はその棒で殴られたのかもしれません」
「逃げたのは、どんな男でしたか?」刑事が訊いてきた。
「黒っぽいトレンチコートを着た虎刈りの男でした」
「虎刈りというのは頭がですか? あなたの知っている人?」
「『森屋紅茶』という会社の商品開発部長が、虎刈りだということは知っていますが、逃げたのがその人なのかどうかはわかりません」
警察には、菫とT駅で顔をあわせてからホウムを発見するまで経緯については、隠さずに答えた。ただ、空き家で明かりや黄色い顔が目撃されたとの話や、会社の特許の盗難疑惑などについては、特に質問されなかったこともあり、説明しなかった。
独身寮に帰ったのは、午前三時。その日は、さすがに有給休暇を取ることにした。朝九時になるのを待って、小南部長に電話をする。年休取得を連絡した上で昨夜のあらましを報告した。ホウムが命に別状ないことを伝えると、受話器を通して小南部長の安堵ともあきらめともつかないため息が聞こえた。「週末にお見舞いに行ってみるよ」との部長の声を聴き、ぼくは電話を切った。
ベッドにもぐりこんだまま、昼頃まで、うたたねをしたり携帯電話をいじったりして過ごした。午後一時を過ぎ、カップラーメンでも食べようかと布団を抜け出したとき、携帯電話が震え出した。画面に『はんたすみれ』との表示が現れる。昨夜、警察署に連れていかれる前、お互いに電話番後を交換したことを思い出した。
電話に出るや否や、耳に菫の透明感のある声が飛び込んでくる。すっかり元気を取り戻したらしい。
「本日は会社にお休みをいただいて、法務局に行ってきました」
「法務局?」ぼくはベッドに座りなおした。
「法務局で、あの空き家の登記簿謄本を確認してきました」菫は息を切った。「あの家の所有者は、毛利蘭太郎さんです」
虎刈りモウラン! ぼくは驚きで返す言葉が見つからなかった。電話越しに淡々とした菫の声が続く。
「毛利蘭次さん……多分、蘭太郎さんのお父様だと思いますが……が五年前に亡くなられて、蘭太郎さんが相続されたようですね」
「ということは、昨夜ぼくらが目撃したのは、やっぱり毛利蘭太郎だったということでしょうね」
「それはなんとも」菫はあくまでも冷静だった。「ただ、蘭太郎さんであれば、あたしたちのような不法侵入ではなかった、ということになります」
ぼくは、ずっと気になっていたことを菫に尋ねてみた。
「半田さん、あの壁に書かれていた『RACHE』という文字のことなんですが、あれは、もしかしたら、レイチェル森屋のことを表しているんじゃないかと思うんです。この文字に『L』をつければレイチェルになりますから」
菫は、数秒間の沈黙の後、低い声で答えた。
「あたしも『RACHE』のことを考えていました。この文字のおかげで、事件の半分の謎が解けた気がします」
菫の言葉に、ぼくは二度目の驚愕を強いられた。
「菫さん、それは本当ですか? 事件は昨夜起きたばかりなのに」
「和藤さんにお電話したのは、事件の全面解明のために必要な情報を一緒に探していただくためです」
「ぼくに協力できることがあれば」
「今夜、夕食にお付き合いいただけませんか?」
「えっ」自分の心臓が激しく波打つのを感じた。「それは、もちろん、大丈夫です」
「もう一人お誘いして欲しいんです」菫の声は冷静だった。「新宮礼矢さん」
「新宮ですか」ぼくの高揚感が急降下した。「それは、携帯電話の番号くらいは知っていますが……」
「お願いします。事件解決のためには、新宮さんに会わねばなりません」
ぼくは「折り返します」と気のない返事をして電話を切った。面倒くさいが、仕方がないので新宮の携帯電話の番号をプッシュする。仕事中の電話ということもあり、新宮の対応は極めて冷淡だった。ぼくが先輩ということで、失礼な言葉こそ使わなかったが、早く電話を切りたい感がありありと伝わってきた。しかし、菫の名前を出した途端、新宮の口調が急に柔らかくなった。新宮には事件の話はせず、単に菫が新宮と飲みに行きたいと言っている、とだけ話した。
「半田菫さんって、総務部の契約社員の子ですよね。あの可愛らしい」
「可愛らしいかどうかは主観の問題だけど」
「可愛いじゃないですか」新宮の声が弾んでいる。レイチェル森屋といい、新宮の気持ちのベクトルは美人の方ばかり向いているらしい。「今日の夜ですよね。ああ、ちょうど空いてる。もちろんご一緒しますよ。ぼくを誘ってくれるなんて、なんか嬉しいなあ。和藤さん、ありがとうございます」
ぼくは待ち合わせ時間と場所を相談した上、意地悪な満足感とわずかな罪悪感を抱えながら、電話を切った。再度、菫に電話して、午後七時に『バールストン』で待ち合わせということに決めた。新宮に携帯電話のショートメールで時間と場所を連絡すると、昼食のカップラーメンを準備するため立ち上がる。
ポットでお湯を沸かしながら、カップラーメンのパッケージを破る。食卓兼デスクとなっているテーブル前の椅子に座り、ミステリ創作用に買っておいた新品のノートを開いた。デジタル式の卓上時時計は一時五十五分を表示していた。カップラーメンにお湯を注いでから三分。一時五十八分まで、今回の事件を検証することにした。
ぼくはノートを開き、ボールペンで次のように書く。
a.誰がやったのか?(フーダニット)
b.なぜやったのか?(ファイダニット)
c.どうやってやったのか?(ハウダニット)
この三つは、ミステリを構成する代表的な構成要因だ。端的に言えば、aは犯人探し、bは動機探し、cはトリック小説、と分類できる。これら以外に「いつやったのか?(フェンダニット)」や「どこでやったのか?(フェアダニット)」といった変則的なものや、同じフーダニットでも被害者探しや目撃者探しなどといった変わり種もある。
大抵のミステリは、複数の構成要因がかかわってくる場合がほとんどだ。今回の奇妙な空き家の事件については、今のところcのハウダニットの要因は見当たらないので、aとbの二つの分類で整理して書いてみる。
a.誰がやったのか?(フーダニット)
・空き家で光の点滅を繰り返した黄色い仮面の人物は誰か?
・空き家に侵入し、かつ逃亡した虎刈りの人物は毛利蘭太郎なのか?
・ホウムを襲った人物は誰か?
b.なぜやったのか?(ファイダニット)
・黄色い仮面の人物はなぜ空き家で光を点滅させたり、自分の姿を窓から見せたりしたのか?
・虎刈りの人物が空き家に侵入し、かつ逃亡した目的はホウムを襲うためか?
・空き家に残された『RACHE』という文字は何のために書かれたのか?
「菫は、あの『RACHE』の文字で、事件の謎の半分は解けた、と言っていたな……」
ぼくは顔をあげて卓上時計を見た。デジタル表示は二時五分になっていた。
(六)
金曜日の夜だというのに、『バールストン』はすっかり閑古鳥が鳴いていた。
午後六時五十分に店に入ったとき、先客は四人掛けのテーブルに座る菫一人だけだった。菫は書店の紙カバーをつけた薄い本に視線を落としていた。ぼくが近づくと顔をあげ、軽くうなずく。
「何を読んでいたんですか? 差支えがなければ」
ぼくの問いに、菫は本のカバーをはずし、題名を向けてきた。
「コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』です。児童書版ですけどね。ここに来る前に駅前の書店で買ってきました」
「シャーロック・ホームズって、かなり昔の話ですよね」
「『シャーロック・ホームズの冒険』がイギリスで発表されたのが一八九二年ですから、もう百三十年以上前になります」
「そんな前なんですか」
「ホームズの人気が最も高いのは、アメリカなんです。続いて、イギリス、日本。日本では昭和四十年頃に山中峯太郎という人が翻案した児童向けの『名探偵ホームズ』シリーズが大人気になって、ずいぶんファンが増えたと聞いています」菫は唇をかんだ。「でも、さっき書店で探してみても、児童書のホームズ物はこの本一冊だけでした。一時期は『全世界で聖書の次に読まれている本』などと言われていたんですが」
「一世紀以上も前の物語ですから、仕方がないのでは?」
「そうですよね。十九世紀末のロンドンの雰囲気、奇怪な事件、カッコいい名探偵、論理的な解明……今読んでも色あせない魅力がたくさん詰まっているんですが。いずれは忘れ去られてしまうのではないかと心配です」
入り口付近から「和藤さん!」と元気な声が聞こえた。新宮礼矢が満面の笑みを浮かべて手を振っている。その時々の自分の都合で態度をコロコロ変える性格は、面倒くさい反面、ある種自分に正直なのだと感心もしてしまう。
菫と新宮のお互いの自己紹介が終わったタイミングで、マスターの田倉が「いいっすね、合コン歓迎!」などと言いながらビールのジョッキを三杯、テーブルに運んできた。乾杯に続いて、当たり障りのない天気の話や会社の話などで場をつないだ。新宮の口は驚くほどなめらかで、いつの間にやら菫に対してタメ口になっていた。会話が進むにつれ、新宮が菫に対してどれだけ関心を持っているのか明らかである一方、ぼくに対してどれほど無関心であるのかが改めてわかった。昨夜のホウムの災難の話も少しだけ出たが、新宮はホウムに対しても大した関心がなさそうで、おざなりの会話だけで終始した。
飲み始めて約三十分、さすがに店内にはぽつりぽつりと客が入り始め、一つ二つのテーブルが埋まっている。新宮に程よく酔いが回った頃を見計らって、ぼくと菫は新宮がわからないように目くばせをした。
「ちょっと聞いた話なんだけど」ぼくの声に新宮がトロンとした目を向けた。「この店からほど近いところにあり、黒い壁の空き家を知っているよね?」
「ああ、空き家の窓から見えたっていう、黄色い顔の話ですね」新宮が投げやりな調子で答えた。「この店のマスターがしゃべったんでしょう。まったく、口が軽いんだから」
カウンターの奥で、田倉マスターが首をすくめる姿が見えた。田倉が情報源であることをぼくたちが漏らしたわけではないので、これは仕方がない。
「大方、ホームレスか誰かだと思いますよ。このあたりも最近は、治安が悪くなってきて」
「何かの信号みたいに、懐中電灯を点滅させていたとか」菫が口をはさむ。
「そうなんだよ。何か気味が悪くてね。変質者だったりすると怖いので、そのまま逃げ帰ったよ」新宮は口をゆがめた。
ここでぼくが、社内報に新宮の自己紹介記事が掲載されたことを披露し、その流れでレイチェル森屋と新宮が所属している劇団『深夜の謎』の話になった。
「空き家で黄色い顔を見た話をレイチェルにしたのは、十月に『黄色い顔』、十一月に『空き家の冒険』っていう、ホームズ物の劇の公演をやったので、変に一致するのが気味悪かったからですよ」
菫が興味津々といったていで、身を乗り出した。
「『深夜の謎』といえば、山中峯太郎さんが翻案した『名探偵ホームズ』シリーズの代表的な作品の一つなので、ネーミングに感心してしまいました」
「へえ、そうなんだ」新宮は気のない返事をした。「山中峯太郎という名前は、ウチの部の山峯部長と名前が似ているけど、知らないなあ」
「えっ、新宮さんは、ご存じないんですか? 『深夜の謎』はコナン・ドイルが最初に書いたホームズ物の長編で、原作は『緋色の研究』という超有名な作品ですよ」
「『緋色の研究』は、名前は知っているけど読んだことはない」新宮は気だるげに頭をかいた。「実はホームズには、あまり興味はないんだ」
「え、じゃあなんで劇団に入ったんですか?」
「レイチェルがいるから」新宮は悪びれずに答えた。「レイチェル森屋を知ってるかい? 彼女は華やかなだけでなく、女優としてのオーラに包まれているからね。ぼくも彼女と同じ劇団にいることで、自分を高めることができる気がするんだ」
「なるほど」菫は、さも興味がありそうな口調で続けた。「レイチェル森屋と言えば、確か『森屋紅茶』の社長の娘さんとお聞きしていますが」
「ああ、ウチとも取引がある会社だよ。でも、会社との付き合いとレイチェルとはまったく無関係だ」
「そういえば、昨日の昼休みに新宮と山峯部長が『森屋紅茶』の部長さんとエレベータにいるのを見かけたな。虎刈りの髪の毛が特徴的な」
ぼくの誘導に、新宮が冷たい視線を向けた。
「毛利部長のことですか。まあ、悪い関係ではないですね。昨日の午後も会議で会っていますよ」
「昨日の午後!」ぼくと菫が同時に叫んだ。菫が意気込んで聞く。
「毛利部長とは、何時頃までご一緒だったんですか?」
「内容は言えないけど、ウチのオフィスで午後五時半頃まで当方三人、先方三人で打ち合わせをしたんだ」新宮が鋭い目つきで菫を見た。「午後六時前に一緒にオフィスを出た。軽く飲みに行くことになったんだけど。ぼくは風邪気味だったから遠慮した。毛利部長も別件があるとかで、その場でサヨナラしたよ。残りの四人でどこかに行ったらしいけど」
午後六時前であれば、毛利蘭太郎が午後七時過ぎに空き家まで行く余裕は十分にある。やはり、空き家に現れた虎刈りの人物は毛利蘭太郎なのだろうか?
「一つだけ聞かせてください」菫が冷静に言う。「新宮さんと毛利部長がお別れしたとき、毛利部長は黒っぽいトレンチコートを着ていませんでしたか?」
「毛利部長が来ていたのは、黒っぽいトレンチコートじゃなかった。白っぽいアイボリーのトレンチコートだったよ」新宮が答えた。「彼のコートは、コート掛けからぼくが取って手渡したから、間違いない」
「ファイダニットだ!」
ぼくの言葉に、新宮と菫がそろって不審げな視線を向けてきた。
午後九時を回った頃、足取りの覚束ない新宮とは『バールストン』の前で別れた。ぼくと菫は、別々に買えるふりをして、駅前のカフェで再び合流した。今日の戦果の確認、そして今後の戦略について打ち合わせるためだ。
金曜日の夜ということもあり、カフェの席は八割ほど埋まっていた。同じ会社の人間がいないことを慎重に確認し、ぼくと菫は壁際の席に座る。
「色々なことがわかりました」菫が開口一番に言った。「まず新宮さんは、本当にホームズには詳しくないということです。嘘をついているようには見えませんでした」
「ホームズに詳しいのかそうでないのかが、今回の事件では重要なんですか?」
「そう思います」
カフェの店員がオーダーを取りに来たので、ぼくはコーヒー、菫はホットジンジャーを注文する。菫は椅子に座り直すと、猫を思わせる大きな目をぼくに向けた。獲物を狙う猫族の目だった。
「さっき、ファイダニットとおっしゃったのは、トレンチコートの色が変わったことですよね?」
「また謎が一つ増えたな、と」
「あたしの中では、謎の解明が一つ進んでだと思っています」
「『RACHE』に『L』をつけて、『RACHEL』にするという、ぼくの考えはどうですかね?」ぼくは意気込んで言った。「つまり、この文字はレイチェル森屋を指しているという……」
菫は、冷笑とも哀れみともとれる、複雑な表情を浮かべた。
「和藤さんは、ホームズが最初に出てくる長編、『緋色の研究』をお読みになっていないんですね」菫は口を開いた。「この物語の中に、空き家に書かれた『RACHE』という文字が出てくる有名なシーンがあります。そこで、ホームズに事件解明を依頼したレストレード警部が和藤さんと同じ解釈をして、ホームズに一蹴される場面が描かれています」
「今回と同じシチュエーションですね。『緋色の研究』での『RACHE』の意味は何だったんですか?」
「それはネタバレになるので、お話しできません。『緋色の研究』をお読みになって下さい」菫の返事はつれなかった。「すくなくとも今回の事件に、『RACHE』の意味は関係ないと思っています」
そもそも、ミステリ作家志望でありながら、ぼくはミステリの古典と呼ばれるものは、ほとんど読んでいなかった。せいぜいアガサ・クリスティまでで、ぼくのミステリに関する知識は、新本格と呼ばれる国内作品以降に限定されてしまっている。
「さっき新宮の言っていた、『黄色い顔』と『空き家の冒険』は、コナン・ドイルの書いたホームズシリーズの作品なんですよね?」
「それぞれ、第二短編集の『シャーロック・ホームズの回想』、第三短編集の『シャーロック・ホームズの生還』に入っています。でも、この二つの作品のストーリーが、今回の事件にかかわっているとは、あたしは考えていません」
コーヒーとホットジンジャーが運ばれてきた。菫はホットジンジャーを一口飲み、テーブルに視線を落としたまま考え込んでいた。
今回の事件は、ホームズシリーズと密接につながりがあることは否定できないだろう。一方、菫によれば、ホームズシリーズのストーリーやエピソード、登場人物は、今回の事件とは無関係だというのだ。
一体、何が起きているのか? ただ、彼女の頭の中では、事件の全容が徐々に形になりつつあるようだ。
「ちょっと気になることがあるんですが。ホウムを発見したときの彼の格好について」
ぼくの声に菫が顔をあげる。
「あたし、すっかり怯えてしまって、現場はよく見ていないんです」
「ホウムが着ていたのは、青いタートルネックのセーターだけだったんです。昨夜は特に寒かったのに」
「言われてみれば、コートやジャケットは着ていなかったような気がします」
「それに、倒れているホウムの周囲に、丸めた新聞紙が散乱していたんです」
「新聞紙?」
「もともと空き家にあったものかもしれません。日付がわかれば、参考になりそうですが」
菫が顎に手をおいて、鋭い目つきで考え込んでいる。菫は怒るかもしれないが、ぼくの目にはその姿がホウムに重なって見えてしまう。
「さすが、和藤さん。プラス二十点ですね」菫がにっこりと微笑んだ。「すみません、山中峯太郎版のホームズは、相棒のワトソンの推理に点数をつけることが好きなんです。でも和藤さんのお話で、今回の事件の真相が何となくわかった気がします」
(七)
翌土曜日の朝、ホウムの入院している病院から電話があり、ホウムの意識がもどったとの連絡があった。総務部の小南部長に電話で伝えた後、菫にも携帯電話でショートメールを送った。何回かショートメールでやり取りをし、午前十時に病院のロビーで待ち合わせることにした。
駅前の洋菓子店でお見舞いにバームクーヘンを買い、約束の時間の五分前に病院に着いた。ロビーには花束を持った菫が座り、本を開いていた。
ぼくが横に座ると、菫が唐突に話しかけてきた。
「和藤さんは覚えていますか? 入り口に書かれていた、例の空き家の名前」
「確か、スイスの滝の名前だったような」
「『ライヘンバッハ荘』です。『ライヘンバッハ』は、ホームズファンなら誰もが知っている地名ですよ」菫は椅子に座り直す。「ホームズは『最後の事件』で、犯罪王と呼ばれているモリアティ教授とスイスのライヘンバッハの滝で決闘をするんです。知らせを聞いたワトソンがあわてて滝の前に行くと、すでに二人の姿はなく、そろって滝壺に墜落して死んだと結論づけられるんです」
「ホームズは死んだわけですか?」
「作者のコナン・ドイルはそのつもりだったようですが、当時のイギリス国民から『ホームズを殺すな』と避難の嵐を浴び、仕方なく『空き家の冒険』という短編でホームズを復活させます」
「また空き家ですか。空き家といい、黄色い顔といい、この事件は、何から何までホームズの物語と密接につながっているんですね」自分の言葉でハッと気づいたことがあった。「まさか……」
「多分、その『まさか』ですよ」菫は本を鞄に入れると、勢いよく立ち上がる。「さあ、白久さん……もうホウムさんと呼んでいいですね……のところに行きましょう」
ぼくと菫は病棟に向かった。ホウムの個室は病棟の三階奥にあると聞いていた。
病室で久しぶりにホウムに会ったとき、安堵で不用意に涙が出そうになった。ホウムはベッドから上半身を起こし、ぼくを懐かしそうに見つめた。顔は青白かったが、きらきらと光る瞳はいつも通り好奇心の色をたたえていた。
「いや友よ、何年かぶりに出会ったような気がするね」ホウムが両手を拡げながら、大げさに言った。
「とにかく元気そうでよかった」ぼくは鼻をすすった。「半田さんも一緒に来てもらった。空き家の事件の話をしたいそうだ」
「ほう」ホウムは身を乗り出した。「かのレックス・スタウトはワトソン女性説を唱えていたけど、ホームズ女性説は聞いたことがないな。ハンター嬢が探偵役とは面白い」
「和藤さんにはわからないと思いますので説明すると」菫はため息をついた。「ホームズ物で『ぶな屋敷』という短編があり、ヴァイオレット・ハンターという女性家庭教師がヒロインとして登場します。あたしの名前の菫は英語で『ヴァイオレット』、名字の半田≪はんた≫を『ハンター』と呼んで、『ヴァイオレット・ハンター』に仕立てたんです」
「手品と同じで、ネタばらしをすると味気ないね」
ホウムの軽口を受け流し、菫は鞄から取り出した花瓶に水を入れ、持ってきた花を生けた。花瓶をホウムの枕元に置き、置いてある椅子に腰を下ろす。
「さて、まずは空き家の事件の方から、あたしの見解を話しますね。反論があれば、口をはさんでください」
ホウムは無言で肩をすくめた。
「窓から光が点滅するというエピソードは、ホームズの短編である『赤い輪』、長編の『バスカヴィル家の犬』に出てきます。
『RACHE』は、最初の長編、『緋色の研究』の中で描かれた、あまりにも有名なメッセージです」菫は息を切った。「そして、極め付きは『虎刈りモウラン』です。『空き家の怪事件』には、『虎狩りモーラン』という人物が登場します。『虎刈りモウラン』は、その駄洒落です」
ホウムは腕を組んで、一言も口をはさまない。そして、菫はぼくが恐れていたことを口にした。
「空き家で懐中電灯を点滅させたり、黄色い顔の仮面をかぶって空き家の窓から通行人に目撃されていた人物、それはホウムさんですよね」
「反論するよ」ホウムが手を挙げた。「なぜ、ぼくがそんなことをしなきゃならないんだ?」
菫はしばらくの間、唇を引き結んだまま黙っていた。やがて、鞄の中から本を取り出して、ホウムに開いて見せた。
「これは、児童向けの『シャーロック・ホームズの冒険』です。書店の児童コーナーにあるホームズの物語はこの一冊でした。大人向けの本のコーナーでも、ホームズシリーズはせいぜい一冊か二冊。世界一有名な名探偵でありながら、出版社や書店での扱いは、そんな状況なんです」
「でも、シャーロック・ホームズをテーマにした映画やドラマも作られているし、確か、お台場にアトラクションもできましたよね」ぼくが反論する。
「確かに、映画、ドラマ、アトラクションなどを通じホームズ人気が出ることは、よいことだと思います。ホームズに関連する本も出ていますし、忘れられた存在にまでは至っていないことはわかります」菫が言う。「ホームズシリーズの長編四作と短編五十六作の合計六十作は、シャーロキアンにとって聖典と呼ばれています。これが読み継がれていかないと、『ホームズ』という名前だけが独り歩きして、肝心の物語への関心はどんどん薄れていってしまいます」
「でも百三十年以上前に書かれた話ですよね。仕方がない側面もあると思うけど……」
ぼくの言葉を遮るように、菫がホウムを見据えた。
「ホウムさんは、ホームズのエピソードを『噂』として、願わくば『都市伝説』として広めようとしたんですよね。その『噂』や『都市伝説』を通じて、ホームズの話を読んでみようという人の輪を広げるのが、ホウムさんが空き家であんな子供じみたことをした理由です」
「子供じみた、は失敬だな」ホウムは穏やかに答えた。「目撃した人を通じて『噂』が広がり、それをきっかけにしてホームズに興味を持ってくれる人が一人でも増えてくれれば、それだけでよかった」
「さて、次は空き家に入り、そして逃げ出した『虎刈りモウラン』です。少し整理してみますね。
その一、あたしが目撃した怪人物は頭が虎刈りで、黒っぽいトレンチコートを着ていた。
その二、一方で怪人物が疑われた毛利蘭太郎氏がその日着ていたトレンチコートは白っぽい色だった。
その三、空き家から逃げて行った怪人物も空き家に入った怪人物と同じ格好をしていた。
その四、ホウムさんは、寒い一月の夜にセーター一枚で空き家の中に倒れていた。
この状況を合理的に説明できる仮説があります」
「ほう、仮説というのは?」ホウムの声が心持ち低くなった。
「あたしが目撃した『虎刈りモウラン』は白っぽいトレンチコートを着た毛利さんではなく、ホウムさんだった、ということです」
ぼくは思わず飛び上がった。「本当か、ホウム?」
「どうだろうね」ホウムは目をそらした。
ホウムが事件の被害者だとばかり思いこんでいたのが、実は事件に加担するピースの一つだったことに、驚くとともに軽い嫌悪感を覚えた。菫もホウムに対する追及の手を緩めるつもりはないようで、眉を寄せたまま再び口を開いた。
「ホウムさんは、例によって『噂作り』を目的に、虎刈りのカツラをかぶり、『虎刈りモウラン』の扮装をして空き家に入っていきました。元祖である『虎狩りモーラン』はホームズものの原作である『空き家の冒険』の主要人物ですから。小道具としてステッキまで持っていった」
「もう、いいよ。わかったから」ホウムはかすれた声で言って、横を向いた。
「あたしが和藤さんを呼びに駅まで行っているとき、別の人物が空き家を訪れました。そして、その人物は部屋に置いてあるしステッキを手に取り、ホウムさんが振り向くと同時に殴打した」菫は、構わず話を続けた。「逃げ出すとき、自分の姿を特定されないため、ホウムさんの虎刈りのカツラを被った。そして、ホウムさんの着ていた黒っぽいトレンチコートを脱がし、自分が羽織って空き家から逃げ出した。つまり、あたしが目撃した空き家に入る人物と、和藤さんとあたしが見た空き家から出てくる人物は別人だったわけです」
「わかったって、言ってるだろ」ホウムの声は元気がなかった。やがて、フッと笑うとベッドに身を横たえた。「虎刈りモウランの噂は前から知っていたので、虎刈りのカツラは前から準備はしていた。木曜日にエレベーターホールで実物にあったときは、正直感動したな」
「でも、『森屋紅茶』の毛利部長が虎刈りなのは、ホウムが意図したわけではないよね」ぼくが訊く。
「これは想像だけど」ホウムは答えた。「毛利蘭太郎氏も実はシャーロキアンじゃないのかな? 自分の名字と名前をあわせると『モウラン』になることをひっかけて、強いて髪を虎刈りにしているというのがぼくの推理だ」
「つまり」ぼくは少し腹が立ってきた。「木曜日に半田さんが目撃した虎刈りの怪人物は、ホウムだったと認めるわけだ」
「そうさ」ホウムは悪びれた様子もなかった。「毛利氏は体格がいいみたいだから、自分の黒いトレンチコートの下に丸めた新聞紙を入れて、横幅をかさまししたんだ。半田さんに見られているとは、全然気づかなかった。ステッキは本家の『虎狩りモーラン』の商売道具だからね。当初から準備していたし、持っていかないわけにはいかなかった」
「でも、ホウムは正面から殴られたんだよね?」
「いや、一瞬のことなので、相手の顔を見ていない。背後に気配を感じて振り向いたとたんに殴られたんだ。警察にもそう話したよ」
しばらくの間、沈黙が続いた。窓の外から、雲雀のさえずる声が聞こえてきた。菫が不意にホウムに頭を下げた。
「すみません。ホウムさんはまだ万全な状態ではないのに、責め立てるみたいなことをして。あたしも少ししゃべり過ぎました。今日は帰ります。早く元気になられて下さい。和藤さん、行きましょう」
ぼくは、菫に追い立てられるように病室を出た。お互いに無言のまま長い廊下を歩き、エレベータで一階のロビーまで降りた。
病院の広いロビーは人であふれかえっていた。三年前にできたばかりの病院なので、ロビーは明るく清潔な印象だったが、やはり病院という場所は何か心を落ち着かせないものを感じる。
ぼくと菫はロビーの隅に立ち、行き交う人の流れをぼんやりと眺めていた。
「半田さんは、ホウムを殴ったのが誰なのか、見当がついているんですね」
ぼくは思ったままのことを言った。ぼくにしては珍しく図星だったようで、菫の頬がぴくりと動いた。
「『森屋紅茶』が『土居蜂蜜』の特許を盗んでいる、という話がありましたよね。『土居蜂蜜』の社内にスパイがいるんじゃないかと」
「はい」ぼくは答えた。「特許の盗難問題が、今回の事件に関係していると考えているんですか?」
「そうです」菫は言った。「あの空き家は、『森屋紅茶』の毛利蘭太郎氏の所有物だというお話はしたと思います。あたしは、問題となった特許の受け渡しが、あの空き家で行われていたと考えています」
「このデジタルの時代に、そんなアナログなことをしますかね。メールで情報を送ってしまえば簡単です」
「メールでのやり取りは、例えメールを消去しても、後で検証され発覚してしまうリスクがあります。それよりも、和藤さんのおっしゃるアナログな方法の方が、安全度が高いと判断したのではないでしょうか?」菫は唇を嚙んだ。「それに、特許情報を漏洩した人物がパソコンに詳しくなかったとしたら、紙でのやりとりを選ぶと思います」
「つまり、木曜日も、そのやりとりが実行される日だったと?」
「そうだと思います」菫は答えた。「その人物が特許情報を印刷してあの空き家に置いておき、その情報を毛利氏が受け取る、とのプロセスが成り立っていたとすると、その人物が誰であるのかイメージすることは比較的容易です。木曜日の夜にあたしたちが空き家に行くことを知り、置いてある特許情報を回収するために空き家を訪れたと考えれば、さらに人物は特定されます。つまり、
一、『土居蜂蜜』で特許情報を入手できる立場だということ。
二、パソコンが得意でなく、メールで情報を送ることを躊躇する人物であること。
三、木曜日の夜にあたしたちが空き家に行くことを知っている人物であること。
一人の人物の顔が、ぼくの頭に浮かんできた。まさか、そんなはずは……。
そのとき、ロビーの向こう側から、見知った人物が歩いてきた。ぼくたちに気づき、大きく手を振る。社内ネットワークを通じて特許情報を入手できる立場で、パソコンの扱いに疎い人物。木曜日に夜にぼくたちが空き家に行くことを話しているとき、同じ部屋にいた人物。総務部の小南部長は、人懐っこい笑顔を見せながら、ぼくたちに向かって歩いてきた。
ロビーの奥から影のように二人の男性が小南部長に近づく。挟み込むようにして、両側から部長の腕を取った。驚愕の表情を浮かべる小南部長。二人の男性が何かをささやくと、部長は凍り付いた表情のままうなずく。二人に連れていかれる部長は、ぼくたちをちらりと見て、寂しく微笑んだ。
「病院に来る前、警察署に寄ってきました」菫が口を開いた。「ホウムさんを殴打したのが小南部長だと、警察に説明しました」
ぼくは驚いて菫の横顔を凝視してしまった。菫は悲しげな表情で正面を向いたままだ。いったい、この女性は何者なのだろう。ぼくは菫に尋ねてみた。
「ホウムは、自分を襲った人物が小南部長だということは、わかっていたんでしょうか?」
「多分、わかっていたと思います。一瞬だったとは言え、ステッキを振りかぶって自分を殴りつけようとしている人物の顔を見ていないとは考えづらいです。それがよく知っている人物であれば、なおさらです」
「ホウムは小南部長を助けようと思って、見ていないなどと言っていたんですね」
「ホウムさんは、小南部長に色々と迷惑をかけていましたから」菫は口元に笑みを浮かべた。「ホウムさん、あんな風に見えて、実は繊細で優しい方なのかもしれません」
フッと病院内の人たちが全員、静止しているような感覚を覚えた。小説を作るということは、架空の人物……場合によっては実在の人物の、人生の一部を切り取ってエピソードとして紹介する作業だ。ミステリの大半は、人間のダークで恐ろしい部分にスポットライトを当てて、暗部をさらすことに重点が置かれている。
「それにしても、毛利蘭太郎氏が頭を虎刈りにしていなければホウムが『虎刈りモウラン』の扮装で空き家に行くこともなかったし、あの空き家の持ち主が毛利氏だと気づくこともなかったわけだ」ぼくは頭を振り、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。「天網恢恢、疎にして漏らさず、か。やっぱり悪いことができないもんだなあ」
ハッピーエンドではない今回の顛末はミステリ作品としてはありふれたものだろうし、ダークエンドはミステリとは相性がいいと思う。世の常がハッピーエンドでなく、人生が思い通りいかないことは、大人になれば誰でもわかることだ。ただ、ハッピーであろうがそうでなかろうが、生きている限り人生は続く。人生の喜怒哀楽をミステリというエンターテインメントで表現するのは、自分のミッションとしても悪くない。
しかし、今回の最大の収穫は新たな名探偵の誕生だった。それはもちろんホウムではなく、名探偵ハンタのことだが。
了
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