【特集】1940年6月にエストニアで何が起きたのか(Part.2)
エストニアへのソ連軍進駐からわずか1ヵ月後の1939年11月30日、ソ連はフィンランドへの侵攻を開始。
エストニア駐留ソ連軍もまた、このフィンランドとの「冬戦争」に動員され、パルディスキ(Paldiski)駐留の空軍部隊がフィンランドへの空襲などに参加した。
エストニア軍情報部は1939年9月の独ソによるポーランド侵攻時、膨大な量のソ連軍通信情報を傍受し、その分析を進めた結果、最高機密であるソ連軍暗号「OKK-5」の解読に成功した。
OKK-5の暗号表などは極秘裏にフィンランド軍に提供され、また国内のソ連軍の動きを把握する事が出来たエストニア軍はタリン市内の参謀本部ビルから、ヘルシンキのフィンランド軍参謀本部を結ぶ海底通信ケーブルを通じてソ連軍の情報を秘密裏に提供し続けた。
また、一方でエストニア軍情報部は国内のソ連軍基地への潜入工作なども行っており、内陸部のクルーガ(Klooga)の基地などでの情報収集を実施しようとしていた。
圧倒的なソ連軍に対して善戦を続けていたフィンランド軍だったが、物量の差は覆しがたく、1940年2月29日にはソ連との講和交渉を再開した。3月12日、フィンランド政府はソ連の首都モスクワにおいてソ連政府との講和条約を締結し、冬戦争は終わった。このモスクワ講和条約において、フィンランドは開戦前領土の9%をソ連に引き渡し、またエストニアにも程近い(フィンランド湾を挟んで対岸30kmほど)ハンコ(Hanko)半島はソ連が租借する事となり、ここにはソ連海軍の基地が設置された。
この前後、1940年2月2日にはタリン港上空を飛行していたエストニア空軍のブリストル・ブルドッグ(Bristol Bulldog)戦闘機に対し、ソ連軍艦が発砲。エストニア政府がソ連政府へ正式に抗議し、ソ連政府が遺憾の意を表明する事件が起きている。
1940年2月までに、エストニア駐留ソ連軍の数は21,000名に達しており、エストニア政府への相次ぐ追加駐留の要求によって、1940年5月までに25,000名にまで拡大した。この時期、エストニア駐留ソ連軍が重視したのは、サーレマー(Saaremaa)島とヒーウマー(Hiiumaa)島で、1940年5月15日、モスクワでのエストニア・ソ連政府間交渉の結果、第二次駐兵協定が締結。これにより、エストニア国内において300平方キロ以上の土地が海軍基地や軍用飛行場などを建設する目的でソ連軍に譲渡された。
この間、エストニア軍も有事に備えて増強を続けており、総兵員数は1940年夏までに16,000名に達したが、それでも倍近い数のソ連軍がすでに国内に駐留し、開戦となれば更に東部国境から別のソ連軍が雪崩れ込んでくる事態を考慮すれば、もはや武力で対抗する選択肢は残されていなかった。
第二次大戦前のエストニアの国防戦略は、東部国境を越えて侵攻してくるソ連軍を同地域で1-2ヵ月ほど食い止め、その間に国内で総動員による軍の強化を行い、強化された軍を以てソ連に反撃するというものだった。
自国軍の数を遥かに上回るソ連軍が国内に駐留している時点で、エストニアの国防戦略は破綻していた。
(次回に続く)
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