「共通言語」で会話できること。
八月早々、体調が思わしくありません(今のところ、発熱なし。)
体調は思わしくなくとも「毎日、やるべきこと(やらなくちゃいけないこと)」が沢山あるのが多分、大人なんだろうなーと子どもを産んでから感じる場面に遭遇します。
さて本日のお題は「共通言語」について。体調が思わしく無いので調べたくないのですが、一応ネットで調べました。ここでいう「共通言語」とは、日本語とか外国語とかの「共通語」のことではなく、会話する相手がこちらの発した言葉の”意図”を汲み取れるか否か?についてのお話です。
数年前に、私は仲良くしていると思っていた知人との会合の際、その知人のお子さん宛ての差し入れを渡していました。その方とは同世代の子どもが居る親近感もあり、たまに会う時には何か喜ばれるものを・・・と常に考えていたからです。
私のように四十で初めての出産をすると、地元の同級生たちの大半は自分の子どもを高校進学させたあたりで、いったん”育児卒業”を目前にしている場合も多いのです。当時の私は、同世代の子どもがいる知人との会話を楽しみにしていた部分がありました。
ある日、その方から「なぜ、いつも子供への差し入れをくれるのか?」と問われたことがあり、私は相手に余計な気遣いをさせてはいけないと思って「たまたま親戚からの頂き物があって、そのお裾分けとして持参したの。」という類の返答をしたのです。
すると先方は明らかに気分を害した態度を見せて、それ以来、微妙な距離感ができてしまい今や連絡も取り合いません。
この件について、どちらかが悪い。といった感想を私は持ち合わせていなくて。当時も今も
「あー・・・あの人とは”共通言語”で話せる関係性ではなかったんだ。」
と考えることにしています。
私は先方に会うたびに”差し入れるもの”を、実はわざわざ購入していました。
しかしそれを相手にそのまま伝えてしまっては、相手が遠慮したり恐縮するのでは無いか?と考えて、”たまたま自宅にあった差し入れ”をお裾分けに持参したのだと伝えたのです。
おそらく、その言葉を聞いた知人は「いらないもの」を手土産と称して差し入れられたのか?と勘違いしたかも知れません。でも、そこの誤解をわざわざ解くほどの親しい仲でもありませんから、私は相手との関係性の改善を努めず、そのまま成り行きに任せたら、自然に連絡を取り合わなくなりました。
あれから数年経過して人となかなか会えなくなったご時世、時折、仕事関係者に差し入れすることがあります。たまーに「何故、差し入れなんてしてくれるんです?」と聞かれることもありますが、そんな時は「もちろん、次の仕事をいただくための袖の下でございますよ(笑)」と、答えることにしています。
余計な気遣いが相手を怒らせる場面には人生で何度か遭遇していますが47年も生きていると、こちらが気遣いをしても怒る相手とは離れてしまう方がよっぽど生きやすい。と感じるようになった次第です。
とある作家さんも書いてますが、人とは「距離感」をよく考えて付き合っていきたいものです(苦笑・自戒)。
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