建築と設計のこれから 若手建築家が語る,領域横断型のコラボレーション
建築に求められるものが多様で,時に複雑になった今,新たな建築のプロトタイプが求められています.建築をつくる環境の変化を前に,これからどのように設計に向かうのでしょうか.巻頭論壇では,コラボレーションをしながら公共施設の設計を手がけるアトリエ系事務所の若手設計者のみなさんに登壇いただきました.何のために建築が必要なのか,そこに何が求められているのか,さまざまな知恵を集めて考える.その中で見出していくそれぞれの設計者の役割からは,新しい建築家像が見えてきます.(編)※『新建築』2018年1月号より転載
設計の現状をめぐって
座談会の様子.左から藤原徹平氏,畝森泰行氏,西澤徹夫氏,百田有希氏,大西麻貴氏,青木淳氏.
──近年,公共のプロポーザルコンペにおいて,30~40代の若い世代が選出されることが増えている一方で,デザインビルド方式の採用などによる,設計のあり方に対する危機意識も生じています.建築業界の変化に対して,どのように新しいアイデアを提案し,プロジェクトをつくっていくことができるのでしょうか.
青木淳(以下,青木) 建築論壇「変貌する建築家の生態」(『新建築』2017年10月号掲載)で,槇文彦さんが,建築市場のパイが確実に減少している中,日本の建築を取り巻くこれまでの環境が既に大きく変わってしまっていることを指摘されました.
確かに,国土交通省が公表している資料を覗いてみたんですけれど,戦後の建設投資額は1992年度の84兆円をピークとして,以降減っていき,2010年度に41兆円と半減しています.その後は若干増えていって,2017年度の見通しは55兆円と,ピーク時の2/3になっています.が,やはり日本の建築環境は,建設投資額の底であった2010年,あるいは2011年の東日本大震災あたりで,構造的変化があったと見てよいでしょう.
となると,ことは日本の建築界全体,いや社会全体に関わるほど大きな問題なので,設計と施工の両面,あるいは発注者と受注者の両面から考えていくべきことですね.
仮に,その中から設計という領域を選んで,そこにスポットを当てるとしても,アトリエ事務所,組織事務所,ゼネコンの設計部と,それぞれの立場から,鳥瞰的な視野を築いていきたいところです.実際,畝森泰行さんは「須賀川市民交流センター」で石本建築事務所と組んで設計をされていますし,少なくとも組織事務所の方にも入って議論したかったところですが,今日はまずは若い人たち,中でもアトリエ事務所の人たちだけに集まっていただくことになりました.
それは,槇さんの論考もそういう視点で書かれていたわけですが,一般的には,この変化の中で最も強く危機感を持っているのがアトリエ事務所ということからですし,またその中でも若い人たちは,その危機を矢面に立って受け止め,これまでの建築家とは異なるアプローチを試行しているように思えるからです.そこに設計のこれからの萌芽があるかもしれません.
ではまず,それぞれの方から,設計をめぐる現状について,どのように捉えているか,話していただきましょうか.
大西麻貴(以下,大西) 青木さんから,2011年の東日本大震災がひとつの変化の節目として挙げられましたが,自分たちがその頃,何をしていたのかと思い返してみると,ちょうど学生から社会人になった頃でした.
自分たちが独立したてで,かつ若かったからなのか,社会の状況によるものだったのかは分かりませんが,確かにあの時,特に全体的に若手の建築家の仕事がなくて,自分たちで種をまいて畑を耕していくところからやっていかないとだめなんじゃないかと考える機運があったことを思い出しました.
建築を通してできることは何だろう,何のためにその場所に建築が必要なのだろうと考えながら,特に頼まれているわけではないところに仕事を生み出していく,震災以前からそうした機運が芽生えつつあった中で東日本大震災が起きたのです.その後は震災復興というかたちで地域に出かけていくことも増え,そこで直接お話ししながら,建築のあり方を考える経験をしました.それは被災地だけでなく,小豆島をはじめとする日本全国のさまざまな地域において設計をする時も,公共のコンペに参加する時も,自然と「何のためにこの建築をつくるのか」ということをまちの人と共に考え,対話によってつくっていこうとするようになってきました.
百田有希(以下,百田) 建築への投資額が減っている現実がある一方,予算が限られているからこそ,建築に問われていることが大きくなっているんじゃないかという感じがしています.
僕たちは学生時代から就職する頃にかけて,藤本壮介さんや平田晃久さんといった少し上の世代が,日本にとどまらず世界に出ていくのを見てきました.その背景には,バブルが終わってなお公共投資が多くあり,せんだいメディアテーク(『新建築』2001年3月号掲載)はそのいちばん最後のプロジェクトと言えるかもしれませんが,そういう余力の中で新しい才能が生まれてきた側面もあるのかなという気がしています.対して僕たちの世代は,震災を経て地域に出かけていって多くの時間をその場所で過ごしながら仕事する,ということが自然というか当たり前になっていて,むしろそこに未来があるのではないかと考えるようになっていると思います.
地域の人との対話においても,たとえば図書館ひとつつくるにしても,それだけを考えるというよりは,街全体がその図書館によってどう変わるのかを考えたい,という気持ちを,建築家も地域の人も持っていると思います.
畝森泰行(以下,畝森) 僕は2009年に独立しました.
30歳くらいになったら当然独立するだろうという漠然とした思いでいざ独立してみると,2008年のリーマンショックなどの影響で既に仕事はなく,さらに東日本大震災も起き,社会全体が建築をつくることに消極的になっていく感じがありました.
スタッフ時代は,独立したら建築をどんどんつくっていく建築家像をイメージしていましたが,実際に社会に出てみると,そんな巨大な建築は必要ないと言われることもあり,また建築家自身も新しく建築をつくることが社会悪であるような気持ちにだんだんなってきている.だから僕たち若い世代が,そもそも建築をつくる理由や,どういうものが必要かを使い手と一緒になって考え始めているのは,自然な流れに感じます.
2013年に,40歳以下の若手建築家と組織設計事務所がチームを組むことを条件とした須賀川市民交流センター(以下,須賀川)のプロポーザルコンペに,石本建築事務所と応募し,設計者に選ばれました.
その後,審査委員長だった安田幸一さんに,どうして若い人がコンペに参加できる条件にされたのか聞いたところ,若い人は建物が建った後も長く関わることができるから,とおっしゃっていました.
建築は,完成したら終わりではなく,建物を建てる前からどんな建築が将来にわたって必要かを考えること,また建った後にどう使われていくかを長いスパンで見届けていくことも今求められていて,それが僕たちの責任ではないかと.
建築やまちへの関わり方について,すごく考えさせられました.
藤原徹平(以下,藤原) 僕は1994年に大学へ入学し,1年目の終わりに阪神大震災が起きました.父の実家が神戸市の長田区だったこともあり,大きな影響を受けた出来事でした.まちがまるごとなくなることの衝撃を目の当たりにして,とにかく何かしなければ,と坂茂さんの紙の教会(『新建築』1995年11月号掲載)と紙の仮設住宅の建設ボランティアに関わりました.
ボランティアキャンプにいると,夜に深い議論になるんです.建築家は作品をつくりたいだけではないのか?とか,いやそれは違うとか,がれき撤去を優先すべきだとか,精神の支えが重要だとか…….
ただ実際に紙の教会ができ上がった時の迫力というのもあり,これをつくらねばならないという意志,能動性について多くのことを考えさせられました.神戸の復興のあり方を見ていると,受け身で生きていたらどんどん重要だと感じるものが失われていくんだという実感が芽生えてきました.
大学では北山恒さんから「なぜ建築が社会にとって必要なのか」を根源から問う姿勢や都市への態度を教わったような気がします.建築デザインというのは建築単体を設計するんじゃなく,背景も含めた社会をつくっていくことだと考えてきたので,デザインビルドやコラボレーションやワークショップというようにいろいろな建築設計への仕組みが生まれていくことはそんなに驚くべきという印象ではなく,無駄なものは建てるべきじゃないし,必要なものは何かということを真剣に考えていく過程において,自然な流れだと捉えています.
西澤徹夫(以下,西澤) 2011年はちょうど東京藝術大学に助手として入っていた頃で,日々学生たちに接する中で,彼らの考え方が僕らの世代とはずいぶん違うなという印象は受けていました.
僕自身は自分でいつかは独立するものだと何となく思っていたので,どこに行くのが自分のキャリア設計としてよいのかということを真剣に考えたことがなかったんです.でも,今はたとえば,優秀な学生は,組織設計やゼネコンに就職するという現状があります.
今大西さんがおっしゃっていたように,自分たちで種をまかないと仕事がないというような危機感が背景にあるからなのか,生業としての仕事に対する考え方や,自分が社会に出て設計活動をする上で世の中にとって何が有益かと考えるアプローチの仕方が,世代によって大きく違うのかなということを感じました.でもそうした世代ごとの違いが,同時代的に全部重なってくるのが社会なので,そういうさまざまな他世代の状況や考え方に接することができるということが自分の状況を客観的に見ることにも繋がっています.
藤原 僕や西澤さんの学生時代にはちょうどSANAAが金沢21世紀美術館(『新建築』2004年11月号掲載)のコンペをとったり,青木さんが青森県立美術館(『新建築』2006年9月号掲載)のコンペをとったり,シーラカンスが挑戦的な小学校をいくつか完成させたりという時期ですよね.
建築の設計がモダニズムの先に向かって創造的に変わっていっているという印象があり,むしろその創造的な現場に身を置かないと,時代から置いていかれてしまうのではないかと強く感じていました.そのためにはできるだけ大きい出来事に関われて,かつこれから成長する事務所に行こうということで,2001年に隈研吾さんの事務所に入りました.
隈さんは,組織設計ともゼネコンとも誰とでも本当に垣根がなく一緒にやれる人だったので,かなりたくさんJVの経験をしました.そういう中で学んだのは,やり方によってこれほど違うものができるのかということです.たとえば三里屯SOHO(『新建築』2011年1月号掲載)は北京での超高層プロジェクトですが,中国では設計院(地方政府が管轄管理する地元の設計事務所)が設計をすべて直します.つまりデザインビルドが基本なので,それゆえにアトリエ事務所でも超高層建築を設計できるという側面があります.図面が勝手に変えられてしまうことも多々あるのですが,個人的には三里屯SOHOでデザインビルドということのポイントがよく分かったので,アリババグループ タオバオ シティの時にはかなりやり方を修正できたし,中国美術学院民芸博物館(『新建築』2017年1月号掲載)ではほぼ完璧にコントロールできました.
同じ発注形態の中でも,どういう手続きを経るかによってでき上がる建築のよしあしが変わってきます.だから,組織だからだめだとか,デザインビルドだからだめだとかではなく,仕組みをどう成熟させていくかを考えるべきだと思うんです.
青木 槇さんは,商業資本主義を後ろ盾にまちを均質化していく「軍隊」と,若い建築家を中心として草の根的に戦う「民兵」という対立項を立てて語られていましたが,そうではないということでしょうか.
藤原 設計においていちばん重要になっているのは「コラボレーション」だと思うんです.
2000年以降の重要なプロジェクト,たとえばせんだいメディアテークも金沢21世紀美術館も,実はコラボレーションによって成し遂げられたものと言えると思います.それはクライアントと建築家のコラボレーションだったり,建築家と構造家とのコラボレーションだったり,建築家とゼネコンのコラボレーションだったり,鉄骨ファブや行政マンとのコラボレーションだったり,アトリエ事務所内でのコラボレーションも重要でした.いろいろなコラボレーションが内包されています.
新しいものに対して皆で実験的・創造的に試行錯誤していく中では,どういう所属かという「属性」よりも,「志を持っている人か,持っていない人か」ということの方が重要です.どんな組織に属していても,想いがある人はたくさんいて,そういう人とどうやってチームをつくれるか,チームになれるのかということの方が重要だと思うのです.
たとえば,僕がいた当時の隈事務所時代の成功例で言えば,杭州美術館のプロジェクトでは,クライアントとの打ち合わせ後に,設計院で実際に図面を描いてくれるスタッフを捕まえて,コンセプトや想いを熱く共有することを沢山やりました.
彼らがよく分からないから描いてほしいというディテールも沢山描きました.情緒的な問題なんですが,誰を向いて仕事をするかということだと思います.彼らはそんな経験は初めてだという感じで,すごく思い入れを持ってやってくれました.王樹の現場をさぼってこっちをやってくれたり(笑).つまり,どうやって意思を伝えるかという「手続きの創造性」の方が,現代社会においては属性問題より遥かに重要だと思っています.
コラボレーションの可能性
青木 皆さんは,単独で設計するよりも,さまざまなかたちでチームを組んでプロジェクトに取り組んでいることが多いようです.そこで今度は,コラボレーションということについてお聞きしたいと思います.誰かとコラボレーションをする時に,自分をどういう役割と位置付けていますか?
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