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「もしかしてシャーロキアン ~『まだらの紐』の誘惑」 全話


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

(あらすじ)
半田菫、ホウムこと白久豊務、ワトさんこと和藤創平は、土居蜂蜜株式会社総務部に勤める同僚。菫の大学時代の友人で、劇団『深夜の謎』の看板女優であるレイチェル森屋は、自分が管理しているマンションに住む老人が孤独死して事故物件となることを揶揄する脅迫を受ける。レイチェルから相談を受けた菫たち三人は犯人探しを始めるが、調査を通じ、同マンション三階の住人が深夜、「太鼓を叩くような音」、「低い口笛の音」を聞いていることを知る。そんな中、マンション裏手の公園で『深夜の謎』劇団員である男の墜落死体が発見される。男は厳重にロックされたマンションに入り込み、墜落死したのか? また、深夜の奇怪な音の正体は?(294字)
 

シリーズ前作)「振り向けばシャーロキアン ~『空き家の冒険』再び」 全話
https://note.com/shinmi_t/n/nf04e7784c632
 

(本編)
 
 周藤恵令奈はベッドから上半身を起こすと、枕元の目覚まし時計に手を伸ばした。

 時計のライトを点けて時間を確認する。午前二時。夜明けまで、まだ数時間は寝ることができる。

 五月も中旬を過ぎ、昼間の日差しにはそろそろ初夏の熱気が感じられるようになったが、夜はまだ薄手の毛布が必要な寒さが残っている。恵令奈は再びベッドに身を沈め、毛布をあごまで引き上げ、固く目をつぶった。

 千葉県N市にある五階建ての賃貸マンション、『レジデンス森屋』。恵令奈は半年ほど前から、ここに姉の樹利亜と二人で暮らしていた。

 恵令奈は目を開き、薄暗い天井を見上げた。彼女たちが暮らす三階の2LDKの隣には、心臓外科医である義理の父親が一人で暮らしている。義父の年齢は七十五歳で、恵令奈たち姉妹の実母と結婚した五年前には、すでに古希を迎えていた。母は自分の命を救ってくれた義父に深く感謝していたようだし、その気持ちを結婚というかたちで表したのかもしれなかったが、その母親も今はもういない。

 姉は恵令奈の部屋の一つ隣の、ベランダに面した部屋で眠っているはずだ。ベランダからは木々に覆われた小さな公園が見渡せるが、陽が落ちると、オレンジ色の公園灯に照らされた木立がまるでモンスターのように見える。

(そろそろ、何とかしなければ)

 恵令奈は寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。

 そのとき、姉の部屋の方向から奇妙な音が聞こえてくることに気づいた。ドーン、ドーンという、太鼓をゆっくりと叩いているような音だ。かすかな音ではあるが、鳴るたびにお腹に重い振動が伝わってくる。 

(まさか、地震の前触れ?)

 恵令奈は再び上半身を起こすと、ベッドから降りてドアの方向に向かう。

 突然、姉の部屋の方向から、低い口笛の音が聞こえた。それに続く、かすれた叫び声は姉のものに間違いなかった。姉の樹利亜は子供の頃から心臓が悪く、恵いつ発作を起こしてもおかしくなかった。三年前に亡くなった母も、心臓病が原因で六十歳を前に命を落としていた。姉の身に何かあったのであれば、一刻も早く隣に住む義父の部屋のドアを叩いた方がいい。

 姉の部屋のドアが開く音がした。恵令奈はあわてて自分の部屋のドアを開け、廊下に飛び出した。目に飛び込んできたのは、廊下の壁に手をついたまま、床に座り込んでいる姉の姿だった。

「お姉ちゃん、大丈夫?」恵令奈は、樹利亜を抱き起し、その額に手をあてた。

 恵令奈は、姉の額の冷たさにはっと手を離した。光を落とした廊下の明かりの下、樹利亜の真っ白な顔が浮かび上がって見えた。

 樹利亜は冷え切った手を恵令奈の手に重ねた。そして、恵令奈の目を必死の形相でのぞき込み、細い声で言った。

「私の部屋に……」

 樹利亜はがっくりと頭を落とした。

 

 

(一)

「シャーロキアンって、何を好き好んで、百三十年以上前の小説に夢中になっているんだろう?」

 ぼくはレモネードをなめながら、ホウムに尋ねた。五月の末、ぼくとホウムは英国風パブ『バールストン』のカウンター席に並んで座っていた。

 暖かな金曜日の夜だというのに、客はぼくとホウムの二人だけ。アンティークな店の雰囲気は悪くないし、ハギスやフィッシュアンドチップスといった英国料理の味もなかなかなのに、閑古鳥が鳴いているのは不思議だった。T駅から少し離れていることに加え、自称シャーロキアンの少し変わった店主が影響しているのだろうか。

「母方の実家が名古屋でね」ホウムはギネスのジョッキを飲み干し、ぼくの質問などなかった様子で口を開いた。「先月、法事で久しぶりに名古屋に行ったんだ。昼飯でも食べようと街を歩いてみたら、本当にがっかりしたよ。見かけるのは、東京にあるチェーン店ばかりだった。名古屋といえば、味噌カツや味噌煮込みうどんといった味噌文化がある。天むすやあんかけスパゲッティ、モーニングのサービスがすごい喫茶店やなんかも、名古屋独特の魅力的な食文化だよね。なんで日本全国、どこにでもある店に置き換わっていくのか、理解に苦しむ」

「名古屋の食文化とシャーロキアンの嗜好が、どこでつながっていくわけ?」

「わからないかなあ」ホウムが苛立たしげに答えた。「名古屋の街のように、現代は社会から魅力的な文化や風景がどんどん抜け落ちてきている。シャーロック・ホームズの生きた時代は十九世紀末から二十世紀初頭だし、物語の舞台はロンドンなどのイギリス。不便な時代だよ。ガス灯の下で行きかう辻馬車、霧の街で起きる怪事件、エキセントリックな登場人物……そんな確固とした非日常性が、平板で特徴のない世界に住むわれわれにとって、どれだけ魅力のあるものなのか、デジタルで画一的な環境で育ったワトさんはわからないようだね」

「名古屋の話から、そんなことまで連想する人はいないよ。いつもながら、口が減らないな、ホウムは」

 ホウムの本名は、白久豊務。シロヒサトヨムと読むのだが、彼自身の発言によれば、「シロヒサ」を「シロク」、「豊務」を「ホウム」とよく間違えられ、「シロクホウム」と呼ばれことがあるらしい。そんなこともあり、ぼくは親しみを込めて彼を「ホウム」と呼んでいる。彼の方も、ぼく、和藤創平のことは「ワトさん」と呼ぶことに決めているらしく、会社であろうが、プライベートであろうが「ホウム」、「ワトさん」との関係は変わらなかった。

 二人とも『土居蜂蜜株式会社』の総務部員で、独身寮の部屋も隣同士、年齢も同じ三十四歳となると、よほど仲良くなるか距離を置くかのどちらかになる場合が多いが、ぼくたちは幸か不幸か前者の関係を維持していた。

 ホウムは身長が百九十センチに近くあり、スリムな体形と英国人張りの彫りの深い顔立ちもあいまって、会社の女性には、なかなか人気があるらしい。しかしそれは、ホウムの人となりを知らない人間の見方であり、シニカルでひねくれものでありながら、妙に子供っぽいその性格に、ぼくや同僚の契約社員である半田菫などは、いつもうんざりさせられていた。

「それにしても、いつもながらこの店は変わり映えがしないね。来るメンバーはいつも同じだし、ありふれた日常ばかりで嫌になる」

 ここ『バールストン』は、ぼくたちが住む独身寮とT駅のちょうど中間あたりにある。千葉県内でも比較的東京に近いN市の中心駅で駅前はそこそこにぎわっているが、駅から十分も歩けばひなびた住宅街が広がっているような場所だ。

「平穏な日常が一番ですよ」店主の田倉がワイングラスを磨きながら、つぶやいた。「ああ、そういえば今日は、お二人もよくご存じのお客さんから予約が入っているんですが」

「ほお、それは珍しい」ホウムは空になったビアジョッキを田倉マスターに振って見せた。「もう一杯ギネスを。で、こんなひなびた街のひなびた店を訪れる、物好きな客というのは誰かな?」

 ちりんというドアベルの軽快な音に続き、涼しげな風が入り込んできた。店に入ってきた客を見て、ぼくとホウムは思わず顔を見合わせていた。

 空色のキャップをかぶった半田菫が、エントランスであたりを見回している。今夜は一人ではなく、若い女性と連れ立っていた。菫はぼくたちに二人に気づいた様子で、軽く頭を下げると店の奥に向かって歩を進めた。後に続く連れの女性が、ぼくの方にちらりと視線を向けた。大きな目が印象的な華やかな顔立ちが印象的で、菫とは対照的にすらりと背が高い。黒い髪は背中近くまで伸びており、緋色のワンピースに美しく映えて見えた。

「あの彼女は?」

 ぼくがつぶやくと、田倉があきれた様子で答えた。

「ワトさん、ご存じないんですか? レイチェル森屋さんですよ」

 ぼくは思わず腰を浮かしていた。あれが、有名な舞台女優であるレイチェル森屋!

 彼女が、N市を拠点とするローカル劇団である『深夜の謎』の看板女優であることは最近になって知ったことだ。半年ほど前にこの店からほど近い空き家で起きた怪事件には、彼女の父親であるジェームズ森屋が社長をつとめる『森屋紅茶』による特許盗難事件が複雑に絡み合っていた。その事件にレイチェル森屋は無関係だったが、彼女が所属する『深夜の謎』について知るきっかけになっていた。

「半田さんも可愛いけど、やっぱりレイチェルのオーラは違いますね」田倉が余計なことを言う。「いるだけで、店がぱっと華やかになる」

 菫は、ぼくとホウムが所属する『土居蜂蜜株式会社』の総務部で派遣社員をしている。そろそろ三十歳のはずだが、一見すると中学生にでも間違えられそうなほど小柄で、レイチェル森屋と並ぶと年の離れた姉妹、へたをすると親子に見えないこともなかった。その反面、菫のくりくりとした目と尖った鼻、小柄ながら均整の取れた立ち姿はアニメの登場人物にしたくなるようなビジュアルで、社内でもファンが多いとも聞いていた。

「われわれは地味な二人組で申し訳なかったね」ホウムがおかわりのギネスを一口すすった。「半田さんは怪事件を引き寄せる体質みたいだから、レイチェル森屋も何か訳ありかもしれないな。ワトさんにとっては、格好のネタになったりして」

 ぼくは昨年から、ミステリ作家を目指していた。件の怪事件を、職場の同僚である半田菫が快刀乱麻のごとく解決した顛末を、『振り向けばシャーロキアン』という題名で発表していた。当初探偵役として考えていたホウムが、この事件ではなんと被害者になっていたのだが。

「ワトさんは、レイチェル森屋を見て、彼女をどう推理する?」

 ホウムが意地悪な視線をぼくに向けてきた。自分の推理を際立たせるため、ぼくの薄っぺらい予想をあざ笑いたいのだろう。

「まあ、貧乏ではないことは確かだね。社長令嬢だし」

 ぼくが半ばやけになって言うと、ホウムが馬鹿にした仕草で鼻を鳴らした。

「貧乏どころか、彼女が来ているシャネルのワンピースは、十万円はするよ。手に持っているエルメスのケリーバッグにいたっては、最低価格で三十万円、あの型番だと百万円近くするかもしれない」

「ホウムは、海外ブランドにも詳しいんだね」

「知識こそ力だからね」ホウムが涼しい顔で答える。「初歩の初歩だよ」

「それじゃあ、ホウムさんの推理を拝聴するかな」

「レイチェル森屋は、半田さんの大学時代の友人だよ。几帳面な性格で、物事を計画的に進める能力に長けている女性だ」ホウムは得意げに話を続けた。「ただ、今は悩み事を抱えている」

「高価な衣服を買いそろえる人は、几帳面なのかい?」

「見るところが違うよ」ホウムが答える。「あのケリーバッグのデザインは、二十年ほど前のものだ。多分、彼女の母親か誰かの持ち物を引き継いだんだろう。ぼくが見た限り、あのバッグの状態は良好だ。持ち手の部分や底部を職人が修繕した形跡があった。高級なバッグを長持ちさせるのには、お金をかかるが、日頃のメンテナンスが欠かせない。彼女が几帳面な性格で、物事を計画的に進める能力に長けていなければ、あれだけ良い状態を保っておくのは、難しい」

「彼女が、半田さんの大学の友人だというのは?」

「半田さんは確か、高校は公立だけど、大学は学費の高いことで有名なN女子大学の出身のはずだ。レイチェル森屋の実家は裕福で、公立の学校出身とは考えにくい。一方、半田さんの性格からして、社会人になってから一緒に飲みにいくほどの人間関係が築けるとは思えない。つまり、消去法によって、レイチェルは半田さんの大学時代の知り合いと推理できる」

「なるほどね。それじゃあ、彼女が何か悩みを抱えているというのは?」

「これは、推理というよりも推察になってしまうかもしれないが」ホウムが声を落とした。「レイチェルの目の下の隈は、ワトさんも気づいただろう」

「確かに顔色は、あまりよくなかったな。今日は体調がよくないだけかもしれない」

「わずかではあるがワンピースがだぶついているようだし、手首も病的に細い。短期間の間に急激に痩せた可能性が高い。髪の毛の色つやは悪くないから、身体の不調というより、メンタルな問題じゃないかと思う」

 田倉マスターの視線が泳ぐのを見て、ぼくとホウムは同時に振り向いた。ぼくたちの背後では、困惑した表情の半田菫が腕を組んだまま立ち尽くしていた。

「こんばんは」菫は、身体に似合わない低い声で言った。「ホウムさんの声が大きすぎて、言っていることが全部あたしたちの席まで聞こえてくるんですが」

「ああ、ごめんなさい」こんな場合でも、謝りの言葉を述べるのは必ずぼくになってしまう。一方のホウムは、口元に笑みを浮かべたまま、黙ってぼくと菫を交互に見ている。「ホウムが失礼なことばかり言ったみたいで。お邪魔でしたよね」

「別に構いませんよ。レイチェルも気にしていないみたいだし」菫は、軽く肩をすくめた。「それに、ホウムさんの指摘はかなり的をえていたみたいで、彼女も驚いていました。わたしが身の丈の合わないほど学費が高い大学出身だということも、間違っていません」

「レイチェル森屋さんと半田さんが、まさか知り合いとはね。いや、何かお悩みがあるようだったら、ぼくらも相談に乗るよ」ホウムはギネスのジョッキを取り上げ、菫に向けて乾杯の仕草をしてみせた。「探偵は、一人よりも二人の方がいい」

 ぼくを探偵の頭数に入れていないことにはムッとしたが、前の事件での菫の活躍を知っているだけに、レイチェル森屋が抱えている問題に興味があることは否定できなかった。もしかすると、ミステリの次作のネタになるかもしれない。

 菫は腰に手をあてて、しばらくの間、考え込んでいた。小さくため息をつくと、あきらめた口調で言った。

「レイチェルに聞いてみますね。彼女がオーケーしたら、呼びに来ますから」

 

 

(二)

 自分の席にもどって数分後、菫がぼくらの席に向かってひらひらと手を振るのが見えた。多分、了解との意思表示なのだろう、と当たりをつけ、ぼくとホウムはいそいそと彼女たちの席に移動した。

 レイチェルは自己紹介し、ホウムの推理通り菫の大学時代の同級生だと明かした。菫がレイチェルの席の横に移動し、ぼくとホウムは二人と向かい合う形で席に座った。

 間近で見るレイチェル森屋は、田倉マスターでいうところのオーラであろうか、遠目以上に輝いて見えた。ぼくとホウムを交互に見つめる大きな目に、時折吸い込まれるような感覚に襲われる。田倉がしばらくの間、ぼくたちの後ろでうろうろとしていたが、何も声がかからないことにあきらめて、カウンターにもどっていった。

「菫は大学生の頃から勘が鋭くて、謎解きみたいなことも得意だったので、わたしの相談に乗ってもらっていたんです」レイチェルは、檸檬ソーダとおぼしき飲み物をマドラーでかき回しながら言った。「お二人は、ちょっと前に名探偵さながらの活躍をされたと菫からお聞きしましたので、わたしの悩み事の相談に乗っていただけるなら、ぜひお願いします」

 四か月ほど前、ぼくたちは会社の特許漏洩にからむ事件に巻き込まれ、ホウムにいたっては大けがまでしていた。ただ、その事件で名探偵役を担ったのは紛れもなく半田菫そのひとであり、ぼくやホウムは狂言回しに過ぎなかった。菫が恵令奈に対し、ぼくたちのことを「名探偵さながらの活躍」と表現したことに、ぼくは少なからずショックを受けた。これは、明らかに皮肉ではないか。

 一方のホウムは心臓に毛が生えているのか、そんな菫の仕打ちにめげる様子もなく、レイチェルに向けて飛び切りの笑顔を向けた。

「ここにいるワトさんはともかくも、ぼくはシャーロキアンですからね。謎があれば、すなわち、ぼくの出番というわけです」ホウムは胸を張った。「で、何があったんですか?」

 レイチェルは数秒間、視線をテーブルの上に落としていたが、きっと唇をかみしめたまま顔をあげた。

「わたしの父が『森屋紅茶』の社長であることはご存じかと思いますが、『森屋紅茶』は本業の紅茶など食品事業以外に不動産事業も展開しています」レイチェルは話を続けた。「わたしは、『森屋紅茶』の秘書室に勤務していますが、それ以外に『森屋紅茶』が所有する賃貸マンションのうちの一つの管理を任されています」

「相談というのは、そのマンションにかかわるトラブルですね?」

 ホウムの言葉に、レイチェルが小刻みにうなずく。菫がすばやく口をはさんだ。

「お二人とも、ここでの話は、くれぐれも他言無用でお願いしますね」

 ぼくたち二人が深々とうなずく様子に安心したのか、レイチェルの頬が少し緩んだのがわかった。

「ホウムさんとワトさんは、『レジデンス森屋』というマンションはご存じでしょうか?」

 菫の言い方にあわせたのだろうが、ぼくは「ワトさん」と呼ばれたのが嬉しかった。ホウムも同じようで、口元がぴくぴくと震えている。

「T駅から歩いて五分ほどの場所のマンションですよね」ホウムが答えた。「まだ新しい建物のようですが、マンションの管理をレイチェルさんがやられているとは驚きました」

「マンションの近くに管理人さん住んでいるので、わたしがやるのは本当に事務的なことだけです」レイチェルは話を続けた「マンションは五建てで、2LDKを中心に全部で三十室あります。基本は賃貸です」

「レイチェルさんも、そこにお住まいなんですか?」ぼくも聞いてみる。

「管理者ということで、五階の2LDKに一人で住んでいます。一応、マンションはわたしの名義になっているので、部屋代は払っていませんが」

「なるほど」ホウムが顎を手でなでた。「それで、悩み事というのは?」

 レイチェルはケリーバッグを開けて、四つに折られた紙を取り出した。黙ってホウムに差し出す。ホウムが紙を開くと、びっしりと小さな文字が印刷されているのが見えた。文面を追うホウムの顔つきが、次第に厳しくなっていくのがわかった。ホウムは、紙をぼくに差し出した。

 そこには、以下の文章が書かれていた。

 

***

 『レジデンス森屋』は、N市内でも指折りの人気のマンションとお察しいたします。レイチェル森屋さんは、社長秘書、舞台女優でありながら、マンション経営を取り仕切っていらっしゃるとのこと、大変お忙しいことと存じます。

 さて一方で、評判に傷がついて大変なことになっているマンションがここ数年、増え続けていると聞き及んでおります。耐震偽装などの手抜きは言うまでもありませんが、事故物件などという風評により、マンション価格が暴落したとの話もよく聞きます。

 ところで、『レジデンス森屋』には、一人暮らしのご高齢の方がいらっしゃることをご存じでしょうか? 仮にMさんとお呼びしておきますが、Mさんの健康は万全とは言えず、人知れず孤独死をされてしまうリスクが少なからずあることを懸念しております。『レジデンス森屋』ほどの高級なマンションが事故物件になってしまえば、新たに借りる人が皆無となることはもちろん、現在お住いの方々の大半が退去されてしまうことが心配です。

 さて、私は、このような悲劇的な事態を回避させることができる立場におります。かかる経費として現金五十万円をご準備いただけましたら、Mさんを速やかに退去させて差し上げます。

 つきましては、本件に関し一度、ご相談させていただきたく存じますので、差支えが無ければ、六月一日の午後十時に、『レジデンス森屋』の裏手にある児童公園までご足労いただけますと幸いです。

 なお本件を警察や法曹関係者などにご相談された場合、即刻、取引を中止させていただきます。また、当日に指定の場所にお越しにならなかった場合は、交渉は決裂したものとし、今後は一切のご連絡を絶たせていただきますので、ご了承下さい。

***

 

「脅迫状か」ホウムが吐き捨てた。「卑劣なやり方だ」

「先週の金曜日に、わたしの家に郵送されてきました」レイチェルがため息交じりに言った。「放っておこうとも思ったんですが、気持ちの整理がつかなくて。そんなわけで今日、菫に相談したんです」

「六月一日というと、明日ね」菫がつぶやく。「もっと早く相談してくれても、よかったのに」

「この五十万円という金額がいやらしいですね」ぼくが感想を漏らした。「もちろん大金だけど、払えない金額ではない」

「恐喝者が、この金額で満足しているわけがないだろう」ホウムが鼻を鳴らした。「一度、入居者を追い出すことに加担などしたら、それこそ恐喝者にさらに餌を与えるようなものだ」

「もちろん、わたしもお金を払って入居されている方を追い出すようなまねはしません」レイチェルが言う。「ただ、なぜこんなことをするのか、その真意がわからなくて……」

「気味が悪い手紙だとは思うけど、一つ聞いてもいいかな?」黙っていた菫が口を開いた。「手紙に書かれている高齢の入居者って、本当にいるの?」

 レイチェルが、こくりと首を縦に振った。

「マンションの住人の方々の大半は、ご夫婦やお子さんがいらっしゃる家族だけど、一人暮らしの方もお住まいになっているの。調べた範囲では、その中でご高齢と呼べる方はお一人だけだった」

「もしよろしければ、お名前を教えて下さい。もちろん、外部には漏らしませんから」

 ホウムの言葉に、レイチェルが軽くうなずいた。

「マダラノヒロシさんという、七十五歳の男性です。『斑点』の『斑』に『野原』の『野』と書いて、『斑野』。ヒロシはハカセの『博士』」

「斑野博士さん……Mさんですね。どんな方なのか、レイチェルさんはご存知ですか?」ホウムが尋ねた。

「半年ほど前に入居されるときに、一度だけお会いしたことがあります」レイチェルが小首を傾げた。「心臓外科医として有名な方みたいで、ご本人は一人暮らしですが、お隣の部屋に義理の娘さんお二人がお住まいです。斑野さん自身は、穏やかな印象のご紳士です」

「いずれにせよ、恐喝者が指定してきた日時は、明日の夜十時です」ホウムがレイチェルに言った。「レイチェルさんは、どうされるつもりですか?」

「もちろん、お金を払うつもりはありません」レイチェルはきっぱりと答えた。「ただ、このまま放置しておくわけにもいきませんから、指定された場所に行って、こんなことをする理由が何かを確かめたいと思っています」

「そうおっしゃると思いましたよ」ホウムが、我が意を得たり、とばかり胸を張った。「相手は、レイチェルさんに一人で来るようにとの指示は出していませんが、ぼくとワトさんが公園を見張っていますから、ご安心下さい」

 ホウムが、ぼくの意見も聞かずに断言した。ただ、ぼくも異論はなかったので、うなずくしかなかったが。ホウムは続けて、菫の方に視線を移した。

「半田さんは、どうする? 聞くまでもないとは、思うけど」

「もちろん、一緒に行きますよ。ただ、ホウムさんとワトさんと一緒の場所に隠れているつもりはありません」菫は毅然とした態度で答えた。「レイチェルに同行して、相手と対決します」

 

 

(三)

 翌土曜日の午後二時、ぼくとホウム、それに半田菫の三人は、『レジデンス森屋』に向けて肩を並べて歩いていた。

 六月に入り、気候が春から夏にシフトチェンジしたかのように、暑さを感じるようになってきた。

 菫の意見で、今日の夜に恐喝者と対峙する前に一度、斑野医師に会っておこうということになり、昨夜のうちにレイチェルがアポイントを取ってくれた。約束の時間は午後三時だったが、マンションの周囲を確認しておきたいとのホウムの意見もあり、早めに行くことになったのだ。

 ぼくたちは、T駅前で菫と落ち合って、『レジデンス森屋』に向かっていた。駅から歩いて十分ほどの距離だったが、五分もしないうちに、ぼくはうっすらと汗をかきはじめていた。

 やがて、道路の右手に『レジデンス森屋』の建物が現れた。ごつごつしたハチミツ色の外壁は、イギリス湖水地方の古城を連想させる。

 そこから一分も歩くと、『レジデンス森屋』の玄関が見えてきた。ガラス張りの明るい自動扉に向かい合うと、オアシスを発見した砂漠の旅人の気持ちがなんとなくわかってくる。

 マンションの入り口にはテンキーが設置され、部屋番号を入力することで居住者に連絡がいくようになっていた。菫が番号を押すと、数秒後にテンキー横のインターフォンから「すぐに行きます」というレイチェルの声が聞こえた。

 ロックが解除される音が聞こえ、ぼくたち三人は自動扉を通り抜け、冷房の効いた建物の中にすべりこんだ。

「『まだらの』と聞くと、誰でもホームズシリーズの傑作短編の『まだらの紐』を思い出すだろう」エントランスでレイチェルを待ちながら、ホウムが楽しそうに言った。「斑野博士さんは、さしずめロイロット博士といったところかな」

「七十五歳の心臓外科医が、火かき棒を曲げてしまうほどの怪力とは想像しにくいですけど」菫がぽつりと言う。「レイチェルが、斑野先生と話ができる段取りをしてくれたみたいなので、どんな方なのかはご自分の目で確かめられると思いますよ」

 正面のエレベータが開き、レイチェルが降りてくる。長い髪を後ろで一つに束ね、ブルージーンズに真っ白なTシャツという服装だった。そんなカジュアルな恰好も、レイチェルには抜群に似合っている。

「お待たせしました」レイチェルが微笑んだ。「マンションの周囲をご覧になりたいとのことでしたので、もう一人同行させていただきたい人間がいるんですが」

 レイチェルの後について、エントランスから玄関を出る。外には、白髪頭でがっしりとした体格の、大柄な老人が待っていた。彼の足元には、膝頭までほどの背丈の黒柴がきちんと手をそろえて座っている。

「まさかのロイロット博士……」

 ホウムのつぶやきは、黒柴の激しい吠え声にかき消された

「こりゃ、静かにしないかっ!」

 老人が犬の首輪をつかんで、激しく叱責する。

「すみません、お騒がせして。知らない人には、誰にでも吠えるんです」レイチェルが申し訳なさそうに頭を下げた。「あの、この方が管理人をお願いしている白銀豪さんです」

「シロガネゴウさん、これはいい!」ホウムが満足げにささやいた。「シルバーブレイズか。吠える犬もぴったりだな」

「このわんちゃんは?」

 菫の問いに、白銀がすまなそうに答えた。

「わたしの犬です。みなさんがいらっしゃるとお聞きして、公園の散歩も兼ねて連れてきました」

「もしかして、この犬の名前はトビイですか?」ホウムが横から口を出した。

「いや、違いますね」白銀がぶっきらぼうに答える。「レストといいます」

「レスト!」ホウムが大げさに言った。「レストレード警部だ。もしかして、白銀さんもシャーロキアンですか?」

「シャーロキアン? 何ですかそれは。犬の名づけ親は、レイチェル様です」白銀は腰をかがめて、レストの頭をなでた。「私は定年まで長年にわたって『森屋紅茶』に勤めていたので、レイチェル様のことは、よちよち歩きの頃から存じ上げているので」

「本当は、白銀さんにはこのマンションの一部屋に住んでいただきたかったんだけど」レイチェルがレストに優し気な視線を向けた。「ペット禁止のマンションに犬がいるはよくないので、マンションのお隣に小さな家を建てて、そこに住んでいただいているんです」

「こんな老人のために、家まで建てていただき、本当にありがたいことです」白銀がレストの散歩紐を手に巻き付け、レイチェルの方を向いた。「マンションの裏手の公園をご覧になりたいとのことでしたね?」

 レイチェルがうなずき、ぼくたちは連れ立ってマンションを出た。マンションの横には三十台はとめられそうな駐車場があったが、出かけている住人が多いせいか、今ある車は数台程度だった。

「全世帯分の駐車場を用意したんですけど、最近は自家用車を持たない方も多いみたいで」

「ライドシェアなんていうのもありますしね」レイチェルの言葉に、ぼくは一生懸命反応した。「でも、自家用車を持ちたい人にとっては、広い駐車場は魅力ですから、いいと思います」

 ぼくの言葉に、レイチェルがにっこりと笑ってくれた。ぼくたち五人と犬一匹は、マンションの裏手に回り込む。マンションのすぐ裏には、テニスコート二面ほどの規模の小さな公園が広がっていた。

「ここも一応は、マンションの敷地の中なんですが、木陰やベンチもありますし、地域の方に思い思いに使っていただくようにしています」

 土曜日の午後ということもあり、公園にはベビーカーを押した夫婦らしきカップルや、ジョギングをする中年の女性、ゲームに興じる男子高校生などがチラホラ見られた。片隅のベンチに座る老人と若い女性に目を向けたレイチェルが「あら」と声をあげた。

 ベンチの二人も、レイチェルに気づいたようで、ゆっくりと立ち上がった。老人が軽く手を挙げ、女性が深々と頭をさげた。レストが一度、ワンと大きく吠えたが、何かに気づいたのがはっとした仕草で鳴くのをやめた。

「後ほどお話する予定にしていた斑野博士さんと、娘さんの周藤恵令奈さんです」

 レイチェルの紹介に、斑野は静かにほほ笑んだ。恵令奈は頭をあげ、耳に心地のよいアルトで言う。

「姉の樹利亜のお見舞いに行った帰りなんです。先週の夜、心臓の発作を起こしたんですが、何とか元気になりそうで。その節は大変お騒がせしました」

 ぼくは会話を聞きながら、斑野博士と周藤恵令奈をじっくりと観察した。

 斑野は、銀縁の眼鏡をかけた、小柄な男性だった。薄くなった白髪をきれいになでつけ、穏やかで上品な顔立ちをしている。手には杖を持っており、かなりの高齢と見て取れた。心臓外科医とのことだったが、唯一、鋭い目つきが医師である印象を与えた。

 一方の恵令奈は、ボーイッシュなショートカットの、彫りの深い顔立ちの女性だった。年齢は二十台半ばといったところか。ほっそりとした身体で華奢な印象だが、その目力からは強いメンタルが感じられた。

「恵令奈さんは、わたしが所属している『深夜の謎』という劇団の仲間なんです」レイチェルが言った。「恵令奈さんたち姉妹にこのマンションをお勧めしたのは、そんな経緯があって。斑野さんが入居されたのも、恵令奈さんの推薦です」

「失礼ですが」突如、ホウムが口をはさんだ。「斑野さんと周藤さん、苗字が違うのはお二人が義理のご関係だとお聞きしていますが、どのようなご関係なのでしょうか?」

 いつもながら、ホウムの強心臓には呆れるとともに、感心もさせられた。初対面の人間には、なかなか聞けない質問を、なんの躊躇もなく口に出している。

「ああ、なるほど」斑野が、気を悪くした素振りもなく、答えた。「恵令奈と今入院中の樹利亜は、私の再婚相手の娘たちです。再婚した妻は三年前に逝ってしまい、血の繋がらない親子が、隣り合わせの部屋で暮らしているわけです。樹利亜は少し心臓に心配があるので、こんな老体でも隣に住んでいれば多少の助けになると、恵令奈がここを紹介してくれて」

「ベンチに座りましょうか」

 レイチェルのエスコートで、ぼくたちは公園の奥にあるベンチに向かった。テーブルをはさんで、三人ずつの合計六人が座れるベンチだった。

「よろしければ、わたしはこれで失礼いたします」

 レストの散歩紐をつかんだ白銀が言った。人数が七人でベンチが六つであることを配慮したのだろう。白銀は軽く会釈をして、レストを繋いだ散歩紐を引いた。白銀に大人しくついていくレストの姿は、妙にほほえましかった。

 ぼくたちはベンチに座り、それぞれ自己紹介をした。斑野が、おもむろに口を開いた。

「さて、今回のお話は、私を揶揄した手紙のことにかかわるとお聞きしています。私が孤独死をすると、マンションの市場価値が下がることを脅迫する内容だったとか」

 レイチェルがさっと顔をあげた。表情は硬かったが、眼がキラキラと輝いている。

「斑野さんには、正直にお話したんです。わたしは絶対にそんな脅迫には屈しない。ずっとこのマンションにいて下さい、と」

「最近、何か変わったことはありませんでしたか?」菫が初めて言葉を発した。「誰かに監視されているとか、不審なものを受け取ったとか」

「監視者や不審物などは気がつきませんでしたが」斑野が答えた。「長女の樹利亜が倒れた夜に、ちょっと気味の悪いことがありました」

「気味の悪いこと?」と僕がオウム返しに言う

「深夜二時頃でしょうか、ベランダの外から、ドーン、ドーンという太鼓をゆっくりと叩くような音がして、その後に低い口笛が聞こえてきました」

「深夜の低い口笛?」ホウムが小さく叫んだ。「やっぱり、まだらの紐だ!」

「恵令奈さんも気づかれましたか?」菫が畳みかけた。

「さあ……」恵令奈は首をひねった。「夜中のことですから、わたしは特に何も気づきませんでした」

「樹利亜さんは何と?」再び菫が聞く。

「樹利亜は何も答えんのです」斑野がため息交じりに答えた。「自分は何も知らない、気づかなかった、と」

「太鼓をゆっくり叩くような音、低い口笛……」ぼくができるのは、いつもオウム返しだけだった。「いったい何の音なんでしょう?」

 その後の会話は雑談に近い内容に終始したが、いくつかわかったことがあった。樹利亜と恵令奈の実の両親は恵令奈が生まれてからしばらくして離婚したこと。姉妹は母親の女手一つで育てられたが、母親の実家が比較的裕福だったため生活にはそれほど困らなかったこと。母親は生まれつき心臓が強くなく、心不全で命の危険があった際に助けてくれた斑野医師に深く感謝していたこと。そのことをきっかけに斑野医師と母親は五年前に結婚したが、その母親は三年前に亡くなったこと。恵令奈は『深夜の謎』で役者をしており、レイチェルを目標にしていること……。

「すっかり長々と足止めをしてしまって」

 レイチェルの言葉に、ぼくは自分の腕時計をのぞきこんだ。すでに午後三時を過ぎており、一時間以上、このベンチで話をしていたことになる。

「さあ、わたしたちは今夜に備えましょう」レイチェルが力強く立ち上がる。「菫、ホウムさん、ワトさんはわたしの部屋に来ていただけませんか? ちょっと自慢のアフタヌーンティーをご馳走しますよ」

 そのときぼくは、自分の心の中に何か引っかかりがあることを感じていた。しかし、そのときはその引っかかりが何であるのか、気づくことはできなかった。

 

 

(四)

 携帯電話から聞こえてくる『刑事コロンボ』テーマ曲の着信音で、ぼくは目を覚ました。ベッド横の卓上デジタル時計は午前一時三十分を表示している。携帯電話の画面には『ホウム』という送信者名が表示されていた。

 昨夜は午後十時前にマンション裏の公園に足を運んだ。ぼくとホウムは太い木の後ろに隠れ、レイチェルと菫が公園のベンチに腰を落ち着けて脅迫者を待った。十時を過ぎ、十時半になっても、誰も来ない。公園には、我々以外は、猫一匹現れなかった。十一時を過ぎたところで待つのはあきらめ、それぞれの家に引き上げることにしたのだった。

 会社の独身寮に戻り寝入ったのが午後十一時半。まだ二時間しか眠っていない。

「……はい」

「午前二時だよ、ワトさん」電話口から、ホウムの大声が聞こえた。ホウムはこの独身寮のすぐ隣の部屋にいるので、壁越しに騒いでいる声がわずかに聞こえる。「ゆっくりと太鼓を叩くような音、低い口笛は午前二時に聞こえたって、ロイロット博士は言ってただろう」

「ロイロット博士じゃなくて、斑野医師だ」

「そんな細かいことは、どうでもいい。さあ、すぐに『レジデンス森屋』に行こう。十分後に寮の玄関に集合」

「おいおい、こんな時間に行くのか?」

「チャンスは待ってくれない」ホウムの声が耳に痛かった。「脅迫状と深夜の奇怪な音とは、何か関係があるとは思わないかい?」

「ああ、そうかもしれない。わかったよ、ホウム」ぼくは、しぶしぶ答えた。今日は日曜日で、帰ってからゆっくり寝ることもできる。「半田菫さんはどうしようか?」

「半田さんにはショートメールでも送っておいてくれ。時間も時間だから、電話もまずいだろう」

 ぼくへの電話は棚に上げて少し腹が立ったが、仕方がないかもしれない。ぼくは急いで着替えをすると、玄関先でホウムと落ち合った。深夜のせいもあるが、ホウムの熱気だった目は狂気を帯びた人間のものに見えた。

 独身寮から『レジデンス森屋』までは徒歩で十五分程度の距離だったが、小走りに向かったせいか、午前二時ちょうどくらいに玄関先にたどりついた。白い街路灯に照らされたマンションは、昼間に見たエレガントな古城の姿は影を潜め、恐ろし気な魔女の棲み家を連想させた。

「裏手の公園に回ってみよう」

 ホウムの指示で、ぼくたち二人はマンションの横の駐車場に回り込んだ。公園に向かおうとしたとき、ぼくは駐車場に意外な人物がいることに気づいた。

「白銀さん!」ぼくは名前を呼んだ。

 十二、三台の車がとめてある駐車場の隅に、車と同じくらいの大きさのものがブルーシートかけられたまま置かれていて、その横にマンション管理人の白銀豪がほんやりと立っていた。

「白銀さん、こんな時間にどうしました?」今度はホウムが尋ねる。

「……ああ」白銀の声はしゃがれていた。「深夜二時になったので、見回りです。変な音も聞こえるそうなので」

「とりあえず、昨日のベンチあたりに行きましょうか」ホウムが言った。

 ホウム、ぼく、それに白銀豪は駐車場を通り抜け、マンション裏手の公園に向かった。

 オレンジ色の公園灯が公園のベンチ付近に光を投げかけている。昼間には緑の木々にすがすがしさを覚えもしたが、こんな時間になると、黒々とした木立は怪物じみていてむしろ気味が悪い。

 マンションを見上げると、五階の端のレイチェルの部屋に電灯がともっていることがわかった。深夜二時にもかかわらず、レイチェルの部屋以外にも、三階の中央あたりの一部屋から明かりが漏れているのがわかった。

 視線をマンション下の地面に移したぼくは、思わず息を飲んだ。人らしき塊が横たわっている。

「誰かが、倒れているようだな」ホウムも気がついたようだった。「もしかすると、マンションから墜落したのかもしれない」

 それは、地面に横たわったまま動かない。ホウムに少し遅れて近づいてみる。倒れているのは、黒っぽい上下を着ていたが、頭だけが妙にねじれた方向に曲がっていた。どうやら若い男であることがわかった。

「何があったんですか?」

 女の声に振り返ると、険しい顔の菫が立っていた。菫の隣にいるレイチェルの白い顔が、薄暗闇にぽっかりと浮かんで見えた。菫たちの背後では、白銀が凍り付いたように立ち尽くしていた。

「ワトさんのメールを見ました」菫は続けた。「ここに来る途中でレイチェルにも連絡して、一緒に来てもらうことにしたんですが」

 ホウムに目を向けると、倒れている男にかがみこんでいた。

「救急車と警察を呼んだ方がよさそうだな」ホウムがつぶやいた。「救急車は手遅れだと思うが」

「亡くなっているんですか?」

 菫の問いに、ホウムは大きくため息をつく。

「まだ温かいから、死んでからも間もないとは思う」

 小さな悲鳴が聞こえ、顔をあげた。レイチェルが両手で口を覆い、大きく目を見開いていた。

「お知り合いですか?」とホウムが尋ねる。

「河戸来人くんです」レイチェルは何度か細かくうなずきながら、かすれた声で答えた。「わたしと同じ『深夜の謎』の劇団員です。なんで、こんな場所に……」

 それからの数時間は大混乱だった。十五分ほどで救急車が到着したが、河戸来人が亡くなっていることがわかったため、警察車両が来るのを待ち、そのまま帰って行った。警察が到着すると、すぐにマンション周辺にはライトがともされ、レイチェル、白銀、菫、ホウム、ぼくは現場で別々に警察官の尋問を受けた。そのままパトカーに乗せられてT警察署まで連れていかれ、事情聴取を経て独身寮にもどった頃には、陽が白々と明けていた。

 ベッドに倒れこむ寸前に、携帯電話にホウムからの着信があった。彼もほとんど同じ時間に寮に帰ってきたようだった。

「死んだのは、『深夜の謎』の劇団員だそうだな」携帯電話から、ホウムの低い声が流れ出てくる。

「河戸来人というらしい。レイチェルさんがそう話していた」

「警察はマンションからの墜落死と見ている様子だった」

「河戸来人もマンションに暮らしていたんだろうか?」

「レイチェルにメールで確認したが、マンションの住人ではないみたいだ」ホウムはレイチェルを呼び捨てにしていた。いつのまに、レイチェルのメールアドレスをゲットしたのだろうか? 「マンションから落ちるためには、マンションに入る必要がある」

「玄関先のセキュリティはかなり厳しそうだったね」

「誰かにエスコートされたのか、それとも……」ホウムは、しばらくの間黙っていた。「そういえば、うちの会社には『深夜の謎』の劇団員がいたな。彼から情報を集めるというのはどうだ?」

「新宮か……」

 新宮礼矢は、ぼくと同期入社の男だった。ルックスは悪くないが鼻もちのならない人間で、前回の事件では狂言回し的な役割を果たした。今回も同様の役回りとなるのだろうか?

「この件は、半田さんとも相談した方がよさそうだ」ホウムがあくび交じりに言う。「あとで電話してみよう。とりあえず、今日はお休みなさいだな」

 

 

(五)

 以下は、翌月曜日の夜、『バールストン』で菫とレイチェルが、新宮礼矢から聞き出した話を基に、会話調で再現したものだ(一部、ぼくの主観的な表現も入ってはいるが)。彼から、より本音に近い話を聞き出すためには、ぼくとホウムがいない方がよいのではないか、との菫の意見を採用し、『バールストン』での聞き込みは菫とレイチェルに任せることにした。

 予想はしていたが、三日の朝に会社で菫が新宮を誘うと、彼は一も二もなく了解した。レイチェルが来ると聞いて、ムーンウォークでも始めるのではないかと思えるほど上機嫌だったらしい。

 便宜上、会話の頭に「菫」、「レ」、「新」とついているのが、それぞれ半田菫、レイチェル森屋、新宮礼矢の発言となる。

 

***

新:いや、美女二人と飲めるなんて、まさに男冥利に尽きるな。二人ともどんどん飲んでよ。今日はぼくがおごるから。

菫:今日はお呼びだてをしてすみません。先日亡くなった河戸来人さんについて、ちょっとお聞きしたいことがあって。ああ、それから、あたしは飲めないんでレモネードでいいです。礼矢さんは、遠慮なさらずに、どうぞ。

レ:菫はわたしの大学時代からの友達なの。河戸くんはわたしと同じ劇団だったけど、よく彼のことは知らなかったから、河戸くんと仲のよかった新宮さんに聞けば何か知ってるかな、と思って、新宮さんと同じ会社の菫にお願いしたわけ。

新:なんだ、レイチェルが直接、おれに言えばよかったのに。

レ:ほら、二人だと何かと気がつかないこともあるでしょ。推理能力の高い菫が一緒の方がいいと思って。

新:そう言えば、この前の空き家の事件でも、半田さんが真相を明らかにしたって噂があるよね。

菫:いえいえ、あたしなんて何も。名探偵は、ホウムさんとワトさんでしょう。

新:ホウムって、白久のことだろ。あいつは単なる被害者じゃないの? 和藤なんて、白久の金魚のフンみないなもので。

レ:まあまあ。ところで、河戸くんって、どんな感じの人だったの?

新:おれも劇団の中での付き合いしかなかったけど、まあ、一言でいえばガキだな。死んだ人間を悪くいうのは、ちょっと気が引けるけど。

菫:子供じみているって、ことですか?

新:あいつ、大学まで器械体操をやっていたらしいんだ。運動神経はバッチリだったけど、精神年齢が低くて、周囲に顰蹙を買ってたな。

レ:確かに河戸くんって、劇団でも肉体的な役柄が多かったわね。『這う男』のプレスベリー教授とか。

新:ボルダリングだとか、パルクールとか、運動能力の究極みたいな競技にも手を出してたみたいだよ。そのくせ思考は単純で、自分が目立つためにはなんでもするんだ。

菫:女の子だったら、ちょっと引いてしまいそうですね。

新:顔はまあまあ悪くないけどね。簡単に言えば、優しいけど薄っぺらいんだ。そんな性格を「純粋」だとか、「少年の心を持った」なんて勘違いする女もいたりして。

レ:彼女とかはいなかったの? 例えば、劇団の中なんかに。

新:同じ劇団員の彼女が以前はいたらしいけど、最近になって「ふられた」なんて言ってたな。具体的に誰かは言わなかったけど。

菫:河戸さんみたいな性格だと、復縁するためだったら何でもやりそうですね。

新:あいつを擁護するわけじゃないけど、暴力的なことはできない男だったよ。道化師的なことはやるかもしれないけど、力ずくで連れ戻すってタイプじゃない。だから、何であいつがあんな場所で死んでいたのか、さっぱりわからないよ。ああ、ごめん、レイチェルの持っているマンションだったね。

レ:いいのよ、気にしないで。

新:レイチェルが綺麗なのは、見た目だけじゃなくて、心もなんだな。おれ、本気で好きになりそうだ。いや、もちろん半田さんも可愛いよ。さあ、ぱあっとやって盛り上がろう。夜は長い。

***

 

 それから五分ほどで、会は強制的にお開きになった。菫が店長の田倉に入れ知恵をして、手で合図をしたら停電や断水を理由に追い出されることになっていたのだ。新宮はちょっとかわいそうだが、もちろん本気で同情するつもりはなかった。

 新宮礼矢と別れたその足で、レイチェル、菫は『レジデンス森屋』のレイチェルの部屋に戻り、ホウムとぼくは、レイチェルの部屋で合流した。それから午後十一時頃まで、ぼくたちが深夜に遭遇した事実、新宮から聞き出した話とあわせて話し合い、お互いに気になったことを発言しながら、事件のポイントとなりそうなことを整理した。

 相談はホウムと菫が中心になって進んだが、最終的には次の五つの疑問が事件を解くポイントをして残された。

 

➀高齢者、具体的には斑野博士が孤独死することにより部屋が事故物件となることを揶揄して、レイチェルを脅迫したのは誰か? また、脅迫者が指定してきた時間に現れなかった理由は?

➁七月の中旬と事件当日の深夜二時頃に斑野が聞いた「ドーン、ドーンとゆっくり太鼓を叩くような音」、「低い口笛」は何か? また、それは事件に関係しているのか?

➂河戸来人が『レジデンス森屋』から墜落死した場合、河戸はどこからマンションに入ったのか?

④河戸は学生時代に器械体操をやっており、彼の運動神経が優れていたことは、今回の事件と何か関係があるのか?

⑤河戸が以前付き合っていたという劇団員の女性は誰か?

 

「河戸くんが何時、どこからマンションに入ったのかは、玄関の防犯カメラ警察が調べているみたい」レイチェルが紅茶を飲みながら付け加えた。「うちのマンションはセキュリティには気をつかっているから、郵便物や宅配品も玄関先のポストや宅配ボックスに入れてもらうことになってる。マンションの住人やお客さんが玄関から入るときには、ロックは解除されるけど、建物にはいったら玄関ドアがすぐに閉まるの。後をつけてきた人が、こっそり入ることは難しいと思うわ」

 しばらくの間、喧々諤々の議論が続いたが、なかなか意見がまとまらない。特に、河戸来人が、どこからマンションに侵入し、どのようにして墜落したのかがわからない。また、太鼓を叩くような音や、低い口笛が何を意味するのか、雲をつかむような話だった。

「ねえ、気分転換にベランダに出てみませんか?」レイチェルが提案した。「斑野さんによれば、太鼓を叩くような音と低い口笛はベランダの外から聞こえたんでしょ? この2LDKの間取りは、斑野さんや恵令奈さんの部屋と同じだから、何か気づくことがあるかもしれない」

 ぼくたちは口々に同意の言葉を述べながら、立ち上がった。レイチェルがベランダのガラス扉を開ける。

 五階という場所もあるのかもしれないが、外気はひんやりしていた。濃密な夜の匂いが、部屋に忍び込んでくるのがわかる。ベランダは、腰の高さくらいまでマンションの外壁と同じ壁があった。それよりも上には、太い金属製の棒が組み合わさったフェンスが胸の高さまである。

「ここを乗り越えて飛び降りるのは、かなり難儀だな」とホウムがつぶやく。

 ぼくは、金属製の棒の上から、マンションの下を見下ろした。レイチェルの部屋は五階の角ということもあり、真下には公園の芝生の端が見えた。マンションのベランダ側から見ると公園はすぐ真下にあたり、マンションを一軒の家と考えれば、公園は目の前の庭といってもいい位置関係にあった。

 ベランダから部屋にもどり、みんなはソファーに身を沈めたが、ぼくだけが立ったままだった。頭に引っ掛かることがあるのだが、それが具体的に何なのかが浮かんでこない。それでも、もやもやしたままでは気持ちが悪いので、思い切って声をあげた

「ちょっと、いいですか」

「おお、ワトさんが何か言いたいことがあるようだ」ホウムがぼくを指さした。「ワトさんの勘は、意外と事件の本質をついていることもあるからね」

 褒められたのか、けなされたのかわからないまま、ぼくは二つ、付け加えた。

 

⑥周藤恵令奈とは何者か?

⑦事件当日に、マンションの駐車場にあったブルーシートは、何にかけられていたのか?

 

「恵令奈が何者か、というのはどういう意味ですか?」レイチェルは顔をしかめた。「同じ劇団員の仲間で、得体に知れない人間ではありません」

「土曜日に恵令奈さんと初めて会ったとき」ぼくは、どぎまぎしながら言った。顔は真っ赤になっているだろう。「別れ際に、何かが引っ掛かったんです。それが何かはわからないんですが」

「そういえば、レストも思いのほか、おとなしかったのは、わたしも少し気になりました」レイチェルが、手を顎の下に置く。「一回だけ吠えたきりで、それからは静かにしていたなんて、レストにしては珍しいし」

「レストは、斑野さんや恵令奈さんと以前にどこかで会ったことがあるんじゃないかな?」

 ホウムのコメントに、レイチェルはわずかに首を傾げた。

「さあ、どうかしら。白銀さんに聞けば、わかると思うけど」

「白銀さん……」菫がつぶやいた。何かに気づいた様子で、大きく目を見開く。「そうか、白銀さんか。何か、全部つながった気がする。ワトさんが気になっているというブルーシートのことも」

「なるほど、ぼくもわかったよ。ワトさんの違和感の原因が」ホウムもしたり顔で続いた。「白銀さんね」

 レイチェルとぼくは顔を見合わせた。レイチェルが高い声を出した。

「どういうこと?」

 菫はすっと右手を伸ばし、レイチェルの肩に手を置いた。

「レイチェル、明日の午後七時、土曜日に公園で会ったメンバーを同じ場所に集めて。多分それで、すべてが明らかになる」

 

 

(六)

 八月四日の午後七時。『レジデンス森屋』の前の公園には、斑野博士、周藤恵令奈、レイチェル森屋、白銀豪、半田菫、そしてホウムとぼくの七人が集まっていた。

 火曜日のこんな時間に七人全員を集めるのは難しいと思っていたが、レイチェルと菫が忙しく立ち働いたかいもあり、何とか実現した。菫、ホウム、ぼくは同じ職場だったので、三人そろって定時退社するのは少し勇気が必要だったが、ちょっとずつ時間をずらしながら、早々に会社を出ることができた。

 初夏の夕暮れは本当に美しい。地平線近くのコバルトブルーから天上のサファイヤブルーへ絶妙なグラジエントが広がり、地平線に消えていく太陽は最後の赤光を周囲に投げている。

 公園には、ぼくたち三人のほか、レイチェル、恵令奈、斑野、白銀の四人がベンチを取り囲むように立っていた。黒柴のレストも、白銀の足元で不安そうに空を見上げている。公園灯がすぐ近くで点灯しているので、ぼくは目の前の六人の表情をしっかりと観察することができた。

 公園には、ぼくたち以外は誰の姿もなかった。ホウムは自分の独壇場とばかりに、胸を張って、集まったメンバーを順番に見回した。

「さて」ホウムが口火を切った。「半田さんの謎解きの前に、ぼくからいくつかの指摘をさせていただきます」

 誰も口をはさもうとしない。ホウムは満足そうにうなずいて、話を続けた。

「白銀豪さん、墜落事件の当夜に駐車場でお会いしたとき、深夜に奇妙な音を聞いた、とおっしゃいましたが、その話はどなたからお聞きになりましたか?」

 白銀の頬が、わずかに痙攣するのがわかった。

「それは」白銀がかすれた声で答えた。「土曜日に皆さんとお会いしたときに、斑野先生から……」

「それは、おかしい」ホウムが断言した。「斑野先生がその話をされたのは、白銀さんと別れてからのはず」

 何か言いかけた白銀が黙り込んだ。レストが、ウウと低いうなり声をあげる。

「それに、レストのこともあります。初対面であれば誰にでも吠えかかるレストが、あの日に斑野さんと恵令奈さんと会ったときには、一度吠えただけで黙ってしまった」ホウムはかがみこんで、レストの顎の下をなでる。「斑野さんには吠えかかったものの、隣に恵令奈さんがいることで吠えるのをやめた。つまり、レストと恵令奈さんは以前から面識があったのでないか、そう推理できるわけです」

「恵令奈さんは、レストの飼い主であった白銀さんと、ぼくたちが知らないようなつながりがあると言いたいのかい?」

 ぼくは、思わず口をはさんだ。ホウムがぼくをちらりと一瞥した。

「ワトさんが違和感を感じたというのは、土曜日に斑野さん、恵令奈さんとお会いした直後のことだろう。ワトさんは、恵令奈さんの顔が白銀さんによく似ていることを、無意識に感じていたのさ」ホウムが言った。「つまり、白銀さんが恵令奈さんの実の父親ということにね」

 レイチェルが息を飲むのがわかった。同じ劇団の仲間である恵令奈が、子供の頃から知っている白銀の実の父親だという連想は、考えもしていなかったのだろう。ホウムが話を続ける。

「ゆっくり太鼓を叩くような音、低い口笛の話は、恵令奈さんから聞いたんですよね?」

「いいえ、わたしは……」

「恵令奈さんは以前、河戸来人と交際されていたんですよね。口の軽いある男から、情報を得ています。河戸来人は、交際していた恵令奈さんの心が自分から離れていくことにあせりを感じていました」ホウムは白銀をまっすぐ見据えた。「河戸は度々恵令奈さんと姉の樹利亜さんの部屋への侵入を試み、危害を与える恐れがありました。現に、姉の樹利亜さんは河戸のせいで、心臓発作を起こしていた。そんな河戸を排除するため、白銀さん、父親であるあなたが河戸を殺すしかなかった」

「違います!」

 悲鳴に近い声が響いた。恵令奈が真っ赤に充血した目で、ホウムをにらみつけていた。菫が一歩前に出て、恵令奈に向けて静かに声をかけた。

「白銀さんが、恵令奈さんの実のお父様であることは、認められるんですよね?」

 恵令奈が、かすかにうなずく。きっと顔をあげ、再びホウムに鋭い視線を向ける。

「しかし、来人を殺したのは父ではありません。わたしですから」

 その場の誰もが黙り込んだ。レストまでが沈鬱な雰囲気を感じ取ったのか、地面にへたりこんで、上目遣いに白銀の様子をうかがっている。

「ちょっと整理しましょう」菫が口を開いた。「脅迫状をレイチェルに送ったのは、河戸来人さんだったんですね」

「レイチェルさんから話を聞いて、来人の仕業だとすぐにわかりました」恵令奈が答えた。

「でも、どうしてそんなことを……」レイチェルが言う。

「来人は、わたしが彼を避けるようになったのは、家族が原因だと勘違いしていたんです」恵令奈は口をゆがめた。「義父に気兼ねをして、わたしが来人を遠ざけていると」

「脅迫状を使って、斑野さんをマンションから追い出せば、自分のもとにもどってくると思ったわけか」ホウムがため息交じりにつぶやく。「なんて安直な」

「お話いただけますよね、恵令奈さん。あなたと来人さんの間に何があったのか」

 菫の言葉に恵令奈はうつむいた。しばらく唇をかみしめていたが、おもむろに口を開いた。

「母が亡くなった三年前、すっかりと気持ちが沈んでいるとき、来人が『深夜の謎』に入団してきました。運動ができて恰好がよく、優しい性格の来人に惹かれ、二年ほど前から付き合い始めました。

 でも、しばらくすると、来人の粗が目立ってきました。優しいけれども考えが浅く、よく考えないままに無神経な行動をとる、そんな来人が徐々に嫌になってきました。

 細かいことに頓着しない来人も、さすがにわたしの心変わりに気づいたようで、何かと気を引こうと、ますます馬鹿らしい行動に出るようになりました。自分が避けられているのは、家族のせいだと勝手に思い込み、レイチェルさんに義父を中傷するような脅迫状を書いて、わたしを姉や義父から引き離そうとしました」

 ぼくは、オレンジ色の公園灯の下、集まっている面々をそっと盗み見た。思いつめた表情の恵令奈、こわばった顔のレイチェル、うつむいたままの斑野、腕を組んで考え込んでいるホウム、静かにたたずんでいる菫、呆然と立ち尽くす白銀、そして耳を垂れて悄然とへたりこむレスト。

 公園灯のオレンジ色のスポットライトの下での小演劇の舞台を思わせる光景に、ぼくは無節操ながらも少し感動していた。自分が描くミステリにも、こんな情景が目に浮かぶシーンを取り入れてみたい。

 主役の一人である恵令奈が、再び話し始めた。

「来人は、脅迫状だけでは不十分と見たのか、わたしと姉の部屋に侵入することを試みました。ただ、マンションのセキュリティが厳しく、部屋に入ることができなかったため、とんでもないことを考えつきました」

「トランポリンですね」

 菫が言うと、その場がかすかにどよめいた。思いがけない指摘に、ぼくも呆気にとられていた。

「その通りです」恵令奈はうなずいた。「来人は学生時代に器械体操をしていて、トランポリンも得意でした。トランポリンは、上手な人であれば七、八メートルの高さまで跳べるらしく、マンションのわたしたちの部屋の下にトランポリンを置き、ジャンプして三階まで跳びあがることを考えついたそうです。

 五月の中旬の深夜二時頃に、ドーン、ドーンと太鼓を叩くような音がしたのは、来人がトランポリンで三階の部屋まで跳びあがろうとしていた音でした。低い口笛は、三階のフェンスにしがみついた来人が、わたしを呼ぶために吹いたそうです」

「お姉さんは、さぞかし驚かれたでしょうね」

 ぼくの一言に、恵令奈が深くうなずいた。

「突然、窓の外から口笛が聞こえ、姉の樹利亜は驚愕したと思います。カーテンを開けると、ベランダのフェンスの向こうに見知らぬ男がいるのを見て、姉は心臓発作を起こしました。わたしが廊下で姉を介抱しているとき、ベランダのフェンスを乗り越えてきた来人が、鍵をかけていなかった姉の部屋のベランダから部屋に侵入し、わたしの前に現れました」

「ひどい……」レイチェルの怒りを含んだ声が聞こえた。

「来人さんの行動については、来人さん自身からお聞きになったんですか?」

 菫が言うと、恵令奈はこっくりと首を縦に振った。

「その日は、さすがに姉が倒れこんでいるのを見て、自分のしたことの重大性に気づいた様子で、あわてて玄関ドアから出ていきました。脅迫状やトランポリンのことなどは、後から携帯メールで連絡がきました。メールでは、お姉さんを驚かせたことは申し訳なかったがわたしを取り戻すためには仕方がなかった、などと自分の行為を正当化していました。

 わたしは話を大事にしたくなかったので、入院中の姉には来人がしたことを説明して、黙っておいてもらうことにしました。

 でも、まさか来人が、また同じやり方でわたしの部屋に入り込もうとするなんて思いもしませんでした。もっと早く、みなさんにご相談しておくべきでした」

「河戸氏は、トランポリンであなたの部屋に飛び移ろうとして失敗した」ホウムが組んでいた腕をほどいた。「それで墜落したんではないですか?」

「わかりません。夜中、トランポリンで跳ねる音がして、わたしはあわててベランダに出てみました。そのとき、三階まで跳びあがっていた来人がフェンスをつかもうとしました。来人がまたベランダに上がってくるのは、何とでも阻止したかったので、来人が手でフェンスをつかめないように払いのけたかもしれません」

「違うっ」白銀豪が声を絞り出した。「恵令奈から、トランポリンの話を聞いていたので、夜中にあいつが再び恵令奈のところに来ることを心配して、わたしは毎晩のように公園を巡回していました。あの夜、トランポリンを使う音がして恵令奈たちの部屋を見上げると、男がフェンスにつかまって恵令奈ともみあっていました。そこで、わたしは、下に置いてあったトランポリンの場所を横にずらしたんです。あいつはトランポリンがあるものと思ってフェンスの手を放し、そして墜落した。つまり、あいつが死んだ責任は、わたしにあるんです」

 何かを言い返そうとする恵令奈を手で制し、ホウムが白銀に声をかけた。

「トランポリンを処分したのは、白銀さんですね?」

「トランポリンは車ほどの大きさがありましたが、重さはそれほどではありません」白銀はしっかりとした口調で答えた。「あいつが地面に落ちたあと、トランポリンは駐車場まで移動させて、後で処分するためブルーシートを被せました。そこに、あなた方が現れました」

「ぼくは思うのですが」ホウムが言った。「これは事故ではないでしょうか? 河戸氏は三階のフェンスに飛び移ろうとして失敗した。落ちた場所が運悪くトランポリンからはずれていた」

「わたしも同感です」菫が続く。「恵令奈さんが来人さんの手を払いのけたかどうかは、はっきりとしません。白銀さんがトランポリンの場所をずらしたのも、来人さんを墜落死させようと思ったわけではなく、トランポリンという不審物を取り除くためだった」

 今までずっと黙っていた斑野が、唐突に口を開いた。

「ただ、このまま事件を放置しておくことはできない。恵令奈と白銀さんは、明日にでも警察に出頭して事情を説明した方がいい。わたしも同席すべきだが、恵令奈の身内であるわたしが弁明しても警察はまともに取り合ってくれないだろう。レイチェルさん、大変申し訳ないのですが、二人に付き添っていただけないだろうか?」

「わかりました」レイチェルが答えた。「ご一緒させていただきます」

「あたしも同行するわ」菫が小さく手を挙げた。「会社は休むので、ホウムさんとワトさんはフォローをよろしくお願いします」

 突如、恵令奈の目からパラパラと涙がこぼれ落ちた。恋人だった男の死への悲しみなのか、一人の男を死に追いやった後悔なのか、あるいは告白としたことで肩の荷が下りたことによる安心感のかはわからなかったが、嗚咽する恵令奈の声が公園内で静かに響いた。

「やれやれ、『アビィ農園』的な結末になるかと思ったが、現実はそうはいかないか」ホウムは肩をすくめた。「斑野先生の鋭いご指摘はホームズ顔負けですが、もしかしてシャーロキアンではないですか?」

「好きな作品は『六つのナポレオン像』、『三人のガリデブ』、『ソア橋』あたりですね」斑野は杖でトンと地面を突くと、よどみなく答えた。「トリッキーな話が好みなもので」

 驚くべきことに、斑野もホームズファンだったのだ。いったい世の中には何人のシャーロキアンが隠れているのだろうか?

 しかし、ぼくが好きな作品ナンバーワンは何といっても『ぶな屋敷』だ。今回の事件ではホウムもそこそこ活躍したが、名探偵である半田(ハンター)菫(バイオレット)の推理力がいかんなく発揮されたのだから。

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