【特集】1940年6月にエストニアで何が起きたのか(Part.3)
1940年6月14日早朝、ソ連外相モロトフはリトアニア外相ウルブシィスに対し最後通牒を突き付けた。リトアニア政府が同国駐留ソ連軍に対し陰謀を企てているという内容で、リトアニア内務大臣と公安警察長官の逮捕を要求し、ソ連軍に対する無制限のリトアニア駐留を要求するものだった。同日午前3時、リトアニア政府はソ連の最後通牒受け入れを表明し、ソ連軍は国境から同国への進駐を開始した。
翌6月15日午前3時、ソ連・ラトビア国境で2つの事件が起きた。
マスレンキ(Maslenki)のラトビア国境警備隊旅団の第2警備隊詰所が越境してきたソ連国境警備隊によって襲撃された。詰所は焼き払われ、ラトビア国境警備隊指揮官とその妻、そして警備隊員1名が詰所裏100m先で背中から撃たれた状態で遺体で発見された。同時刻、シュマイリ(Smaili)のソ連・ラトビア国境でも同様の事件が起きており、15名のソ連国境警備隊員がラトビア側詰所を襲撃し、占拠した。
この2つの事件によって、ラトビア側では3名が死亡、2名が負傷、ラトビア国境警備隊関係者12名と27名の民間人がソ連国境警備隊によってソ連領内に連れ去られた。同日、ソ連・リトアニア国境においても、同様の事件が起きていたが、すでに前日の最後通牒受け入れによって、この事件の影響は搔き消されており、ラトビア国内においてもマスレンキ、シュマイリ両事件に関する報道は為されなかった。
6月16日、ソ連政府はラトビア政府に対しても最後通牒を発し、ラトビアを含むバルト三国が1939年12月※と1940年2月に秘密会議を行い、対ソ陰謀を企てていたとして、これを1939年秋のラトビア・ソ連相互援助条約への違反と見なし、無制限のソ連軍進駐を求める内容だった。同日午後10時、モスクワ駐在ラトビア大使はラトビア政府によるソ連の最後通牒受け入れを表明した。
※1939年12月10日、エストニアの首都タリンで、バルト三国相互協力のための連絡事務所が設立された件とされている。「バルト三国間での反ソ陰謀」は、ソ連政府による完全な言いがかりであった。
同日にはエストニア政府もソ連政府から同様の最後通牒を受け取った。更に10万名のソ連軍の同国への進駐を認め、親ソ連的な新政府の樹立を要求するものだった。エストニア政府もこの最後通牒を受け入れざるを得ず、6月16日、ついにソ連軍が国境を越えてエストニアへの進駐を開始。翌17日にはソ連軍のラトビア進駐も始まった。
6月16日、エストニア国内に駐留するソ連軍25,000名が各駐屯地を発し、エストニア国内の各都市の制圧に乗り出した。東部国境からは更に90,000名、また海路で10,000名のソ連軍がエストニアに到着し、全土の支配を開始した。
一説によれば、ソ連軍がバルト三国占領に投じた兵力は300,000から500,000と言われており、バルト三国各国軍はもはや抵抗は無駄であると判断し、それぞれの政府や軍司令官から無抵抗の命令を受け取っていた。
ラトビアの首都リガには6月17日正午にソ連軍が無血入城し、それぞれの国の首都も間もなく制圧された。ソ連軍は政府機関庁舎、警察本部、通信施設などを占拠し、各国軍にはソ連軍の宿営のために駐屯地からの退去が求められた。
(次回に続く)
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