「農産物にまつわる形而上的かつ戦慄的な一考察」 全話(短編SFホラー小説)
#SFホラー
#どんでん返し
「係長、教授の自宅にあったパソコンのロックをはずすことができました」
若い刑事は、少し古い型の黒いラップトップパソコンを開き、係長と呼ばれた男が座る長机の上に置いた。刑事部屋にいた数人の刑事が、係長とパソコンを扇形に取り囲む。
「何か、気になる内容でもあったのか?」
係長の言葉に、若い刑事が大きくうなずく。
「教授自身の研究課題について書かれたファイルが大半ですが」若い刑事はパソコンを起動させると、すばやい仕草でキーボードをたたく。「その中に、教授が経験した不可解な出来事を記した文書を見つけまして。何というか、日記みたいな感じで」
「不可解な出来事?」係長は、あごに手を当てたまま、いぶかし気な表情を浮かべた。「想像もできんな。今回の事件と関係があるのか?」
「ええ、多分」
若い刑事が、フォルダーに並んだファイルの一つをクリックした。現れた文書を、刑事たちが身を乗り出してのぞき込む。若い刑事が、低い声で言った。
「『農産物にまつわる形而上的かつ戦慄的な一考察』という、長いファイル名の文書です」
***
わたしは、とある大学の教授として植物病理学を教えている。植物病理学というのは、穀物や野菜、果樹、花などの作物の病気を研究し、その対処法を提案する学問だ。
今回は、わたしの自宅のとなりに住む一家……仮にS家と呼ぼう……に降りかかった驚くべき出来事についてお話ししたい。しかし、この事実を公表するかどうか、わたしは迷っている。社会に及ぼす影響があまりにも大きく、そして人間の価値観にかかわる内容であるからだ。
まずは、何が起こったのかを報告する。
S家は、わたしと妻が住む古い家の隣に、二年ほど前に引っ越してきた。長らく空き地だったわたしたちの家に隣接する土地を購入し、洋風の瀟洒な家を建てたのだ。
S家の構成は、商社勤めの夫、専業主婦の妻、近所の高校に通う長女、の三人家族だった。S家は社交的な一家ではなかったが、近所で会えば挨拶するし、庭いじりが趣味というS夫人はわたしの妻とフェンス越しに世間話をすることが度々あった。
S家の主人は朝早くから出勤し、帰宅は深夜、休日もゴルフなどで出かけているらしく、滅多に見かけることはなかった。一方のS夫人は庭仕事と買い物を除けば一日中家にこもっているようで、わたしたちを除けば近所付き合いも見られない。彼らの一人娘は、顔立ちはいいのだが、どちらかと言えば内向的で暗い雰囲気をまとっていた。高校から帰ってくると、母親同様、ほとんどの時間を部屋で過ごしているらしく、二階のベランダからぼんやりと空をながめている姿を、何度か目撃したこともあった。
そんなS家に変化があったのは、梅雨が明け夏の日差しが少しずつ強く感じられる七月の中頃のことだった。夕暮れ時、わたしが庭に水を撒いていると、S夫人が庭に出て声をかけてきた。
「先生は植物の病気がご専門とお聞きしましたが、このトマトをどう思われます?」
S夫人の手には、ふつうのトマトの二倍の大きさはありそうな巨大なトマトが一つ、乗っていた。その大きさ以上に驚いたのが、そのトマトが鈍い金色に輝いていることだった。仕事柄作物を見慣れているわたしの目にも、普通のトマトではないことがすぐにわかった。
わたしは渡された巨大トマトをじっくりと見た。金属に近い光沢だが、トマト自体はみずみずしく、病気などに侵されている印象はない。
「肥料や水、気温や降雨などの影響を受けた植物ホルモンのバランスによって、トマトの生育に変化が起きることはありますが、この色は初めて見ましたねえ」
わたしの回答に、S夫人は心配そうな表情を浮かべた。
「昨晩、家族三人で食べてしまったのですが、大丈夫でしょうか?」
「ああ、その心配は少ないと思いますよ」わたしはトマトを返しながら答えた。「突然変異は自然界でしばしば起きる現象ですが、健康に被害を及ぼしたとの話はきいたことがありません」
夫人は少し安心した表情で、その場を離れた。
それから二週間ほどたった夕方のこと。
久しぶりに隣の庭を見てまず気づいたのは、急ににぎやかになったことだった。今までは、ひょろりと伸びた花木が数本と小さな花壇に花が少し植わっている程度だった。しかし、いつの間にか花壇が拡張され、新しいエリアの一面に小さなハーブの芽が伸びていた。ハーブのほかに、ブルーベリーなどのベリー類の苗が定植され、何本も立てられた支柱に蔓が巻き付いていた。
庭に出てきたS夫人の姿にも驚かされた。どちらかと言えば、地味でくたびれた格好をしていた女性だったが、鮮やかな菫色の作業着の上下を着て、髪を後ろに束ねていた。薄く化粧もしているようで、もともと華やかな顔立ちが輝いて見えた。
「あら、先生」彼女はにこやかな表情でわたしを見た。「少し本格的に庭仕事に手をつけることにしましたの。わからないことがあったら、教えてくださいね」
年甲斐もなく、自分でも顔が赤らんだことに気づいた。そんな、わたしの様子を気に掛けることもなく、彼女は庭での作業を開始する。散水、施肥、支柱立て、雑草抜き…効率のよい動きで、庭はみるみる美しく変貌していった。
「ああ、この前のトマト、先生の奥様に一つ差し上げておきました。甘くて美味しいんですよ」
彼女は顔をあげて、はずむような明るい声で言った。
何が彼女を変えたのか…そのときには感心するばかりで、そんなことは考えもしなかった。
しかし、それだけでは終わらなかった。秋になると、S夫人は収穫したハーブやベリー果実を乾燥し、インターネットでの販売を始めたのだ。商品の品質が良かったこともあるが、彼女の作ったホームページの出来も素晴らしく、乾燥ハーブや乾燥ベリー果実は、飛ぶように売れたらしい。
わたしの妻の話では、彼女は数軒のハーブ農家と契約し、委託栽培をはじめたらしかった。わたしも、桜色のスーツを華麗に着こなしたS夫人がネクタイ姿の男に囲まれて町を颯爽と歩く姿を目撃したことがあった。
変わったのはS夫人だけではなかった。引きこもり直前だったS家の一人娘が、大手プロダクションが企画した新人タレントのオーディションに応募し、何とグランプリを獲得したのだ。写真週刊誌で見る彼女の姿に、ベランダから抜け殻のような顔でぼんやりと空をながめていた頃の面影はない。はじける笑顔が周囲を照らし、女性らしい美しさの芽生えがありありと感じられた。十月から始まるゴールデンタイムのドラマへの出演も決まり、女優としての才能を評価する記事も掲載された。
さすがにわたしも、S家の変容には驚かされるばかりだった。その戸惑いはS家の主人も同じだったようで、庭で雑草を抜いているわたしに珍しく声をかけてきたことがあった。
「いったい、どうなってしまったのですかねえ、我が家は」彼は、薄くなった髪をガリガリとこすった。「家内も娘もすっかりアクティブになってしまって。いや、もちろん良いことなんですが」
どうやら、S家で変わっていないのは彼だけのようだった。妻と娘が活動的になった分、彼の存在感が薄くなってきた……そんな感じだった。
しかし、その年の十二月、S家の様子に再び変化が見られた。
昨年世界を揺るがした新型ウィルスは、特効薬とワクチンの開発によって、ほぼ完全に抑え込むことに成功していた。そんな明るい状況の中で人々の心に緩みが生じたせいか、年末の早い時期からインフルエンザの流行が始まっていた。
インフルエンザ禍は隣のS家にも襲いかかり、家族三人全員が罹患した。特効薬のおかげですぐに症状は改善した一方、S夫人とS家の一人娘から輝きが徐々に消失していったのだ。
まずS家の庭が荒れ始めた。冬に備えて張られていたビニール製のトンネルが破れ、トンネルの中に植えられたハーブが枯れ始めていた。傾いた支柱もそのままで、せっかく根付いたブルーベリーの枝がねじれて折れ曲がっている。庭をのぞむ窓のガラス越しに、S夫人の疲れた顔が見えた。以前と同じ、地味でくたびれた格好のままで……。
乾燥ハーブの販売も店じまいをしたらしく、インターネットで彼女のホームページを探しても、「閲覧できません」との表示が出てくるだけだった。
S家の娘も、急にテレビや雑誌で見かけなくなった。インターネットの記事によれば、体調不良で無期休業中とのことだった。その頃から、S家の二階からぼんやりと空を見上げる彼女の姿を再び見かけるようになった。以前と同じ、うつろで遠い目をした表情で……。
すっかり、もとにもどっている。いったい何が起こったのか。わたしは、はっと気づいた。
人々に大きな厄災をもたらす病原性のウィルスは、蝙蝠や鳥などの動物を介して人間に感染することが知られている。ただ、ウィルスに感染するのは、動物に限ったことではない。植物もウィルスに感染することが知られており、トマトやキュウリといった作物に感染するモザイクウィルスは重大な病害となっている。
植物を介して人間に感染するウィルスがいるかもしれない……荒唐無稽な話だが、完全に否定はできない。
もう一つ、ウィルスは病原体として恐れられているが、人間の遺伝子の配列の多くが、ウィルスと共通していることをご存じだろうか。生物の進化はウィルスの感染によって引き起こされたという、ウィルス進化説は近年、信ぴょう性を増している。
人間のホルモンバランスを変化させることでモチベーションを向上させ、積極的に社会参加させる人間に変容させるウィルス……そんなウィルスが存在しないと否定する根拠はない。
わたしの仮設はこうだ。
① S家の庭で育った金色の巨大トマトは、ある種のウィルスの感染によるもの。
② そのウィルスは、人間にも感染する。
③ 感染したウィルスは、人間のモチベーションを向上させる。
この仮説の根拠となるのが、インフルエンザの治療のために飲んだ抗ウィルス薬によって、S家の女性たちのモチベーションが急激に低下したことだった。抗ウィルス薬が金色トマトのウィルスを除去してしまったため、と考えることもできなくはない。
このようなウィルスが存在すると仮定すると、面白いことに女性しか感染しない、もしくは感染の効果がないことがわかる。S家の主人もトマトは食べたはずなのに、彼のモチベーションはあがっていないのだ。
ウィルスが悪とみなされている昨今、この仮説が危険なものとみなされる可能性はある。その一方で、このウィルスが女性の社会進出や地位向上をバックアップするものであれば、歓迎される余地もあるかもしれない。
ウィルスによる社会の変容は、これからも継続して起きていくだろう。しかし、ウィルス感染によって、人間そのものの考え方や価値観が変わってしまう……そんな未来も遠くないのかもしれない。
ただ、気になることもある。今回提唱したウィルスが本当に存在するのであれば、何を目的として発生したのだろう、という疑問だ。少なくとも、生物の進化の方向には何らかの理由がある。女性のモチベーションが向上することが、ウィルスにとってどのようなメリットがあるのか、想像もつかない。
わたしは今、恐ろしい仮説も想定している。このウィルスが人工的に作られたものだとしたら……。どこかの国家が、人々の心を自由にコントロールするために、人工ウィルスを創出した可能性はないだろうか? いや、人類が持つ現在の科学技術のレベルでは無理だろう。しかし、それが人類ではないとしたら?
実は、妻がS夫人からいただいて家の冷凍庫に眠っていた金色のトマトが、今朝なくなっていることに気づいた。どうやら、わたしがいないうちに、妻が食べてしまったらしい。
妻は、口は悪いが基本的には気のいい女だ。以前はしょっちゅう口喧嘩をしていたが、最近は年のせいか少し元気がなくなった気がする。
明日からどのような日常になるのか。わたしの仮設が試される日は遠くない。
***
「何か、よくわからんな」
係長の言葉に、若い刑事が少し首を傾げた。
「サイコセラピストが開設しているウェブサイトを見たことがあるんですが」若い刑事は言った。「そのサイトによれば、モチベーションが高い人には、ノルアドレナリンやドーパミンといった脳内ホルモンが働いているそうです。特にノルアドレナリンが分泌されると、交感神経が盛んに活動するらしくて」
「ノルアドレナリン?」
「はい。しかしノルアドレナリンが分泌され過ぎることには、弊害もあるということです」若い刑事が続ける。「ノルアドレナリンは『怒りのホルモン』とも呼ばれていて、過剰分泌により人間の攻撃性が高まることがあるそうです。それも、著しく」
刑事部屋に沈黙が訪れた。刑事たちは皆、凍りついたように立ちつくしている。
「おいおい、これは大変な事件になるかもしれんぞ」係長が立ち上がった。「トマトを食ったという教授の妻は、まだ行方不明なんだろう? 夫の首を切り裂いて、そのまま逃亡した殺人の重要参考人の」
了