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日記に書き残された父との近親相姦〜アナイス・ニン〜


 1903年にフランスで生まれたアナイス・ニンは11歳の時から1977年に亡くなるまでの63年間、膨大な量の日記を書き続け、これが後に彼女の作家としての代表作となりました。自分の内面を赤裸々に書き込んだこの日記には、奔放だった彼女の性の経験なども、当時の時代背景を考えれば、大胆すぎるほど自由な表現で書き込まれています。この中には実の父親との近親相姦の経験なども含まれ、これは後に書籍化もされました。

 アナイス・ニンの両親はキューバ生まれです。母親は声楽家、父親は作曲家で、パリとスペインを拠点に芸術活動を行っていましたが、父のホアキン・ニンは、アナイスが11歳の時に妻と子供たちを捨て、家を出てしまいます。この時まだ幼かったアナイスは父を引き止める手紙を送っていますが、それが彼女の有名な日記の始まりとなったと言われています。

 離婚後、母親のローサ・クルメルはアナイスを連れてバルセロナからニューヨークへと移住します。幼少期は勉学に励んでいたアナイスですが、16歳の頃から絵画モデルを始め、その後、20歳の時、ヒュー・ガイラーという若い銀行家と結婚します。それをきっかけにパリに移り、しばらくは静かに主婦として暮らすようになるのです。

 アナイスの転機は1931年、28歳の時に訪れます。彼女はこの頃、後の大作家・ヘンリー・ミラーとその妻ジューンに出会います。彼らとの出会いをきっかけにアナイスは創造的で奔放な自分を開放し、書きためていた膨大な日記の一部をフィクション化して、小説を書くようになります。

 ちなみに彼女はこの時期、ヘンリー・ミラーの性的魅力に惹かれ、彼の愛人になり、夫に内緒で体の関係も持つようになります。アナイスはその妻ジューンにも性的魅力を感じていたといい、ジューンとも体の関係を持つようになったといいます。本当に両性愛者であったかは議論が分かれるそうなのですが、彼女はこの二人とのボヘミアンな生活を日記の中にも綴っており、これをもとに後年『ヘンリー&ジューン/私が愛した男と女』(Henry & June、1990年)という映画が生まれました。

 1933年頃、アナイスはこの自由な生活の中、かつて自分の元を去っていった父親と再会します。アナイスは30歳になっていましたが、11歳の時以来、久しぶりにホアキンを見て惹かれます。ホアキンはこの時54歳です。彼女はホアキンもアナイスの顔や体を見て、性的な魅力を感じていることに気付きます。父は徐々にアナイスに迫るようになり、二人はやがて近親相姦の関係へと陥ります。アナイスはこの時の父とのセックスや近親相姦に葛藤する感情、父への思いなどについても赤裸々に日記にしたためており、これらは当事者らが全て亡くなって後、回想録『インセスト アナイス・ニンの愛の日記』(Incest: From a Journal of Love: The Unexpurgated Diary of Anaïs Nin (1932–1934))として書籍化されました。

 彼女の作品には父親の影響が強く現れていて、その父との劇的な和解の物語を描いた『Winter of Artifice』(1939年)という中編小説も残されています。ちなみに近親相姦に関しては大胆な性描写こそないものの処女フィクション作として『近親相姦の家』(House of Incest、1936年)という作品も残しています。ただ、ここでの“近親相姦”は直接の近親相姦の意味ではなく、自分と似たものだけを他人の中に認める利己的な愛を表現する比喩表現として用いており、彼女の作品に時折登場する“近親相姦”が必ずしも父との体験や、父との体験から生まれたものだけではないことがわかります。

 1939年、アナイスは夫とともにニューヨークへ戻ります。1947 年にルパート・ポールという青年に出会い、夫に秘密で彼と体の関係を持ち、1955年にそのポールと結婚します。近親相姦もそうなのですが、アナイスの恋愛経験はほぼ不倫などの禁断の恋ばかりです。1977年にアナイスは癌で亡くなります。アナイスの日記の中の赤裸々な性の告発が書籍化されていくのは、彼女の死後のことです。日記の中の当事者たちが全て亡くなっていることを確認した上で、ルパート・ポールは、日記の無削除版として彼女の日記を少しずつ公開していくようになるのです。

(了)

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