想像力ー自らのイマジネーションを駆使して思い描くこと
「私の失敗」は建築家自身が自分たちの失敗を赤裸々に語るコラムです。建築家たちはさまざまな失敗を重ね、そこから学び、常に自分たちを研鑽しています。そんな建築家たちの試行をご覧ください!
執筆者:古谷誠章(NASCA)
目次
●建築を巡る失敗について
●「魔が差し」てしまう
●想像を尽くすこと
建築を巡る失敗について
仕事の経験もそれなりに長くなってくると、建築を巡る失敗は実はたくさんあって、ディテールをしくじってのっけから手直しをしたり、竣工時には気付かなくても年月と共に不具合が出たり、後からこうしておけばよかった、あの材料を選んでおけばよかった、監理の目がもうひとつ行き届かなかったなどという、先には立ってくれない後悔は多いものです。クライアントからのクレームを待つまでもなく、自分の目にも明らかな“ダメ”というものは、実に情けなくなります。スタッフを叱り飛ばしてももはや元には戻らないし。
それがどういうわけか、いかにも難しい納まりをしていても、設計中や施工中にみんなで侃々諤々、とことん叩き合った箇所にはこういう失敗は案外少なく、何でもない普通のところ、担当者も施工者もなぜかスルッと看過していたところに、得てしてトラブルは起こります。
魔が差すなどといっちゃうと、何か人のせいのように聞こえるけど、実のところ単純な自分自身の想像力の不足によって、ミスは起こってしまうのが本当に怖い。
水勾配が僅かに逆だったために、いつも雨水が溜まってしまう階段や、開き勝手が逆さで、何だか出し入れしにくいクローゼットや、開けるのはよいけど閉めようとするとうまく手の届かない「辷り出し」窓や、「チリ」の加減を間違って、どうしても伸び縮みで歪んでしまう床材など、まったく自慢にならない失敗がいくつもあります。
もちろんとても褒められた話ではありませんが、それでもこうした物理的な失敗よりも、もっともっと恐ろしいのが、それによってクライアントやユーザーの信頼を損なってしまうことです。技術的な不具合は、やり直せばすむもの(もっとも、なぜだか一旦うまくいかないと、何度やり直してもどうしても直らないことが不思議と多いので、これはこれで大変厄介)でもありますが、それこそ一度損なった人の信頼はなかなか取り戻すことができません。
年の初めに、こんな怖い話をするのは気が引けますが、僕もこの2月に間もなく還暦を迎えますので、初心に戻ったつもりでそんな苦い経験をいくつか告白したいと思います。僕より若い人たちにとって、少しでも参考になれば幸いですが。
「魔が差し」てしまう
20年前に母校である早稲田大学に戻った僕は、後輩である八木佐千子と共に有限会社ナスカ(NASCA)という設計事務所を立ち上げました。
その第一号作品が「香北町立やなしたかし記念館・アンパンマンミュージアム」(『新建築』1996年11月号掲載)で、故やなせたかしさんの生まれ故郷である高知県香北町(現:高知県香美市)に建っています。
開館の1年後には、その別館である「香北町立やなせたかし記念館・詩とメルヘン絵本館」(『新建築』1998年11月号掲載)の設計を依頼されます。
アンパンマンミュージアムには、大変多くの来場者があり、台風による悪天候の中でもたくさんの子供たちが見にきてくれました。やなせ記念館として、たまには大人向けの展示もしようと計画していましたが、こうなるととてもそれどころではありません。やなせさんはそのための別棟を町に寄贈することを思い立ちます。その設計者としてナスカを指名してくれました。まさに建築家冥利に尽きる大変嬉しいことでした。しかしそこに「魔が差し」てしまいます。
絵本館はやなせさんの創刊した雑誌『詩とメルヘン』の表紙原画を展示し、そのバックナンバーを陳列する絵本のギャラリーです。
もちろんオリジナルの表紙原画が展示の主役ですから、まずやなせさんのスタジオでそのサイズを測らせてもらいました。その寸法に合わせて木の壁に1枚ずつ絵が納まるように、スリットを等間隔に入れました。館の内部からは外の様子が窺え、夕方になると館内の灯りが外にこぼれ出すという、内外の気配を結ぶ装置をデザインしたのです。
「壁に納まる原画の寸法」というものを僕はずっと鵜呑みにしていました。ところが実はそれは原画自体の寸法で、本当はそれぞれが特注の額に納まっていたのです。寸法には額縁の分は含まれていませんでした。
建物の完成間際になり、いよいよ壁に額を掛ける段になって、やなせさんは元の額縁をそのまま使いたいと言われました。僕はその場合でも壁には掛けられると思っていたのですが、まったくのミス・アンダスタンディングでした。額を新調しない限りスリット間に納まらず、大騒ぎになりました。
やなせさんが呆れて曰く「ギャラリーは作品を展示するためのもので、建築に合わせて作品の額を切り詰めるなんて聞いたことがない!」 怒り出すのも当然のことです。僕は顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしました。
技術的な不具合が発端となって、結果として仕事を全うできない事態に至ったこともあります。
徳島県で初の緩和ケア病棟をもつ「近藤内科病院・ホスピス徳島」(『新建築』2002年12月号)を竣工させた後、病院と連動させて地域医療や、高齢者に対するケアの拠点となるグループホームの設計を依頼されます。
ホスピスに引き続き大学の研究室で卒論のテーマに取り上げ、いかにも「施設」然とならぬよう、それぞれの個室のしつらいを変化させ、木造で「在所」のような感覚の平面計画を構想しました。建物全体を覆う大屋根が、夏場の日射を遮蔽して室内を快適に保つはずでした。しかし、竣工間際にケラバの処理の不十分だった置き屋根から雨漏りが発生してしまいます。その後の対応も後手に回り、結局、監理の不手際を指摘され信頼を損なってしまいました。改修は別会社となって監理からも降りることになってしまいました。クライアントとの意思疎通に関わる、後にも先にももっとも大きな失敗で、痛恨の極みです。
想像を尽くすこと
最後にもうひとつ、「茅野市民館」(『新建築』2005年11月号)にまつわる話を書きましょう。もちろん技術的な問題もいくつか出て手直しもしましたが、それらよりも心残りなことがあります。
多くの市民との5年間にわたる協働によって完成し、今では竣工後ほぼ10年が経ち、熱心なサポーターのおかげもあって年を追うごとに活発に利用されている姿を見るのはとても嬉しいのですが、いまだに悔やまれるのが、そのサポーターの拠点となる居場所が、十分に計画できなかったことです。
現在は本来は練習スタジオとなる個室を使ってくれていますが、設計時の平面計画大詰めの段階で、どうしても適所が見つからず、相応しい空間を捻出することができなかったのです。たしかに当時の僕には、ほかにも解決すべき気になる箇所がいくつもあって、とても頭が回りませんでした。しかし、竣工後の長い年月の運営を担っていく市民サポーターにとっては、本当にその活動拠点は死活問題だったはずで、僕たちはその想いに十分に寄り添うことができなかったのです。当時の担当者たちは文字通りてんてこ舞いだったはずですから、ほかならぬ僕自身がもっと声を大にして的確な指示を出さねばならなかったのです。
すべては、建築家と向かい合っている、依頼主や、竣工後の建築の担い手たち、それぞれに異なる立場から同じプロジェクトに参画している人たちが、どんな気持ちで、どんな期待と不安を抱いて臨んでいるのか、それを僕たちが自らのイマジネーションを駆使して思い描くこと以外に、こうした失敗を防ぐ手立てはありません。見えないものを形にする建築家にとってもっとも重要なのは、やっぱり想像力に尽きると思います。どんなに経験を積んだとしても、その経験では推し量れない、人の気持ちというものがあるからです。
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