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北条氏直の家臣団

こんにちは!皆さんお久しぶりです。
今年も終わりが近付いてきましたが、皆さま如何お過ごしでしょうか?

今日は北条氏直公の新暦の命日。
小田原合戦で高野山に蟄居を命じられますが翌年に豊臣秀吉から赦免されて、1万石の大名として復活します。その後、国持大名として復活する予定でしたが、大坂で病死したため実現しませんでした。

今回は氏直公を支えた家臣団にスポットを当てそれぞれの活動や生涯について紹介していきたいと思います。


氏直公の家臣たちはその多くが偏諱を受けていますが、これは当時の慣習では忠誠や主従関係を示すために与えられるもので、重要な役割を果たしていました。

筆頭家臣

松田左馬助直秀


松田憲秀の次男で嫡子。家老で小田原衆筆頭を務めた。北条氏直より3歳ほど年上。天正17年時点で左馬助を称していてすでに家督は直秀が継いでいたことがわかる。小田原合戦の際には小田原城に籠城。小田原城籠城中に父と兄が敵方に内応するという事件が起こり氏直から感状を与えられている。高野山で直憲(別人説あり)と改名して、その後は前田家に仕えた。

主要家臣と側近

松田助六郎直長


松田康長の子。「直」は氏直より与えられた。
小田原合戦の際、最前線である山中城で陥落と共に壮絶な討死を遂げた父・康長の遺領を継ぎ相模国愛甲郡荻野郷、伊豆牧郷などを領した。開城後は氏直たちとは完全に別行動をとっている。徳川家康に仕えて旗本になり、旧領荻野郷など230石を知行した。のちに加増を受けている。慶長19年、大坂の陣が勃発するとこれに参陣。寛永2年、相模国荻野郷、上総国山辺郡、上総国香取郡内など430石余を与えられる。その後、徳川家綱付きとなった。明暦3年死去。

大道寺孫九郎直繁


大道寺政繁の嫡男。母は遠山綱景の娘。直繁の「直」は主君・氏直より「繁」は父・政繁より与えられたものである。小田原合戦の際は、父・政繁は松井田城にいたが直繁は小田原で籠城。小田原開城後は、氏直と共に高野山へ。氏直死後は徳川秀忠に仕えた。直繁の孫には甲州流軍学者 大道寺友山がいる。

大道寺新四郎直重(直昌)


大道寺政繁の次男。直重の「直」は北条氏直からの偏諱。天正壬午の乱の際には人質として徳川家康のもとに送られた。しかし、必要なしとしてすぐに帰されている。小田原合戦においては父・政繁と共に松井田城に籠城したがその後、開城・降伏した。戦後は氏直と共に高野山へ入る。死後は前田利政に仕えその改易後、松平忠吉に2千石という高禄で招かれた。忠吉死後は徳川義直に2千5百石で仕えた。子孫は城代家老を務めた。

内藤左近将監直行


内藤綱秀の嫡男。松田憲秀の娘婿で津久井城主。
直行の「直」は北条氏直から与えられた。
小田原合戦では父・綱秀と共に小田原城に籠城していたと思われる。松田憲秀の内応事件にも関わっている。開城後、氏直と共に高野山へ入りその死後は、助右衛門直政と改名し前田家に仕え加賀に移住した。

遠山新次郎直吉


遠山康光の嫡孫。
天正6年、由良成繁が遠山康光に宛てた書状において「愛満殿(直吉)は北条氏直によく奉公している」と記している。小田原城開城後、北条氏直の高野山謹慎に同行するため帰国するまでの間、徳川家康は相州白根郷に住む直吉の妻子の安全を保障している。その後、直吉は帰国して徳川家に仕えた。

垪和又太郎

垪和氏続の嫡男といわれている。伊予守。
天正7年、北条氏直より「直」の字を与えられ直?(2文字目不明)と名乗っている。天正10年の神流川の戦いでは、氏続と共に北条氏政に戦功を賞されている。その後、北条家は信濃佐久平に侵攻したのでこれに従軍。天正14年、北条氏政と徳川家康が三島で面会したとき伊予守も参加し、家康から刀などを贈呈された。

山上強右衛門尉久忠


山上忠詮の孫で近江甲賀衆の出身と思われる。天正期になって北条氏の誘いにより関東に移った比較的新規の家臣。忍びの活動などによって北条氏直から信任を得て天正10年以降、奉行に昇進。若神子の戦いの際には武田家旧臣・曲淵吉景と舌戦を繰り広げる。天正17年、名胡桃城事件後に状況把握のため派遣された。小田原合戦の際には伊豆山中城へ派遣され見届けを命じられている。(山中城から脱出して小田原城へ逃げたとも。)小田原開城後、久忠は氏直に従い高野山謹慎に同行した。氏直赦免後の8月25日、久忠に350石の知行が与えられている。氏直死後、徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦いでは徳川家康の使番として従軍、黒田長政の許へ行き小早川秀秋の使者を務める。その後は松平忠長に仕えた。

山角治部大輔直繁


山角康定・定勝兄弟の一族と思われるが詳細は不明。奉者を務める。直繁の「直」は主君・北条氏直からの偏諱。小田原開城後、高野山へ同行し氏直の側近を務めた。文禄元年の書状にて氏直の死去を無念と伝えている。それから、徳川家康に仕えた。

垪和善七郎豊繁


垪和康忠の一族?氏直の側近家臣。上野宇津木氏への取次を務めている。小田原合戦の際には織田信雄家臣・岡田利世が包囲中の小田原城をひそかに訪問。そのとき、彼を手引きしたのが垪和豊繁。その後、岡田利世は北条氏直と直接会い二晩に渡って酒を飲み交わしたといわれる。

庄弥四郎直能


庄康正の嫡男。天正7年、氏直の偏諱を受けた側近家臣。
天正8年、龍鳳寺(現:厚木市)に10貫文の地を寺領として寄進。小田原開城後は徳川家康に仕えて右筆となった。元和元年死去。


参考文献:
黒田基樹「増補改訂版 戦国北条家一族事典」,戎光祥出版
黒田基樹「シリーズ・中世関東武士の研究第二九巻 北条氏直」,戎光祥出版
下山治久「後北条氏家臣団人名辞典」,東京堂出版
黒田基樹「戦国大名・北条氏直」,角川選書

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