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駆け出しの頃、辺境の地にて

「私の失敗」は建築家自身が自分たちの失敗を赤裸々に語るコラムです。建築家たちはさまざまな失敗を重ね、そこから学び、常に自分たちを研鑽しています。
そんな建築家たちの試行をご覧ください!


執筆者:堀部安嗣
1967年神奈川県生まれ/1990年筑波大学芸術専門群環境デザインコース卒業/1991〜94年益子アトリエ/1994年堀部安嗣建築設計事務所設立/現在、京都造形芸術大学大学院教授/2002年「牛久のギャラリー」(『新建築』0108)で第18回吉岡賞受賞/主な著書に『堀部安嗣の建築 form and imagination』(2007年、TOTO出版)、『堀部安嗣』(『JA90』)



建築家には、画家や音楽家が担う芸術的な仕事としての役割もあるが、同時に医者や弁護士と同じように、人の命や人生を大きく左右させてしまう責任の重い仕事としての側面ももち合わせている。人の命や生活を預かっている側面においての結果的な失敗は、医者の失敗と同じように許されない。
特に個人の住宅の設計においてはその責任はかなり重い。建主は一生懸命に働いて稼いだ大金を使って家を建て、それからの人生のほとんどをその建物の中で過ごすこととなるのだから。

結果的な失敗は決してできないが、しかしその過程においては幾多の失敗やミスは必ずあり、そのことを反省し、解決しながら最終的には〈正〉の結果に必ず結び付けていかなければならないのがこの仕事であるといえる。
つまり失敗も、過去の笑い話になるように努めなくてはならないのである。


今までの設計活動を振り返ってみると、私の場合、人とのコミュニケーションの中で生じる誤解や行き違いが引き金となって、問題になっていった失敗がいろいろと思い浮かぶ。
物理的な問題、たとえば窓のディテールが甘かったとか、外壁の色が思い通りでなかったとか、そのような失敗はさほどたいした問題ではなかったと思えるほど、人との信頼関係に関わる問題は修復が難しいからこそ大きい。何気ないほんの少しの口の聞き方が相手の気持ちを害すことになったり、あの時あの一言さえ言っていればこうはならなかった、と後悔をすることになったり、結局いちばん難しいのは生ものの人間の心理であり感情で、相手の気持ちと立場を十分に察したうえで、絶妙のタイミングでコミュニケーションを図っていかなければ建築はつくれないのだ。


建築をつくる怖さをまだ知らなかった独立したての頃の仕事に失敗はやはり多い。身の程知らずの言動が招いた失敗をいくつも思い出すことができる。
師である益子義弘先生の元から無謀にも独立をしたのは、26歳の時である。建築家としてこれからずっとやっていける、というような勝算や責任のようなものはまったくなく、ただ自分の仕事が舞い込んできたので、そのチャンスをなんとかものにしたいとの一心で駆け出した。

処女作の住宅は研ぎ澄まされた自分の建築空間を求めてミリ単位で徹底的に図面を描いた。振り返れば自身の考えを疑わず、〈こうあるべきだ〉との思いに酔った。建物はなるべく平面をコンパクトに納め、また木陰に埋もれながら周囲から突出しないように高さをかなり低く抑えた設計にした。このいってみれば〈謙虚〉な佇まいを驕っていた。

筆者の処女作である「南の家」(1995年)東側外観。
撮影:新建築社写真部

場所は鹿児島県の陸の孤島のような辺境の地。
町は過疎化が進み、若い人の影は見当たらないようなところであったが、現場からさほど離れていない土建屋がこの家の施工を請け負ってくれることとなった。現場を見てくれる監督は頭の回転も速く、人柄も温厚で今まで通りの現場が始まると思っていた。柱や梁が刻まれ加工場に保管されているとのことで早速、隣町の加工場へと出向いた。そこではじめて今回の家をつくってくれる棟梁に出会い、和やかに挨拶を交わしたのは束の間、柱が設計よりも長いことに気付いた。棟梁に「柱が長いように思うけれども図面通りの長さですか?」と尋ねた。すると棟梁は柔やかに「図面よりも2尺(約600mm)長くしておいたよ。」と答えた。

つまり、棟梁としては私がコストを心配して建物の高さを低くしていると察し、それならば予算内でもっとたっぷりした寸法でつくってあげるよ、という善意からのことだったのである。しかし柱が長いことに気付いていなければ図面とはまったく違う建物になっており、その身の凍るような思いから私は 「冗談ではない。この図面で請負契約をしているわけだから、図面通りにつくるのは当たり前であり、すぐに図面通りの寸法に直してほしい。以後、このような勝手な解釈は一切認めない。」と棟梁を強く非難した。すると棟梁は今までの温厚な表情から一転、「こんな背の低い貧しくみっともない家をつくったら、ここに住む一家が滅びてしまう。こんな設計を好んでするのは正気とは思えない。」と怒鳴った。そして「俺の善意に対してそういうものの言い方をするのか。こんな設計屋の仕事は俺はやらない。」ともっていたタオルを床に投げ捨て加工場から出て行ってしまった。自分にはそこで起こったことが一体どういうことか分からず、しばし呆然となった。今まで現場でこんな出来事はなかったからだ。師の元での修行中には、当然設計者が描いた図面通りに忠実に施工されるのが当たり前で、そのことを疑う余地もなかった。今までは師に守られていたのだ。その時独立して自分の建築をつくるということはこういうことなのか、と思った。


その後、監督や町の人に聞くと、この地域において家の背の高さや豪華さは一家の繁栄の象徴であり、家づくりにあたってはとても大切にしているということであることが分かった。
〈郷に入れば郷に従え〉その慣習に倣うことの方が実は〈調和〉や〈自然さ〉という観点では重要なことなのではないか、背の低い家は反対に周囲から突出した違和感を与えるのではないか、という話だった。
自分は今までの環境や出会ったものの考えの中からのみ建築の調和や佇まいをきれいごととして考えすぎていたのだ。その時自分の設計の至らなさと見識の狭さを痛感することとなった。それからは自分のつくるべき建築とはなんなのか、ということを自問し続けた。しばらく悩んだ末に自分はやはり今までの設計通りでいくということを決めた。今まで育んできた自分の価値観を貫き通すことが今やるべきこととの思いが結局勝ったのだ。そして監督に別の大工を探してほしいと相談をもちかけたら、「この家を技術的にきちんとつくれる大工はあの棟梁しかいない。口は悪いが腕は一級品で、この地域であの棟梁の代わりの大工を見つけることは困難だ。」と言われた。
他に選択肢がないということであれば、なんとか棟梁との関係を修復すべき手段を考えなければならない。そうしなければ自分の処女作は実現しないのだから。

焼酎の一升瓶を買い、棟梁の自宅に詫びに出かけた。自分の口の聞き方が間違っていたことを必至に謝罪した。しかし「お前の顔は見たくない。」と追い払われた。その後何度も家を訪れ、奥さんに詫び、不在の時には玄関先に一升瓶を置いていった。そんなことが何回か続いた後、先方から一杯呑みに行こうと誘いがあった。それはどうやら監督の計らいであったようだが、その時は飛び上がるように嬉しかった。しかし肝心の建築や仕事の話はまったくなく、棟梁はひたすらカラオケを高らかに歌い上げていた。その後数回、同じように呑みに出かけた。そして会計はいつも自分が面倒見ることになった。建築はローコストであったけれども、思いのほかコストがかかった。許してくれたのかどうなのかまったく分からないまま、しかし棟梁が再び現場に入ることとなった。その後はなんとか図面通りにつくってくれた。とにかく分かりやすく、かつ生意気に感じさせない図面を描く努力をし、なにより相手の気持ちを害すことなく、事が穏便に進むような口の聞き方を必至で勉強した。


竣工のおよそ1カ月前に棟梁は完成の姿を見ることなく現場を去ることになった。棟梁が機嫌のよい時を見計らって「完成したら見にきてください。」と言ったら、「自分の仕事の終わった現場にはもう興味がない。今度また呑みにいこう。」とだけ言い残し去っていった。そんな相変わらずの棟梁を微笑ましく思える、少し成長した自分がいた。そしてしばらくして、処女作は無事に完成した。

南側夕景。
撮影:新建築社写真部

エントランスから広間を見る。
撮影:新建築社写真部

広間南面。
撮影:新建築社写真部



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