リガ武官室へようこそ(Part 4) 世界情勢の急変と小柳事件
この連載記事では、ラトビアの首都リガに置かれていた在ラトビア日本公使館附陸軍武官室の歴史を追います。
1928年初夏、中国では国家統一を目指していた蒋介石率いる国民革命軍が「北伐」を進め、ついに旧首都・北京に到達する勢いでした。北京に滞在していた中国東北部(満州)を支配する奉天軍閥の長・張作霖は、蒋介石との全面戦争を避けたい日本のアドバイスを受けて本拠地の奉天へと列車で帰還します。
しかし、6月4日の帰路、関東軍高級参謀の河本大作大佐らが画策した謀略によって専用列車ごと爆破され死亡します。この事件以降、満州における情勢は不安定化の一途を辿ります。張作霖の後継となった息子の張学良は満州における日本の強大な影響力からの脱却を図り、1928年12月には蒋介石率いる国民政府への帰順を宣言し、その後、領内を走るソ連との共同経営の中東鉄道を接収しようとします。一方、ソ連国内でもレーニンの死去後に激化していた後継者争いにおいて、1928年までにスターリンの独裁権力の基盤が確立しつつありました。
一連の不穏な世界情勢の中、1928年8月、2つの大きな出来事がラトビアで起こります。1つは同月中旬に日本海軍モスクワ駐在武官の小柳喜三郎大佐と副官がラトビアの3つの港(リガ・リエパーヤ・ヴェンツピルス)を極秘裏に視察し、8月21日には日本陸軍がポーランド駐在武官の鈴木重康大佐をしてラトビアを兼轄する事を決定した事でした。
小柳のラトビア訪問の意図は不明ですが、これら3つの港はすでに在リガ外交官出張所が存在した頃に代表の上田仙太郎書記官によって「天然の良港」として報告されており、ソ連海軍バルチック艦隊のラトビアへの将来の進出を見据えての事だったのかもしれません。
ラトビア武官室史とはあまり関係が無い話ですが、日露戦争時にウラジオストックへ向けてバルチック艦隊が進発したのは当時のリバウことリエパーヤでした。しかし、それから約10年後の第一次世界大戦開戦時、当時のロシア帝国としてはリバウが敵国ドイツに近すぎる上に地理的な理由で港湾防備を固めるのが難しいとして、バルチック艦隊の大半をヘルシングフォルス(現在のヘルシンキ)やクロンシュタットへ引き揚げていました。
これらの事を考えると、小柳らのラトビア訪問は東京の海軍軍令部へ地理を報告するための単なる視察旅行であった可能性は捨てきれませんが、彼は1928年中に中央アジアなども視察しており、幅広くソ連と周辺国の地理を分析していました。
しかし、1929年初頭、小柳はモスクワの自宅に招いた知古のロシア人老教授とロシア語の女性教師との会食の際、政治的議論を吹っかけてきたロシア人女性と口論になりケガをさせる事件を起こします。後にポーランド情報部が確認したところ、この2名はソ連情報部OGPUの工作員であった事が判明し、各種の情報収集活動でソ連の不興を買った小柳は意図的に嵌められた形となりました。
国際問題化した事件の責任を取るという形で、小柳は1929年3月7日にモスクワの海軍武官室にて自決。この一件は日本国内外に大きな衝撃を与えました。
(続く)
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