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ふたつの「通路」─『新建築』2018年11月号月評

「月評」は『新建築』の掲載プロジェクト・論文(時には編集のあり方)をさまざまな評者がさまざまな視点から批評する名物企画です.「月評出張版」では,本誌記事をnoteをご覧の皆様にお届けします!
(本記事の写真は特記なき場合は「新建築社写真部」によるものです)



評者:連勇太朗

「境界」

社会にはさまざまな境界があります.
目に見える物理的な境界と,目に見えない不可視の境界.都市空間は,ひとりの生活者の視点では連続的なものとして経験されますが,管理,制度,法規のフィルターから覗き込めば,実際はさまざまな境界によって空間が構成されていることが分かります.

境界は社会を安定的に運営していくために設けられた知恵の結晶であることは事実ですが,しかしそれ自体が自己目的化することで,意図せず不自由で不合理な境界を産出してしまうものです.
効率化と合理化を標榜した近代は,そんな風景を大量に生み出してきました.
境界が都市生活におけるハードルや障害として意識化された時,それを空間と制度の両面から変えていこうとする運動が,昨今,公共空間創出のトレンドになっているタクティカルアーバニズムだったりするのかもしれません.あるいは,テック系スタートアップによる自動運転やドローンをはじめとした交通や流通の定義を根本から覆すような新しいサービスなのかもしれません.

こうした動きに比べて建築(家)はとても窮屈な存在に思えますが,さまざまな境界が融解,再編,再定義される現代において,重く硬い存在である建築の境界を物理的にも制度的にも疑い,その内実を再構成していくことが,(時間はかかっても)次の時代にバトンを渡していくことに繋がるのだと思います.




ふたつの「通路」─『渋谷ストリーム』と『豊洲市場』を巡って

前置きが長くなりましたが,今月の新建築の冒頭に収められている渋谷再開発プロジェクト(渋谷ストリーム,渋谷ブリッジ)豊洲市場を見ながらそんなことを思ったのです.事業主体も目的もまったく異なるこのふたつのプロジェクトを素朴に比較することはアンフェアであることは了解しつつも,あえて同じ土俵の上で比べてみたいと思います.特にこのふたつのプロジェクトにおける「通路」は非常に対照的なものとして私の目には映りました.


「通路」以上のなにものでもなく─豊洲市場』

豊洲市場|日建設計

老朽化のため,築地市場に代わる新しい水産・青果の市場として築地市場から南に2.3kmの敷地に建てられた.食品の徹底的な衛生管理のため閉鎖型市場とし,コールドチェーンを確立,立体的でありながら効率のよい物流動線を確保している.また周辺市場の転配送を担う転配送センターや顧客のニーズに対応する加工パッケージ施設を整備し,首都圏のハブ市場として機能するよう計画された.

豊洲市場では,市場前駅を降りて,見学者通路に沿って7街区水産卸売場棟,6街区水産仲卸売場棟,そして5街区青果棟を見て回りました.

行って戻ってくるを繰り返す見学者通路は,名前の通り「通路」以上のなにものでもなく,狭い廊下の中で見学が終わった人が横を通り過ぎていきます.
見学通路と売場は綺麗に分けられ,来訪者は小さなフィックス窓から内部を一方的に鑑賞することしかできません.
文化的蓄積や観光に対する戦略は綺麗に漂白され,産業,制度,管理,政治的潔癖さのもと,すべてが「卸売市場」の施設として整理統合されています.制度や規則の境界がそのまま空間になっているかのようです.

ここには雑然としていた築地のあの活気はどこにもありません.インフォーマルな要素を豊洲は排除したのです.

それがこの施設の淡白さ,窮屈さ,味気なさに繋がっているのだと思います.それにより衛生や効率性を獲得したのかもしれませんが,失ったものもたくさんあるのです.インフォーマリティや不確実性は,境界侵犯の源泉であり,そうした領域から創造的な文化が生まれてくるきっかけがあります.


「通路」以上の豊かな質─『渋谷ストリーム』

夕方暗くなってから,ゆりかもめとりんかい線を乗り継ぎ,渋谷に移動して渋谷ストリームで食事をしました.

渋谷ストリーム|
東急設計コンサルタント 
小嶋一浩+赤松佳珠子/CAt(デザイン・アーキテクト)


旧東急東横線渋谷駅とその線路跡地に建つ商業,ホール,ホテル,オフィスからなる大規模複合施設.再開発にあたり,官民連携により約600mにおよぶ渋谷川および遊歩道の整備も行われた.渋谷川の再生,渋谷駅周辺街区を繋ぐ歩行者ネットワークや駅街区にも繋がる地下車路ネットワークの形成などの公共貢献によって,容積率1,350%まで緩和された.

渋谷ストリームの通路は歩いていて楽しい空間です.
さまざまな動きやものが立体的に交差し,流動的な渋谷の活気を感じさせます.場所ごとに外部性が組み込まれていることにより,自分自身がどこにいるのかが感覚的に分かるため, 方向音痴の人でも十分に渋谷の複雑性を楽しめる空間構成になっているのではないでしょうか.
渋谷川は裏から表へと生まれ変わり,周辺には新たなアクティビティと活力が生み出されています.その一方,見上げれば上空には床を積層させたオフィスビルが聳え立っています.

内藤廣氏のテキストが解説するように,ここは,公共性と経済性の壮大な引き換えゲームが行われた現場です.官民連携かつ領域横断的なプロジェクトゆえ,関係者の数や,数々の調整事項を想像しただけでも目眩がしてきますが,こうした前提やプロセスがあったからこそ,さまざまなものが交錯する「通路」以上の豊かな質を兼ね備えた空間が実現したのでしょう.


ふたつのプロジェクトは,所与の条件として存在するさまざまな境界を引き直したか,直していないかの違いとして現れたのだと言えます.
プロジェクトの枠組みがいかに最終的な空間に影響を与えているか,非常に分かりやすく示されているのです.当然,両プロジェクト共,設計者だけの問題ではないことは明白です.




「境界」を引き直すために

前提となる枠組みを気にせずよいものをつくることに集中できる建築家と,枠組みそのものから設計を求められてしまう建築家,どちらが幸せでしょうか.

そりゃ,建築家としてものづくりに集中できる方がいいって誰だってそう答えるに決まっていますが,しかし,2月号掲載の月評でも述べたように,前提となる民主主義すら正常に発動していないこの国で,建築家は制度として相当に脆弱です.

だから,枠組みに無自覚であってはいけないし,時に「前提」から変えていかなければいけないことがたくさんある気がするのです.
これは誰かがやってくれることではなく,ひとりひとりがやっていかなければいけないことです.われわれ建築家は表面のお化粧をしたいわけではないでしょう.

今年1年,『新建築』を通読して,そうした境界の不整合や整合に挑戦し,枠組みの領域にまで踏み込んで実現したプロジェクトに出会った時は嬉しくなると同時に,気が引き締まりました.
『新建築』という雑誌自体が,関連する制度や法令,プロジェクトが実現するに至った社会的背景や文脈,関連するステークホルダーや組織の紹介など,作品の周辺を説明する情報を数多く掲載していることにも驚きました.
『新建築』も枠組みの問題を扱わずして建築作品を語れなくなってきているというひとつの証左でしょう.

こうした方向性がこれからどのように洗練されていくのか(あるいは方向転換が図られるのか),とても重要ですが,われわれ読者のリテラシーも当然試されているのだと思います.


これで「平成最後の」月評が終わります.元号もひとつの境界です.
その背後には,さまざまな形式や制度が結び付いています.当然,この形式自体も自然発生的に生まれたものではなく,私たちの社会が選択してきた判断と蓄積のひとつです.境界侵犯を形式や制度を無視して実行しても,持続的な力にはなかなか結び付きません.今の社会において,境界が引かれていることの意味や背後にある形式や制度が軽んじられているような気がしてしまうのは残念なことです.

豊洲市場の屋上緑化広場に上がると,対岸にオリンピック・パラリンピック選手村の建設現場がたくさんのクレーンと共に見えます.
これらの施設はいつの間に着工したのでしょう.たぶん,知らないうちに完成して,気が付けば開会式がテレビで流れているのだと思います.悲しいかな,そんな社会に未来はないと思います.人びとに愛され,祝福される空間が溢れていく社会をつくるためには,ひとつずつ丁寧に境界を引き直す作業をしていく必要があるのでしょう.





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