北関東の小牧長久手!?沼尻合戦
こんばんは、お疲れ様です!
皆さんは、沼尻合戦という戦いをご存じでしょうか?あまり有名ではないので知らない人がいても当然といえば当然ですが、この合戦は小牧長久手の戦いと連動したものであったため北関東版 小牧長久手の戦いともいわれたりしています。今日はそんな沼尻合戦についてご紹介したいと思います。
事の始まりは天正11年9月
厩橋城 北条芳林(高広)の開城・降伏。当主 北条氏直が自ら出陣して厩橋城攻めを行い降伏させた。これに危機感を抱いたのは佐竹義重や宇都宮国綱、佐野宗綱などの反北条派の武将たち。そして、金山城主 由良国繁、館林城主 長尾顕長兄弟が厩橋城の北条氏直の元を訪れその際に、佐竹氏を攻めるための拠点として金山城と館林城の借用の申し入れを受けた。兄弟はそれを承諾したがこれを接収と思った由良・長尾家臣団が籠城の支度を始めた。北条氏はこれを謀反とみなして兄弟を即刻、拘束し小田原に連行した。当主不在の由良・長尾家臣団は佐竹義重らに援軍を要請。このため北条氏は栗橋城、厩橋城、膳城などの守備を固めた。11月27日、由良・長尾連合軍に富岡氏が居城とする小泉城を攻められるが防戦に努め勝利したと北条氏直の書状にある。12月6日、北条氏直は大藤政信と鉄砲隊を援軍として派遣し宇津木氏久を那波顕宗の軍事指揮下に入らせるなどして由良・長尾・佐竹氏らへ備えた。
年が明けて天正12年、北関東連合軍との戦いは引き続き行われていた。
2月24日、小泉城に佐野宗綱の軍勢が攻め込む。しかし、富岡秀長・氏高や大藤政信らが手堅く防戦し、敵を数多討ち取るなど戦果をあげている。
氏直はこれを称賛し鉄砲の玉薬を進呈することを知らせた。小泉城の守りは非常に堅かった模様。
由良・長尾連合軍や佐野勢が城攻めで戦果をあげられずにいる中、北条氏はようやく小泉城の本格的な支援を開始する。3月18日、北条氏直は陣触れを発し26日に久々宇・本庄まで着陣するよう命じた。北条軍の戦略としては小泉城を攻める敵方の拠点を叩くというものであり、まず小泉城の救援に向かいそれから長尾軍の重要拠点・足利城に向かった。28日には北条軍の先陣(おそらく北条氏照)が下野足利領に侵攻。氏政・氏直率いる本軍も下野佐野領、結城領に侵攻し小競り合いが起きている。その後、氏政・氏直は佐野から上野に陣替えをした。
この頃、西では織田信雄・徳川家康と豊臣秀吉との関係が悪化し、小牧長久手の戦いが勃発。同盟を結んでいた徳川家康から北条氏に対して援軍要請があった。氏政・氏直はすでに下野に出陣してしまっていたため、伊豆韮山城の北条氏規を通じて「それに応じる用意がある」と返答し氏政か氏直かのどちらかを総大将として援軍に向かう方針を示す。
4月22日、相模玉縄城主・北条氏勝が桐生深沢城を攻め阿久沢彦二郎(のちに能登守)を寝返らせることに成功する。阿久沢彦二郎を調略したのは由良氏と真田氏の連携を絶つためと思われる。阿久沢彦二郎は北条氏から五覧田城の攻略を命じられ味方に多くの犠牲を出しながらも7月3日ついに攻略に成功した。4月23日、上野在陣中の氏政・氏直のもとに長久手の戦いで大勝したことを知らせる家康からの書状が届き、勝利を祝う返答を書いている。また、北条氏も沼尻合戦の戦況を北条氏規を通じて徳川家康に知らせていた。
一方、北関東連合軍はというと
佐竹義重は天正12年3月下旬に常陸太田城から宇都宮城に向けて出陣し、4月12日頃に着陣。4月22日、下野小山領に侵攻し北条軍と激しい合戦となっている。
その後、北条軍は上野側から北関東連合軍は下野小山側から沼尻にそれぞれ進軍。北条軍は三毳山付近に布陣し両軍は対峙する。そして、約三か月に及ぶ睨み合いが続くことになった。兵の数には諸説あるが北条軍7万、北関東連合軍2,3万。北条軍は里見義頼から援軍を得ており、佐竹義重は関東や南陸奥の味方勢力をすべて動員している。北関東連合軍は総数8千丁の鉄砲を用意している。
合戦が膠着状態になって長陣に疲れた兵士たちが乗馬をしたり夏には敵味方ともに花火を上げて楽しんだと「北条記」に記されている。
由良・長尾軍は北条軍の主力が沼尻に釘付けになっているのを好機として北条軍の兵站基地である上野古海を攻撃。しかし、大藤政信の活躍により撃退。6月13日、北条氏は常陸小田城主・梶原政景を調略し後方錯乱を図る。小田城は下野沼尻と常陸太田の中間点にあり佐竹氏は本国との連絡が絶たれる恐れが生じた。さらに天正12年7月15日、北条軍は北関東連合軍の退路 岩舟山を占拠する。これによって一気に戦況は北条有利へ動き出すが、上杉景勝が上野国境まで進軍してきたという情報が流れたことを受けて北条氏も急遽、和睦に動き出す。7月22日、血判起請文を交わして23日両軍ともに陣を解く。しかし、和睦後も完全撤兵とはならなかった。北条軍は帰路の途中で新田領・館林領を攻めたが戦果はあげられなかったため一旦、小田原に帰陣。
帰陣後、北条氏は家康への援軍として太田越前守や遠山直景に出陣準備を命じており要請があり次第援軍を送るつもりだった。しかし、11月11日に織田信雄が豊臣秀吉と和睦したことでとりあえずは終結。
北条氏は徳川家康への援軍を優先したため金山城攻めを後回しにしていた。由良国繁はすぐには金山城攻めがないと判断し攻勢に出る。新田と桐生から軍勢を出し北条方の深沢城を攻めた。深沢城に詰めていた阿久沢能登守らが奮戦し由良軍を撃退した。かなりの激戦だったと思われる。北条氏直はこの時、奮戦した武将9人に感状を与えている。この後も由良軍の攻撃は続いたと考えられ阿久沢能登守は討ち取った首級の代わりに鼻を削いで北条氏直のもとに送った。
12月になると北条氏は金山城と館林城を本格的に攻めた。上野国内に在陣していた北条氏照は12月10日に下野藤岡城に軍勢を向かわせているので12月初旬には金山城は北条の手に渡っている。
その後、氏照は忍城主 成田氏長と共に藤岡城を攻めるため下野に向かった。藤岡城は長尾顕長が管理していたようだ。藤岡在城衆が早々に城を放棄したため、氏照は藤岡城を接収。藤岡城に軍勢を集結させてから12月24日、館林城攻めの指示を出している。氏照の軍勢は渡良瀬川を越えて館林城に攻め入り年明けを待たずして城は氏照の手に落ちた。翌年正月に北条氏直が上野に入り最終的な戦後処理を行っている。そして、由良氏と足利長尾氏は領地削減・没収を受け国繁は桐生へ顕長は足利へ退去。金山城や館林城は北条氏の直轄となる。
一方、小泉城で奮戦した富岡氏は北条氏直から由良・長尾氏から没収した新田領から十一ヶ所、館林領から十ヶ所と領地を与えられ北条氏は富岡氏の働きを高く評価した。天正13年正月頃に富岡秀長は北条氏に宛て一通の書状を出している。それは小泉城を北条氏に進上して氏照か氏邦の家臣となることを希望するもの。北条領国の境目で先祖相伝の土地を守るより北条領国内で北条氏に仕えた方が家を存続できると由良・長尾問題の結果を見てそう思ったのかもしれない。
この合戦はその後の関東の勢力圏に大きな影響を与えた。
北条氏は沼尻合戦から三年後の天正15年までに壬生氏、皆川氏、佐野氏など下野の大半の国衆を従属させている。那須氏も伊達政宗との連携関係を成立させて以降、北条氏と通交するようになっていて下野において敵対関係にあるのは宇都宮氏のみとなっていた。そして、宇都宮氏は北条軍に宇都宮城下や寺社を焼き討ちされるまでに追い詰められている。そこで頼ったのが豊臣秀吉。関東に出陣するよう要請していたが秀吉は忙しく断られ続けた。
そして、長年要請してきた秀吉の関東出陣は天正18年ようやく果たされる。
参考文献:
「上州の150傑 戦国人」上毛新聞社
黒田基樹「北条氏年表」高志書院
黒田基樹「北条氏政」ミネルヴァ書房
黒田基樹「戦国大名・北条氏直」角川選書
久保田順一「戦国上野国衆事典」戎光祥出版