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愛し合う兄妹 処刑台に上ったラヴァレ家のジュリアンとマルグリット


 1603年12月2日、21歳と17歳の兄と妹がパリのグレーヴ広場で処刑されました。二人はフランス北部の裕福なラヴァレ家に生まれたジュリアンとマルグリットです。仲の良い兄と妹だったそうですが、いつの頃から男女の関係に陥り、近親相姦の罪を犯して斬首されたのです。

 1603年というと、日本では徳川家康が征夷大将軍に任命された年です。ラヴァレ家はそんな時代、フランス北部のノルマンディー地区で強い権力を持った地元の領主でした。田舎の大きな城に住み、ジュリアンとマルグリットもそこで11 人の兄弟姉妹の中、仲良く育ちます。

 2人は兄弟の中でも幼い頃から特別に仲が良かったそうです。やがて大人になるにつれ、その関係を発展させると、親や兄弟に隠れて体の関係を持つようになります。

  1600年、2人の関係に気付いた両親は当時13歳のマルグリットをジュリアンから引き離すことを決めます。マルグリットは両親の取り決めによって15歳年上のジャン・ルフェーブル・ド・オーピトワと結婚させられてしまうのです。

 しかし、親から押し付けられたこの結婚にマルグリットは強い不満を抱きます。ジャンとの年の差の夫婦生活にも満足することができず、結婚から3年で、夫を捨て両親のもとに逃げ帰ってきます。

 そこでジュリアンと再会したマルグリットは、ジュリアンへの愛を再び燃え上がらせます。やがてマルグリットはジュリアンの子を妊娠してしまいます。

 2人は妊娠発覚後、相談しあい、カルヴァドス県のファレーズにまずマルグリットが逃亡します。ジュリアンも後に合流し、さらにファレーズを逃げ出してパリに向かいます。1603年、2人の関係は周囲の知るところとなり、ジャン・ルフェーブルの要請により、姦淫と近親相姦の罪で逮捕されます。

 裁判で2人は容疑を否認しますが、すぐに有罪が確定します。父親は慈悲の嘆願をしますが、裁判で斬首刑が言い渡されます。刑執行はマルグリットが出産した直後の1603年12月2日の朝にパリのグレーヴ広場で行われました。

 「アンリ4世王政日記」に2人の刑を執行した経緯が書かれています。「もしこの女性が結婚していなかったら、国王は喜んで慈悲を示しただろう。だが、彼女が結婚していたためそれはできなかった」と説明されています。2人の近親相姦は不倫の恋でもあったのです。

 2人の遺体はサン ジャン アン グレーヴ教会(現在は取り壊されているそうです)に埋葬されました。墓碑銘には「Ci gisent le frère et la sœur」(ここに兄と妹が眠っています)と書かれていたそうです。さらに「前に進んで神に祈りましょう。彼らの魂のために」とも。2人の悲劇は演劇や映画にもなり、今でも語り継がれています。1633年の『あわれ彼女は娼婦』はこの事件をモデルにした有名な戯曲です。

(了)

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