建築にとって「他者」とは誰のことでしょうか?─『新建築』2017年12月号月評
からまりの他者性.
これは,平田晃久さんがTree-ness Houseの解説に書かれている言葉です.さて,この「他者」とは誰のことでしょう.
読み方はいくつもある気がしますが,僕は益子義弘さんが著書で書かれていた
「木陰の気持ちよさには,木の側にそうしてやろうという意図がないことも含まれている」
という言葉を思い出しました.
確かに「木」というただそこに超然と立つのみの存在に「気持ちよさ」というアビリティを与えているのは,木陰で休む誰かであって木ではありません.与えられるアビリティではなく,見出されるアビリティ,とでも言うのでしょうか.「誰か」の側が「気持ちよさ」のハンドルをちゃんと握っている感じが,まずもって気持ちよいことだ,というこの構図を裏返しに言えば,木はその下の出来事にとって他者然としている(本当はそうすらしていないのだけれど)ということになるわけで,つまりそのことが平田さんの言う「他者」なのかな,と僕は感じています.
では,その懐で暮らす「誰か」にとって,「他者」然とした木のごとき超然さをたたえる建築とは,誰(何)に向けて組み立てられるのでしょうか.
「建築のための建築」
当然湧いてくるそうした疑問に,平田さんは,「他者的…な階層構造を建築化する」と,もう一度「他者」という言葉を重ねて語ります.誤解を恐れずに言えば,Tree-ness Houseは「コンクリート」それそのものに向けて組み立てられているように僕には読めます.
圧縮材であり,仕上げであり,鉄筋の保護層であり,水はけのための微勾配であり,といった,コンクリートがその必要断面の内に折りたたんでいる働きのいくつかと,その施工上必須となる仮設計画等が逆算的に希求する形態的限界を,9mm鉄板の捨て型枠に転嫁することで突破する.
あるいはこの建築は,「塗装」のために組み立てられている.室内の石膏ボード,屋外の鉄,そして躯体の歩行面に各々の必然に即して塗られた,目的や成分の異なる「塗装」の白が,それぞれに異なる属性を他人事のように跨ぐ.結果僕たちは誌面に,よく知った質感が未知の様相でそこにある姿を見ることになりました.
今日のところ,建築家は木を創造することはできません.それどころか,「そうしてやろう」という意図を持たずには,まだまだ建築はつくり得ない.その建築を,コンクリートのため,塗装のため,つまり建築そのものに向けてつくる「建築のための建築」.
その結果,自然の形態的アナロジーとは異なる,建築それ自体に固有な構造や階層による,けれども質として「木」のそれに比類した「他者性」を立ち上げることに,Tree-ness Houseは肉薄しているように思います.
風や鳥に運ばれてきた種子が岩棚に自生する時,その岩は植物にとってやはり他者である.同じ意味でこの建築は,今はまだ行儀よく植えられた植物たちがその野性味を発揮し始める頃,「気持ちよさの他者性」をいよいよ帯び,そこに生きる「誰か」に,アビリティの見出し手としての真の人間味をもたらすのだろう.
ところで,益子義弘さん(勝手に引き合いに出してごめんなさい)と平田晃久さん.仮に建築家を分類する箱がいくつかあったなら,(僕にそんな仕分けをする資格はないけれど)一般的にはなかなか同じ箱には入れられないふたりではないかと思います.けれども僕は,その益子さんの下でキャリアをスタートされた堀部安嗣さんの仕事に,たった今Tree-ness Houseに向けて「建築のための建築」と書いた,その同じ気配を密かに感じています.
それはこの動く旅館船ガンツウが,建築を分類する箱を用意したなら,せんだいメディアテーク(『新建築』2001年3月号)や横浜港大さん橋国際客船ターミナル(『新建築』2002年6月号)と同じ箱に入るであろうセミ・モノコック構造だから,だけではなさそうです.
観光鉄道に見られる運転席を屋根に上げた先頭展望車に比して,操舵室を甲板レベルに下ろす船舶設計がどの程度の英断なのか興味がありますが,結果解放された上層先頭部に全溶接鉄骨造による極薄屋根の妻面をすらりと伸ばし,中層にはたった1室のスイートルームが進行方向を占める.
通常ならキャプテンが立ったであろう場所に置かれたこの部屋のベッドに限らず,当然のことながら方位から解放されたプランニングは,全グレードのベッドが足元を開口方向に向ける徹底ぶり.贅沢な断面の無垢材の多用は,それ自体の耐久性や人への安全性を鑑みた時,海上環境にあってはむしろ合理を感じさせ,かつ「乗り物」であることの軽妙さを削ぐことのない姿形と配置で視界を縁取る.
あるべきものがあるべき様相を伴ってあるべき場所にある設計は,それがもてなしやホスピタリティに向けられるものである以前に,ベッドそれそのものの,あるいはリネンの,木の,鉄のために組み立てられたものであるように思えてなりませんでした.そこに「建築のための建築」という言葉をあててしまうことをたぶん,この建築家は是としないに違いありませんが.
仕立て途中の仮縫いを見るような
なんとなく建築原理主義的なムードでスタートを切ってしまいましたが,たまたま訪れた青山スパイラルで偶然に遭遇したミュージアム・オブ・トゥギャザー展は,設置されたスロープと防火シャッターの干渉部など「ここぞ」のところで,ディテールに場当たり感が散見されるような,どちらかというと詰め切れていない感じが,むしろ仕立て途中の仮縫いを見るようでした.
一様化が困難なバリアフリーのためのディテールを短期間で実施するために生じたであろうこの「仮縫い感」は,結果的に会場構成を作品的な系に閉じることから解放しているようにも感じられ,展覧会がアールブリュットの文脈に接続するものであったこととあいまって,むしろ正しく「アウトサイダー」的に感じられたことも,「他者」に始まったここに書き添えたいと思います.
触れるべき作品や文章は他にも多く,言及を逃す非礼は字数を言い訳に許していただくしかありませんが,今後もわがままに開き直って,2,3作に絞り込んだ拙評を重ねてしまうかもしれません.そんな可能性をあらかじめお詫びしつつ,1年間よろしくお願いいたします.
最後に私ごとですが,僕が大学で受け持つゼミは,元倉眞琴さんより引き継いだ研究室になります.これから12回担当する月評の初回で,よもやその訃報に触れることになろうとは.元倉さんの前任が益子義弘さんであったことは,冒頭その言葉をお借りした理由ではありませんが,この身に余るバトンを握りしめ,できる限り遠くまで運びたいと思います.
「月評」は前号の掲載プロジェクト・論文(時には編集のあり方)をさまざまな評者がさまざまな視点から批評するという『新建築』の名物企画です.「月評出張版」では,本誌と少し記事の表現の仕方を変えたり,読者の意見を受け取ることでより多くの人に月評が届くことができれば良いなと考えております!
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