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「す・み・か」 全話

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

(あらすじ)
ミステリ作家である私は、結婚したばかりの妻が『「家」にかかわる四つの恐ろしい物語』という短い小説を書き連ねていることを知る。小説は「高い家」、「亡者の家」、「人形の家」、「海辺の家」という四つのショートショート作品から構成され、それぞれ、「新婚夫婦を悩ませる霊の正体」、「夫殺しの罪を犯した妻と愛人の運命」、「少女と毒殺魔」、「好意を寄せていた女の家の亡霊」をテーマとしていた。四つの作品を読み終えたとき、ミステリ作家は四つの物語の裏に隠された衝撃のつながりに気づく。(234字)


(本編)

 十月に入り、街にはおだやかな秋風が吹き始めた。
 私は書斎の窓を開け、少し冷たさを含んだ空気を吸い込んだ。土曜日の午後四時。出版社から依頼されていた原稿も、先ほど担当者にメールで送付した。締め切り前日に脱稿するのは久しぶりで、ことのほか気分がいい。
 ミステリ作家として何とか食べられるようになって一年。名のある新人賞とは縁がなかった自分が、ここまでたどり着けるとは夢にも思わなかった。ただただ夢中に作品を書き続けてきたが、五十路を直前にして、やっと自分の人生を見つめ直すことができるようになった。
 私をそんな境遇に引き上げてくれたのは、半年前に結婚した妻であることは間違いなかった。
 私は初婚だったが、私よりも十歳下の妻は再婚で、今年中学生にあがった義理の娘を連れて、私のもとに嫁いでくれた。
 妻は四十路前とは思えぬほど若々しく、陶製の人形のように美しかった。突然できた娘も母親の美貌を受け継ぎ、誰もが振り返りたくなる可憐な少女だった。
 妻との出会いも劇的なものがあった。
 彼女は私が常連にしている洋食レストランで、ウエイトレスとして働いていた。私は週に二回三回と通う内に、彼女と親しく言葉を交わすようになった。十か月ほど前の寒い夜、私は別の店で飲んだ帰り、洋食店から百メートルほど離れた道路でうずくまる彼女を見つけた。洋食店から自宅に帰る際、急に腹痛に襲われたのだという。彼女を抱えるようにして私の自宅に連れ帰り、必死に介抱したことから、私と彼女の距離が急激に近づくことになった。
 度々、食事を一緒にとるようになり、春が近づく頃には彼女の娘も紹介された。そして半年ほど前、私は彼女と結婚し、彼女の娘も一緒に私の家に住むことになったのだ。
 私は窓を閉め、デスク上のパソコンの横においたマグカップを手に取った。半分ほど残っているコーヒーはすっかり冷めてしまっている。私は残りのコーヒーを飲み干し、マグカップを洗うために台所に向かった。
 台所に面した妻の部屋のドアが、細く開いていることに気づいた。妻と娘は、駅前の映画館で放映している恋愛ミステリの邦画を見に行っている。映画の原作となるミステリの出来には首を傾げざるを得ないが、娘が主演の男性アイドルのファンだというから仕方がない。私はドアを閉めようと、妻の部屋に近づいた。
 妻の部屋の奥にある、小さなデスクの上の卓上ライトが点けっぱなしだった。LEDとはいえ、不在の部屋の電灯が点いているのは電気代の無駄になる。私はライトを消すためにデスクに近づき、パソコンの置かれたデスク上にかがみこんだ。
 妻のパソコンの上に、何やら印刷された、A4用紙の束が見つかった。一瞬躊躇はしたが、気づくと私はその用紙を手に取っていた。束と言っても十枚程度で、一番上の紙は表紙らしく、次の言葉が書かれていた。
  『「家」にかかわる四つの恐ろしい物語』
 恐ろしい物語? ホラー小説であろうか。妻が小説を書くなどという話は聞いたことがなかった。私の中で興味がむくむくと湧き上がってきた。私と妻との付き合いはせいぜい一年程度で、正直、彼女については知らないことの方が多い。あの美しい女性がどのような物語をつむぐのか、考えただけでも興奮が沸き起こってくる。
 わたしはページを一枚、めくった。次ページは目次らしく、「(一)高い家」、「(二)亡者の家」、「(三)人形の家」、「(四)海辺の家」と、四行のサブタイトルが並んでいた。
 こっそり読んでも、大丈夫だろうか? 妻の秘密を垣間見るような行為に引け目を感じたものの、私の中の圧倒的な好奇心がそんな思いを隅に追いやってしまった。
 私は背徳感にしびれながら、さらに表紙をめくった。
 
 
<(一)高い家>
 僕がコウタと初めて出会ったのは、今から二十年近く前、僕が小学校に入学したときだ。同じクラスに、黒々とした太い眉毛が特徴的な少年がいた。 正義感が強く、いじめられている子供を見ると、相手が上級生であっても、かまわずに歯向かっていった。竹のように真っすぐな男の子、それがコウタだった。
 その頃の僕は、背が小さく線の細い少年で、髪の毛を伸ばしていると女の子に間違えられることもあった。入学してすぐにコウタの隣の席になったこともあり、いじめっ子の攻撃を避けるため、僕はいつも彼の背中に隠れるようにして息をひそめていた。彼もそんな僕を哀れに思ったのか、何かと気を掛けてくれ、やがて、お互いの家を行き来するほど仲良くなった。
 僕たちの友情は、中学校に上がってからも変わらなかった。コウタは野球部で土にまみれながら白球を追い、僕は文芸部で毎日のように市立図書館に通い詰めていた。三年間同じクラスにならなかったこともあり、それぞれの生活はまるで交わらなかったが、週末になると、どちらかの自宅や公園などを訪れ、悩みや夢を語り合う習慣は続いていた。
 しかし、以前と変わったこともあった。
 中学校の二年生のとき、僕のクラスに女子生徒が転校してきた。ミズキという名前の、ショートカットの、おとなしそうな少女だったが、視線を落とした瞳の中に、澄み切った湖面を思わせる輝きが見て取れた。
 そんな彼女が野球部のマネージャーになったと聞いたときは、僕は少なからずショックを受けた。しかし、週末に会うコウタの口から彼女の話が出ることもなく、僕がミズキと口をきく機会もそう多くなかったので、私の片思いは中学校を卒業すると同時に、はかなく消え去ったかに見えた。
 しかし、運命の歯車は、気づかないうちに回り続けていた。
 三人は別々の高校に進学した。さすがにこの頃になると、コウタとの連絡も途絶えがちになり、やがて、月に一、二回、携帯電話メールでお互いの近況を報告しあう程度となった。
 次にコウタと対面したのは、僕が大学に入った年の秋だった。彼が入学した別の大学が僕の家に近かったこともあり、久しぶりに会うことになった。待ち合わせのカフェに現れた彼は、以前と変わらず、まっすぐな視線を僕に向けてきた。驚いたことに、彼の後ろにはミズキが立っていた。
「すまないな、話しておかなくて」コウタは、申し訳なさそうに頭をかいた。「彼女が黙っておいてくれって言うから」
 コウタは、大学に入学してすぐにミズキと再会したらしい。彼女は製菓の専門学校に通っており、六月頃から交際し始めたということだった。
 四年ぶりに会うミズキは、ほっそりと女性らしい身体にはなっていたが、木洩れ日のような光をたたえた瞳は変わらなかった。深い藍色のワンピースに包まれた姿は、まばゆいばかりに輝いて見えた。彼女は、ゆったりとした笑顔で「久しぶりね」と私に言った。
 以来、三人で遊びにでかけることが多くなった。
 ある春の日、僕たち三人はレンタカーを借りて、海に出かけた。
コウタが、岩場から海に向かって石を投げているとき、気づくと僕の隣にミズキが立っていた。
「ねえ、恋人は作らないの?」彼女は、はにかんだ表情で言った。「恋人がいても、全然おかしくないのに」
 大学を卒業し会社に入ってからは、再びコウタとの繋がりも薄れかけてきた。しかし、社会人になって一年近くたった三月の夜、彼から電話がかかってきた。
「秋になったら、結婚しようと思うんだ」コウタは、低い声で言った。
僕が、相手はミズキかと聞くと、コウタは「そうだよ。あたりまえじゃないか」と答えた。私は、彼に祝いの言葉を述べ、「結婚式をやるなら、必ず呼んでくれ」と伝えて電話を切った。
 空気の塊を呑み込んだような気分だった。周囲が暗くなり、闇に身体全体を押しつぶされる感覚に襲われた。自分が、どれだけミズキのことを愛していたのか、そのときに初めて実感した。
 それからの一か月は、何もかも投げやりになってしまった。たまに正気にもどると、まるでゾンビだな、と自分を嘲笑したくなる体たらくだった。
葉桜が目立つようになった頃のことだ。それが金曜日だったことは、はっきり覚えている。夜九時過ぎに突然、ミズキから電話がかかってきた。
「助けて」彼女は取り乱した声で言った。「今、あなたの家の近くにいるの。コウタが刺されたのよ」
 ミズキたちがいる場所は、僕の家から自転車で五分ほどの場所だった。霧雨が降り始めていたが、構わずに自転車に飛び乗る。暗い夜道を街灯の淡い明かりを頼りに疾走した。
 救急車とパトカーの赤い回転灯が見えてきた。アスファルトに横たわる人影を抱きかかえ、地面に座り込んでいるミズキがいた。ミズキの身体は、驟雨で白く霞んで見えた。救急隊員が駆け寄ってきて、ミズキが抱きかかえていた人間を、あわただしく担架に乗せた。
「コウタ!」
 僕は自転車から飛び降りて、大声で叫んだ。
 担架に乗せられた男がゆっくりと顔を向ける。コウタだった。彼は目を閉じたまま、不思議な微笑みを浮かべていた。僕に挨拶でもするかのように、黒く汚れた右手を軽く挙げた。しかし、右手はストンと担架からこぼれ落ち、そのまま動かなくなった。
  救急車に運ばれていくコウタを目で追いながら、僕はミズキを抱き起した。僕の顔に押しつけられたミズキの冷え切った髪は、むせかえる程の雨の匂いを含んでいた。彼女は虚ろな目を私に向けて囁いた。
「あなたの家に向かう途中だったの。急に行って驚かせてやろうって。そしたら、ナイフを手にした男が突然、後ろから襲いかかってきたの。コウタはあたしを守ろうとして……」
 結局、コウタは助からなかった。
 コウタを刺したのは、半年ほど前からミズキにつきまとっていた名前も知らない男だった。毎日のようにミズキが勤めるケーキ店の前で待ち伏せをしていて、彼女が帰宅する際には影のように後をつけていたらしい。このストーカー男は行方をくらましていたが、翌朝には捕まった。
僕はミズキの付き添いで、殺人の罪で検挙された男の裁判を傍聴した。男の顔は週刊誌の写真でも見ていたが、ナイフで切り裂いたような細い目をしていること以外は、いたって普通の男に見えた。結局、男は無期懲役の判決を受け、控訴しないまま刑期が確定した。
 コウタの死を契機に、僕とミズキは急速に接近した。二年間の交際を経て、僕とミズキは結婚した。ミズキがパティシエとして働きはじめたホテルの近くの賃貸マンションを借りて、二人で暮らし始めた。ちょうど、桜の季節が終わる、コウタが命を落とした時節のことだった。
 僕もミズキも、もちろんコウタのことを忘れたわけではない。ただ、真っすぐなコウタの性格を考えると、ミズキの幸せのため、僕たちの結婚を天国で祝福してくれるものと信じて疑わなかった。
しかし、マンションに引っ越してきて一週間ほどたった金曜日、僕たちの家で突然、奇怪なことが起き始めた。
 その日の真夜中、僕はふいに目が覚めた。隣のベッドに寝ているはずのミズキの姿がなく、居間へ続くドアが細く開いていた。ドアを押すと、薄暗い居間の中央でブルーのパジャマを着たミズキがぼんやりと立ち尽くしている。彼女は、青いカーテンのかかった出窓をじっと見つめていた。わずかに開いたカーテンが、ゆらゆらと揺れているのがわかる。
「あれ、寝る前に窓を閉め忘れたかな? 昨日の晩は、少し家で飲み過ぎたからなあ」
 僕の言葉に、ミズキはゆっくりと首を横に振った。
「……何かがいる」
「まさか。ここは五階だぜ」僕は、カーテンをさっと開いた。
 窓の外に、青白く光る男が浮かんでいた。
 こちらに背を向けており、うつむいているせいで顔は見えない。ただ、短い髪や服装、丸めた背中の肉付きから、男であることがわかった。身体は半透明で、向かいの建物が透けて見えた。
 ミズキはぎゃっと叫んで、僕の胸に飛び込んできた。抱き締めたミズキの身体が、細かく震えているのがわかった。僕は、浮かんだ男の顔がこちらを向く前に、あわててカーテンを閉めた。
「コウタだ」ミズキはかすれた声でつぶやいた。「やっぱり、コウタは自分を裏切ったあたしのことを恨んでいるんだ」
「違う。コウタはそんなヤツじゃなかった」僕は、両手でミズキの肩をつかんで揺さぶった。「死んだことは無念だったかもしれないが、それはミズキのせいじゃない」
「でも、コウタは恐ろしい死に方をしたから、悪い霊になって出てきたのかもしれない」
 翌朝、出窓を調べると、窓はきちんと閉まっていた。カーテンを揺らしたのは、風ではない何かということになるが、僕はミズキには黙っていた。
しかし、それだけでは終わらなかった。次の金曜日も、その次の金曜日も、僕は真夜中に目が覚めてしまった。その度、ミズキは寝室から消えており、隣の居間でじっと青いカーテンを見つめていた。寝る前にしっかり閉めたはずのカーテンは、毎回ほんの少しだけ開いており、かすかに揺れるその隙間から、外に浮かぶ男の青白い身体がちらちらと見えた。
 金曜日は、コウタが死んだ日だ。ミズキに対しては否定したが、確かに、僕たちが結ばれたことを死んだコウタが許容してくれているとは限らない。無念さが残り、亡霊となって彷徨っているのではないか、という気持ちは僕の中にもくすぶっていた。
 怪異が始まってから、四回目の金曜日。真夜中に目を覚ますと、ベッドの脇でミズキが虚ろな表情のまま立っていた。
「……また、カーテンが」
 僕は大きくため息をつき、居間に向かった。例によって、カーテンの裾がわずかに揺れていた。もう、このままにはしておけない。僕は決意した。
 僕はカーテンを開け放ち、窓の外に向けて精一杯の声で叫んだ。
「コウタ。頼むから、いい加減に成仏してくれっ」
 窓の外では、青白く光る身体が背中を向けたまま浮遊していた。その身体が、ゆっくりと回転して、僕たちの方を向いた。
 コウタの顔ではなかった。ナイフで切り裂いたような細い目が、私とミズキを交互に睨んでいた。
 ゴーストは死んだ人間の霊とは限らない。生きている人間の情念が霊となって現れる生霊も、ゴーストだ。生霊は、亡霊より格段に執念深いという話も聞いたことがある。
 今、僕たちは、ストーカー男の生霊から逃れるための、新しい家を探している。厄災は、まだ続いているのだ。
 
 
<(二)亡者の家>
【八月十六日 火曜日】
「お兄ちゃん、用事ってなによ。せっかくの夏休みに呼び出したりして」
「お前、女子大への推薦入学が決まったんだろ。別にボーイフレンドがいるわけじゃなし、ちょっとくらい付き合ってくれてもいいだろ」
「その言葉、お兄ちゃんにそのままお返しするわ。下宿にこもってばかりいて、大学にはちゃんと行っているのかしら。ママが心配していたわよ」
「大丈夫。ちゃんと単位は取れているから、留年せずに三年生には上がれそうだよ。それよりお前、来週の金曜日、少し時間をもらえないかな」
「お腹がペコペコなんだけど、ランチを頼んでもいい? ここのカフェのスパイスカレーって、ネットでも高評価なんだよね」
「いいよ、何を頼んでも。で、時間は大丈夫だろ? 来週の金曜日」
「ママから聞いたよ。まだ、映画製作の真似事をして、ネットで公開しているんだってね。あたしに用事って、もしかしてその関係?」
「よく、わかっているじゃないか。主演女優を予定していた女の子に、逃げられてしまって、お前に代役を頼みたいんだ」
「お兄ちゃんが作る映画って、ホラーでしょ。そりゃ、女の子にも逃げられるわ」
「映画って言っても、五分程度のショートムービーだよ。撮影なんか、三十分もあれば、終わるさ。もう、脚本もできてるし」
「へえ、なんている題名?」
「題名は、すごいぞ。『ハウス・オブ・ザ・リビングデッド』っていうんだ」
「題名を聞く限りは、ゾンビ映画だよね」
「ゾンビが出てくるのは、最後の場面だけだよ。道に迷った美しい女子大生が、立ち寄った廃屋でゾンビに襲われる話だ」
「美しい女子大生って、あたしのことね」
「もちろん、そうさ。妹の美貌は、俺の同級生の間でも噂になっていたからね。完成したショートムービーをネット公開すれば、きっと、すごく評判になるぞ」
「うまいこと言っても、いいなりにはならないから。で、廃屋って、撮影はどこでやるつもり?」
「ほら、つぶれた病院の裏に、誰も住んでいない古そうな木造の一軒家があるだろ。来週金曜日の夜に、あそこの家の前で撮影する予定だ」
「あの雑木林の中の気味の悪い家のこと? ウソでしょ? あそこって、二年前に殺人事件があった場所じゃないの」
「殺人事件があったなんて、単なる都市伝説だよ」
「でも、近くに住むお爺さんが、血まみれの死体を何体も、その家の中で見たって。これ、お兄ちゃんから聞いた話よ」
「警官が駆けつけたとき、その家は留守だったけど、中に踏み込んでも、死体なんて影も形もなかった。お爺さんは八十歳近くで、それも居酒屋で一杯やった帰りで、へべれげに酔っぱらっていた。警察も酔っぱらいの戯言ということでカタがついている」
「でも、家に住んでいた家族は行方不明になった。これも、お兄ちゃんが言ってた話じゃないの」
「お前を怖がらせるため、少しオーバーに話しただけだよ。当然、警察も調査しているだろうし、それに、聞いた話では、死体が目撃された翌日の夜、その家に住む夫婦と子供二人が、家から出かける姿が目撃されている。死体が出かけたりはしないだろう」
「でも、結局は帰ってこなかった」
「引っ越したんだよ、きっと。お爺さんにヘンな噂を流されて、そこに居づらくなったのかもしれない」
「お兄ちゃん、さっき死体は出かけないっていったけど、出かけるも知れないわよ。リビングデッドだったら」
「バカバカしい」
「ゾンビに噛まれて絶命した家族の死体を、お爺さんは見た。お爺さんが警察を呼びに行っている間に、死体はゾンビになって復活して、姿を隠した。ゾンビは翌日に出かけて、姿を消した」
「ゾンビが出かけているなら、あの家には誰もいないはずだろう? 撮影なんてすぐに終わるから、頼むよ。出演料は、はずむからさ」
 
【八月二十日 土曜日】
「この部屋って、隣に声が漏れたりはしないわよね?」
「古い下宿だけど、心配はないよ。東隣の部屋に住んでいる単身赴任のサラリーマンは、今日は実家に帰っているはずだし、西隣の部屋は空き部屋だ。それより、もうすぐ夕方の五時過ぎだけど、娘さんは大丈夫?」
「小学校のお友達のところに遊びに行ってるから、六時過ぎまで帰ってこない。あの男は今日も接待で、ご帰宅は多分、夜中の一時過ぎよ」
「それなら、まだ三十分くらいは、段取りの打ち合わせができるね」
「それで、妹さんと話はついたの?」
「ああ、大丈夫だ。出演料は高くついたけど、来週金曜日は付き合ってくれることになった」
「それで……あなたの決心はついたの?」
「もちろんだ。とうに覚悟はできている」
「本当に、あの男を殺してくれるのね?」
「もちろんだよ、ミズキ。きみやきみの娘に暴力をふるうような男は、死んで当然だよ。それが、きみの夫であってもね」
「でも、あいつが死んだら、私が疑われることは目に見えているわ。ちょっとした額の保険金もかけてるし」
「だから、疑われても平気なように、こうやって計画を詰めているんじゃないか」
「そうだったわね。わたしには、あなただけが頼りなの。もし、計画がうまくいったら、そのときは、約束通りあなたと一緒になるから。こんな、年上の女でよければ」
「自分の打算のために、あの男を殺すわけじゃない。目的は、きみたちを苦しめているものを排除する、それだけだ」
「でも、あなたが疑われることがないようにしなきゃ。あなたがうちの娘の家庭教師だということ以外、あなたと私をつなぐものはないけど」
「そのためにも、きみとぼくに、きちんとしたアリバイを作っておくことが必要になる」
「それで、あなたが言ってた、廃屋での映画撮影の話を利用するのね。あなたの妹さんは、ちゃんと証人になってもらえそう?」
「リビングデッドの話を吹き込んでおいたから、かなりビクビクしている。きっとうまくいくさ」
「ところで、その、廃屋の死体が消えたっていう話、本当のことなの?」
「噂好きの同級生から聞いた話だから、どこまでがフィクションなのかは、わからない。でも、八十過ぎの老人が、隣の家に死体があるって騒いだのは本当らしい。ただ、警察が踏み込んだときには誰もいなくて、翌日には家族四人で出かける姿が目撃されている。これも、同級生からは事実だと聞かされている」
「ごめんなさい、つまらないことを聞いたりして。それで、来週の金曜日、私は何をすればいいの?」
「それじゃあ、順番に話すよ。夕方の六時を過ぎたら、きみは死体替わりの人形を、玄関を入った場所に置いておく。玄関に鍵はかかっていない。人形は、ぼくが事前に用意して、家の裏の納屋の中に、ブルーシートで包んで置いておく」
「わたし、暗くなってから、いわくつきの廃屋に行くのが、少し怖いわ。もっと早いうちから、玄関先に人形を置いていくわけには、いかないの?」
「先に置いておくのは、危険なんだ。玄関の鍵はかかっていないから、先に人形を置いておくと、誰かがあの家に入って、人形を見てしまう恐れがある。それに、金曜日の夕方五時頃、妹と撮影現場に、下見に行くことにしている。そのとき、玄関先に死体……正確に言えば、死体を模した人形がないことを、妹に確認させておくつもりだ」
「わかったわ。ごめんね、こんなときに無理を言ったりして。それから、夫を現場近くに呼び出すんだったわよね」
「その日の午後八時半に、あの家のそばにある廃病院の駐車場に呼び出してくれないか」
「一緒に肝試しをしたいって誘ってみるわ。きっと、来ると思う」
「きみは、人形をあの家に置いてから、六時以降のアリバイをしっかり作っておくんだ」
「あなたは、どうするの?」
「撮影だと言って、妹と一緒に午後八時にあの家に行く。それまでのアリバイはしっかり作っておく。現場で妹に人形を発見させる。妹は死体だと思うだろうから、一緒にそこから逃げ出す」
「妹さんは、そのまま警察に駆け込んだりしないかしら?」
「いったん、引き揚げてから、ぼくひとりで様子を見に行くことを妹に提案する。見間違いの可能性もあるって言ってね」
「なるほど。その時点で夫は死んでいたものと、妹さんに思わせるわけね」
「そうさ。ぼくは、そのまま廃病院の駐車場に行って、あの男を絞め殺す。死体を廃屋まで運んで人形の替わりに玄関に置く。人形は分解しリュックに詰めて、その場から持ち去る。そして、下宿にもどり、警察に連絡する」
「妹さんが人形を発見した時間と、実際の死亡時間が違うことが、バレたりしないかしら」
「死亡直後だと、正確な時間を割り出されてしまう可能性があるから、警察に連絡する時間は、十時を回った頃にするよ。死体を廃屋に置いた後、いったん妹のもとに帰って相談するフリをして、時間をかせぐ。それなら、警察は、死亡推定時間を一時間程度の幅を持って設定するはずだ。例えば、午後七時半から午後八時半の間、だとか」
「妹さんが、廃屋であなたと一緒に死体を見たことを警察に話せば、夫はそれ以前に殺されたことになるわけね。その時間にアリバイがあるあなたの疑いは晴れる」
「その通りだ。でも、少しでも計画に狂いが生じた場合は、即時中止するからね。それだけは、わかって欲しい」
「わかった。感謝するわ。死ぬまで、あなたについていく」
 
【八月二十七日 土曜日】
「どういうつもり? こんな場所に呼び出したりして。あたりも暗くなってきたし。私、怖いわ」
「きみにも、一緒に立ち会って欲しいんだ。昨日の夜のきみの行動を確認したい」
「何を言っているの? 夫は、あの夜から家に帰ってきていないわ。行方不明届はまだ警察に提出していないけど」
「昨日の夜、ちょうど八時に、妹とぼくはこの廃屋に来た」
「人形は、あなたのいう通り、玄関を入ったところに置いたわ。ほら、その玄関を開けた場所」
「ああ、ちゃんと置いてあった。妹は玄関を開けた途端、びっくりするほどの悲鳴をあげた」
「かわいそうだったわね。妹さんを使うのは、やっぱり、よくなかったかも」
「そうだったかもしれないけど、仕方がなかった。失神しそうな妹を抱えて、ぼくらは、ぼくの下宿にもどった」
「計画通りじゃない」
「ぼくは、本当に死体があったのか確認する、って妹に告げて、急いで廃病院の駐車場に向かった」
「夫も、その場所に行ったはずよ。私の誘いに、舌なめずりをせんとばかりに、喜んでいたから。よからぬことでも、考えていたんじゃないかしら」
「確かに、あの男は来ていた。ぼくは背後から男に近づき、バットで昏倒させてから、紐で思いっきり首を絞めた。男の首を締め上げる、嫌な感触がまだ手に残っているよ」
「死んだんでしょ?」
「ああ。男が動かなくなってから、たっぷり五分間は首を絞め続けた」
「本当に、夫だったんでしょうね?」
「懐中電灯の光をあてて、土気色に変わった男の顔を確認した。きみに写真を見せてもらった、夫だという男の顔に間違いなかった」
「計画は、順調に進んだのね」
「そうだ。男の死体は一輪車でこの廃屋に運んだ。人形を回収して、替わりに死体を玄関に転がしておいた。誰にも見られなかった自信はある」
「あとは、夜の十時まで待って、警察に連絡するだけじゃない」
「十時過ぎに、自分の名前を名乗って、警察に連絡したよ。携帯電話の番号まで教えてね。そしたら、十時半頃にぼくの携帯電話に連絡があった。そしたら、廃屋に死体なんか見当たらないっていうんだ」
「えっ! そんなことって……」
「ぼくも信じられなかったよ。夜十一時頃、あわてて自転車でここまで来た。警官が二人待っていて、ぼくといっしょに玄関に入った。確かに死体はなかった。二時間くらい前に、ぼくがそこに寝かせておいたはずなのに。警察官二人には、さんざん怒られたよ。こんな時間にホラー映画なんて撮影するから、幻でも見たんじゃないかってね」
「夫は、きっと息を吹き返したんだわ」
「いや、確かに息をしていなかった。完全に死んでいたよ。それに、息を吹き返したんだったら、警察か病院にかけこむか、きみの家まで帰るか、したはずだろう」
「まさか、警官がグルになって……」
「それはないだろう。警官が一人だけだったら、その可能性はゼロじゃないけど、二人の警官がそろって死体を隠すなんて考えられない。それに、何のためにそんなことをする必要があるんだ?」
「じゃあ、いったい夫の死体はどこに……」
「それを、きみと相談したいんだ。あの男の死体がどこに消えてしまったのかも気になるけど、われわれがこれからどうするかということを考えなきゃ」
「うそ……」
「えっ! 何だって?」
「あなたの後ろ、家の窓のところ。あの人が笑いながら、こっちを見てる」
「あの人って、誰だ?」
「あなたが殺したっていう、私の夫よ! 彼の背後に、別の人影もある。青黒い顔をした男の人と女の人、それに子供が二人。あっ!」
「何を言っているんだ。誰もいないじゃないか」
「急にいなくなったわ。あれ? 玄関のドアが開いていくわ。ここには、私たち以外、誰もいないはずじゃないの? ああっ、あの人たちは誰?」
「うわっ! うわああああっ!」
 
 
<(三)人形の家>
【女刑事】
 刑事をしていた頃、本当の意味で恐怖を感じたことがあるかって?
 さあ、どうだろうね。あたしは重大犯罪捜査課初の女刑事だったので、最初は背伸びして、いきがっていたけど、警察を辞めてから、一年以上たつからね。もう、よく覚えちゃいないよ。
 あんた、週刊誌の女記者らしいけど、なかなか可愛いらしい顔をしているじゃないか。その様子じゃ、まだ三十前だろ。こんな四十近い独身女を、元女刑事だというだけでの理由で取材して、からかっているんじゃないだろうね。何か面白い記事のネタでも、つかんでいるのかい。
 そりゃ、警察をやめるまで重大犯罪捜査課には約五年いたから、心がへし折られる様な事件はいくらでもあったよ。今でこそ、この小さな定食屋をやりながら母親と二人、穏やかに暮らしているけど、当時は毎日が戦場みたいだった。この店を残してくれた父親には、本当に感謝しているよ。
 で、あんたが聞きたいっていうのは何だい? ああ、昨年のドールハウス殺人のことかい。あたしが警察を辞める直前の事件だ。何か新事実でも見つかったの? もう、あたしには関係のない話だけど。
 当時の法律では、被疑者は少年扱いだったから、実名はあたしの口からは明かせないよ。マスコミの連中も事件の詳細はわかっているだろうけど、あたしが話せる範囲だったら、取材を受けてもいいよ。その代わりというわけじゃないけど、この店のことは、まわりにたっぷりと宣伝しておいてよ。飲食店は不況の影響をもろに受けるからね。正直言うと、客が激減して、今夜も開店休業の状態さ。
 お茶、さめないうちに飲みなよ。ドールハウス殺人……もう、あの事件から一年たつんだね。早いもんだ。
 事件の発端は、そろそろ寒さが身に染みる十一月の末のことだった。夜八時過ぎ、青いパジャマ姿の一人の少女が、駅前の交番に駆け込んできた。
 彼女は、この地区でも有名な私立小学校に通うお嬢様だった。駐在の話では、ほっそりとして目の大きな可愛い子だったけど、紙みたいに真っ白な顔色をして、視点も定まらない様子だったそうだよ。
 彼女はパニックで言葉をもつれさせながら、とぎれとぎれに状況を語った。塾から帰宅したら、自宅で両親が死んでいたと。
 駐在は、同僚に彼女をまかせ、自転車で彼女の家に向かった。彼女の自宅は、自転車であれば駅から五分もかからない場所にあった。閑静な住宅街の中の二階建ての邸宅で、白壁に赤い屋根の映える瀟洒な洋館だった。壁には蔦が絡まり、大小の窓から明るい光が放たれていた。
 駐在は、細く開いた玄関ドアの隙間から光が漏れているのに気づいた。手袋をはめて玄関ドアを開けて、家に足を踏み入れた。
 そこには、凄惨な現場が待ち受けていた。
 一階の廊下に、一人の女性が血まみれになって倒れていた。身体をくの字に折り曲げ、顔には苦悶と驚愕をあわせた表情を浮かべていた。駐在は無線で本部に連絡を入れ、階段をあがった。二階の書斎らしき部屋では、髪の白い初老の男性がうずくまっていた。こちらも血まみれで、ダンゴムシの様に身体を丸めていた。
 二人はいずれも、腹部を鋭利な刃物で数か所刺され、息絶えていた。女性は腹部のほか、喉も掻き切られており、そちらが致命傷になったと考えられた。二人とも死んでからそれほど時間はたっていなかったけど、状況から見て殺人事件であることは明らかだった。のちの捜査で、女性は交番に駆け込んできた少女の母親、男性はその配偶者で、少女の義理の父親であることがわかった。
 亡くなった女性は昔、女性誌のモデルをやっており、一部では有名な人物だった。最初の夫と離婚し、急成長しているスーパーマーケットの二代目と再婚していた。
 事件を通報した少女は、母親似の、人形の様に整った顔立ちをしており、近所でも評判の美少女だった。まだ小学校の五年生だったが、取り巻きの男子中学生が数人おり、それ以外に、ストーカーまがいに彼女を追い回している十八歳の男子大学生が捜査線上に浮かんできた。
 その男は、地元の私立大学の一年生で、その年の四月から、駅近くの古いアパートで独り暮らしをしていた。インターネットで少女のことを知ったらしく、十月くらいから彼女の高校や自宅周辺をうろついているところを何度も目撃されていた。
 事件の翌々日の朝、あたしは相棒の刑事と二人で、男子大学生の住居である古いアパートを訪ねた。早朝の寝込みを襲うのは、捜査の鉄則でね。あたしは彼の名前を呼びながら、ドアをドンドンと叩き続けた。
 部屋の中からは、何の反応もなかった。あたしたちは、アパートの管理人から鍵を借り受けて、彼の部屋のドアを開けた。
 六畳一間の部屋の中はすっかり冷え切っていたが、かすかに腐敗臭が感じられた。
 部屋の中央にある炬燵の天板に、若い男が正座をしたまま、突っ伏していた。土気色をした顔色から、死んでいることは明らかだった。嘔吐物が彼の服と天板の一部を汚していて、すえた異臭を発していた。死体の傍らの畳の上では一リットルの牛乳パックが倒れていて、中から流れ出た牛乳が畳一面を白く染めていた。
 そして、炬燵の天板のちょうど真ん中あたりに、高さ五十センチくらいのドールハウスが置いてあった。
 重大犯罪捜査課にいたおかげで、いろいろな事件に遭遇したけど、あのドールハウスを見た時には、さすがに背筋から寒気がぞわぞわっと、這あがってきたね。
 ドールハウスの屋根は赤く、白い壁には蔦が這っていた。そう、そのドールハウスは、あの少女の自宅にそっくりだったんだ。
 捜査が進むにつれ、事件の全容が次第に明らかになってきた。
 彼の部屋の押入れの中から、血まみれの包丁が見つかり、分析の結果、付着しているのは少女の両親の血痕であることがわかった。
 被害者宅のいたるところで、彼の指紋が発見された。玄関ドアのカギ穴にピッキングの痕跡が見られ、彼がピッキングの道具を使って家に侵入したことが示唆された。
 以上から、あたしたちは、彼が少女の家に不法侵入し、出くわした彼女の両親を刺し殺して逃亡したとの方向で捜査を進めることにした。
 では、男子大学生の死の原因は何だったのか?
 彼の死因は、毒物によるものだった。牛乳パックに残っていた牛乳と牛乳がこぼれた畳の上から、致死量をはるかに超える毒物の有効成分が検出された。
 罪のない少女の両親を殺めてしまったことが怖くなって、自らの命を絶った……警察がその結論に至るまで、そう時間はかからなかった。
 そして、忘れてはいけないのは、ドールハウスのことだった。
 あたしも直接見ることができたんだけど、ドールハウスは屋根、二階部分、一階部分、と三つのパーツに分解できる構造になっていた。一階部分の廊下と二階部分の書斎に、それぞれ親指程度の大きさの木彫りの人形が転がされていた。
 異常なのは、その二体の人形の状態だった。
 廊下の人形は女、書斎の人形は男の格好だったが、二つとも血糊で赤黒く塗りつぶされていた。少女の母親と父親がそれぞれ死んでいた場所と同じ位置に、女と男の血まみれの人形が置いてあったわけさ。
 化学捜査研究所で分析した結果、それは押し入れで発見された包丁に付着したものと同じ血液だということがわかった。つまり、男子大学生は被害者を刺し殺したあと、血糊を、被害者を模した人形にこすりつけたと推測された。
 あたしたち警察が導き出した事件の全容は次のようなものだった。
①男子大学生は、少女に対して一方的な感情を抱き、少女の自宅のドールハウスを作って、自分の心を慰めていた。
②事件の夜、彼は少女に対する想いをどうしても抑えることが出来ず、彼女の自宅に侵入した。
③彼女は塾に行って不在だったが、彼女の両親に見つかってしまい、
持参していた包丁で二人を刺殺してしまった。
④彼は自分のアパートに帰り、ドールハウスの人形を被害者の血液で赤く塗りつぶすことで自分が犯人であることを示した上、毒を飲んで自殺した。
 あたしの話せるのは、こんな程度だけど、何か聞きたいことがあるみたいな顔をしているね。男子大学生のアパートの部屋のドアは調べたかって?
 ああ、そういえば、彼の部屋のドアにもピッキングで鍵を開けようとした痕跡が残っていたね。多分、少女の自宅に侵入するための練習をしていたんじゃないかな。そんな話があった様に記憶している。
 
【少女】
 少女は壁際に立ち、ジャケットのポケットに入っている親指大の木彫り人形のストラップを、指先でもてあそんでいた。
 フローリングの床の上では、女記者があおむけに倒れ、物凄い形相で息絶えていた。彼女の洋服は嘔吐物にまみれ、苦しんで死んだ様子が見て取れた。
 先週、この人形を見てしまったことで、女記者の運命は決してしまったのだ。この女は、事件を担当した元女刑事の元を訪れ、いろいろと面倒な情報をつかんできた様だった。
 少女は、灰色がかった美しい瞳を曇らせた。人形を見られてしまったのは、自分の不注意だ……そう反省した。ドールハウスの事件の際に腕を磨いたピッキングの技術で、昨夜、女記者のアパートに侵入し、冷蔵庫の麦茶の中にたっぷりと毒薬を混入させておいた。日が暮れてから様子を見に来ると、こちらが期待していた通りの結果になっていた。
 ネットで何でも買えるご時世でも、あのとき、毒薬を購入するのには骨が折れた。いくつかの天然成分を混ぜ合わせた特別な毒薬ということで、人にごく微量与えるだけで幻影を見せ、小さじ一杯ほどで人を死に至らせることができるとの触れ込みだった。また、徐々に揮発する成分らしく、その成分が部屋に振りまかれているだけで、部屋に入った人は鮮やかな幻を見ることになるらしい。
 しかし、一年前に男子大学生の部屋に忍び込んで、冷蔵庫に入っていた飲みかけの牛乳パックに毒薬を混ぜ込んで以来、大切に保管しておいたものが役に立った。
……でも、一年前の事件とは違う。この女の死体は始末しておく必要がある。
 少女は一年前、自分が小学五年生だったときのことを思い出していた。
 両親に対する自分の殺意に気づいたのは、母親の再婚相手である脂ぎった男と住み始めて、すぐのことだった。あの男は、評判の美少女である彼女を自分の娘にすることができ、有頂天になっていた。財力で母親を屈服させた様に、少女も自分の所有物にできると考えていた。ちらちらと彼女を見る好色そうな目はおぞましく、彼女もそろそろ耐え切れなくなってきていた。
 一方の母親は、自分の美貌の衰えを気にするばかりで、娘に無関心などころか、日に日に女としての魅力を増していく娘に、邪悪な嫉妬心を持ち始めている様子が見て取れた。
 このままではいずれ、女としてのプライドをあの男に蹂躙され、母親もそれを助けてはくれない……少女の中の危機感が怪物に形を変えて、自分の両親への憎悪に育っていった。
 そんなとき、気味の悪い男子大学生が、自分をストーキングしていることに気づいた。これを利用しない手はない。彼女の中の怪物がささやいた。男子大学生の住んでいるアパートを突き止め、インターネットを通じて覚えたピッキング技術で、彼の部屋に侵入した。
 炬燵の上に少女の家を模したドールハウスがあるのには、びっくりした。外観だけではなく、内部まで精密に再現してあることには感心したが、内部の様子まで知っているということは、彼女の自宅に忍び込んだことがあるに違いなかった。もしかすると、彼の指紋がべたべたと残っているかもしれなかった。
……これは、使える。
 少女の中の怪物が、再び耳打ちをした。
 少女は毒薬を入手した日の一週間後の午後、男子大学生の留守宅に再び侵入した。冷蔵庫の中の飲みかけの牛乳パックに毒薬を入れ、よくかき混ぜた。次にやったのは、部屋のすみに、携帯電話で部屋の様子を確認できる小型カメラを取り付けることだった。部屋全体が見られる場所に小型カメラを設置し、誰にも見られない様に慎重に部屋をあとにした。
 そのとき少女は、今まで感じたことのない高揚感を覚えた。イケメンの男の子に告白されたときにも、サッカー部のエースと言われるスターとデートをしたときにも経験できなかった、身体が浮き上がる様な興奮を感じた。
 その日の夜、遠隔カメラの画像を確認するため、携帯電話の画面を切り替えると、部屋にもどった男子大学生がちょうど冷蔵庫を開けて、牛乳の紙パックに口をつけたところだった。牛乳を飲み終えた彼は、突然立ち上がり、身体をよじって暴れ出した。はたで見ると、激しくダンスをしているようにも見えた。男子大学生が激しく嘔吐し、炬燵に覆いかぶさる様にして動かくなくなるまで、少女は瞬きもせずに画面を見入った。
 先ほど感じた甘美な興奮が、再び少女の気持ちを浮き立たせた。自分が、生死を自在に操る万能神になった様な気がした。
……さあ、もう引き返すことはできない。
 少女は引き出しから量販店で買っておいた包丁を取り出し、持ち手にタオルを巻いた。血しぶきをさけるためのレインコートを着て、まずは継父の書斎に入った。
 継父が驚いて振り返ったところを、自分の腰に包丁の柄をあてがったまま、彼にぶつかっていった。継父の腹部に包丁の刃が吸い込まれていくのがわかった。彼女は倒れこんだ継父に馬乗りになり、腹をめがけて二度三度と包丁を突き刺した。
 継父が噴水の様に血を吐き出し、動かなくなったことを確認して、少女は部屋を出た。足早に階段を駆け下り、今度は廊下に立ちすくんでいた母親に襲い掛かった。
 足払いで母親の身体をあおむけにすると、包丁を逆手に持ち替えて、継父同様、腹部に集中して包丁を突き立てた。叫び声をあげようとする母親の口を片手で押さえ、喉元を掻き切った。
 吹き出す血の勢いがおさまってきた頃を見計らい、少女は立ち上がった。動かなくなった母親を一瞥し、着ていたレインコートを慎重に黒い大きなビニール袋に封入した。
……ここからが、大切だ。
 少女は、別の小さなビニール袋に包み込んだ血まみれの包丁を自転車の籠に入れ、両手に背抜き軍手をはめると男子大学生のアパートまでに自転車を走らせた。あたりに目を配りながら、彼の部屋まで行き、ピッキングで鍵を開けた。
 部屋の中では、嘔吐物と腐臭とが混じりあった異臭が、薄く漂い始めていた。男は携帯電話の画像でみたままの格好で、炬燵に覆いかぶさっていた。顔は灰色で、白く濁った眼が彼女を睨んでいるように見えた。
 少女はまず、設置しておいた小型カメラを回収した。ビニール袋から包丁を取り出し、彼の死体に一度握らせてから、押し入れに放り込んでおいた。
ふいに、炬燵の上のドールハウスのことが気になった。炬燵の天板は彼の嘔吐物で汚れていたが、ドールハウスは無事の様だった。そっとドールハウスの屋根を取ると、二階の書斎の場所に、親指大の木彫りの人形が置かれていた。
 それは、男の人形で、白いシャツにグレーのチョッキの絵柄が描かれていた。先ほど彼女が殺した継父の格好にそっくりだった。
 続けて、二階部分を取り上げて、一階を覗き込む。今度は廊下に、ピンク色の絵柄の女の人形が置かれていた。彼女は刺し殺したときの母親の格好を思い浮かべた。確か、死んだ母親のドレスもピンク色をしていた。
 面白い偶然だと思った。少女は、包丁を包み込んでいた小さなビニール袋に女の人形を入れた。ビニール袋の底にたまっていた血糊を人形にまぶし、一階の廊下の部分に置いた。続いて二階部分を一階部分に重ね置き、今度は男の人形に同様に血糊をまぶし、書斎の場所に置いた。
 警察は、彼が被害者を殺した様子を再現してから自殺した、と見てくれるかもしれない。彼女は、そんなことを期待していた。
 ドールハウスの屋根をもどし、包丁を再び押し入れに投げ入れたあと、彼女はふと気づいた。
……あたしの人形がない。
 少女は、男の死体に目をやった。死体の左手がかたく握りしめられていた。死体の指を一本一本引きはがすと、鮮やかなブルーのワンピースを着た女の人形が現れた。彼女を模した人形に違いなかった。
……記念品。
 少女はブルーのワンピースの人間をポケットに入れた。男の部屋を出ると自転車にまたがり、駅前の交番に向かった。交番に駆け込み、塾から帰宅したところ両親の死体を見つけたと、涙ながらに訴えた。駐在の警官たちは、彼女の迫真の演技を疑うこともしなかった。
 それからは、少女の筋書き通りに進んだ。男性大学生が、一方的に想いを募らせた女子高生の両親を自宅で殺害し、自らも死を選んだ……そんなストーリーで事件は終幕したかに見えた。この女記者が、出しゃばってくるまでは。
 彼女自身も不用意だったことは否めない。戦利品として手にした彼女の木彫り人形にすっかり魅了されてしまい、ストラップとして自分のリュックサックに取り付けていた。それを偶然見つけた女記者が、ドールハウスの事件とのつながりに気づいてしまったのだ。そして、詮索をしようと少女に近づいてきた。
 女記者が、事件を担当していた元女刑事に接触したと聞いた時、これはそのままにしておかないと直感した。
 少女は、冷徹な目で女記者の死体を見下ろした。
……さて、これからどうしようか。
 
 
<(四)海辺の家>
 大きく窓を開けると、波音が一段と大きくなり、びっくりするほど濃い潮の匂いが部屋に流れ込んできた。二階の窓からは、海のかなたに沈みゆく、金色の夕陽が輝いて見える。
 海辺の町の、二階建てのプレハブの家屋。海岸まで、歩いて五分ほどの距離だ。海水浴シーズンも終わり、人気のない海には、すっかり秋の気配が立ち込めていた。
 今朝、この家に引っ越してきたばかりということもあり、二階のこの部屋の畳の上にも、段ボールが積み上げられたままだ。本格的に梱包を解き、荷物の整理をするのは明日からになるが、今晩は特別な夜になるはずだった。
高校を卒業し、この町を離れてから、もうそろそろ二十年になる。学生の頃は、この町に戻ることなど考えてもいなかった。ただ、昨年までに両親を相次いで亡くし、いまだに結婚もせず、少々の蓄えもあったため、思うところがあり、四十歳を前に会社を退職して、売りに出されていたこの家を購入した。
 ぼくは、この場所を終の棲み処とすることに決めていた。ここは、ぼくにとって特別な家だった。
   ***
 小学校の三年生から高校を卒業するまでの十年間、この小さな町で育った。
 水産会社につとめる父親の関係だったが、絶えず家に吹き込んでくる湿った潮風、早朝から騒ぎたてるカモメの鳴き声は、今でこそ懐かしさを覚えるものの、粗野で乱暴な先輩や同級生の記憶と結びつき、当時はこの町に、あまり良いイメージは持っていなかった。
 それでも、この町を嫌いにならなかったのは、中学校から高校まで、ぼくと同窓だった彼女のおかげだった。
 陰気で目立たない男子生徒だったぼくにとって、彼女は、中学校、高校を通して、ぼくの太陽のような存在だった。
 彼女は漁師をしている父親、父親の母である彼女の祖母と三人で暮らしていた。母親は彼女が幼い頃に父親と離婚したらしいが、それを思わせるような彼女の振る舞いを見たことはなかった。
 実を言うと、六年もの間、彼女と同じ学舎にいながら、ぼくは彼女と親しく話したことが、ほとんどなかった。ただ、彼女の涼やかな視線、笑っているような口元、かすかに潮の香りがする髪は、いつもぼくの心を乱れさせた。   
 手足の長いほっそりとした体形は、中学、高校と進むにつれ、女性的な魅力を、よりいっそう際立たせた。
 彼女は、青い服がとてもよく似合った。
 高校進学が決まり、駅前の書店で立ち読みをしていると、後ろから肩をたたかれた。振り向いたぼくの目の前に、彼女が立っていた。
「一緒の高校に行くことになったみたいだね。これからも、よろしく」
 そんな彼女の言葉に対し、自分が何を言ったのか、まったく記憶していない。ただ、そのときに彼女が着ていた青いワンピースは、今でも鮮明に覚えている。
 目鼻立ちのはっきりした彼女の容姿は、深い海のようなブルーに、よく映えて見えた。ぴったりとしたワンピースに包まれたスリムな体躯は、海から姿を現したばかりのマーメイドを想像させた。
 高校の三年間の間、不幸にも、ぼくは彼女と同じクラスになることはなかった。彼女が野球部のマネージャーになり、その人気を他のクラスから漏れ聞いていたこともあり、彼女に言い寄る男子生徒の噂を聞く度に、しめつけられるような苦しさを感じていた。
 そんな日常に暗い影が忍び込んできたのは、高校二年の冬のことだった。廊下ですれちがった彼女の表情が、妙に固く、そして暗く沈んでいることに気づいた。同級生に聞くと、彼女の父親が海で亡くなり、残された祖母も認知症を発症しているとの話だった。
 ぼくは週末に、彼女の家の隣にある木材置き場まで出向き、彼女の家をそっとうかがった。三十分ほどたった頃、二階のベランダに彼女と祖母らしき高齢女性が現れた。
 彼女の祖母の姿はそのとき初めて見たが、その印象は強烈なものだった。骨と皮ばかりのやせこけた老婆で、真っ白な髪を振り乱し、焦点の定まらない目をしたまま、ベランダをうろうろと歩き回っている。
「おばあちゃん、寒いから入ろう」
 彼女に腕をつかまれた老婆の顔が、一瞬、ぼくの方を向いた。老婆は大きく目を見開き、きえっという叫び声をあげながら、ぼくに向かって右手の人差し指を突き出した。
 ぼくがその場から一目散に逃げだしたので、その後の彼女と老婆の様子は知らない。彼女が、ぼくに気づいたのかもわからなかった。しかし、その日以来、高校を卒業する日まで、挨拶以外で彼女と口をきくことはなかった。
 高校の卒業式が終わり、とぼとぼと帰路に着くぼくの背中から、声をかけられた。振り返ると、彼女が、はにかんだような笑顔を浮かべて立っていた。
「東京の大学に行くんだってね」彼女は、明るい声で言った。「あたしは地元でお菓子の専門学校に行くの。いつかまた会えるといいね」
 このときも、ぼくは自分が何と答えたのか、記憶がない。ただ、彼女と別れた後、顔を伏せて自宅まで走って帰ったことは覚えている。彼女との別れの辛さと、声をかけてもらった喜びと、いつか会えるかもしれないという期待感が、ごちゃまぜになった感情だったことは、忘れられなかった。
 しかし、以来二十年、ついに彼女と再会することはなかった。
 ぼくが東京の大学に入ってから二年後、高校時代の同級生から、彼女の祖母がなくなったことを聞いた。その頃、彼女のことは過去の懐かしい思い出のひとつとして残ってはいたが、彼女の祖母の逝去の話をきいたときも、「ああ、そうなんだ」という感慨を持っただけだった。
 ぼくは大学を卒業し、東京の食品会社に入社した。就職してすぐに、両親が東京近郊のマンションに引っ越してきたこともあり、自分が育った町に行くこともなくなった。
 それでも、社会人になって十年がたった年、久しぶりに高校の同窓会に出席した。そしてその席で、地元で新聞記者をしている同級生から衝撃的な話を聞いた。その前の年、彼女の夫が何者かに殺害され、彼女は娘を連れて出たまま行方知れずになっているというのだ。
「彼女の旦那さんが酒乱で、暴力を振るわれたりして大変だったらしい」ビールで顔を赤らめた同級生が、声をひそめた。「その旦那さんが殺されて、重要容疑者だった彼女の愛人も不審な死に方をしたという話だ。旦那さんが殺された時間に彼女にはアリバイがあって疑いは晴れたみたいだけど、町には居づらくなったんだろうな。娘を連れて姿を消してしまったのさ」
「彼女、今はどうしてるのかな?」ぼくが聞くと、同級生はゆるゆると首を横に振った。
「それが、よくわからない。県外に出て行った可能性が高いが、夫が殺され、愛人が死んでいるような状況だから、陽の当たる場所で暮らしていくのは、難しいかもしれないな」同級生は、言葉を濁した。「どこかでひっそりと暮らしているか、縁起でもないけど、親子心中をしている可能性だってある」
 ぼくは、奥歯を噛みしめて、黙るしかなかった。彼女がそんな酷い状況に陥っていたとは、思いもしなかった。
 同級生は、コップのビールを飲み干すと、ぽつりとつぶやいた。
「あの家、住人が殺人事件の被害者になった、いわゆる事故物件なわけだろ。彼女は相続を放棄したらしいけど、買い手がつかなくて彼女の親戚筋も頭を抱えているらしいぜ」
   ***
 夕陽は水平線の向こうに姿を消し、海も空も次第に夜の薄闇に飲み込まれていく。
 地元の不動産屋に問い合わせてみたところ、彼女の家はそのまま残っており、そして、いまだに買い手がつかないということだった。ぼくは、不動産屋に家の値段をきき、言い値で購入を決めた。
そして今、彼女がかつて暮らしていた家の二階で、窓から海をながめている。
……いつかまた会えるといいね。
 二十年前の、彼女の言葉がまだ生きているのであれば、今夜、彼女はこの場所に現れるかもしれない。もしかすると、実体のない幽霊になっている場合もあるが、それでもぼくは、彼女に会いたかった。
 彼女は魅力的だった。そして、ぼくとの再会を望んでいてくれた。しかし、ぼくは、彼女の思いに応えることはできなかった。今なら、彼女と話したいことは、たくさんあった。
 ぼくは、窓をしめ、畳の中央にあぐらをかいて座った。部屋の中に深い闇が入り込んできても、部屋の明かりをつけずに、待ち続けた。
 それは、座り続けて、三十分ほどたったときのことだった。
部屋の隅がぼんやりと明るくなり、薄い、白い靄のようなものが漂っていることに気づいた。靄は次第に一箇所にかたまりはじめ、色もかすかに青みがかってきた。そして、青いワンピースを着た人型が、はっきりと浮かび上がってきた。
……彼女が、彼女が会いに来てくれた。
「ミズキ!」
 ぼくは立ち上がり、彼女の名前を呼んだ。青いワンピースの上の顔が、ぼくの方を向いた。
 ぼくの背中を、おぞけがぞわぞわと這い上がってきた。
 彼女ではなかった。真っ白な髪を振り乱した老婆が、焦点の合わない目で、ぼくをじっと見つめていた。
 そのとき、ぼくははっきりとわかった。彼女の祖母である老婆が、地縛霊として、この家に憑りついているのだと。
 もちろん、誰もが死んでから地縛霊になる訳ではない。彼女の祖母はきっと何かに、恐ろしいほどの執着心を持っていたのだろう。それは、いったい何だったのか?
……やっと、会えた。
 老婆の唇が、そう動くのがわかった。
 
 
 はっと気づいて、妻のデスクの上の時計を見る。午後五時。そろそろ二人が帰ってくるかもしれない。
 背中にびっしりと汗をかいていた。読み始めたときの昂揚感はすっかり消え去り、胸の中には得体のしれない不安感と不快感が漂っている。少なくとも、夫と娘のいるまっとうな中年女性の描く世界観ではない。
 私は妻の原稿をパソコンの上に戻し、あわてて妻の部屋を出る。部屋に入ったことがわからないよう、卓上ライトも点けたままにしておいた。台所で、インスタントコーヒーを入れるため電気ポットに水を入れ、スイッチを押した。
 お湯が沸いたところで、インスタントコーヒーを入れたマグカップに勢いよく注ぎ込む。気持ちを落ち着け、妻が書いたと思しきストーリーを顧みることにした。
 物語には、たびたび「ミズキ」という女性の名前が出てくる。妻の名前はミズキではない。しかし、物語の中に、必ず妻の姿が投影されている気がしてならなかった。それに毒薬だ。微量であれば幻影を見せるという毒薬が、それぞれの物語で何らかの役割を果たしているのではないか? これは、ミステリ作家として身を立てた人間の勘というか、習性のようなものだった。
 コーヒーを一口飲んで考える。
 この物語は、「(一)高い家」、「(二)亡者の家」、「(三)人形の家」、「(四)海辺の家」の四つのショートショート作品から構成されている。それぞれのブロットを整理すると、「(一)新婚夫婦を悩ませる霊の正体は妻の前の恋人ではなく、恋人を殺害したストーカーの生霊だった」、「(二)妻が愛人と共謀して夫を殺害したが、夫たちがゾンビになって襲い掛かってきた」、「(三)夫婦殺しの犯人は毒死した男子大学生ではなく、夫婦の小学生になる娘だった」、「(四)好意を寄せていた女の家に現れたのは、女ではなく女の祖母の亡霊だった」とでもなろうか。
 四つの物語の時系列を、主な登場人物である女性の年齢を指標に変えてみたらどうだろうか? 例えば、「三」⇒「一」⇒「二」⇒「四」の順にして、幻影を見せる毒薬を絡めていくと、まったく違ったストーリーが浮かび上がってくる。
 つまり、
➀両親など四人を殺害した小学生の少女(三)が実父に引き取られ、海沿いの中学校に転校して二人の少年と知り合った。少女は女に、少年は男に成長するが、男のうちの一人は死に、女はもう一人の男と結婚する(一)。
➁女と男の間には娘が生まれたがうまくいかず、男は女に暴力を振るうようになる。女は愛人と共謀して男を殺害する(二)。
➂愛人は死んだが、女とその娘は行方不明になる。一方、女は中学校から転校して住み着いた海辺の家に毒薬をまき散らしており、毒薬は住居を購入した男性に祖母の亡霊の幻を見せる(四)。
という数珠繋ぎの物語だ。
 そして、(一)で新婚の夫が見た空中に浮かぶストーカーの生霊や、(二)で愛人が目撃したゾンビの群れも、女が彼らに密かに飲ませたり、吸わせたりした毒薬が見せた幻影なのではないだろうか?
つまり、毒薬を操る女はまだ生きており、そして、女には娘がいるということだ。
 私の脳裏に不意に「日記」という単語が浮かんできた。これは、妻が物語の名を借りて、自分の半生を「日記」というかたちで書き起こしたように思えてならなかった。それにしても、なぜそんなことを?
 玄関の扉が開く音が聞こえた。玄関先から楽しそうな話声が聞こえ、台所のドアが勢いよく開いた。
「思ってたより面白かったよ、お父さん!」
 娘が満面の笑顔を私に向けた。笑いかける娘の背後には、青いワンピースを着た妻が、静かにたたずんでいた。そして、自分の新しい棲み処を見つけた満足感を確かめるように、おだやかに微笑んで見せた。

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